2025年3月12日 (水)

彦坂尚嘉さん個展・ART FAIR TOKYO 19 (2025)

3月7日(金)

天王洲アイルの寺田倉庫2、CONTEMPOART TOKYOの彦坂尚嘉さんの個展へ。

天王洲という湾岸の場所が海風で寒いだろうと恐れていたのだが、やはり冷たい強風に震える。顔が冷えると敵面に浮腫が酷くなり、眼の奥が痛む。方向がよくわからず迷ってやっとたどり着いた。

エレベーターを待っていたらちょうど彦坂さんと糸崎公朗さんがいらした。

個展タイトルは「3層の美術・・・イベント・絵画の死・生成AIの絵画」。

昨年、永井画廊でされた個展「ゾンビ芸術と美女絵画」について質問してみた。

「ホワイトアート(原始性、狂気)、ピンクアート(イラスト、想像界)、ブラックアート(想像界と象徴界、言語活動)と分類した絵画は3者の比較では読み解くことができるけれど、例えばAI美女絵画1点だけを見て、それがホワイトアートだと判定できるのですか?」

答えは「それは難しいね」ということだった。そして「永井さんはこの分類について理解しているのですか」という質問に対しては「理解していない」と。

「絵画の死」のウッドペインティング連作について、素材は桂の木と表記してあるが杉とのこと。

「この造形なんですけど、下側が丸くて上側が直角に切ってある、このかたちにはどういった意味があるのですか?」と質問すると

「ダダの流れからやったんだよね。よく覚えてないな・・」とのこと。

1971年から72年まで、3回やったという床にラテックスをまくアクションの写真の前で糸崎さんが撮影してくださった。

私が手を向けているのは当時の25歳くらいの彦坂さんの写真。
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71年の自宅でやった時のは撮影されただけだけれど、ルナ三画廊でやった時はたくさんの人が見に来て、最後には数人の女性が躍っていたりしたそうだ。

ART FAIR TOKYO 19 (2025)について、搬入の時に見てきたそうだが、「今の現代アートはとにかく酷いね。」と言われていた。

「どういうふうに酷いですか?」

「とにかく知能程度が低いとしかいいようがない。芸術に達していない。やっている人もギャラリーもなにもわかってない人たちがやってるね」

また、ずっと避けられていた村上隆とやっと話せて動画を撮ることができたと言っておられた。

・・

駅へと戻る途中で、ガラス張りの店の中にずら~~と数百色もグラデーションで並んだ岩絵の具の瓶を見て、ついつい中に引き込まれてしまった。

こんなところに「PIGMENT」という店。

右の棚にはフルーツを詰めるような細長い瓶に鮮やかな顔料がずらり。店員さんに質問すると、イタリアのゼッキ社の顔料だと。

「テンペラやフレスコに使うものですか?」と聞くとそうだという。

もう極力、絵の具を買い足すことはせず、死ぬまでに今持っている岩絵の具を使い果たすと決めていたのに。

迷いに迷って、ラピスラズリよりも鮮やかなフタロブルーと、最近できた岩絵の具の煌く雲母系の黒を1両目(15g)ずつ買ってしまった。

たくさんの種類の膠がおいてあり、膠に混ぜて使えるというアルギン酸溶液が売られていたのだが、どうなのだろう?

「アルギン酸でつまり海藻ですよね?これをまぜて膠の柔軟性が高まるのですか?」と質問したが・・・結局買わなかった。

・・

次に有楽町のART FAIR TOKYO 19 (2025)へ。

通常の私なら絶対に来ない(今の現代アートは異常に疲れるので。)イベントだが、5000円もするチケットをいただいたので。

彦坂さんのブースは2階の無料コーナーで最初に見つけた。75年の「絵画の死」がテーマのウッドペイントの作品郡が目立っていた。

隣がボヘミアンズギルドだった。ジョン・ケージのシックな色の線だけの絵がよかった。ひとつひとつの線がおざなりでなく、全部違う音色。若林奮先生の繊細な「百線」もあった。

KTOのブースで、塚原史さんと会った。22年の私の吉祥寺の個展からの再会。20年以上前に早稲田大学で私の講演があってお世話になった、とKTOのオーナー田中さんに言ったら驚いていた。

「彼女はか弱く見えて、ものすごく強い人なんですよ」と、塚原さんが田中さんに私のことを言ってくださった。

南雄介さんにもお会いできた。

KTOスタッフで、詩が好きで、特に西脇順三郎と左川ちかが好きという珍しい人、一詩(かずし)さんに紹介された。一詩さんは私となら詩の話ができると、私と会うのを楽しみにしていたそうだ。

そして1階のメイン会場へ入場。
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正直、4日の検査結果でサイログロブリンがさらに上がっていたら来なかった。死を目の前に突き付けられた状態で私が耐えられるようなイベントではない。

意外だったのは、超然と我が道を行くギャラリーがけっこうあったことだ。

ローマングラス専門の店、ガレやドームのガラス器専門の店、中国骨董専門の店、素朴な陶の店、漆細工専門の店、熊谷守一ばかりの店、香月泰男ばかりの店、徳岡神泉や小野竹喬の抽象に近い小品を売っている店、戦争画(宮本三郎など)の専門ブースなど、私にはこれらのほうが面白い。

確かに彦坂さんが言ったように、いかにも現代アートといったものたちに関しては10年前、20年前よりレベルが落ちていると感じる。デザイン要素すらもなく幼稚さを売りにしているようなものも多かった。本当によく見る版で押したような類型。日本古美術のパロディなど。

一番惹かれたのは香月泰男の「幼鳥」。中村宏の女学生の顔の絵。

さり気ない古い厚紙に亀裂が入っているような作品郡を見つけて、「あ、この人はセンスいい」と作家名を見たら松澤宥だった。

概念派でオブジェを消そうとした人だが、皮肉にも、コンセプトを読まなくても、眼から入ってくるものにしっかりとなにかがある。まわりに展示されている大方の現代アートの人たちとは知能もセンスもまったく異なる。昔の人の感覚は違う。

なんの予断もなくただ眼をすべらせて行って、「あ、この人はいい!」と、そこだけ異質なものを発見して作家名を見ると、必ず昔の人の作品なのだ。

極力疲労しないように、眼からストレスになる悪いものを入れないようにと気を引き締めて行ったのだが、やはりそうとう疲れた。

最後のほうで東京画廊の山本豊津さんにもご挨拶できた。あいかわらずとても忙しそう。

右の腰に今まで経験したことが無いような痛みが走り、生まれて初めてのぎっくり腰になる危険を感じた。

銀座INZまで歩いて軽食、休憩して帰宅。

 

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2025年3月 8日 (土)

腫瘍マーカーが下った(奇跡!?)/ 植物の名前

 

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椿 曙(あけぼの)(鉛筆、水彩、)

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椿 八重 春曙光(しゅんしょっこう)(鉛筆、水彩)

3月4日(火)5℃ 暗い灰色の空 夕方から雪

国立がん研究センター中央病院。まず採尿と採血。

・・

甲状腺癌の腫瘍マーカー(サイログロブリン)の値は、2024年7月880、9月1377、11月3075、12月6470、

この12月の結果6470という過去最悪の数値が1月7日に出て大ショックを受け、もうレットヴィモが奏功していないのではないかと疑われ、

もう絶望に近い気持ちで1月9日にPETMRIを受けたら、不思議なことに全身どこも光っていなかった。

そして鎌ヶ谷の浅井先生に結果の報告をしに行くと、腫瘍マーカーの値が上昇するのは初期のおとなしいタイプの乳頭癌であり、もう少し増殖の速い癌はレットヴィモで抑えられているのではないか、とお聞きしたのが前回までの話。

・・

内科のH先生に呼ばれるまでの1時間ほどの待ち時間、考えないようにしてもだんだん気持ちが追い詰められ、今日は1万越え、もしかしたら2万越え、という数値が頭にちらついてしまう。

1月の末には、あんなに気持ちが前向きだった森永卓郎さんが亡くなり、2月の最初には、長年ブログを読んできた吉野実香さんが亡くなったのも私にはそうとうのショックだった。

呼び出し機械が黒く点滅するのを見た時、いよいよ宣告される、と真っ暗な気持ち。

そして診察室に入ると・・・「検査結果は、下がってました」

「え?・・」

「682。一瞬6000かなと思ったんだけどね。600」

「え?!なんで・・?」

「Y本先生も先に見てコメントされてるけど、甲状腺癌が破壊されたときに血液に流れ込むことがあるみたいで。レットヴィモが効いて癌が壊れる時に血液中のサイログロブリンがすごく高くなることがあるのよ。1万に上がってそのあとぐっと下がったりとか。そういう例があったのを忘れてた」

「それって珍しいことなんですか?」

「あまりないね。だけどレットヴィモが効かなくなるには早すぎるし、おかしいと思ってた。治験からやってる人は2年、3年は続いてるからね。正直、この薬はまだわかっていないことが多いけど・・」

「ええ~・・なんかもう今日はすごく緊張して・・」悲観で固まっていたのでなんだかすぐには信じられない気持ち。

「緊張しやすいんだよね。とにかくレットヴィモが効いているということ。そんなわけで薬とじっくりつきあっていきましょう」

そして次にY本先生の診察。

「甲状腺癌の生検で腫瘍に針を刺すと、潰れたがん細胞が血液に流れ込んでサイログロブリンの値がすごく上がってしまうことがあるんです。だから針を刺す前に血液検査をする、という決まりがあるんです」と言われた。

昨年の3月に2324になった時、一昨年に人生で一番痛い手術をして右肺中葉を切除したのに、1年も持たずに脳や骨に転移していて切除する前と同程度の数値になってしまったことに絶望しそうになり、

そのあとレットヴィモ服用によりいったん700まで数値が下がったのに、それからたった4か月、5か月で数値が3000、6000と急上昇したことに、正直、そうとう心がすさんでしまっていた。

もうあとは進行していくだけ、耐えていくだけ、と思うと孤独感や虚無感がひどくなり・・。しかしこんなことがあるのだろうか。

・・・

夕方、Wさんのマッサージを受ける。肩も首も顔も頭もがちがちと言われる。

今日、1万越えの数値だったら、これからどんどん悪くなる一方だと緊張していたから。

「ほら、6000の時に私が、今がピークだからだいじょうぶって言ったじゃない」

「そうだっけ?・・・」適当に慰めてくれたことが本当になった。

帰り道、牡丹雪が暗闇の中に舞い、街路の銀杏の木の根元に白く積もっていた。

3月3日(月)

前日の予報では雪だったが、雨に変わったので使い捨てカイロをお腹と背中に貼って夜間卓球へ。寒いので先生のほか4人しか来ていなかった。

明日、がんセンターで腫瘍マーカー結果が出る恐怖を忘れるため、打つことだけに意識を集中して10勝。

新入りの力まかせにスマッシュを打つ(しかし空振りが多い)男性に勝てた。

3月2日(日)22.1℃

「この植物の名前は何でしょう?」という木の札。

最初の樹は「イヌシデ」と答えて、木の札をめくったら正解だったので驚かれる。

この樹は、井之頭公園の端っこの原生林にたくさん生えていて、少し斜めにねじれながら伸びるこの樹の枝ぶりと、縦に亀裂が入った灰褐色の木肌が絵になると感動して、昔に名前を調べたことがあるのだ。

シデとは「四手」であり「紙垂」であり、神道で玉串やしめ縄などに垂らす紙に、淡い緑色の花穂のかたちが似ているからである。

似たようなアカシデ、クマシデなどの樹との区別は私には難しいが、武蔵野の林にはイヌシデが多い。

2番目に出会った「この植物の名は?」に「マンサク」と答えてまた正解して「げっ」と言われる。

「花が咲いてないのに、どうして枝ぶりだけでわかるの!?」と。

実はよくよく細部まで見ると、去年の枯れて萎びた花が一輪、枝の端っこにぶらさがっていたので、花の形ですぐにマンサクとわかったのだ。

3番目に出会ったのは早咲の椿。

この花はふっくらした上品な薄桃色で、花弁に可憐な皺があり、花芯の黄色自体が柔らかく光っているような優しい色合い。

「曙(あけぼの)だね」と正解して「ぐげっ」と言わせる。

この花は初釜によく使われるらしい。

同じく蕊の黄色が滲み出したように、花弁の根元が薄黄色に光る椿に、八重咲きの「春燭光(しゅんしょっこう)」という花がある。この花はまだ莟だった。

ヒヨドリがせわしく飛び交っていた。持っていた小さな苺の実を木の幹に置いておいたら食べてくれそうだった。

 

 

 

 

 

 

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2025年3月 2日 (日)

ギャラリー / 新宿

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八重のアネモネを描こうとすると葉っぱを齧ろうとするプフ。

アネモネはプロトアネモニンという毒が危険なので、絶対に食べられないように花は冷蔵庫に入れている。

2月18日(火)

平田星司さんとZOOMで話す。

2月20日(木)

ギャラリー十二社ハイデの伊藤ゲンさん展の設営。

ちゃんと設計図を書いて、きちんとやっておられることに感心した。

レトロなぬいぐるみやおもちゃの絵。すごくこの場所に合っていると感激。さすがです。

・・・

午後から企画ギャラリーのオーナーに会いに行った。

ギャラリーが開くまで少し時間が合った。

ギャラリーの裏手のほうに「アトリエ」というとても古い錆びた看板のある不思議な家があった。美術ではなく音楽系のなにかだった。

大輪緑萼の梅が満開で、鳥の声がした。陽が当たる場所では春の野芥子が咲いていた。

いろいろ指示されることはあると覚悟していたが、一番気になっていたのは、私の病気のことがちゃんと伝わっていないのではないかということだった。

昨年、最初にオーナーの奥様にお会いした時、「声が素敵」と言われ、「声帯を片方切ってるんですよ。甲状腺癌で」というお話をして、現在、分子標的薬を飲んでいることも伝えていたのだが・・。

だから体力的に、ばりばり新作を描くことはもうできないかもしれないと伝えないといけないと思い、心が苦しかった。

オーナーと話ができるまで待っていたのだが、現在の展示を見に来ていたSさんという作家さんが同席して、企画画廊では画廊の言うことを聞かないといけない云々を私に説いてこられて激しいストレスを感じた。

Sさんは自分の過去の展示のハガキを私にくれたが、私の絵を見たこともないし、私がどういう活動をしてきたのかも知らない。

「すみません!お願いですから席を外してください!オーナーと直接話させてください!お願いします!すみません!」と深く頭を下げて退席していただいた。

病気のことを言う時、緊張して泣いてしまった。

オーナーは、奥様から聞いていると言われて、ほっとした。

その上でまだ私はもう少し生きられると思って、企画してくださるならありがたいことだ。

「奥さんは、あの人はいつも明るい人ね、って言ってるよ」と言われ、私はそんなふうに見えるんだ、と意外だった。

2月21日(金)

篠原誠司さんと電話で話す。

篠原さんは最近までアメリカに行って2つの企画展をされていた。アメリカの郊外の大きなお屋敷に泊まって、向こうのコレクターがどんなふうに家に絵を飾っているかを見たという。

画家のいろんな生き方の話。

2月23日(日)

画家の小穴さんと映像作家の光永さんが来られるというので、ギャラリー十二社ハイデへ。

一緒にランチをしていろいろお話した。

光永さんは、私があとがきに文章を書いたデリダ(鵜飼哲訳)の『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の文庫版を持って来てくれていた。

伊藤ゲンさんの個展は、玄関に昭和懐かしい貝殻の人形や、古い大きな熊のぬいぐるみなどが増えていた。

あいかわらずうちの中は寒いのだけども、とても楽しい雰囲気。

帰りに新宿駅まで歩き、「あの枯れた蔦の絡まってるのはなんですか?」とハルクの前で光永さんに聞かれ、一瞬、戸惑った。

新宿西口の地下広場のタクシー乗り場から地上へと、ループ通路の巨大な吹き抜け。蔦が絡まっているのは、その真ん中のタイル貼りの筒状オブジェだ。

設計は板倉準三で、66年に出来、「地下空間の地上化」というコンセプトを掲げたという。

このクールだったループ状の吹き抜けが、もうすでに破壊されていて、タクシーが通ることができない。新宿西口は見るも無残だ。

まだかろうじて残っている筒状のオブジェは、私が大好きだった新宿駅前の象徴。

私が幼い頃の新宿のイメージはとにかく革新的で、なにもかもがかっこよくて、

テレビや映画や古い漫画で知っている新宿は、ものすごいエネルギーが渦巻いていて、常に新しい状況と、反発する力、爆発する力が・・。

ヒッピーも新宿騒乱もゴーゴー喫茶も、風月堂も、そういう青春には間に合わなかったけれど、映像で何度も見ている。その場にいたはずはないのに、その場にいたように記憶に溶け込んでいる。

ペロ(伊坂芳太郎)や宇野亞喜良、カルメン・マキや浅川マキのイメージも。

映画『女番長 野良猫ロック』は何度も見た。和田アキ子がバイクで西口地下道への階段を下って突っ走るシーンが大好き。当時の歌もかっこいい。

都会で、泥臭くて、サイケで、アングラで、熱くて、廃墟の中から宝物を拾えるような夢があった新宿。

紀伊国屋の中にあったこまごまとしたお店は闇市の名残だと聞いた。懐かしいLENE。西口にいくつもあった古レコード店。7丁目、8丁目の古いアパート群。駄菓子屋。

宮谷一彦や真崎守や上村一夫の漫画でも、歌謡曲でも、新宿は何度も描かれていた。

日本で一番、劇的に変わった町、新宿。

昔の新宿の痺れるようなかっこよさは、身近な友人や、人生の先輩たちとは当たり前に共有されてきたけれど、年下の人たちとはまったく共有されていないんだな、とふと気づいて、言葉が出なかった。

 

 

 

 

 

 

 

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2025年2月21日 (金)

忙しい。 ギャラリーのかたが絵を見に来られる

2月10日(月)

ドアを入ったところの引き出しの上で待っていて、家に帰って来た瞬間にぐねぐねがっつんと甘えてくるちゅび。
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本日の私の顔の浮腫は、最悪の時よりはだいぶましなほう。

2月14日(金)

新宿眼科画廊の展示『影の分際』の初日を見に行く。河口梨奈さんに挨拶。

新宿ゴールデン街にある昔のグループサウンズのお店。入ったことはないけれど、この写真がいっぱい飾ってある窓が健在だったことが嬉しい。

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2月15日(土)

新宿眼科画廊の展示『影の分際』の2日目を見に行き、菊井崇史さんとお話しできた。

藤本哲明さんともZOOMでお話しできた。

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写真家の河口梨奈さん

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けれど今日はギャラリーの人が絵を見に来られる約束があるので、菊井さんのトーク(ZOOMで藤本哲明さんと村津蘭さんとつながっている)の時間までいることができず、残念だが17時すぎに失礼した。

・・・

ギャラリーのかたが絵を見に来られた。

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鉛筆デッサンまで熱心に見ておられた。

「すごくいい」と言ってくださった。私のことを「インテリすぎて淋しい絵なのかと思ったけど、ぜんぜん違ってて、明るくて強い」と。

相当に絵が好きなかたのようで、私がピサネロが好きだと言ったら「ヴェローナ」という町の名前が出てきたり・・。

けっこう話が弾んで夜11時過ぎまでおられた。

まあ、この先どうなるかわからず・・。

体力と時間のこともあるので、今までのように根を詰めてやるのではないかたちで、いろいろおまかせできたら嬉しい。

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2025年2月13日 (木)

村上昭夫『動物哀歌』、抒情と思想、死(生)、アートと動物

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初雁 数寄屋侘助椿(水彩) 

2月12日(水)

村上昭夫の詩集『動物哀歌』を読んでいる。

この詩集は1967年に上梓され、第8回土井晩翠賞を受賞し、1968年に第18回H氏賞を受賞。

その年の10月に村上昭夫は亡くなっている。

最初に私に村上昭夫の名前を教えてくれたのは丹羽文夫さんだ。

丹羽文夫さんは私とメールで文通している人で、横浜市立大学でフランス文学を、京都大学で昆虫生態学を学んだ。

横浜市立大学では奥浩平(私の大好きだった『青春の墓標』を残した人)と同級でサークルも一緒(史学研究部)。

京都では高野悦子(『二十歳の原点』)と同時代の青春を過ごし、『日本的自然観の方法』、『メーサイ夜話』、『ミャンマー行脚』の著者でもある。

 

『村上昭夫詩集』詩人論・作品論より

「村上昭夫の詩がわかりやすく思われるのはその透明性によってであり、平易だからではない。」

「詩は喩によって難解になるのではない。思想の曖昧さが詩を難解にするのである。」

「鮮やかな分析の手口によって読者を魅了するが、読み終わって事態が解明されたようにも、認識が進んだようにも思えない評論が多いのはなぜか、それはおそらく歴史的な社会、あるいは今日的な社会に対峙すべき作品、詩人の思想の眼が曇っているからだ。」

「そこには、弱々しいもの、滅びゆくものに対するシンパシィが溢れている。」・・・辻井喬

「嘘の自分への反逆、嘘の世間への反逆、自己脱却のための闘争の情緒、それが私にとっての詩だとつづる村上昭夫」・・・高橋昭八郎

・・・・

   雁の声

雁の声を聞いた

雁の渡ってゆく声は

あの涯のない宇宙の涯の深さと

おんなじだ

 

私は治らない病気を持っているから

それで

雁の声が聞こえるのだ

治らない人の病いは

あの涯のない宇宙の深さと

おんなじだ

 

雁の渡ってゆく姿を

私なら見れると思う

雁のゆきつく先のところを

私なら知れると思う

雁をそこまで行って抱けるのは

私よりほかないのだと思う

 

雁の声を聞いたのだ

雁の一心に渡ってゆくあの声を

私は聞いたのだ

 

   ねずみ

ねずみを苦しめてごらん

そのために世界の半分は苦しむ

 

ねずみに血を吐かしてごらん

そのために世界の半分は血を吐く

 

そのようにして

一切のいきものをいじめてごらん

そのために

世界全体はふたつにさける

 

ふたつにさける世界のために

私はせめて億年のちの人々に向って話そう

ねずみは苦しむものだと

ねずみは血を吐くものなのだと

一匹のねずみが愛されない限り

世界の半分は

愛されないのだと

 

・・・・

辻井喬の詩論によっていろんなことが明確になった気がした。

戦後、現代詩は三好達治の四季派の抒情性を激しく批判してきたわけだが、

三好達治の「村落共同体の拡がり、そういった時空に包まれている自分という存在への甘い容認の姿勢」、「伝統的な感性とそこに忍びこんだように横たわっている保守的、そして浪漫主義的心情」、その大衆性、「社会的制度をも一つの自然とみなして、それに自己を融合させ、偏在へと自己を拡散させる」抒情性と、

村上昭夫の「死を見詰めて生きようとする意志そのもの」は全く異なる。

村上昭夫の詩は「日本的美意識」とかかわるが、それは三好達治の「自然との一体感、四季の移り変わりと無常観の混同」とは異質である。

三好達治の受容の形態は、「体制によって公認され、いわゆる欧米にはないアジア的なものを日本に発見しようと試みた欧米の審美家によって称揚されることによって、逆に日本人のあいだにも固定観念を植え付けた」ところの「日本的なもの」で語られることが多い。

村上昭夫の詩は「現代の詩人としては例外的なほど思想詩人の骨格を持っている」。

村上昭夫の詩を語る時に「ひたすら抒情性に焦点を当てることは、村上昭夫を平板な抒情詩人に引下してしまう」ことである。

そして村上昭夫の詩は、村野四郎の詩のように「生き物との共感」が「理性的で骨っぽい社会批評によってつくられている」のでもない。

「影のような存在としての生命は理性と言う光にさらされることを嫌うのだと主張しているように思える」。

 

「不治の病」で時間が限られてくると、本当に上っ面のものや浅はかで饒舌なおしゃべりが耐えられなくなってくるのだ。

だから寂寥のなかで動物や植物とともにいるしかないのだ。

どんな優れた作品であっても、結局は鑑賞する側に思想性(と言えるほどの思考力)や、「不治の病」で死(つまりは生)を見つめる感覚を想像する力(深み)がなければ、安易な「抒情」でしか語られることはない。

それどころか、彼らは「自分は抒情でなく高度な理論でやっている」とか「自分はそういう古いやりかたでなく最先端を行っている」と傲慢にもマウントしてくるのだ。

私がある種の現代アートや現代詩に拒絶感があるのは、今の社会状況への対峙ではなく流行り(どんな流れも相対化され主流をなさないが、複数の流行り、あるいは流儀があるようだ)にのっかっているようなものに気持ち悪さを感じるからなのだが、

さらに言えば「体制」によって公認されてるような感性、いかにもありがちなコンテキスト、最初にアートがあって、アートのために自分でないもの(特に動物や他者の苦しみ)から収奪しているものには激しい嫌悪感を抱いてしまう。

 

少し前のことだが、一緒に暮らしていたわけではないが私が愛していてずっと見守っていたある動物の子が若くして急死したことを知って、私がショックで号泣してしまったことがある。(ブログにも、その子に何度も会いに行っている時のことを書いていて、あまりにも悲しすぎて辛すぎて今は名前を書けません)

そのことを友人が、ある動物を世話している人を取材してアートをつくっているKという女性に話してしまい、それを聞いたKは私のことを笑ったそうだ。

どういう意味で笑ったのか、ぜひとも本人に(私が生きているうちに)会える機会があったら、直接聞いてみたいものだ。

動物を「ネタ」にしてアートをやっているくせに、動物の死に大きなショックを受けて泣く人間を笑うとはどういうことなのだろう。

つまり最初にアート(を作るのが当然という前提)があり、アートのための取材であって、動物のための行動からではないのだろう。

問いかけをつくるのもアートのため、つまりは人間の社会の「文化的処方」のため。これを「収奪」という。

私は動物が死んだことに泣いている人間を笑う人間が嫌いだ。私の痛みの激しさは私のものだ。

そのことを思い出すと、癌に悪いとわかっていても胸がむかむかしてくる。

 

 

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2025年2月 6日 (木)

血液検査

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ちゃびが子猫だった頃(墨)

2月4日(火)11℃

国立がん研究センター中央病院で血液検査。

一般の項目の血液検査だけ当日結果が出、腫瘍マーカー(サイログロブリン)の結果は来月。

今日は混んでいて、12時前に受付したが採血できたのは12:20~25くらいだった。

13時にH先生の診察予約だったが13:40くらいに呼ばれた。

「炎症の値が上がってる。風邪で熱を出したりした?」

「いいえ、腸が炎症を起こしたみたいで、ここ1週間くらい食後すぐに右の腰骨の内側が強く痛んでいました。一昨日と昨日、ロペラミドを朝夕2回飲んで、やっと下痢が止まってきました」

「そう。それで脱水を起こしたんだな。肝臓も腎臓も上がってる。水分たくさん摂ってね」

あまり詳細な数値はもう気にしないことにした。

「そういう体調悪い時は副作用が強く出るから、休薬していいよ」

「え!?でもこの前すごく上がっちゃったから怖くて休めなくて・・がんばりました」

「すぐにがんばっちゃうからなあ・・」

「はい・・がんばり気味ですけど・・」

「今度、下がってるといいね」

「え?・・」ここまで来て下がることなんてあるんですか?と聞きたかったけど、聞いてもしかたない気がして聞けなかった。

次にY本先生の診察。

先日、浅井先生に会いに行った時、長くお話してくださったことの報告。

「私も浅井先生の意見で合ってると思いますね。サイログロブリンが上がっている癌は元の乳頭癌の性質なので大人しく、少し勢いのある癌にはレットヴィモが効いていると。

これから何かほかにできる薬があるか探せたら、と思います。もう一度、放射線ヨウ素治療をやってみるとか」と言われた。

私は最初に甲状腺と副甲状腺を全摘した時に、わりとすぐに放射線ヨウ素治療をやって、放射線をがん細胞が取り込まなかった経験がある。

その時は、ヨウ素治療の1か月前からヨウ素を含むもの(海藻など)を一切口にしてはいけなかったのだが、なにか食べてしまったせいではないかと言われた。

今、調べてみると海藻類だけでなく魚類と貝類も鰹節もいけないらしい。それだったら確かに食べていたと思われる。

魚類、貝類、鰹節、練り物、人工着色料の赤色など、ヨウ素が含まれるものを徹底的に摂らなければ、放射線ヨウ素治療が効くとしたら少し明るい気持ちになる。

・・

帰りに新宿のヨドバシカメラに寄った。今は健康家電がほんとうにいっぱいある。同じ階に化粧品まであるのでびっくりした。

・・

17:30からWさんに肩や背中をもみほぐしてもらった。がちがちに凝っていると言われた。

寒いのといろいろな心配と。

 

 

 

 

 

 

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2025年2月 3日 (月)

立春

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スミレ(水彩)

2月3日(月)11℃

やっと立春。この12月と1月は本当に辛かった。

レットヴィモを始めてから冷えるとなおさら浮腫み、浮腫むからよけいに冷える感じ。

そしてもう30年以上悩んでいる胃腸虚弱。冷えると必ずひどくなる。

今朝もお茶を飲んだら右下腹部がずんっと痛くなった。が下痢ではなかった。

やっとロペミンが効いてきたみたい。

昼に昨日の残りの玉ねぎスープとパン。魚肉ソーセージ1本。

夕方、卓球へ。最後に先生にスマッシュを教わったのが楽しかった。

卓球後の浮腫がましな状態の記録(レットヴィモは毎週、火曜の朝から木曜の朝まで休薬。そのほかは毎日飲んでいる)。
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眼が開いているだけまし。

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まだ元気です。

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夜9時頃にまたおなかが痛くなった。

明日はがんセンターで血液検査。そのためにこの一週間で抗酸化の食べ物をたくさん摂ろうと思っていたのに、下痢でだめになった。

とにかく気にしないこと。

2月2日(日)8℃ 一時雨

朝、42.5kgになっていた。やはり何も口にしないうちに下痢。ロペミンを飲む。

カフェインレスアールグレイのミルクティを飲み、ゆっくり熱い風呂に入ったりして、外に出ないで過ごす。

午後になってから蛋白質を摂りたくて、そおっと少しずつ魚肉ソーセージを食べてみた。

お願いだからおなかこわれないで‥と願いながら、ゆっくり、だましだまし食べる。

5時にまたロペミン。

7時頃に玉ねぎをくたくたに煮たスープとパン少々。

たまたま見たyoutubeで昭和歌謡の歌手たちを見、それから引退前の山口百恵の動画を見ていた。

若干21歳で、とてつもない落ち着き。にこりともせずにすわった眼とドスのきいた歌唱。この眼を見ていると非常に落ち着く。

2月1日(土)12℃

一晩中腸が痛くて、痛い、痛いと身をよじっていた。右の腰骨のすぐ内側が刺し込む。

あんまり痛みが治まらないので盲腸ではないかと怖くなる。

朝、なにも口にしない時点で下痢。下痢とわかってほっとした。

Y本先生があまり飲まない方がいいと言ってなかなか出してくれなくて、大切にとっておいたロペミンを飲んでまた寝た。

ロペミンは腸の運動を抑制するので悪いものを食べた時に外に出す力がなくなるから危険、と言われていたが、そんなことを言っている場合ではない。

腸がすっからかんになってまたやせてしまいそう。

昼に起き、2時過ぎ、花屋で八重咲のチューリップを買う。ダークレッド2本、紫と黄色各1本。

夕方、まだ少しでも食べると下痢がとまらない。

もう1錠ロペミンを飲んだ。ミヤリサンとテプレノン(胃の修復薬)も。

夜、葱とカボチャをくたくたに煮て少量のうどんと卵を入れたのを食べた。

まだ食べた直後に腸が痛くなる。

1月31日(金)13℃

ジャージで走っては歩きを繰り返しながら駅の方まで。

手ぶらで行ったが、ティッシュを持たなかったので鼻水に困った。

梅はぽつぽつ咲いていた。乙女椿も。菫が毎年咲くコンクリートの割れ目を何カ所かチェックした。葉は青々。

花屋に八重のチューリップが出ていた。初めて見るダークレッドの花、明日買おうと思う。

八百屋、乾物屋、古着屋などまわって2時間以上。

6時に歯医者の予約だったのでジャージのまま行った。昔詰めた銀が取れたのを持って行き、それを詰めてあっさり終了。

冷えたのか、食べ物を口にした直後に腸に痛みが走る。

夕方から夜に腸が強く痛んで苦しんだ。下痢ではなく腸の下のほうが急激に動いて刺し込む感じ。

1月30日(土)12℃

u-nextに沢田研二主演の『土を喰らう12か月』があったので鑑賞。

水上勉の料理エッセイが原作だそうだが、幼い頃に京都の禅寺に預けられ、そこで教え込まれた精進料理の体験をもとに、1年に渡り、季節ごとの野菜や山菜、拾った梅などを丁寧に料理していく。

長野の厳しい自然は見ているだけで凍えそう。

まるで心を磨くように丹念に野菜仕事をしているジュリー。少しお腹が出ている。

ちょっと優柔不断そうなところがいいのかな。これをもっときつそうな俳優がやると抜け感が無くなる。田舎の葬式のシーンなどは無くていいと思った。

禅寺の修養としての精進料理というところに興味があり、美しすぎてまねはできないが、私には安心して見られた。

これと似たテーマの作品に『リトルフォレスト』という映画(漫画が原作)があるらしいが、合鴨農法(鴨に虫を食べてもらう無農薬の米づくり)で共存している鴨を自ら絞めて殺してさばいて料理して食べるシーンがあるらしく、その情報を読んだだけで吐きそうになった。

とても人気の作品らしいが、生きている鳥を殺して食べる欲望が私には理解できない。私は動物を殺すのが本当に嫌。

 

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