2017年2月17日 (金)

絵の再生 / S・Yさんと会う / M・Mさんと会う / 母また熱 /ネットと電話、どうにか復活

2月16日

以前に絵を買っていただいたS・Yさんに、お借りしていて再生した絵を引き渡す。

〈薔薇の貌〉(2012)

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以前から気になっていた完全禁煙のヴィーガンカフェに行って一緒にランチを食べた。

天井からたくさんのドライフラワーがぶら下がっているこぎれいな店。

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この店の中にはとてもドライフラワーが多いのだが、一か所だけ生のチューリップが活けてあることに、とても眼を惹かれた。

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紅花のドライフラワーの隣に、葉がなくて丈の短い生のチューリップが活けてあった。沈んだ黒紫色の花と、その補色の快活な黄色の花と、八重の華麗な花と。

私にとってチューリップは特別に反応してしまう花。かわいく明るいイメージではなく、妖しく謎めいたイメージ。
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・・・

最近、次の本に載せるために、以前に描いた絵の加筆(再生)をしていた。修理や補修というべきではなく、絵が、日々、刻々と新たに生まれるための命を吹き込む作業というべきだと思うので、的確な言葉を模索している。

薫泥と黒泥を使っての加筆。その上から銀のこれ以上の急激な腐蝕を止めるための保護膜を張る。

<鬱金香――種村季弘に。>(2004)。この絵は、枯れたチューリップを見て、そのまま描いたもの。私は具象、抽象の区別をつけない。

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<Thisle>(2005)
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私とともに、私よりもゆっくり遅れて、あるいは私を待ちかまえているように、絵が朽ちて変化していくのは自然なことで、時間による生きている変化を含めてこそ作品だと思う。

しかし上に重ねていた薄紙が貼りついてしまっていたり、変なふうに目立つ剥落の部分だけ、ほんの少し加筆(再生)をした。

2月11日

宅配便でNTTからルーターが送られて来、本体と電源アダプタとモジュラーケーブルなどを自分ですべて交換し、(認証IDとパスワードが不明でちょっとごたごたしたが)初期登録をやりなおしたら、ネットと電話が復活。

(昨年の10月から何度もNTTやOCNに、通信の具合が悪いことを電話していたのに、もっと早くルーターを送ってくれればよかったのに、と思う。)

自分で全部操作したので、修理料金はただになった。

もし、ルーターを交換して直らなければ、壁の中を工事しなければならないかも、と言われて、すごく不安だったのだが、ほっとした。

ただ、メールの具合はおかしい。画像添付したものが送信できない。

OCNに相談すると、セキュリティソフトが効いているせいだと言われた。

2月9日

冷たい霙。こんな寒い日に母を病院に連れて行っていただくことが心配でたまらなかった。

午後2時。施設から電話があったが、通信の具合がおかしいので、出た瞬間に切れてしまった。すぐ外に出て、公衆電話からかけなおした。

母の熱が下がったこと、S病院に連れて行っていただいた結果、また少し炎症反応はあるが、肺炎でもインフルでもないとのこと。

本当に今度は危険なのではないかと、心配ですごく胸が苦しかったが、とりあえずほっとした。

また施設職員さんたちのおかげで、命拾いをさせていただいた。

2月8日

朝、M・Mさんの熱が平熱まで下がったと言うので、夕方4時頃会う。彼女とは初対面だ。

「運命に逆らって、会えた。」とM・Mさんは喜んでいた。

つくっていた布花を渡す。

M・Mさんは、東京出身で、今、大阪に住んでいる年下の絵の好きな女性だ。

彼女は(私とは部位が違う)がんの手術を経験して、今ちょうど1年。

ブログの暗い印象よりも、実物の彼女はずっと元気そうに見える。

内心の苦しさと見た目の元気さのギャップ、それによって周囲からいたわられないことも彼女の深刻な悩みのようだ。

私もがんを経験している。しかし違う部位のがんを経験したばかりの若い女性に、どういう言葉をかけていいのかわからない。人それぞれにがんの症状やタイプ、闘病の環境も違うので、なんと言っていいのか、非常に悩ましい。

ただ、がんそのものと向きあうより、出来る範囲で自分の本当にやりたいことと向きあったほうが、免疫活性にのためによいのではないか、と私自身の経験からは思う。

・・・

夜、また、母が熱を出したことを知らされる。明日、病院に連れて行ってインフルなのか診てもらうとのこと。

先日、高熱を出したが肺炎でもインフルでもなく、なんとか命拾いさせていただいたのに、また同じ症状。とても不安でいたたまれなくなる。

メールも電話も通信不能の時に、母の具合が悪いことにとても苦しむ。

2月7日

ものすごい北風。とにかく寒い。

朝、今日、会う約束をしていたM・Mさんから電話。なんと早朝から38度の熱を出したと言う。

「這ってでも行って会いたい。」と言われて、なんと答えていいのか非常に困る。私も会いたいが、私はすごく弱くて熱を出しやすい。

今、私が風邪をひいてしまったら施設にいる母にも会いに行けないし、自分の仕事も滞ってしまう。また、私が手伝いをしてもらっている友人にうつったら、友人の仕事関係すべての人に迷惑がかかる。

その後、すぐに電話もネット(メール)も不通になる。

ほとんど不通なのだが、ごくたまにメールが送受信できるので、「きょうはすごく冷たい北風だから、とにかく明日以降にしましょう。」と通信。

OCNテクニカルサポートに公衆電話から連絡。なかなか通じなくて長く公衆電話ボックスにいると、道を通行中の人からは奇異な目で見られているようだ。

2月6日

昨年の10月くらいから、ひかり電話が通話中に急に切れて無音になったり、受話器を上げて番号をプッシュしてもかけることができなかったりすることがたまにあり、それがだんだん頻繁になって困っていた。

昨年から何度かOCNテクニカルサポートに電話したが、ルーターの再起動をするくらいで、きょうまでだましだましやってきた。

今日、ついに、電話だけでなく、PCのインターネットまでがほとんど通じなくなる。

(「ほとんど」というのは、たまに一瞬通じる時があるからだ。)

私は携帯を持ってないので、電話もメールも誰とも通信できない状態。

公衆電話からOCNテクニカルサポートに電話。

とりあえず壁からの線を抜いてルーターを再起動してみてくれとのこと。

訪問修理になると、訪問費用7500円を含め、最高で3万円かかるかもしれないと言われた。

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2017年2月14日 (火)

布花(染め花) パンジー / 膠絵の再生

2月6日

インターネットアクセスがおかしく、ひかり電話もメールも通じない。

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外では、どの路地を歩いても、北風に震えながらかわいいパンジーが咲きそろっている。

菫や三色菫は、この時期、愛おしくてたまらない。

光だけが春を告げる極寒のこの時期、布花をつくりたい衝動にかられてしまい、パンジーをつくった。

(ネットが通じなくて、仕事ができないことを自分への言い訳にして、しばし趣味にのめりこむ。)

私はまったく布花を習ったこともなく、去年から適当に始めたので、型紙もとらず、いきなりはさみで布を花びらのかたちに切って、染料とコテで、自分の感覚でつくっている。

布花は、染料の混色の反応とぼかしのやりかたによって微妙なニュアンス、自分の憧れのイメージの花の象徴的な雰囲気がつくれることが面白い。

子どもの頃に、狭い空き地や川の土手で、花を夢中で摘んでいた時の感覚。

イングランド各地で見たアンティーク市の隅っこで見つけた、古色を帯びた無数のちっちゃな手工芸の宝物の記憶。外国映画で見た昔の婦人や少女たちの服飾。

見て、触れて、素敵だったものの記憶や、憧れから、自分の中で醸し出されたイメージ。

パンジーの布花をつくるのは、これが初めてだ。

自分が菫(スミレ)の雰囲気を感じるイメージは(PC画面だとどう映っているかわからないが)、たぶんこんな色。幼い頃から大好きな濡れたビロードのような深い紫。

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暗い紫のパンジーたち。なるべくヴィンテージ風に、くすんだ色に抑えた。

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黒に近いパンジー。

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青味がかった小ぶりの花のヴァリエーション。

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下は少し赤味がかった紫のパンジー。

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私はものをつくり始めると、いろんなヴァリエーションをつくってみたい欲が止まらなくなる。

枯れて渋いのと、ちょっとかわいらしい感じのと、茶色系やいろいろのパンジーをつくった。

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薄い黄色、ベージュ、サーモン、オレンジ、薄紫の淡い夕焼けのようなぼかしのパンジー。Sdsc00264

淡い色あいの小さなパンジーいろいろ。
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7日に初めて会うことを約束している年下の女性M・Mさんは緑が好きだと言っていたので、緑の小さな薔薇もつくった。

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1月31日

きょうは気温が急上昇で20度。

カメラを持って、外をふらふら、植物を見て歩いた。

香りのよい紅梅が満開。素敵な木枠の窓の家。

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椿はちらほら咲き始めていた。

山茶花は、椿より脆そうなひらひらした花で、少しの北風にも散りそうなのに、11月から咲いていて、まだ散らない花が残っていた。見た目より強い花。

パンジーは三原色を混ぜたあらゆる色合いの花がある。

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菫らしい紫の花も無限に微妙なニュアンスの紫があり、花びらの裏やふちに空色が光って見えるのがすごくきれい。

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このヴィオラも、ふちは白く、ぼかしがきれい。

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細い裂(菊咲き)の花びらのアネモネモナーク。

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昔、ルドゥテが描いた花びらが細い裂になっているアネモネの絵を見て、なんて素敵な花だろうと思った。

その当時は花屋でもこの菊咲きのアネモネ・モナークは見なかった。たいていアネモネ・デカンか、アネモネ・モナリザばかりだった。

20年前くらいからアネモネ・モナークは球根や切り花でも売っているようになった。

とても繊細できれいな花。

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昔、描いた絵の、経年により傷ついた部分を加筆(再生)。

久しぶりに薫銀泥と黒泥を溶いた。

うまく絵の具がのるか不安だったが、やってみたら思っていたよりずっとうまくいった。

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2017年1月19日 (木)

森島章人さんの第二歌集 / E藤さんと食事 祖母と母のこと

1月16日

昨年末に、森島章人(森島章仁、あるいは蘭精果)さんから、ついに、待ちに待った第二歌集『アネモネ・雨滴』を出すとのお知らせのお手紙と、原稿をいただいた。

第一歌集『月光の揚力』(1999年)からずいぶん経って、長い時が結晶した歌集。

『アネモネ・雨滴』というタイトルには、“衰滅の中の希望”という意をこめたという。

昔からのお約束通り、私の絵を本(扉)に使ってくださるとのこと。

そのことに関して、きょうまた、おはがきが届いた。

私の「風の薔薇 あねもね』(2002)を使用したいとのことだったのだが、この絵が強烈すぎるので、やはり「鬱金香」(1998)を使用したいとのこと。

私としては、どちらを使っていただいても、まったくかまわないのですが・・・。

『アネモネ・雨滴』という歌集には、やはりアネモネの絵のほうが合うのではないかな、と思い、その旨と、一応、私が今まで描いたアネモネの絵を数十点メールで送った。

森島章人さんは静かなかたで、(私は行ったことはないが)空気と水のきれいな、静かなところに住んでいる。

彼の歌は、微妙な光と影が煌めく、なまめかしく妖しいイメージと、冷たく澄んだ空気を感じさせる。

森島章人さんの歌をたくさんの人に読んでほしい。

バレリーナ地に伏せるとき薄幸の世界を許すみだらを許す――『月光の揚力』より

1月18日

朝、まだ眠っていた時、10時20分くらいにE藤さんから電話があった。E藤さんは、今、私の近くに住んでいて、昔の西新宿で母が親しくしていただいていたかた。今は私が親しくしていただいている人生の大先輩だ。

正月に、今も西新宿在住で、私が小1から小2くらいの時に仲良くしていた女友だち、Oさんのお母さんが亡くなられたとのこと。

Oさんのお母さんは70歳をすぎて子宮がんになったという。

Oさんとも、Oさんのお母様とも、私は小学生の頃以来、お会いしていないのだが、E藤さんはずっと親しく交流されていたそうだ。

E藤さんは親しくしていた人が急に亡くなってとてもさみしい、とおっしゃって、私をランチに誘ってくれた。それで私は寝ぼけまなこで即飛び起きて、支度した。

駅前の「すしざんまい」でランチ。母の具合が悪く、今年の正月はおせちどころではなかった私のために、「お正月のごちそうと思って、ランチビールも飲みなさいよ。」と言われて起きたばかりだけど、ビールもいただいた。

E藤さんは、私が幼い頃の母のこと、私の祖母のことを知っている。その話を聞くと胸がいっぱいになってしまう。

E藤さんは、結婚されてすぐ(20歳代の後半)に、小児麻痺だったご主人の妹さんの、たいへんな介護をされていたとのこと。

その妹さんが亡くなった時、私の母がふたりの近所の友人とともにE藤さんのお宅に伺ったそうだ。E藤さんは残り物で悪いけど、と、ちょうど3人分余っていたお寿司を出したのよ、と言う。

「そんな時のことをすごく覚えているのに、もうそんな話をできる人もいなくなっちゃったわねえ。」と言われた。

私の母と祖母について「あなたのお母さんは本当によく働いてたものねえ。おばあさんはすごくきれいな人だった。おばあさんとよく魚屋さんで会ったわ。」と言われると涙が出てしまう。

人は皆、年老いて、記憶はどんどん時の彼方へ消えていってしまうけれど、私の祖母と母の元気な頃のことを覚えていて、私に話してくれる人がいることは、なんて幸せなことなのだろう、と思う。

「あなたはおばあさんによく似てるのかな。」と言われ、「いいえ、私は明るくて包容力のあるおばあちゃんが本当に大好きだったけれど、私と祖母は血がつながってないんですよ。」と応える。

「父はもらいっ子で、生まれてすぐもらわれてきて、本当の両親を知らない。あんなに優しかった祖母に甘やかされておかしくなった。」と。

(実際、祖母は私とは違う鼻筋のとおったはっきりした顔立ちだった。目や眉が似ていると子供の頃は信じていたけれど。大好きな祖母が私とは血のつながりがない、と母から聞いた時、二十歳くらいだった私はショックで泣いた。)

おばあちゃん(福山キョウ)と私。

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私が好きな写真。西新宿の熊野神社でおばあちゃんと。「ユキちゃんを見つけて嬉しそうにかけていきました。」と写真の裏に母の文字が書いてある。(ユキちゃんは幼なじみ)
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続く写真(ユキちゃんと私)。裏には「枝を得意そうにぽっきん、ぽっきん」という母の文字が書いてある。この頃から私は植物が大好きで、今とちっとも変わっていない。

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E藤さんは今年88歳だが、とても頭の回転が速く、新聞もよく読んでいて、とんとんと話が進む。

「それでね、その子は今、ヒッキーなんですって。」などといった言葉が飛び出す。「ヒッキー?あ、引きこもりのこと?」と言うと「そうよ。私、いろいろ若い人の言葉も知ってるの。」と。

感心するのは、話が回りくどくなくて、要旨が明解なことだ。頭がよく、人の気持ちがわかる人なので、こちらの悩み相談にものってくれる。本当に頼りになる先輩だ。

隙間のないきれいな歯も、全部、29本健在だという。それは本当にすごいことなのではないかと思う。

E藤さんは私なんかよりよっぽど元気だ。私とランチしたあと、荻窪でボランティアをするために電車で出かけていった。それも新聞で見つけて応募したそうだ。以前は新宿の老人福祉施設で絵手紙を教えていたそうだ。

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私は3時過ぎから母の施設へ。小口の預け金が足りなくなったようなので、10万円持って行った。

母は眠っていた。フロアリーダーのFさんがいらしたので、母の様子をきく。気管支炎はだいぶなおり、体調は安定してきて、昨日の夕食、今日の朝食、昼食はほとんど食べた、とのこと。

おやつと夕食の間の時間で、日誌をつけている職員さんたちにも挨拶と御礼。

エレベーターで一緒になった看護師さんに挨拶し、痰の吸引などお世話になっている御礼を言うと、「ああ、福山さん!年末がたいへんでしたね。きょうくらいから熱もちょうど落ち着いて、痰も少なくなりました。」と言われ、とても嬉しかった。

はきはきした小柄の看護師さん。「年末、年始、もうだめかとはらはらしていたのですが、先日、無事誕生日を迎えられて本当にありがとうございました。」と言うと「なぜか誕生日が鬼門なのよ。」と言われた。そんなこともあるのだろうか。

会議が終わって出て来たところの相談員のK島さんと、1階でお会いできた。先日、私が来た時よりも、今日のほうがずっと母の調子がいい、とK島さんも笑顔だった。

何度も何度も頭を下げた。

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少し気持ちが楽になったので、そのあと中野の材料店に行き、昔はあったが今は製造中止になった道具についてお話を聞いた。

古本屋さんに読みたかった70年代の本が入荷していたが、800円だったので今日は買うのを止めた(500円だったら買っただろう)。

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2017年1月16日 (月)

「村上肥出夫画集」

1月15日

きょうはすごく寒い日だった。

朝、ちゃびが少し吐いてしまい、その後、私の手から無農薬小松菜をおいしそうに食べた。

その直後、ちゃびが流し代に上がって、私が使っていた染料の皿に足をつっこんでしまったので、大慌てで、すぐにお風呂で洗い流した。

私も冷えたのか胃の調子が悪く、吐きそうになったので、夕方までふとんにくるまって寝ていた。

ちゃびも私と同じ枕に顔をのせて、私の口に自分の口をつけるようにして、ゴロゴロ言いながら寝ていた。

私は夜に起きて胃薬を飲み、豆腐と卵入りうどんを食べた。きょうは、朝からこれ一食のみ。

ちゃびも、きょうは吐き気がするのか給餌をいやがり、あまり食べなかった。

二匹は体調もシンクロしている。

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詩人の飯島章さんからいただいた『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』について。

昨年、飯島さんから、とても久しぶりに急にお電話をいただいて驚いた。飯島章さんとは、もうずいぶんお会いしていないが、昔、詩集の装丁をやらせていただいたりした。

お電話があってからすぐ、飯島さんが監修した『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』をお送りいただいた。それで私は村上肥出夫さんという画家を初めて知った。

画集にある文章によると、村上肥出夫さんは、1953年に岐阜から上京し、日雇いなどの仕事をしたり、橋の下で生活したりしながら絵を描き、1961年頃から銀座の路上で絵を販売していたそうだ。

それから村上肥出夫さんはマスコミに大騒ぎされ、時代の寵児となった。

飯島さんが村上さんに出会ったのは、1968年頃、飯島さんが19歳、村上さんが35歳の頃らしい。

1997年に自宅が火事になった時に精神に変調をきたし、現在、村上肥出夫さんは岐阜県高山市の病院で療養生活を続けておられるとのこと。

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画集を開くと、いろんな傾向、様々な技法の、村上肥出夫さんの絵がある。

60年代初頭の厚塗りの油彩の風景画。たしかに彼の油彩の中では、この時代の風景画が一番いい。

東京のどこを描いても、あるいはパリのモンマルトルやセーヌ、ニューヨークのブルックリン・ブリッジやレキシントン・アヴェニュー、フィレンツェのベッキオ橋を描いても、彼が描くと「廃墟」になっているからだ。

ビルであろうと、橋であろうと、あらゆる人工的な建造物に、たとえそれが今まさに建てられたばかりの新建築であっても、そこに「廃墟」を透視する眼。

上・・・大崎 1962  下・・・等々力 1962

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駅前交番 1961
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ポンテ・ベッキオ
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チャコールグレーや茶色に沈んだ色の中に、複雑で豊かな諧調の、ぬめぬめ、ちかちかした光の粒がある。

暗鬱で哀切を帯びているのに、なにか賑やかなような、細かい蠢くものに満ちた風景。

風景、空気のそこここに、ちかちかと何かを発信する微小の生命的なものがいる。

風景の中に人物は見えない。彼は風景自体と交信しているのだ。

70年になると、色彩が氾濫する。極彩色の厚塗りのタッチが粗い花。

私はここらへんが一番苦手だ。ねっとりと塗りつけられた極彩色の油絵の具そのものが見えすぎて、感覚的に気持ち悪くなるのだ。「売り絵」っぽくて村上肥出夫のよさが出ていない。これらの絵には、どこにも微小の不思議なものたちがいない。

この時代は、風景のパステルのほうがいい。

80年代の少女の絵は興味深い。ちょっと怖い感じで眼が見開いている。

90年代の絵は精神的に安定を欠いている。ルイ・ウェインの晩年を思い起こすバラバラな感じ。

ペンで描いた風景の素描。タイムズスクエア、セントラルパーク、ウエストサイド、シテ、モンマルトル遠望、ポンヌックで・・・ここらへんが一番好きだ。

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彼は聖堂も、噴水も、塔も、細い曲線でとらえている。その隙間と線のかすれの中に、やはりちかちかと光るものがある。

私は塗りたくった絵より、細い曲線でそよそよと描かれた絵が好きなようだ。

そして時間そのものの織りなす襞の微細なニュアンスをとらえている絵。

全体を通して見えるのは、内向的で正直な人だということだ。村上肥出夫さんの絵は、外の世界にあるものに畏怖を感じている彼の心が見える。

彼の著書を読んでいないので、よくわからないが、対人恐怖や不安障害もあったらしい。

画集に載っている若い頃の村上肥出夫の顔写真を見ると、とても大人しそうで、人なつっこそうな眼をしている。

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その写真の大人しそうな眼を見て、斎藤隆さんを思い出した。もうずいぶんお会いしていないが、お元気だろうか。

斎藤隆さんとは、一目で通じるものがあった。私も極度ではないが、人見知りで内向する性格だ。

斎藤隆さんもひどい対人恐怖に苦しんでいた。そのために、よくお酒を飲んでいて、朝、すごく早くに電話しないと、昼に電話したらもうぐでんぐでんに酔っていて、話にならなかった。

酔っていない時はシャイで繊細で正直な人だ。優しくしてくれた思い出もある。ずかずかと図々しく上がり込んでくるような人が嫌いだ、と私に言っていた。

ネットで調べたら、福島民友に震災後の斎藤隆さんの記事が載っていた。また声をお聞きしたいと思う。

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2017年1月 9日 (月)

絵の撮影 / 母のこと(気管支炎)

1月5日

私の次に出す本(画集)のための銀箔の絵を、新たなカメラマンさんに撮影しなおしてもらう。

銀箔を貼った絵が、最初のカメラマンさんの撮影では、私が室内で肉眼で見た自然な感じとかけ離れていたので、本には使えないと判断したためだ。

一回目のカメラマンさんの撮影では、2か所から強い光をあてたのか、銀箔のぎらぎらした存在感は出ていたが、余計な情報過多で、肝心の手描きの線が見えなくなっていた(セオリー通りの撮影ではあるらしいが)。

今日初対面のカメラマンさん、I井さんのご自宅兼スタジオに伺い、撮影を見学させていただく。気さくなかたなのでよかった。

白い紙と黒い紙を使って、照り返しを調節するセットを組んでくださっていた。

けれど結局、白と黒の紙なしの、天井や壁や室内のものが映りこんだ状態で撮った最後の一枚が、一番自然に、銀箔の質感と手描きの線の両方が出た。

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何枚か光をあてる方向を変えて撮影し、その都度パソコンの画面で確認。

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最初のカメラマンさんは、なにを重要視して撮ってほしいかをこちらから言葉で伝えると、なんの画像確認もなしに自分の判断で、いきなり印刷したカンプを出してきたので、それでは絶対無理だと思った。

I井さんは、何回もやりかたをかえて撮影してくださり、その都度「ここの質感が出てきましたね。」「こちらがちょっと飛び過ぎですね。」「さっきのよりこっちのほうが雰囲気が出てますね。」など、私が絵のどこを見せたがっているのかを理解してくれて、コミュニケーションが成立した。

I井さんの仕事を見て、最新のやりかたはこんな風なのか、と感心した。

たとえ物撮りであっても、カメラマンは、いろんな工夫をして、それぞれに個性的なやりかたがあるのだろう。

ある種の冒険的な精神によって、見る者の主観の中でしか成立しない絵画であればなおさら、その撮影も通り一遍のやりかたでいいはずがない。

プロの現場を見学させていただいて、たいへん勉強になりました。

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最近の母のこと(気管支炎)。

1月8日

母に会いに、施設へ。

年末からずっと気管支炎で、痰がらみがあるので、誤嚥による窒息が心配で落ち着かない。

高齢だから、いつなにがあってもおかしくないのだが、きのうの夜からきょうは、熱はなんとか落ち着いてきて、36度8分から37度くらいだそうで、顔色も穏やかだったので、ひとまずはほっとした。

きょうは昼食は食堂で、地方の訛りあるのちゃきちゃきした女性職員さん。やはり3人を同時に介助されていた。

母が今ほど噎せの危険がなく、私が介助して食べさせていた時は、廊下のテーブルでやっていたので、食堂での皆さんの食事風景を見るのはきょうが初めてだ。

母に声かけしながら、口を開けるのを待って、飲み込むのをじっくり待って、噎せないように少しずつ食べさせてくださっている。

うちのちゃび(19歳6か月の雌猫)に私は毎日、強制給餌しているのだが、ごっくんと飲み込むのを待って、次のをシリンジで入れるのとほぼ同じだ。

食堂でほかの皆さんを見ていたら、ひとりでちゃんと食べられる人は少ない。本当に職員さんたちのおかげだ。

ひとりの女性入居者が、立ち上がってスタスタとほかの女性入居者に近づき、びよ~んと下唇を引っ張る事件が起きた!

母を食事介助してくれていた職員さんが慌てて駆けつけ、「こら!なにしてんの。」と止めたら「やわらかいんだも~ん。」と。「まったく油断も隙もないんだから。」と職員さんたちが笑っていた。「下唇がとりわけぷっくりしているかたなので、引っ張ってみたくてやってるんですよ~。」ということ。

ほかにも、食事中になぜか「うわあ~~ん」と大声で泣き出す人(過去の哀しい夢を見ているのか?わからない)、食器をがんがん机に叩きつける人、ジェスチャーを繰り返してなにかしゃべっている人、いろんなかたがいるので、それはそれはたいへんだ。

職員さんに重々御礼を言って帰る。帰りに中野で天婦羅を食べた。

1月4日

K島さんに電話して母の調子を伺う。まあまあ、おだやかに過ごしているそうで、少し安心。引き続き痰の吸引。

1月2日

私はずっと自分が風邪気味で、咽喉の痛みが続いていたので、母にうつすのが怖くて、しばらく施設に行っていなかったのだが、久しぶりに会いに行った。

母の部屋のベッドのそばに痰の吸引器があった。

大柄の目のきれいな女性職員さんに、廊下で昼食介助していただいていた。ひとりで3人を同時に介助。

母はむせやすいので、見ていても窒息するのじゃないか、とはらはらする。本当に職員さんのお仕事はたいへんだ。生かしていただいていることを、実感する。

「39度近い熱が出た夜、(看護師さんがいないので)朝5時まで座薬もできなかったので、すごくかわいそうだったんですよ。」と言われた。

K島さんにくわしいお話をきく。体重は今、激減している感じではないので、肺に食べ物がはいって窒息するリスクを避けるため、無理して食べさせない方針とのこと。おまかせしますのでどうかくれぐれもよろしく、とお願いした。

ヘルパーさんひとりひとりに、御礼のご挨拶をしてから帰った。

すごく張りつめていたので、お酒が飲みたくなり、中野の立ち食い寿司で日本酒を飲んだ。私は日本酒を飲むことはなかったのだが、意外にも飲めてしまった。

今年も気持ちが落ち着かず、ゆったりとごちそうは食べられない正月。

12月30日

11:20頃、施設から電話。

また39度近い熱になりYメディカルセンターに連れて行ってくださった。危険な状態なのか、とすごく心臓が苦しくなった。

父が年末に亡くなったことを思い出して、何とも言えない暗く不安な気持ちになる。年末ぎりぎりに母が亡くなるのはすごく辛い。むしょうに怖かった。

午後3時半頃、電話があり、施設に戻ったとのこと。

ここでも、気管支炎と言われ、入院させるほどの状態ではない、とのことで、違う種類の抗生物質が出た。

長い時間をかけて病院に連れて行ってくださったTさんへお礼を言う。

30日と31日の夜、母が死んでしまうことを思いつめてうなされ、あまり眠れなかった。

12月28日

母のいる施設から電話。「病院に連れて行くので、入院になるようだったら来てください。」と言われた。

12月26日くらいから38.6度の熱を出し、抗生剤を投与しているとのこと。

下落合のS病院。結果は、肺はきれい。炎症反応はあるが、おそらく気管支炎だろうということ。抗生物質を出していただいた。入院する状態ではないと言われた。

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