2017年7月16日 (日)

母のこと、介護のふりかえり / 毛利やすみさんの展示、 原やすお 

7月12日

母はまだ存命。

母との日々を振り返るために、自分の書いた過去のブログを読んでいた。

母が認知症とパーキンソン病による身体の不自由が進行しつつある時、介護の時間、母と一緒に過ごす時間、私はその瞬間には母のことしか考えていなかった。

母の介護をしている時の私は本当にそこに集中していたので、早く家に帰って自分の仕事をしなくちゃ、という急くような思いはまったく浮かんでこなかった。

まだ母が少し歩けた頃、母と私は陽の色や温度を感じ、植物を見、落ちている実や落ち葉を拾った。

それは私にとって純粋な体験の時間、静かな幸せの時間だった。

母を抱えて歩くとき、すれ違う年配の人に、にこにこしながら「孝行してくださいね~。」などとよく声をかけられた。

転倒しないようにと母のこわばってきた身体を支えて歩くので、私はいつも緊張していた。.

帰宅するとはじめて、自分の身体にこんなに負荷がかかっていたのかと思うほど、肩や背中や腰が痛んだ。だが、母を抱えている時はまったく痛みを感じなかった。

母がまだ要介護3だった2011年の暮れから翌年の正月まで、介護サービスがお休みの時は、本当に母が死ぬかと思った。

2012年末、母が転倒して大腿部を骨折してからは、食事介助などがたいへんだった。

介護制度の矛盾により、次の入所先が決まらず、薬を処方してくれる主治医もなくなり、先が見えない不安で押しつぶされそうになって、日に何度も吐くほど疲弊していた時期もあった。

・・・

母の介護の大雑把なまとめ(私自身のための備忘録)

2007年から2009年、母はだんだんと具合が悪くなり、震顫(しんせん)が出てきて、ぐったりと横になっていることが多くなった。

しかし実家に帰ると、祖母の仏壇には必ず母が摘んだみずみずしい野の花がさしてあった。

玄関にある昔母が使っていた古いミシンの上には、秋には紅色の桜や楓の落ち葉が飾ってあった。

母が調理ができなくなってきたので、私が調理したものを実家に持参して食べさせる。大根、人参、里芋などの根菜と厚揚げを柔らかく煮たもの、自家製のつみれなどが好きだった。

2007年には、大学の同級生の美貌のTが亡くなったことを私が告げると、母は「あんなにきれいなのに、もったいないねえ」と涙をこぼしていた。

2008年4月。四谷3丁目で個展(信じられない酷い妨害に会う)。

8月くらいから(モデルさがしはその前の3月くらいから)ずっと、私は『デッサンの基本』という本を必死でつくっていた。『デッサンの基本』は2009年7月に発売された。

2009年には、桜の木の絵を描いている人が映っているテレビを見て、「桜の枝にしてははまっすぐすぎる。桜の枝ってあんなにまっすぐのは少ないでしょう?」と私に言うほど母はしっかりしていた。

この頃は東京医大の脳神経科に母を連れて行っていた。2時間も待たされ、その間いつも母は疲れてぐったりしてソファで横になっていた。

調子がよさそうな時は、母を支えながら散歩して一緒に花を摘んだり、落ち葉を拾ったりした。

2009年8月に、介護保険申請のために区役所の人が来訪。8月に依頼した診断書をY医院のY先生が10月まで隠匿していた(Y先生は精神的に不安定で、その後、Y医院は閉院)。介護認定が出たのはそのあと。

2010年。4月、恩師、毛利武彦が亡くなる。私はショックで著しく体調を崩した。9月末、ドイツへ。

(この頃から精神的におかしいパクリストーカーに私は数年張り付かれる。)

2011年。3月11日の震災の後、「放射能が怖いので、ちゃび(猫)を連れて一時だけ九州あたりまで避難しようかと思う」と父の前で言ったら、母は急に正気に戻ったように「行きなさい!私たちのことなんてかまわなくていいのよ。若い人は避難したほうがいいに決まってる!」と言った。

この頃、母をタクシーでショートステイに連れて行った後も、一緒に塗り絵をしたり、散歩に連れ出したりで、私は結局夕方5時過ぎまで施設にいることもあった(戸山の施設は人手不足だったので私に長くいてほしがっていた)。

2011年、私は『反絵、触れる、けだもののフラボン』の原稿を必死で書いていた。デイケアのほか、北新宿のK、東新宿のM、西早稲田のF、下落合のSなどのショートステイに、私が母をタクシーで送り迎えしていた。

11月頃から池袋のA,、文京区のHなどの老健の面談で忙しかった。転倒の危険が高いという理由でどこからも断られた。

2011年の暮れから翌年の正月、介護サービスが休みで、自宅に通いでの介護がものすごくたいへんだった。寒い部屋でほっておかれている母が今にも死んでしまいそうだった。

2012年。この頃は1か月のロングステイに行っている。溜まった洗濯物は、私が途中、取りに行って洗濯していた。1か月預かってもらうと、身体のリハビリにはよいが、母の認知症は進むようだった。

叔父夫婦が突然実家に来訪。母はもう、すごく柔らかいものしか呑み込めないのに、あらかじめ状態を聞かずに鰻を買って来られて、私はすごく困った。5mmか1cmまで細かくして、指で小骨をとって食べさせるのに時間がかかった。

母の食事を介助中の私に、叔父たちは、将来の自分たちの参考に、介護サービスについての情報を聞かせてくれ、と言ってきた。私はなんとか説明したが、内心、煩わしくて、口を開くのもしんどかった。

今、余裕もなく目の前の介護に集中している私に、まだ元気で介護の必要のない人たちが、自分の未来のための情報を聞いてくるのがイライラした。聞きたければ行政に聞けばいいのに、と思った。

2012年7月、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の初校ゲラの校正を水声社へ提出。

この頃、私はよく朝まで仕事をしていた。9月21日、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の最終打ち合わせ。第3稿をもらう。

この頃、母が高熱を出したり、転倒して怪我をしたりでたいへんだった。

2012年12月12日。母がトイレで支えていた父とともに転倒、大腿部を骨折。

12月18日、母、全身麻酔の手術。一時、炎症を起こして40度の熱を出し、死にかかる。

もうだめかと思い、妹を病院によぶ。久しぶりに会った妹の、「もう、うるさい!」と言ってすぐに帰ってしまった態度に、私はショックと怒りが収まらなかった。

2013年。3月に母の介護度が3から5になる。

リハビリで入院していたN病院で、N女医からドクハラを受ける。

母が苦しそうに痛みを訴えたことを「なにも具合悪くないくせに大騒ぎして、まるでオオカミ少年だ!」と言われた。

「変なことばかり言うのよ!譫妄があってリハビリの効率が悪い。さっさと家に帰ってほしい。」と私は面談で直接、N女医から罵倒された。

実際は胸水がたまっていて母は苦しんでいた。パーキンソン病(難病指定)だという前の病院からのカルテにも、N女医はちゃんと目を通していなかった。

私は、母の担当医を変更してくれるように看護師長とメディカルソーシャルワーカーに何度もお願いしたが、いくら言っても完全に無視された。看護師長はこちらの話をまったく聞かず鉄面皮、MSWは一度も顔を見せてさえくれなかった。

結局、私はN病院の事務局長まで直訴に行った。

この「事件」は私の心身にとって、ものすごく大きなストレスとなった。

事務局長はN女医の態度を「人権侵害にあたる」と認めてくれた。

母の主治医がN女医から院長にかわり、院長の診断書により、母は4月に身体障碍者一級になった。

N病院の3か月のリハビリ入院からの転院先を探して、いくつも老健の面談に奔走したが、どこも断られ、私は不安と疲労で追い詰められた。

2013年5月8日に板橋の老健Eに入所。Eへは、私は池袋から歩いて食事介助(と歯磨き)に通った。この頃、傾眠が酷い日があったが、調子がいい日は歌を歌ったり、昔の写真を見て笑ったりもしていた。

ここでも、3か月すぎたら次の転院先を探せ、と迫られてたいへんだった。

また、持参した薬が8月の頭でなくなってしまう問題に悩んだ。入居中の老健は経営上の都合で薬は出せない、N病院はリハビリ病院だから最大1か月分しか薬は出せない、以前の在宅の主治医はもう主治医ではないので処方できない、と言われた。

つまり介護保険制度の矛盾により、どこからも薬を出してもらえないと言われ、心身ともに追い詰められて、私は極限まで疲労していた。

7月25日、府中の郊外の特養Tを見学。27日に書類審査を通り、決断を迫られたが、母の終の棲家として決心がつかず、悩んだすえお断りする。

8月17日、第一希望だった北新宿のK苑から「待機」になった連絡をいただく。

10月24日、K苑へ入所。

7月8日

母がいよいよ亡くなる時に来て、もっと母の幸せのために尽くしてあげればよかった、という後悔と不全感で、非常に心が乱れていた。

そうしたら、母の在宅介護の時(数年前)のケアマネのMさんから、たいへん心のこもったメールをいただいた。

母が最初に介護認定を受けてケアマネさんのお世話になり始めたころ(6年くらい前)、認知症は進みつつあったが、まだ受け答えもはっきりしていて、「私はパパが大好きだから、ずっと一緒にいたいけど、パパは私のことを迷惑だと思ってるんでしょう?」と父に言ったそうだ。

また、ケアマネさんが父と話すと、やきもちをやいたりもしたそうだ。(私はまったく気がつかなかった。)

認知症になってからの母は、父にされた長年の酷い仕打ちを忘れて、最初に父に出会った頃の恋する女に戻っていたようだ。

私は、自分が20歳頃に父に負わされた大きな借金の凄惨な記憶や、父が死んでからも出てきた私を苦しめ続ける数々の悪行の後始末のことで、母が幸せな結婚をしたとは思えなかった。

実際、しっかりしていた頃の母と私は、異常性格の父の暴力に対して、共闘する同志のようなところがあった。

しかし母にとっては、父に出会った頃は、駆け落ちしたほどの大恋愛だったのだ。私が生まれてから、父は思いやりのない性格になった、と母はよく私に言っていた。

母が祖母の介護を終えて、パーキンソン病の苦しみが始まるまでの7年間くらいは、父と二人でよく出歩いていた。この頃は母は幸せだったと思いたい。

過去のブログを読み返してみれば、自分で今思うよりは、私は母の介護をよくやっていたようだ。

施設に迎えに行ってから、家で食事を用意して、介助して、薬を飲ませて、ストレッチやマッサージなどして、4時間から5時間くらいかかることもあった。

母はまったく贅沢をしない人だった。もっとおいしいものを食べさせてあげればよかったと悔やんでいたのだが、まだ嚥下が悪くない頃は、私は自分が一番おいしいと思うケーキなども買って行っていたみたいだ。

すっかり忘れていたが、私は母が好きそうなものも、サプリも、母のために当時、思いついたことはやっていたようだ。

7月7日

母が高熱で倒れて入院してから1か月が過ぎた。

7月1日

母が死ぬ緊迫感で、このところずっと心身ともに疲弊している。

恩師、毛利武彦の奥様である毛利やすみさんの絵の展示を見に、銀座へ。

やすみさんは、本当にかわらずお元気だったので、とても嬉しかった。

とにかくやすみさんに、阿部弘一先生が毛利先生から送られた手紙やスケッチなどの収蔵先を探しておられることを改めて伝え、世田谷文学館は厳しそうだが、どうしたらいいか、と聞いたのだが、あまり深く考えておられないようだった。

ただ、「慶応で働いたことで、ただひとつすごくよかったことは阿部先生と出会えたことだって毛利が言ってたわ。」とやすみさんがおっしゃったことが、私の胸を打った。

この日、やすみさんのお父様も画家(漫画家)だったことを知る。

そのやすみさんのお父様の名前が「原やすお」だと聞いて、雷に打たれたようになってしまった。

私が、もの心つくかつかないかの時に、家のお客さんの誰かが私にくれた集英社の『とんち曾呂利』というまんが、私が生まれて最初に夢中になったまんがの作者が、その「原やすお」だった。

いつの間にかその本は失くしていたが、大人になった私は、どうしてももう一度読みたくて、「そろりしんざえもん」(曾呂利新左衛門)という名前だけで何十年も探していた。なかなか見つからなかったところへ、思いがけず、親友が探し出してきて、去年の私の誕生日にプレゼントしてくれたばかりだった。

まさか、やすみさんのお父様だったとは。もっと早くに言ってほしかった。それにしても不思議なご縁だ。

森久仁子さん(毛利武彦先生の従妹で、歌人の春日井建の妹さん)にお会いしたかったのだが、つい先ほど帰られたという。

会場は、うしお画廊というところだった。銀座6丁目のみゆき画廊が2016年になくなっていたことも、私は知らなかった。

正直、毛利やすみさんのほかは、阿部弘一先生と森久仁子さんにだけ、私は会いたかった。

自分が絵を描いていて、それについての本も書いているのに、私は美術、絵画の周りを取り巻く人たちと会うことほどストレスになることはない。画廊を出てから、本当に立っていられないほど疲弊して苦しくなった。

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鈴木創士さんと、何度かメールのやりとりをさせていただいた。鈴木さんもこの春にお母様を亡くされた。「お母さんはきっと全部わかっていますよ。」というお優しい言葉をいただいて、少し落ち着いた。

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2017年7月 1日 (土)

母のこと、 文学、美術のこと

6月30日

夏用の薄い生地の喪服をたんすから出した。上着だけしか見つからなかった。葬式はせずに直葬の予定なので、それらしい黒い服であればいいのだ。

新宿の特養K苑のK島さんに電話した。母はまだ亡くなっていないが、かつて私が切望していたように入所を待つ介護家族のために、K苑の母の荷物を引き取りに行きたいと告げた。

夕方5時頃K苑へ。

駅前のコンビニに入って、何度、この店で母のために「極みプリン」(プリン類の中で一番たんぱく質が多く含まれていたから選んでいた)を買ったか、もう買うことはない、と思ったら涙が出た。

神田川にかかる万亀橋を渡る。

毎年私が見ていた赤い透明な花のタチアオイの直立的な茎に野性的なヤブカラシが巻き付いていた。真夏を予感させるヤブカラシの淡い粒粒の花の可憐さが、すっとしたタチアオイと絡み合って、すごく美しかった。それにもたれあっている色あせてくすんだ紫陽花の組み合わせも胸を射た。

母はとても植物が好きだった。私の植物に対する感覚は母からもらった。

K苑に着く前に涙がとまるようにこらえた。

K島さんと、母のいた部屋に行って、母の私物で、ほかの入居者さんに利用していただけるものはすべて利用していただきたいとお願いした。

母のために、叔父が亡くなる前に持ってきてくれたのであろう柏崎と母の若いころの写真、母の母親(私の祖母)の写真と、私が母のために買ったウイリアム・モリス柄のブラウスだけを持ち帰った。叔父の思いを受け止めた。

本日、6月末日でK苑の退所届けにサインした。

この新宿の施設にはいることができて、本当に、母も私も幸せだったと思う。

K島さんをはじめ、職員の皆さんに何度も頭を下げた。

そのあと母のいる病院へ。洗濯したパジャマを持って行った。

点滴はたまに一滴、また一滴、と落ちるか落ちないか、よく見えないくらいゆっくりだ。昏睡ではないが、ほとんど眠っている。

けれど母の手は温かい。拘縮の反応のようなものなのかもしれないが、私の手を握り返してくる。

乾いた手足のカサカサ部分にクリームを塗ってマッサージした。「わかる?知佐子だよ。」と耳に話しかけると、「うん。」と返事がある。3、4回試したが、やはりちゃんと返事はあった。

看護師さんにきいて新しく売店でおむつを買った。母の手の指の爪が伸びていたので、できたら切ってほしい、とお願いして帰った。

6月29日

師、毛利武彦の阿部弘一詩集の装丁のための画稿、ラフスケッチ、お二人の往復書簡などをおさめに世田谷文学館へ。

母の死にぎわに際していろいろ考えてしまい、心臓が苦しくて落ち着かない毎日。

こういう時は、自分が本当に大切と思うことだけをしたい、自分の意にそわないくだらないことには、極力つきあいたくない、と思う。

どうでもいいことをすべて切りたい。虚飾を排したい。

そのうえで、師、毛利武彦と、そのご親友の阿部弘一先生の思いのために動きたかったのだ。

一年前からお願いしていた阿部弘一先生の詩の原稿と阿部先生とフランシス・ポンジュの往復書簡は、フランス文学者である菅野昭正世田谷文学館館長の判断によって収納してもらうことができた。

しかし、毛利武彦先生の画稿などは難しいと言われた。世田谷文学館は、世田谷区から業務を請け負っている外郭団体にすぎず、収蔵庫も狭く、もう満杯で飽和状態らしい。

いくら頭を下げても、私は無理な気がしていた。

一階のコレクション展を見た。そのなかでも田中恭吉はすごい。竹中英太郎も奇妙なバランスの女体に魅力があった。松野一夫の『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)の挿絵は素晴らしかった。

けれども本当に時を経て後の世の人に残す価値があると(私が)思えるものは、そこに展示してあるものの4分の1くらいだ。

特に、展示会場の入り口でやっていた存命(しかもそんなに高齢でもない)作家のからくり箱作品は、なんで収蔵されて展示されているのか、まったく理解できなかった。

その作品の動いているところをひとつ見たら、私は笑いをこらえきれなかった。面白くて笑ったのではない。あんまつまらなくて、見ていて恥ずかしくて、耐えられなくて苦笑してしまったのだ。

なんらかの大人の事情で、区の文学館はこんなくだらないものを収蔵せざるを得ず、価値があるのもは廃棄せざるを得ないのだな、と思う。

画家毛利武彦が、詩人阿部弘一の詩に添える画を、どれだけ完璧にしようと苦しんだか、その軌跡は保存されない。

お二人とも戦争に青春を滅茶苦茶にされた。そこから生き抜いてすごい仕事をされた。

どうでもいいばからしいものが保存される。すべてが転倒している。今はそういう時代だ。

そのあと、西永福で食事した時に、涙がどっと溢れてきてしまった。

やり手の人間はどんどん売って、金をつくって、保存場所まで確保する。本当に普遍的価値があるものは金にもならないし、保存もされない。

誰も、危機的な場所に立って(そこを生きて)、本当に価値があるものが何なのか、問わないし、知ろうともしない。

私の母に関してもそうだ。私は自分の介護について、昔からの母とのあらゆるやりとりについて、自分がもっとよいやりかたができたのではないかと、この先もずっと胸が痛み、苦しむだろう。

逆になにもしなかった妹は、胸が痛むこともなく、なんの後悔もないだろう。妹は母のことなど眼中になく、自己愛でおかしくなっているからだ。

自己愛と自己顕示欲だけが肥大し、暴走していく時代に「芸術」はあり得ないと思う。

5時過ぎに帰宅して気づいたら、愛用のぺらっとしたガウンコートを失くしていた。食事した店、京王バス、関東バス、京王線の各所に電話したが届いていなかった。私はもともと失くしものが多いが、今はさらに心が不安定なのだろう。

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夜、ネットで調べて、直葬をやっているなかでも感じよさそうな印象の葬儀社に電話した。

その小さな葬儀社の、(下町のおじさんのような)正直そうな社長と電話で少し話したら、かすかに気持ちが落ち着いた。

これからのことは、私にはどうしようもできないことだ。

あれこれ考えて苦しみすぎないこと。流れにまかせること。

6月28日

私が右腕の三角筋あたりを(おそらく)断裂してしてから、今日でちょうど一年。

昨年の12月、大きな病院に行ったときも、今年2月に町の整形外科に行った時も、「筋肉が纐纈してしまっているから、どんどん肩を動かして。」と言われたが、動かすと、ぎゃっ、と涙と汗が出るくらい、まだ痛かった。

リハビリが激痛ではなくなってきたのは、この4月末くらいからだ。個人的には、まだ激しい痛みがある時期に無理に動かしたことは、余計痛みが出てよくなかったように感じる。

今は筋肉の拘縮はまだあるが、右手を腰にあてられる。首の後ろで両手を組める。以前より、はるかに(65~70%くらい)腕が上がる。

整骨院では「足腰はすごく柔らかい」と言われる。特に後屈は「まっすぐ逆U字にそっていてばっちり。」と。

しかし肩と首は極端にがちがちで、緊張性頭痛も出ている。

6月23日

先日、Fに久しぶりに手紙を書いた(母が死にそうなこと、次の本の内容のこと、i今、精神的に追い詰められていること)。

そうしたら23日の深夜を過ぎて1時頃に電話があったので、ぎくっとした(母の死の知らせかと思うので深夜の電話はいやだ)。

Fは片目が眼底出血してしまい、。「このままでは失明するかもしれない」と言われ、この2か月ほど眼球に注射を打つ治療をしているという。

注射により(脳のどこかに注射が達してしまい?)死亡した人がいるそうで、治療承諾(同意)書にサインしたそうだ。

その紙に、ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの「アンダルシアの犬」のような雰囲気の(眼球に針を刺している)絵が描かれていたそうだ。

Fは私がまた個展をすることを望んでいると言った。私はもう(この先、そうとう気持ちや体力に余裕がある時がくれば別だが)個展はあまり考えていない。

個展のために使う膨大な時間と労力、あまりにも神経をすり減らして準備する結果として、誰かの心に届いたり、誰かと出会える機会の可能性があまりに低いからだ。

20年前には考えられなかったことだが、今はなにをやっても絶望的だと思う。

Fはある美術家の展覧会のトークに私を誘った。その美術家と話す美術館館長がFの友人だからだ。

Fは私が世の中に認められないのは私が人づきあいができないことが問題だという。その通りだと思う。自分を売り込みたくて躍起になっている人なら、こういう機会は素晴らしいチャンスと思うのだろう。

けれど私は、ネットでその美術家の作品と解説などを見たら、やはりトークイベントに行くのは無理だと思った。私には苦しすぎるのだ。

私は「アート」と呼ばれる人工物、人造物を見ることと、それをめぐる言説を読んだり聞いたりすることが、実のところ、まったく好きではないのかもしれない。

私にとって「美術」とはなにかは、人間ではない(人間にははかり知れない)生命から受容するもの、あるいはその生命との交感(交歓)の瞬間、瞬間を自分のやり方で表現するということに尽きると思う。

そして自分がもう死にそうなくらいに疲れ果てて力がなくなっているときにも、それを見て「素晴らしい」「素敵」「あこがれる」と思える美術作品しか、実際に私はまったく興味がないのだ。

Fが感動したという美術家について、私はぱっと見の画像と、それに添えられた文章でしか判断していないが、私が慰められたり励まされたりすることはない。むしろ作品を見たら私は、感応や希望ではなく、暗い抑圧を感じる。

現代思想や最近の批評理論をよく読んで理解していて、美術の歴史にも詳しい、頭のよい人たちのとくとくとしたおしゃべりに、今の私は耐えられない。

それは、おしゃべりしている人が、今、その人の口からぺらぺらと語られている危機を「生きて」(その苦痛の体験を身体全体で味わって、耐えて、闘って)いるわけではないからだ。

私の敬愛した毛利武彦先生も、若林奮先生も、中川幸夫先生も、実際に危機を生き抜いた人だ。

私は今、自分を生んで育ててくてた母の幸せ、不幸せと、母が信頼してくれていたことに対して自分がどうすべきだったのか、なにができたのか、不安や後悔で頭がいっぱいで死んでしまいそうになっていて、他人の自己満足のおしゃべりに加わる余裕がない。

Fは、私の才能をわかってくれるかもしれない人にもっと私の事を伝えたいという。

しかし、私の才能というものがもしあるとしたら、Fが誘ってくるようなイベントに、ものすごくリアルな苦痛を感じる、ということが私の才能なのではないかな、と思う。

Fは「才能」と言いながらも私のことを理解していないのか、私が「知的」なことに楽しみを覚えると勘違いしているのかな、と思う。

本当に「知的」なことが何なのか、それがどんなことなのか、本当に問われることも稀なのだ、と思う。

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2017年6月22日 (木)

母のこと

6月21日(水)

朝から強い雨。午前11時に遠藤さん(西新宿で私の幼少時から母と親しくしてくださっていたかた)宅へ。

道すがら雨でスカートがびしょ濡れになり、ふくらはぎから足が冷えてつりそうになった。

足は冷えているのに自律神経失調で掌や手の甲から汗がふきだし、動悸と肩凝りではあはあ言っている私に、遠藤さんはツボ押しをしてくれた。まったくどちらが高齢者かわからない。

遠藤さんのご両親は若くして亡くなったそうだ。お父さんは終戦の翌年に。遠藤さんは西新宿の家でご主人の両親を自分の親と思って介護したという。

ご主人のお姉さんの介護もお嫁にきてすぐから30年やった。亡くなった時にうちの母がお香典をもって遠藤さん宅に伺った時のことを、感慨深く覚えているそうだ。

遠藤さんは空襲で逃げ惑った経験、焼け野原の東京や、昭和20年代の新宿についても話してくれ、とてもありがたかった。

また、教師になりたかったのに、そのころの教員試験は健康重視で、背が低く痩せていることで合格は諦め、銀行に勤めたこと。その後、九州の炭鉱を経営する親戚に請われてお手伝いさんに行ったこと、お母さんが倒れて東京に戻り、後に務めた出版社でご主人と出会ったことなど。

一緒に昼食をとった(店はサラリーマン男性でいっぱいで、少しうるさくて落ち着かなかった)あと、遠藤さんは区のボランティア活動へと地下鉄で出かけて行った。そのあとには夕方に娘さんのいる病院へ行くそうだ。

3時すぎ、クリニックで星状神経ブロック注射を受ける。暴風雨になったせいか、2、3人しか待合室にいなかった。このクリニックがこんなにすいているところを見たのは初めてだ。

6月20日(火)

朝、遠藤さんから電話があり、明日伺う約束。

午前中に動物病院にちゃびの輸液や薬を買いに行く。

夏至近い真昼間の日射し。私の好きな折れ曲がった細い路地。

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雨を恋しがる紫陽花。
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看板娘のハナちゃんの写真を撮らせていただいた。触れさせてもらうと、非常に力をもらえる。

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私が小学校2年の時に飼っていたスピッツ系のミックスのチロに顔がよく似ていて、感傷的になり、涙・・・。死ぬほど愛していたチロは私が小学校6年の時に死んでしまった。

「母もちゃびも死んだら、私どうなっちゃうんだろう、と思って・・・」と看護師さんに言うと「まだ死んでないですよね!」と言われた。

確かに快作先生の動物病院では、毎日、毎時間、命を救うことと、動物と愛情関係を生きることに集中していて、悲しみにとらわれている暇はない。

私のように喪失の悲しみにばかりとらわれていたら生きていけない。だけれど最近はずっと心がセンシティヴになりすぎていて苦しい。

母のいるY病院のソーシャルワーカーさんから電話。K病院(療養型で費用は高いところ)も受け入れ可だと言われた。

3:30近くの婦人科(初診)へ。いろいろ脅かされて吐きそうになった。

4:37母の入院しているY病院へ。5時過ぎ、主治医のK・S先生と話す。K・S先生は経鼻栄養には否定的だったが、意外にもCV(中心静脈栄養)に関してはやってもいいんじゃないかと思う、と言われた。

ものすごく神経が疲れた一日だった。阿佐ヶ谷の魚のお店で日本酒を飲む。

6月19日(月)

母の入院しているY病院のソーシャルワーカーさんから、母の転院の受け入れ先として、T病院はOK、I病院は現在の末梢点滴ができなくなったらCVへの移行を承諾することが条件と言われる。

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私の甲状腺癌の定期健診に鎌ヶ谷の病院へ。12時前に家を出て、2時前に着く。

ここ一週間以上、私がずっと苦しんでいる頭皮神経痛、肩こり、動悸、不安、不眠について話したら、甲状腺ホルモン値が高すぎるのかもしれない、と言われた。

(私は甲状腺を摘出しているので、チラジンという甲状腺ホルモン剤を毎日飲んでいる。)

急遽、血液検査で3本採られた。1時間後、結果は、やはり血中の値が高めだったとのことで、薬の量を少し減らすことになった。甲状腺ホルモンの必要量は夏の暑さも関係していて、暑くて代謝が盛んな時は薬の必要量が低くなるとのこと。

精神安定剤は依存性があるので増やさないほうがいいとのこと。今、朝の動悸の時と入眠時にレキソタンを1mgずつ飲んでいる。

4時過ぎに会計が終わる。最近、夜眠れないせいか、帰りの電車の中でがく、がく、となるのが嫌なのに起きていられず何度も眠りに落ちてしまった。

6月18日(日)

イタリア在住の日本人女性のかた(Cさん)から、以前から私の絵と文章を見ていてくださるというメッセージが届いた。海外からのこのようなメッセージをいただくことはほとんどないので、信じられなくて、最初、なにかのいたずらかと思った。

すごく精神的に苦しく悲しい時なので、とても励まされた。

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JR駅近くの自転車集積所に行ったが、私の自転車はなかった。

駅前交番で話を聞くと、20年前の自転車の登録番号はもう警察に保存されてなく、見つかるのは絶望的だそうだ。

水曜に乗って、マンションの駐輪場に入れたことは覚えている。それ以外に、どこに乗り忘れたのか思い出せない。自分の記憶力に不安を覚えた。私が緊張して動揺しているからなのだろうか?

サドルをつけてくれたKサイクルのおじいさんに相談し、中古自転車3台に試乗させてもらった。やはりブリヂストンの緑の自転車を選んで買った。

6月17日(土)

私はよく何かを紛失する。そして、どうしようもなく探し物が不得意だ。

小さいときから、母に「私の欠点てなんだと思う?」と聞くと「整理整頓が不得意。失くしものが多い」と言われていたことを思い出していた。

朝から数時間、新しいPCの設定のためのマイクロソフトの認証番号のカードを捜していて、ごちゃごちゃした机周りに見つからず、疲れて絶望しかかっていた時、PCの入っていた段ボール箱の底から見つかった。

今まで何度も段ボール箱をひっくり返して振っていたのに見えなかった。だが、結局あった。

夕方5時、予約していたほぐし系マッサージに行こうと、マンションの自転車置き場に行くと、自転車がなかった。

14日水曜に遠藤さん宅まで乗って以来、乗った記憶がない。母のことで動揺していて、記憶が飛んでしまっているのだろうか。

日時の記憶があいまいだが、私が自転車で行く可能性のあるスーパーとクリニック、整骨院、動物病院の駐輪場を全部くまなく見て廻ったが、私の自転車はなかった。

(夕刻、青く沈んだ闇の中で街路のクチナシ(梔子)が白く浮き上がって匂っていた。その枝を手折り、流し台のところに生けたら、台所中が甘く湿った香りに満たされた。)

20年以上も乗っているブリヂストンの白い自転車だ。昔、中野にあった「めりけん吉田」というリサイクル屋で買った。

昔、アパートの駐輪場に置いていたのにサドルだけ盗まれてしまったことがあり、母が捨てられていた自転車の引き裂かれたサドルを引き抜いてつけてくれたのを思い出していた。

その後、近所のKサイクルという自転車修理のお店のおじさんが、引き裂かれたサドルを見て「うちにブリヂストンのサドルあるよ。」と1000円でつけてくれた。おじさんは「錆びてもブリヂストンはいい。最近の外国製のはアルミだから、ぶつかったらすぐにつぶれる。」と、その自転車をほめてくれていた。

ぎいぎい言うが私の身体に似合いの昔なじみの自転車だった。

6月16日(金)

朝、昨日母の転院先希望として伝えたM園から、「痰の吸引が多い」という理由で断られたという電話をソーシャルワーカーさんからいただいた。

引き続きK病院、E病院、I病院に面接希望と伝えたが、もう、こちらで選ぶ余裕はなく、どこでも入れてくれるところに行くしかないのかな、と思う。 

4、5日前から頭の耳の上のところの表皮が、ずきずき強く傷んでたまらない。ストレスからくる頭皮の神経痛らしい。

3日前くらいから不正出血がある。生理の時のような、肩がひどく凝って、どうしようもなく眠くて重くてだるい感じがある。もしも子宮癌や卵巣癌だとたいへんなので、とりあえず婦人科の予約をした。

鎌ヶ谷の病院から電話をいただいた。今日は(甲状腺癌の定期)診察日だったと教えてくださり、次の予約を月曜にとりますか、と言われた。母のことで頭がいっぱいなので自分の癌の診察に遠くまで行く気になれないのだが、一応、予約を入れていただいた。

新しく購入したPCのメール設定などをやっていたら、6月18日までに認証しないとメールも無効になる、という警告が来ていた。マイクロソフトに電話したら認証番号(が書いてある紙)自体が製品なので、それを失くしたならどうしようもない、と(けっこう冷たく、呆れたように)言われた。認証しなければPCの中には、もともとメールやWordがはいっていないのだと気づいた。

混乱している頭で認証番号が書いてあるカードを捜したが見つからず、ひどく疲れてしまった。

6月15日(木)

11時25分に家を出、11時39分の総武線に駆け乗り、11時55分くらいに母のいるY病院に着いきた。

母のベッドのところに、もうK島さん(母の入所している特養のケアマネさん)はいらしていた。

「お忙しいところをわざわざすみません。」と頭を下げてから、「お聞きしたいことがあるのですが、私の妹と会ったことはありますか?」と尋ねた。

「ありません。」という答えをきいて、ああ、やっぱり妹は母の面会に来たこともないのだな、と思い、その瞬間、自分でも予測しなかったことなのだが、急に激しい悲しみに襲われて、つーっと涙が垂れてきてしまった。

「すみません。まだ泣いたことはなかったんですけど、最近ずっと緊張していたので。」と言いながら涙が溢れて止まらなかった。

「母が、もう最期だ、ということを実の妹にはまだ知らせてないんです。妹は母の介護をやってくれなかったので。妹に会わなければならないと思うと、胸がざわざわして怖いんです。」とK島さんに言った。

12時くらいと言われていたが、担当の先生が来るのが遅かったので、K島さんについ母や父、妹のことを話してしまった。

・・

母は、これまで何度も、もうだめかと思うような時があった。私が通いで自宅介護していた時に、トイレで転倒して脚の付け根を骨折した。H外科病院での手術直後、40度以上の高熱が出て、もう死んでしまうのかと思った。

その時、バタバタとあわただしく担当医と二人の看護師さんが母のところにかけつけて、私は「廊下にいてください」と言われ、ああ、母の最期だと思った。

私の連絡を受けて、妹が病院に来た。久しぶりに会う妹に私が勢い込んで「あ、今ね、すごくたいへんだったのよ!40度の熱が出てね。本当に死ぬかと思った。」と告げると、妹は心配するどころか「なに?ああ!うるさいなあ、もう!」と不機嫌そうに言って帰ってしまったことが忘れられない。そのことがずっと、私のなかで妹を許せない傷として残った。

昔は母と私に甘えきっていた妹だ。妹は過去に、自分が困った時は私にさんざん長電話をして甘えたり、私の家に来て、私に泣きついたりしていた。私は長年、妹のわがままや愚痴を許容してきた。

母がパーキンソンの身体的不自由と認知症に少しずつ侵されていったここ8年くらいと時を同じくして、妹は精神的におかしくなっていた。妹は、母がどんなに必死で働いて私と妹を養ってくれたか、どんなに愛情深かったかも忘れてしまっていた。

ギャンブル依存で母や祖母の金を盗み続け、多額の借金を祖母と母と私に負わせて、私を癌にし、さんざん苦しめ続けたた父を、妹は「子供のときに自分と遊んでくれた」から大好きだと言い、その借金のために必死で働かされた母と私のことを、「子供のときに自分と遊んでくれなかった」から憎んでいると言った。

母を(私が通いで)介護していた時、母に食べさせるために野菜と豆腐の煮物などをつくって実家に行くと、母が寒い部屋に寝かされたままほったらかしにされて震えていて、隣の父の部屋から、(子供連れの)妹の酔っ払った甲高いはしゃぎ声がうるさく響いていたのが忘れられない。

父と妹は、外面はよく、身内に対してだけ際限なく甘え、卑劣なマネをするところがそっくりだ。

・・

担当医が来てK島さんと一緒に病状説明を聞いた。小さな肺の炎症はあるが、肺炎というほどではない。尿路感染だと思われる熱も下がってきた。嚥下反応はあるが呑み込めていないので、口からの栄養は危険。療養型の病院への転院先をさがすこと。

そのあと、デイルームでK島さんとお話しした。転院先が決まったら施設の車で、母の荷物ごと運んでくださるとのこと。ありがたい。

母がK園に入る2か月前に、府中の特養から入所のお声がかかって「現在700人待ちで、これを断ったら最後かもしれないですよ。」と言われ、私はすごく迷って苦しんだが、ケアマネのMさんや新宿のA園のTさんに相談して、K園からお声がかかるまでもう少し待ってみる選択をしたことなどをK島さんに話した。

「そんなことがあったんですね。」とK島さんは聞いてくださった。

最後に母がK園ですごせたこと、K島さんをはじめ、ほかのスタッフの皆さんにお世話になれたことは幸せだ。今まで、たいへんなこともあったが、どこかに必ず親切にしてくれる人と出会えていた。

母がずっと何十年も必死に働いて、祖母が家事をやって一家を支えてくれたこと、祖母と母は信頼しあい支えあっていて、祖母を捨てることはできないと母が言って、父と離婚しなかったことなども話した。

K島さんに(K島さんはお忙しいのにたいへん申し訳なかったのだが、)母のこと、父のこと、私の口から、ついことばが漏れ出てしまい、聞いていただいたら、それまでのやり場のない不安や暗い気持ちが、だんだん落ち着いてくるのがわかった。

今、この状況が私は悲しくてたまらないのだが、過去のことを考えると、理不尽なことに対して私なりには精一杯やってきたような気もして、これ以上どうしようもなかったのだ、過去には確かに母の幸せな瞬間も、充実した瞬間もあったのだ、という気持ちになり、少しだけ落ち着けた。

6月14日(水)

朝、遠藤さんから電話があった。「お母さん、どう?」と言ってくださった。私もずっと(西新宿での母の昔馴染みの)遠藤さんを恋しく思っていた。

遠藤さんも入院中の娘さんのお見舞いに行くので、帰宅してから夕方、私が遠藤さん宅に伺う約束をした。

・・

Y病院の母に会いに行くと、看護師さんから2回のソーシャルワーカー室に行くように言われた。その瞬間、なにを言われるのかわかった。

療養型の病院を3つ提示された。

・・

4時過ぎに帰宅し、5時に自転車で遠藤さん宅に行った。

遠藤さん宅では誰も飲む人がいないというビールを冷蔵庫から出してくださった。

「本当にあなたのお母さんはよく働いたわよねえ。」と言ってくれた。

施設に持っていっていて食事介助しながらよく母に見せていたアルバムを遠藤さんにも見ていただいた。生まれたばかりの私と祖父、祖母、母と一緒に写っている黒塀の場所は、料亭藤本の系列のお店だと教えてくれた。

妹には母を見送ったあとはもう会わないほうがいいね、と言われた。こう言ってもらえるのはほっとする。「家族なんだから仲良くしなきゃ」と他人に言われるほど苦しいことはない。

6月12日(月)

家を出た時は曇り空だった。紫陽花は雨を恋しがって少ししなだれていた。

12時45分に母の病棟着。

看護師さんに、「もしできるなら今日から栄養(食事)って先生から伺ってたんですけど。どうでしょうか。」と尋ねると、今日から車椅子に乗せていただいたそうで、昼は食事を試みるそうだ。

ベッドに寝ている母を車椅子に乗せていただき、ナースステーションの中のテーブルでキャロットゼリーなるものを看護師さんからスプーンで口に入れていただいた。

まずはスプーンを口の中に入れて、頬の内側をスプーンの裏側で刺激。それからひと口。

目は薄く開いているようだが傾眠で、呑み込みが悪い。なんとか2口、3口、飲み込んだが、あんまり反応がない。

「とりあえず食事は止めて、お散歩されますか?」と言われて、母の車椅子を押して、談話室へ。

窓から新宿の高層ビルを見せる。「わかる?新宿のビルだよ。」と言うと「うん。」と返事。その時、目を射るような6月の光が街に射した。陽に輝く空とビルを見せて、話しかけていた。

母が私を生んだ頃から、ずっと見慣れた新宿の高層ビル街だ。自宅から新宿駅に出る時は、いつも中央公園の脇道と、住友ビル、三井ビルの横を通り、地下道を抜けて歩いた。

それから西病棟の端っこの窓まで連れて行って、「見える?」と6月の雲を見せる。やはり母は「うん。」と言う。

数分経ってから、今度は東病棟のどん詰まりまで、ゆっくり車椅子を押して、「わかる?電車が通ってるの。」と。

「うん。」と言ってくれることが幸せ。母の命がまだあることが幸せ。もう、それしかない。

叔父が亡くなっていたことのショックが、私の身体に沁みて、私の神経はそうとうおかしくなりつつある。

私は、元気すぎるくらい口くるさくていろいろ心配してくれる叔父を(離れているからこそ楽だと思いながらも)すごく信頼していて、、今まで意識できなかったけれど、精神的に、叔父の判断力を、すごく頼りにしていたのだな、と今更ながら、涙とともに自覚する。

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2017年6月11日 (日)

母の入院と叔父、叔母の死

6月10日

6日水曜の朝に母が施設から大きな病院に入院した。このところ熱が出ることが多かったが、いよいよ唾の嚥下が悪く、施設では夜間看護できる体制がなく、危険だからだ。

それから母の死のことを考えて、不安と緊張で首と肩と背中が固まって、ずっと胃と心臓が痛い。

ずっと母を心配してくれて、支えてくれた東京にいる叔父(母の弟)にだけはお知らせしようと、昨日の夜、電話をした。

別人のようにすごく疲れてかすれた声で、おばが出た。

「おじさん、もうお休みになっちゃいました?」と聞いたら、「あのねえ、あなたに言わなきゃならないと思ってたんだけど、・・・お父さんね、去年の4月に亡くなったのよ。」と言われて、まったく意味が理解できなかった。

「ええっ!?・・・なんで!?」と、ただ反射的に声が出た。

去年の2月の終わりに膵臓がんが見つかり、4月1日に亡くなったという。「痛くはなかったんだけど、あっというまで・・・」とおばは泣いていた。

おばには私の家の電話番号がわからなかったらしい。「はがきで知らせるべきだったんだけど・・・」と、それもできないほど、おばは心労で疲れていたらしかった。

母と叔父はずっと仲がよくて、叔父は私の父に苦しめられていた母を、ずっと心配して、よくしてくれていた。病的に金遣いが荒い(ギャンブル依存)の父と、堅実な叔父は正反対の性格だった。

母と似て神経が細く、男には珍しいくらいの心配症で、いろんなことが気になる性格の叔父だった。とにかく生真面目で一生懸命な人だった。

私によく「くれぐれも姉の介護を頼んだよ。知佐子なら安心だ。」と言ってくれていた叔父だ。

父の直葬の時も、叔父は母を苦しめた父を許せないから、と火葬場にには来ず、父への香典ではなく母の介護金として私にお金を送ってくれた。

私は叔父が元気でいてくれること、叔父だけはなにがあっても母のことを思っていてくれて、昔の母のこともよく覚えていてくれることがありがたかった。それがずっと母を介護する私の心の支えになっていた。

叔父は、母と私にとって、長年にわたる父からの虐待、借金地獄との壮絶な闘いをわかっていてくれている、この世でただ一人の、信頼できる肉親だったのだ。

たったひとりの頼れる叔父が、もうこの世にいないことが信じがたかった。

ものすごい喪失感と不安で目の前が真っ暗になり、吐き気がした。

おばも「私がもっと早くに気づいてあげていたら。もっとよくしてあげていたら、と思うと苦しくて・・・。」と泣いていた。叔父とおばは、お互いに神経が細くて余計なことを考えてしまうタイプで、よくぶつかって不機嫌になったりしていたのだという。もっと一緒に楽しくすごせばよかった、とおばは悔いていた。

私は必死で動揺を抑え、一生懸命おばを慰めた。

小学生の頃の叔父宅の思い出、自宅付近に咲いていた花、叔父やおばがその頃好きで聴いていたレコードのことなどを話すと、おばは「知佐子ちゃんは本当に記憶力がいいわね。なぐさめてくれてありがとう。」と言っていた。

電話を切ったあと、ものすごいさびしさと苦しさで胸のざわざわが酷かった。胸骨のあたりと胃が激しく痛んだ。

あんなに元気で頭がしっかりしていて、心配性で口うるさかった叔父が母より先に、あっけなく死んでいたことがすごくショックだった。自分がとり乱しておかしくなりそうなのを、ぐっとこらえていた。

そして今日、昼におばから電話があった。

田舎の叔母(母の妹で、叔父の姉)が、今日、亡くなったという。しかも叔父と同じ膵臓がんだったという。

無常ということ。

おばも、叔母から叔父の田舎時代の思い出など、まだ聞けると思っていたのに、それが完全になくなったことがすごい喪失感でたまらないと言っていた。

おばも、今さらながら、叔父がなにを考えていたのか、なにに必死になっていたのか、もっと聞いておけばよかった、話しておけばよかったと悔やんでいるのだ。

誰かがどんなに苦しんで精いっぱい生きてきたのか、それを知っていてくれる人も、また死んでしまう。

もう亡くなってしまった人に対して、もっとああすればよかったのに、と後悔で自分を責めることの際限ない苦しみに陥ることが、私はすごく恐ろしかった。そこにはまり込まないように、どうにか必死で耐えた。

・・・

夕方4時、予定通り、以前に母のケアマネさんだったMさんと新宿で待ち合わせ。

久しぶりに会うMさんはたいへん忙しいお仕事のせいか、少しやせたように見えた。父が死ぬ前に新宿の病院でお会いして以来だ。

Mさんも年月の感覚がないと言っていたが、私も父の病院でMさんと会った時の6月の光と、植物は覚えていても、それが何年前のことだか思い出せない(たぶん3年前だが、もっと昔のような気もする)。

目的の飲み屋に行く道すがら、母が入院したこと、叔父、叔母の死について話した。

Mさんと話すことで、私はしばし落ち着いていることができた。とてもありがたかった。

そういう苦しみがあるということを、ただ知っていてくれる人がいる、信じられる人が知っていてくれる、と思うことは、耐えていくための大きな支えになるものだ。

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2017年6月 4日 (日)

苦しい夢 / 次の本の構成

最近、朝、動悸のせいで連続して苦しい夢を見たが、夕方には正常に戻る。集中力はまあまあ。次の本の構成(特に絵の順番)を完璧にやり遂げたいことだけがプレッシャーだ。折り(16ページ)に順番を合せるのがひどく難しい。

他人にはほとんど理解されないようなところで張りつめて、綱渡りで生きているが、優しい人にも会えている。

6月3日(土)

やはり朝、悪夢を見た。

海で大きな珍しい貝殻をたくさん拾っている(これもよく見る夢)。巻貝や二枚貝の形状や色鮮やかな柄が、細部まですごく鮮明に見えて、私は夢中で水際で採集している。

にわかに空がほとんど漆黒と言っていいほど真っ暗になって、大雨が来る。慌てて屋根のあるところに走り、貝を砂浜において来てしまって、残念で切ない。

そのあと、怒って怒鳴りながら私を追いかけてくる女性から逃げて電車に乗ろうとするが、操車場のような工事現場に迷い込み、巨大なクレーンや鉄材や、掘り起こされて何もない不気味な泥の中を必死で逃げる。危険な機材の間を縫って全速力で走るのがすごく怖くて苦しい。

急に2本の電車が前と後ろから同時に轟音をたてて迫ってくる。その電車に轢かれないように、電車が交差する瞬間に、間一髪のように、なんとか必死で身をよけて、走って逃げる。

先のほうに江ノ電のような小さな駅が見え、電車に飛び乗る。追ってきた人は電車に乗れていなかったらいいのにと願うが、はたして彼女は乗ってきている。

中は寝台車で,、通路の両側に扉があり上下に寝台がある(アガサ・クリスティの映像の記憶)。なんとか空いている寝台を見つけて隠れ、ドアを閉めて息をひそめているのに、壁とドアの隙間が経年劣化して少しあいていたために、(なぜか天井に近い高い位置から覗かれて)見つかってしまう。

また私は必死で走り出してトイレの窓から外へ逃げるが、まだ追ってくる。どこまで走っても追ってくる。あまりに逃走が長い。苦しすぎて息が切れて心臓がばくばくする。

さらにその女性が二人の仲間のような人と私を追いつめてくる。なんでもその女性は詐欺で大金を手にして、分け前をその二人の女性にあげたようだ。二人の女性は完全な手下になっている。

その詐欺の責任を負って謝れ、というようなことを言われ、私は「謝る気はない。私とは関係ない。」とその女性に言うのだが、これからいったいどうなってしまうのか怖くてたまらない。という夢。

・・・

5時に母に会いに行く。

そのあと、外は北風が強く、寒いくらいだった。

東中野の高台から早稲田通りのほうまで歩き、落合から中野へ。夕陽が灰色の雲を照らして、劇的な色の対比をつくっていた。

東中野から中野は、奇妙な(やる気がないような)リサイクル屋さんが多い。

紫陽花の色が濃くなってきていた。ホタルブクロ(カンパニューラ・プンクタータ)の釣鐘の中をのぞいて斑点を確認した。タチアオイのガラス質の紅、赤紫。くすんだピンクの小さな蔓薔薇。

早稲田通りで古い蔵がお店になっている不思議な酒屋さんを発見。ベルギーのハチミツ入りビールやストロベリーチョコレートのビールなど、珍しいお酒を売っていた。タモリ倶楽部でも訪問されたらしく、記事が貼ってあった。

6月2日(金)

やはり朝方、苦しい夢を見た。

懐かしい幼なじみのユキちゃんの家に、何人かの仲間(?)と訪問に来ているらしい。会食のための買い物で、チーズとサラダの材料などを吟味しながら買いそろえている。いつのまにかここは、ある教授がつくった、ブリュージュにある日本人村、と店の人に言われる(ブリュージュには行ったことがないのでなぜ出てくるのかわからない)。

そのあと、みんなが先に帰ってしまい、私は何十年も行っていないユキちゃんの家に戻ることができない。まったく知らない土地で道に迷い、どうしたらいいのかわからなくてすごく不安になる。

いろんな人に道をたずね、なんとか近くまで行くのだが、どうしてもその家にたどり着くことができない。細い路地の奥の、白い玄関の家だとわかっていても、まるで化野のようにそこにたどり着けない。という夢。

・・・

以前、母のケアマネをしてくださっていてたいへんお世話になったMさんからデートのお誘い。お茶に誘っていただいたが、私はお酒を希望した。

・・・

整骨院に行ったら、またチーフが担当してくれた。

「私の担当、私が言ったせいで、ずっとOさんになったの?なんか気まずくて胸がざわざわして、来づらいんだけど・・・」と言ったら、最初「偶然です。」と彼は言ったが、

「嘘。だって私が来たときにカーテンから出てきたでしょ。私の時間に合わせてたんでしょ。私、そういうのすぐに気づくのよ。」と言ったら、「体調を崩したのが心配だったんで、この一週間は僕がやるって言ったんです。」と言われた。

「上からそう言われたの?それとも皆がそうしてほしいって言ったの?」と言ったら

「上からも皆からもなにも言われてません。僕がそうするって言ったんです。」と言われたので、少しほっとした。

・・・

新しい本の図版の順番のページ合わせを、深夜2時過ぎまで考えていた。

なにがたいへんかというと、時系列で並ぶ絵の一連の塊と、本の16ページ(あるいは8ページ)単位の「折り」を合わせるのが難しいのだ。

カラーページをどこにはさむかを、折りに合わせ、しかも時系列の流れに合わせることがほぼ不可能なのだ。

頭と感覚を最大限使おうとして疲れる。

6月1日(木)

朝方、苦しい悪夢を見た。朝だけは動悸が強くなるからだろう。

美大生たちの前でかばんを落として、中の絵の具や筆など、もろもろの道具や描きかけの絵を道いっぱいにばらまいてしまう。そういうものひとつひとつを他人に見られるのが酷く恥ずかしくて屈辱的な感じがする。なかなか収集がつかなくて、ひとりでいつまでもあたふたと拾っている。

そのあと、大きな建物の中に閉じ込められて、外に出ようと扉を開けると、そこは横幅1.5m、奥行き60cmくらい(灯りがなく)暗く狭く四角い場所で、すぐ目の前にまた扉がある酷く逼塞した空間。

扉はノブつきの金属のドアだったり、観音開きだったり、横開きだったり、それぞれ形状は違うが、扉を開けてもそこにはまた扉、という状態は繰り返される。やっと扉を開けて出た場所は、また扉を開けて次の空間に出られるほどのスペースしかない。

私は何度でも扉を開ける。扉が重くて、肩が痛くて、狭くて暗くて何もない空間の圧迫感と、永遠に続く恐怖に、もう耐えられないと思うのだが、必死で扉を開けて前に進み続けるしかない。という夢。

この手の、どんなに努力しても建物から外に出られない夢は、精神的に苦しい時によく見る。

・・・

肩と背中の緊張が酷かったので、午後2時すぎにほぐし系のマッサージ屋さんに行った。

店長のOさんにいつもお願いしているのだが、Oさんは6月は土日しか来られないそうで、Oさんにメールで土日のどちらかの3時か4時くらいからもしできれば予約を、とお願いした。

2時過ぎに担当していただいたのはMさん(女性)。彼女は田舎の自然の中で、浪曲師のお父さんと三味線師のお母さんに自由に育てられたので、緊張やストレスがないそうだ。Mさんはすごくおっとりしている。うらやましい限り。

マッサージが終わってから、Oさんの予約を確認していただいたら。土日とももう3時半の分がうまっていて、Mさんに「土日は混むんですよ~」と言われた。

それでは4時半から、と予約して帰宅したが、名前が記入してなかったけど、土日の3時半から埋まってたのは、もしかしたら私の?と思い、Oさんにメールしたらやはり私のために押さえていてくださったのだった。

Oさん、Mさん、私の身体をたすけてくれている人たちに感謝。

Mさんの息子さんはふたりとも音楽をやっている。帰宅してyoutubeを見たら、けっこう知られたバンドのようだ。

・・・

今日から6月だ。もう春ではなく、初夏だ。

カルメン・マキ&OZの「六月の詩」を聴きつつ、『スプリット―存在をめぐるまなざし 歌手と武術化と精神科医の出会い)を読む。カルメン・マキと甲野善紀と名越康文の、今から20年位前の鼎談の本だ。

1974年くらいのOZの時のカルメン・マキが美しすぎて、かっこよすぎて、彼女の生い立ちや、どんなことを話すのか知りたかったのでこの本を図書館で借りた。

内容は難しくなくて一気に読める。ちょっと「存在」とか「リアリティ」とかの言葉の解釈がゆるすぎて、「え?こんなおしゃべりで本になるの?」と思った。今よりも出版界がゆるかった時代なのかもしれない。私にとってはマキだけのインタビューのほうがよかった。

・・・

夕方5時半。白い綿シャツとセルリアンブルーのベロアのパンツに、素足にサンダルを引っかけて外を歩いたら、風が涼やかでとても気持ちがよかった。青い空気の中を歩いていた。

スーパーに血圧計があったので計ってみたら上113、下63、脈拍78だった。私は落ち着いているな、だいじょうぶだな、と思った。

5月31日(水)

やはり朝、苦しい夢を見た。

昔、同僚だったYさんに明日から1か月間、海外旅行に行くと言われ、「仕事、たったひとりでいったいどうしたらいいの?」とすごく不安になるが、そんなことはひとことも言えない夢。

Yさんは旅行の準備で楽しそうにはしゃいでいる。なぜか大きなぬいぐるみまで持って行くのだと言う。私はそれを見ながら心細さとさびしさでいっぱいになっていた。という夢。

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手続きをしてあったのに、手違いで荷物が別のところに届いた件で、きのう電話した城南信用金庫さんの副支店長Tさんから、昼1時に電話をいただいた。

丁重過ぎて、すみません、とこちらが謝りたくなるような知的で親切な大人の対応。3日前に私が電話した時に出た若い職員の対応が間違っていた、と簡潔に2つの要点を言明して謝罪された。

「原発反対してらっしゃるので、応援させていただいてます。これからもがんばってください。」と言うと「わたくしTと申します。いらした時はどうぞお声をかけて顔を見てやってください。」と言われた。

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頸と肩の緊張が酷いのでSクリニックで神経ブロック注射を受ける。頸の前の筋肉ががちがちなので、針が刺さる時にびりびりっと痺れて痛い。

「ちょっと緊張する事件があって、・・・過緊張は酷いんですけど、・・・私の本、また、ちょこっとだけ売れたんですよ。」と院長先生に言ったら、

「すごいじゃん!すごいじゃん!その、本が売れることと酷く緊張することは、まったく同じことなのよ!ここまで緊張して根詰める性格だからこそできるのよ!。楽にいい大学はいって、楽に仕事してうまくやろうなんて考えてるやつはろくなことになんないんだから。」と言われた。

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