2017年1月19日 (木)

森島章人さんの第二歌集 / E藤さんと食事 祖母と母のこと

1月16日

昨年末に、森島章人(森島章仁、あるいは蘭精果)さんから、ついに、待ちに待った第二歌集『アネモネ・雨滴』を出すとのお知らせのお手紙と、原稿をいただいた。

第一歌集『月光の揚力』(1999年)からずいぶん経って、長い時が結晶した歌集。

『アネモネ・雨滴』というタイトルには、“衰滅の中の希望”という意をこめたという。

昔からのお約束通り、私の絵を本(扉)に使ってくださるとのこと。

そのことに関して、きょうまた、おはがきが届いた。

私の「風の薔薇 あねもね』(2002)を使用したいとのことだったのだが、この絵が強烈すぎるので、やはり「鬱金香」(1998)を使用したいとのこと。

私としては、どちらを使っていただいても、まったくかまわないのですが・・・。

『アネモネ・雨滴』という歌集には、やはりアネモネの絵のほうが合うのではないかな、と思い、その旨と、一応、私が今まで描いたアネモネの絵を数十点メールで送った。

森島章人さんは静かなかたで、(私は行ったことはないが)空気と水のきれいな、静かなところに住んでいる。

彼の歌は、微妙な光と影が煌めく、なまめかしく妖しいイメージと、冷たく澄んだ空気を感じさせる。

森島章人さんの歌をたくさんの人に読んでほしい。

バレリーナ地に伏せるとき薄幸の世界を許すみだらを許す――『月光の揚力』より

1月18日

朝、まだ眠っていた時、10時20分くらいにE藤さんから電話があった。E藤さんは、今、私の近くに住んでいて、昔の西新宿で母が親しくしていただいていたかた。今は私が親しくしていただいている人生の大先輩だ。

正月に、今も西新宿在住で、私が小1から小2くらいの時に仲良くしていた女友だち、Oさんのお母さんが亡くなられたとのこと。

Oさんのお母さんは70歳をすぎて子宮がんになったという。

Oさんとも、Oさんのお母様とも、私は小学生の頃以来、お会いしていないのだが、E藤さんはずっと親しく交流されていたそうだ。

E藤さんは親しくしていた人が急に亡くなってとてもさみしい、とおっしゃって、私をランチに誘ってくれた。それで私は寝ぼけまなこで即飛び起きて、支度した。

駅前の「すしざんまい」でランチ。母の具合が悪く、今年の正月はおせちどころではなかった私のために、「お正月のごちそうと思って、ランチビールも飲みなさいよ。」と言われて起きたばかりだけど、ビールもいただいた。

E藤さんは、私が幼い頃の母のこと、私の祖母のことを知っている。その話を聞くと胸がいっぱいになってしまう。

E藤さんは、結婚されてすぐ(20歳代の後半)に、小児麻痺だったご主人の妹さんの、たいへんな介護をされていたとのこと。

その妹さんが亡くなった時、私の母がふたりの近所の友人とともにE藤さんのお宅に伺ったそうだ。E藤さんは残り物で悪いけど、と、ちょうど3人分余っていたお寿司を出したのよ、と言う。

「そんな時のことをすごく覚えているのに、もうそんな話をできる人もいなくなっちゃったわねえ。」と言われた。

私の母と祖母について「あなたのお母さんは本当によく働いてたものねえ。おばあさんはすごくきれいな人だった。おばあさんとよく魚屋さんで会ったわ。」と言われると涙が出てしまう。

人は皆、年老いて、記憶はどんどん時の彼方へ消えていってしまうけれど、私の祖母と母の元気な頃のことを覚えていて、私に話してくれる人がいることは、なんて幸せなことなのだろう、と思う。

「あなたはおばあさんによく似てるのかな。」と言われ、「いいえ、私は明るくて包容力のあるおばあちゃんが本当に大好きだったけれど、私と祖母は血がつながってないんですよ。」と応える。

「父はもらいっ子で、生まれてすぐもらわれてきて、本当の両親を知らない。あんなに優しかった祖母に甘やかされておかしくなった。」と。

(実際、祖母は私とは違う鼻筋のとおったはっきりした顔立ちだった。目や眉が似ていると子供の頃は信じていたけれど。大好きな祖母が私とは血のつながりがない、と母から聞いた時、二十歳くらいだった私はショックで泣いた。)

おばあちゃん(福山キョウ)と私。

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私が好きな写真。西新宿の熊野神社でおばあちゃんと。「ユキちゃんを見つけて嬉しそうにかけていきました。」と写真の裏に母の文字が書いてある。(ユキちゃんは幼なじみ)
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続く写真(ユキちゃんと私)。裏には「枝を得意そうにぽっきん、ぽっきん」という母の文字が書いてある。この頃から私は植物が大好きで、今とちっとも変わっていない。

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E藤さんは今年88歳だが、とても頭の回転が速く、新聞もよく読んでいて、とんとんと話が進む。

「それでね、その子は今、ヒッキーなんですって。」などといった言葉が飛び出す。「ヒッキー?あ、引きこもりのこと?」と言うと「そうよ。私、いろいろ若い人の言葉も知ってるの。」と。

感心するのは、話が回りくどくなくて、要旨が明解なことだ。頭がよく、人の気持ちがわかる人なので、こちらの悩み相談にものってくれる。本当に頼りになる先輩だ。

隙間のないきれいな歯も、全部、29本健在だという。それは本当にすごいことなのではないかと思う。

E藤さんは私なんかよりよっぽど元気だ。私とランチしたあと、荻窪でボランティアをするために電車で出かけていった。それも新聞で見つけて応募したそうだ。以前は新宿の老人福祉施設で絵手紙を教えていたそうだ。

・・・

私は3時過ぎから母の施設へ。小口の預け金が足りなくなったようなので、10万円持って行った。

母は眠っていた。フロアリーダーのFさんがいらしたので、母の様子をきく。気管支炎はだいぶなおり、体調は安定してきて、昨日の夕食、今日の朝食、昼食はほとんど食べた、とのこと。

おやつと夕食の間の時間で、日誌をつけている職員さんたちにも挨拶と御礼。

エレベーターで一緒になった看護師さんに挨拶し、痰の吸引などお世話になっている御礼を言うと、「ああ、福山さん!年末がたいへんでしたね。きょうくらいから熱もちょうど落ち着いて、痰も少なくなりました。」と言われ、とても嬉しかった。

はきはきした小柄の看護師さん。「年末、年始、もうだめかとはらはらしていたのですが、先日、無事誕生日を迎えられて本当にありがとうございました。」と言うと「なぜか誕生日が鬼門なのよ。」と言われた。そんなこともあるのだろうか。

会議が終わって出て来たところの相談員のK島さんと、1階でお会いできた。先日、私が来た時よりも、今日のほうがずっと母の調子がいい、とK島さんも笑顔だった。

何度も何度も頭を下げた。

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少し気持ちが楽になったので、そのあと中野の材料店に行き、昔はあったが今は製造中止になった道具についてお話を聞いた。

古本屋さんに読みたかった70年代の本が入荷していたが、800円だったので今日は買うのを止めた(500円だったら買っただろう)。

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2017年1月16日 (月)

「村上肥出夫画集」

1月15日

きょうはすごく寒い日だった。

朝、ちゃびが少し吐いてしまい、その後、私の手から無農薬小松菜をおいしそうに食べた。

その直後、ちゃびが流し代に上がって、私が使っていた染料の皿に足をつっこんでしまったので、大慌てで、すぐにお風呂で洗い流した。

私も冷えたのか胃の調子が悪く、吐きそうになったので、夕方までふとんにくるまって寝ていた。

ちゃびも私と同じ枕に顔をのせて、私の口に自分の口をつけるようにして、ゴロゴロ言いながら寝ていた。

私は夜に起きて胃薬を飲み、豆腐と卵入りうどんを食べた。きょうは、朝からこれ一食のみ。

ちゃびも、きょうは吐き気がするのか給餌をいやがり、あまり食べなかった。

二匹は体調もシンクロしている。

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詩人の飯島章さんからいただいた『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』について。

昨年、飯島さんから、とても久しぶりに急にお電話をいただいて驚いた。飯島章さんとは、もうずいぶんお会いしていないが、昔、詩集の装丁をやらせていただいたりした。

お電話があってからすぐ、飯島さんが監修した『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』をお送りいただいた。それで私は村上肥出夫さんという画家を初めて知った。

画集にある文章によると、村上肥出夫さんは、1953年に岐阜から上京し、日雇いなどの仕事をしたり、橋の下で生活したりしながら絵を描き、1961年頃から銀座の路上で絵を販売していたそうだ。

それから村上肥出夫さんはマスコミに大騒ぎされ、時代の寵児となった。

飯島さんが村上さんに出会ったのは、1968年頃、飯島さんが19歳、村上さんが35歳の頃らしい。

1997年に自宅が火事になった時に精神に変調をきたし、現在、村上肥出夫さんは岐阜県高山市の病院で療養生活を続けておられるとのこと。

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画集を開くと、いろんな傾向、様々な技法の、村上肥出夫さんの絵がある。

60年代初頭の厚塗りの油彩の風景画。たしかに彼の油彩の中では、この時代の風景画が一番いい。

東京のどこを描いても、あるいはパリのモンマルトルやセーヌ、ニューヨークのブルックリン・ブリッジやレキシントン・アヴェニュー、フィレンツェのベッキオ橋を描いても、彼が描くと「廃墟」になっているからだ。

ビルであろうと、橋であろうと、あらゆる人工的な建造物に、たとえそれが今まさに建てられたばかりの新建築であっても、そこに「廃墟」を透視する眼。

上・・・大崎 1962  下・・・等々力 1962

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駅前交番 1961
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ポンテ・ベッキオ
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チャコールグレーや茶色に沈んだ色の中に、複雑で豊かな諧調の、ぬめぬめ、ちかちかした光の粒がある。

暗鬱で哀切を帯びているのに、なにか賑やかなような、細かい蠢くものに満ちた風景。

風景、空気のそこここに、ちかちかと何かを発信する微小の生命的なものがいる。

風景の中に人物は見えない。彼は風景自体と交信しているのだ。

70年になると、色彩が氾濫する。極彩色の厚塗りのタッチが粗い花。

私はここらへんが一番苦手だ。ねっとりと塗りつけられた極彩色の油絵の具そのものが見えすぎて、感覚的に気持ち悪くなるのだ。「売り絵」っぽくて村上肥出夫のよさが出ていない。これらの絵には、どこにも微小の不思議なものたちがいない。

この時代は、風景のパステルのほうがいい。

80年代の少女の絵は興味深い。ちょっと怖い感じで眼が見開いている。

90年代の絵は精神的に安定を欠いている。ルイ・ウェインの晩年を思い起こすバラバラな感じ。

ペンで描いた風景の素描。タイムズスクエア、セントラルパーク、ウエストサイド、シテ、モンマルトル遠望、ポンヌックで・・・ここらへんが一番好きだ。

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彼は聖堂も、噴水も、塔も、細い曲線でとらえている。その隙間と線のかすれの中に、やはりちかちかと光るものがある。

私は塗りたくった絵より、細い曲線でそよそよと描かれた絵が好きなようだ。

そして時間そのものの織りなす襞の微細なニュアンスをとらえている絵。

全体を通して見えるのは、内向的で正直な人だということだ。村上肥出夫さんの絵は、外の世界にあるものに畏怖を感じている彼の心が見える。

彼の著書を読んでいないので、よくわからないが、対人恐怖や不安障害もあったらしい。

画集に載っている若い頃の村上肥出夫の顔写真を見ると、とても大人しそうで、人なつっこそうな眼をしている。

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その写真の大人しそうな眼を見て、斎藤隆さんを思い出した。もうずいぶんお会いしていないが、お元気だろうか。

斎藤隆さんとは、一目で通じるものがあった。私も極度ではないが、人見知りで内向する性格だ。

斎藤隆さんもひどい対人恐怖に苦しんでいた。そのために、よくお酒を飲んでいて、朝、すごく早くに電話しないと、昼に電話したらもうぐでんぐでんに酔っていて、話にならなかった。

酔っていない時はシャイで繊細で正直な人だ。優しくしてくれた思い出もある。ずかずかと図々しく上がり込んでくるような人が嫌いだ、と私に言っていた。

ネットで調べたら、福島民友に震災後の斎藤隆さんの記事が載っていた。また声をお聞きしたいと思う。

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2017年1月 9日 (月)

絵の撮影 / 母のこと(気管支炎)

1月5日

私の次に出す本(画集)のための銀箔の絵を、新たなカメラマンさんに撮影しなおしてもらう。

銀箔を貼った絵が、最初のカメラマンさんの撮影では、私が室内で肉眼で見た自然な感じとかけ離れていたので、本には使えないと判断したためだ。

一回目のカメラマンさんの撮影では、2か所から強い光をあてたのか、銀箔のぎらぎらした存在感は出ていたが、余計な情報過多で、肝心の手描きの線が見えなくなっていた(セオリー通りの撮影ではあるらしいが)。

今日初対面のカメラマンさん、I井さんのご自宅兼スタジオに伺い、撮影を見学させていただく。気さくなかたなのでよかった。

白い紙と黒い紙を使って、照り返しを調節するセットを組んでくださっていた。

けれど結局、白と黒の紙なしの、天井や壁や室内のものが映りこんだ状態で撮った最後の一枚が、一番自然に、銀箔の質感と手描きの線の両方が出た。

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何枚か光をあてる方向を変えて撮影し、その都度パソコンの画面で確認。

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最初のカメラマンさんは、なにを重要視して撮ってほしいかをこちらから言葉で伝えると、なんの画像確認もなしに自分の判断で、いきなり印刷したカンプを出してきたので、それでは絶対無理だと思った。

I井さんは、何回もやりかたをかえて撮影してくださり、その都度「ここの質感が出てきましたね。」「こちらがちょっと飛び過ぎですね。」「さっきのよりこっちのほうが雰囲気が出てますね。」など、私が絵のどこを見せたがっているのかを理解してくれて、コミュニケーションが成立した。

I井さんの仕事を見て、最新のやりかたはこんな風なのか、と感心した。

たとえ物撮りであっても、カメラマンは、いろんな工夫をして、それぞれに個性的なやりかたがあるのだろう。

ある種の冒険的な精神によって、見る者の主観の中でしか成立しない絵画であればなおさら、その撮影も通り一遍のやりかたでいいはずがない。

プロの現場を見学させていただいて、たいへん勉強になりました。

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最近の母のこと(気管支炎)。

1月8日

母に会いに、施設へ。

年末からずっと気管支炎で、痰がらみがあるので、誤嚥による窒息が心配で落ち着かない。

高齢だから、いつなにがあってもおかしくないのだが、きのうの夜からきょうは、熱はなんとか落ち着いてきて、36度8分から37度くらいだそうで、顔色も穏やかだったので、ひとまずはほっとした。

きょうは昼食は食堂で、地方の訛りあるのちゃきちゃきした女性職員さん。やはり3人を同時に介助されていた。

母が今ほど噎せの危険がなく、私が介助して食べさせていた時は、廊下のテーブルでやっていたので、食堂での皆さんの食事風景を見るのはきょうが初めてだ。

母に声かけしながら、口を開けるのを待って、飲み込むのをじっくり待って、噎せないように少しずつ食べさせてくださっている。

うちのちゃび(19歳6か月の雌猫)に私は毎日、強制給餌しているのだが、ごっくんと飲み込むのを待って、次のをシリンジで入れるのとほぼ同じだ。

食堂でほかの皆さんを見ていたら、ひとりでちゃんと食べられる人は少ない。本当に職員さんたちのおかげだ。

ひとりの女性入居者が、立ち上がってスタスタとほかの女性入居者に近づき、びよ~んと下唇を引っ張る事件が起きた!

母を食事介助してくれていた職員さんが慌てて駆けつけ、「こら!なにしてんの。」と止めたら「やわらかいんだも~ん。」と。「まったく油断も隙もないんだから。」と職員さんたちが笑っていた。「下唇がとりわけぷっくりしているかたなので、引っ張ってみたくてやってるんですよ~。」ということ。

ほかにも、食事中になぜか「うわあ~~ん」と大声で泣き出す人(過去の哀しい夢を見ているのか?わからない)、食器をがんがん机に叩きつける人、ジェスチャーを繰り返してなにかしゃべっている人、いろんなかたがいるので、それはそれはたいへんだ。

職員さんに重々御礼を言って帰る。帰りに中野で天婦羅を食べた。

1月4日

K島さんに電話して母の調子を伺う。まあまあ、おだやかに過ごしているそうで、少し安心。引き続き痰の吸引。

1月2日

私はずっと自分が風邪気味で、咽喉の痛みが続いていたので、母にうつすのが怖くて、しばらく施設に行っていなかったのだが、久しぶりに会いに行った。

母の部屋のベッドのそばに痰の吸引器があった。

大柄の目のきれいな女性職員さんに、廊下で昼食介助していただいていた。ひとりで3人を同時に介助。

母はむせやすいので、見ていても窒息するのじゃないか、とはらはらする。本当に職員さんのお仕事はたいへんだ。生かしていただいていることを、実感する。

「39度近い熱が出た夜、(看護師さんがいないので)朝5時まで座薬もできなかったので、すごくかわいそうだったんですよ。」と言われた。

K島さんにくわしいお話をきく。体重は今、激減している感じではないので、肺に食べ物がはいって窒息するリスクを避けるため、無理して食べさせない方針とのこと。おまかせしますのでどうかくれぐれもよろしく、とお願いした。

ヘルパーさんひとりひとりに、御礼のご挨拶をしてから帰った。

すごく張りつめていたので、お酒が飲みたくなり、中野の立ち食い寿司で日本酒を飲んだ。私は日本酒を飲むことはなかったのだが、意外にも飲めてしまった。

今年も気持ちが落ち着かず、ゆったりとごちそうは食べられない正月。

12月30日

11:20頃、施設から電話。

また39度近い熱になりYメディカルセンターに連れて行ってくださった。危険な状態なのか、とすごく心臓が苦しくなった。

父が年末に亡くなったことを思い出して、何とも言えない暗く不安な気持ちになる。年末ぎりぎりに母が亡くなるのはすごく辛い。むしょうに怖かった。

午後3時半頃、電話があり、施設に戻ったとのこと。

ここでも、気管支炎と言われ、入院させるほどの状態ではない、とのことで、違う種類の抗生物質が出た。

長い時間をかけて病院に連れて行ってくださったTさんへお礼を言う。

30日と31日の夜、母が死んでしまうことを思いつめてうなされ、あまり眠れなかった。

12月28日

母のいる施設から電話。「病院に連れて行くので、入院になるようだったら来てください。」と言われた。

12月26日くらいから38.6度の熱を出し、抗生剤を投与しているとのこと。

下落合のS病院。結果は、肺はきれい。炎症反応はあるが、おそらく気管支炎だろうということ。抗生物質を出していただいた。入院する状態ではないと言われた。

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2016年12月27日 (火)

フィギュア全日本2016 浅田真央 宇野昌磨 / アダム・リッポン

12月26日

浅田真央の全日本が終わった。

「リチュアルダンス」。赤い焔。

この艶やかさは真っ赤な衣装のせいでも、くっきりした化粧のせいでもなく、

ぎりぎりまで自分を追い込んで、不可能性の場所にかろうじて立っている人だけが、深い闇の中で放つ焔の燃えるような輝きだ。

幾度かのジャンプの失敗のあと、クライマックスで、レイバックスピンからステップにはいるところの、恐ろしく燃えあがる紅炎(プロミネンス)をまとった顔。

見ているこちらの胸にも炎が燃えうつる最高の表情。

そして運命に抗うステップ。全身全霊の彼女だけの際だった表現。

何度見ても、いい。

SPが跳梁する魔物で、FPが情熱的な女性だと思っていたが、FPこそが、めらめら燃える魔物に見えた。

今までずっとSPの黒い衣装のプログラムのほうが激しくて好きだったのだが、初めて、FPの真に燃える焔のリチュアルダンスを見せてもらえた。

投げいれられた花々を拾い、客席から差し出された花束を抱えきれないほどに受け取る浅田真央を見て、もしや引退かと胸が締め付けられたが、まだ続けてくれると聞いて、本当に嬉しかった。

今回の全日本で、私はまたも確かに、浅田真央という自転する美しい星を強烈に胸に焼き付けた。

・・・

そして引き合うもうひとつの星。

宇野昌磨「ブエノスアイレス午前零時 ロコへのバラード」。

非常に難しい大人の曲。難しいプログラム。

黒い暗鬱な淋しい夜。始まりはあえて、残酷な時計の針が操る人形のような、幾何学的な無機質な動き。

曲調に合わせて徐々に熱を帯びる動線。

ヴォーカルが始まると同時に、大きく腕と胸を広げ、熱く柔らかい息を吹き込む。

たっぷりと優しく、哀しく。ローコ、ロコ、ロコ・・・と愛おしみ、追憶するように、包みこむように。

そして激しい叫び。これこそが私の人生、あっははは・・・と自嘲するように、讃えるように、強く訴え、クライマックスのクリムキンイーグル。

終わった時の感極まった表情、コーチに抱きついた時の閉じた眼と激しい息の音。

宇野昌磨には天性の表現力と、非常にイノセントな魅力を感じる。

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全日本ではないが、グランプリファイナルでのアダム・リッポンは素晴らしかった。彼が初めてファイナルに出場したことがとても嬉しかった。

彼は完璧に美しい容姿だけでも驚異的なのに、異様に研ぎ澄まされた表現力を持っている。

SPの「Let Me Think About It」。ジェフリー・バトルの振り付けなのですね。これでもか、と彼にしかできない高度でチャーミングな動きを詰め込んだプログラム。

そしてFPの「Bloodstream」。傷ついた鳥の命の羽ばたきのエロス。

今回はジャンプの失敗はあった(フランス杯の時はうまくいった)が、鍛え抜かれた鋼の肉体から紡がれるこの端正さ、なよやかさ。この紗がかかったような、光のベールを纏ったような魅惑は尋常ではない。

「リッポン、これ以上ないくらいに最高。傷ついた鳥なんだから、ジャンプはこれでいいんだよ!」と友人。

彼の内側の最深部(つまり内部の外部)から溢れる力と形象(フィギュア)に心奪われた者は、だれでもそう納得するはずだ。

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2016年12月25日 (日)

宇野亞喜良展《絵本の城》 / ちゃび

12月23日

宇野亞喜良さんの個展《絵本の城》へ。

その前に、3時頃、外苑前を少し散歩した。

きょうは真冬なのに20度にもなった異常に暖かい日。そのせいか黒雲と入道雲が混じるような不思議な空模様だった。

外苑のあたりには、欅、スダジイ、松などの巨樹。

グレーの諧調で光る背景に並んだ欅の細枝を見て、モンドリアンの描いた水辺の木々の絵を思い出した。

それと象徴派の画家で生け垣を何枚も描いていた人(名前を思い出せない)。穴澤一夫先生が解説を書いた展覧会で見た絵だ。

細い血管のような線の先端が溶けてつながっていた。

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しだれ桜も象徴派の線のように垂れていた。

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このあたり、都会には珍しくビルがなく空が広い。イギリスやドイツの小さな町を歩いた時の記憶が蘇る。サイレンセスター、バーミンガム、バーモンジー、バース、オルテンブルク、ハンブルク、ベルリン・・・と記憶が飛ぶ。

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絵画館前の銀杏並木はすっかり裸になっていた。シンメトリーの風景をマラソンする人たちが速いスピードで横切って行った。
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ユリノキ(リリオデンドロンチューリッピフィラ)の黄葉。
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駅に戻る時、黒雲から雨がぽつぽつ。陽に光っているほうの雲は明るい。めまぐるしくてコントラストの強いバルセロナやフィゲラスの雲を思い出す。

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電車で新宿に移動。地下道から伊勢丹にはいると、いつになくすごく混んでいた。毎年意識しないので気づかなかったが、クリスマスの直前だからなのか。

宇野亞喜良さんの個展《絵本の城》は、『白猫亭 追憶の多い料理店』(小学館)と『おばあさんになった女の子は』(講談社)の絵本原画展示。

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会場はとても盛況だった。2時から5時まで、ひとり2分としても3時間以上。100人にも丁寧にサインをしている宇野亞喜良さんはすごい。

5時を過ぎてもなかなかサインが終わらないようなので、きょうは奥様にだけご挨拶をした。

撮影OKの場所は、このコーナーともうひとつTVのあるコーナーのみ。

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TVでは宇野亞喜良先生の昔の実験的なフィルムが流れていた。60年代後半の絵だろうか。「あのこ」を思い出す馬の絵のボディペインティング。

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資生堂マジョリカマジョルカのイラスト。パーツをどのように組み合わせても絵になるように色彩と線の分量のバランスがうまくできているのが鮮やか。
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12月24日

ちゃびの検査結果を聞きに行く。体重が増えると同時にまた少し腎臓の数値が上がってしまったようだ。BUN36.3 CRE3.0。

でも最近は元気だ。

13日と14日に2日連続でほんの少し黄色い唾液を吐いたので、14日に病院に電話したら「連れて来て。」と快作先生に言われたので、青くなって連れて行った。

診てもらったら「おなかに毛玉がつまってる」と言われ、バリウムと吐き気止めを飲まされた。

受付の看護師さんに聞いたら「うちの子もしょっちゅう黄色い胆汁吐くけど、けろっとしてるんでほっといてますよ~」とも言われた。

大事なくてよかったのだが、ついでにワクチンが切れていないかの検査と、腎臓などの検査一式をしたので、いつもの輸液セットと薬と合わせて、この日は25000円もかかった。

毎朝、私のふとんにはいってきて、私の口に自分の口を近づけ、大きな声でゴロニャア!爆発のちゃび。顔にチュッとやると「ウギュルルウウウ~」とゴロゴロの爆音で大きくお返事。

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真夜中、ふと目を開けると、私の顔を見つめてゴロゴロ言っているちゃびの顔が目の前に。
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体調がいい時ほど激しく甘えてくる。

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私の左腕に顔をのせて、さらにお手々で私の腕の付け根を押さえて、嬉しそうなちゃび。

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息で鼻を膨らませたちゃび。

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