2017年11月12日 (日)

がんの定期健診 / E・Hさんのお通夜

11月10日

がんの定期健診に鎌ヶ谷の病院へ。

病院まで片道2時間かかる。

6月に母が経口摂取できなくなってからは、もしもの時にすぐに駆けつけられないことや、介護の必要なちゃびから少しの時間も離れていたくないという思いから、わざわざ遠い病院に出かける気にまったくなれず、自分のがん検診の予約の日はほっぽっていた。

ちゃびが亡くなってからあらためて予約をとった。

10月1日に母が亡くなった頃から風邪をこじらせて、咳はまったく出ないが、ずっとだらだらと熱があり、今も頸のリンパが痛くてたまらない。

2日くらい前からまた熱が上がってきて、酷く頸が痛く、歩くのも苦しいので、きょう外に出るべきか迷ったが、リンパの腫れが甲状腺癌と関係ないかを主治医に診てもらったほうがいいので、ふらふらしながら出かけた。

外に出ると手足が冷えて凍える。頸と頭と顔だけが熱い。過緊張状態で自律神経がすっかり乱れてしまったせいで、もともとの冷え性がさらに酷くなっている。

2時に病院に着く。

主治医の浅井先生に、母の死とちゃびの死で、ものすごく体調が悪いことを伝える。動悸で眠れないことも。

口腔の視診と頸の触診。頸のリンパに触れられると、ぎゃっと言うほど痛い。「これは熱がありますね。中を見ないと・・」と言われ、鼻咽腔ファイバー検査。「落ち着いて鼻で息をして。」と言われ鼻に長い管を突っ込まれて、顔も手も汗だくになる。

「鼻の奥が炎症を起こして膿が出ている。こんなになってたら、リンパが腫れて痛いのは当たり前ですね。」と言われた。

癌のリンパの腫れとは関係ないということで、抗生物質(サワシリン)を出された。「1週間飲み続けても治らなかったら、近くの病院で違う種類の抗生物質を出してもらってください。」とのこと。

「ショックなことがあったから体調崩しちゃったんですね、温かくして休んでください。」と。

浅井先生は余計なお話はしない先生なので診療時間はとても短いのだが、静かな話し方や表情は、私を執刀してくださった時から少しも変わらない。私にとってこの先生に診ていただかないと落ち着かない。そんな信頼感がある。

私が甲状腺がんになった時、国立がんセンターに行くべきだ、と言ってくれたのは森島章人さんだ。そこで浅井先生に出会い、診ていただいたのは偶然だ。

浅井先生が千葉県姉ケ崎の病院に移られた時も、私は片道2時間かけて通った。

数年後、浅井先生は国立がんセンターに戻られ、また数年後、千葉県の鎌ヶ谷の病院に移られ、・・・

考えてみるとこんなに長い年月、浅井先生を追いかけてずっと診ていただいているのは私くらいかもしれない、と思う。

・・・

いつものことだが会計と薬に1時間以上かかり、12時に家を出て帰宅できたのは、夕方の5時半。あたりはすっかり濃い竜胆色の夕闇に沈んでいた。

急いで着替えて堀之内斎場へ。ねじれて苔むした桜の古木の葉は檜扇色になって半分散っていた。

E藤さんの娘さんのお通夜。

E藤さんとは、十二社(じゅうにそう、現在の西新宿)に暮らしていた昔から、母がとても仲良くしていただいていた。偶然、高円寺に越して来られたので、私もかわいがっていただいている。

E藤さんの娘さんとは、E藤さんの家に林檎を持ってうかがった時に、ちらりとしかお会いしていないのだが、私は、E藤さんから、ずっと闘病されているというお話を聞いていた。

私が、今年の6月からずっと、母が今しも亡くなってしまうのではないかという不安と緊張に苦しみ続けていたのと時を同じくして、E藤さんも、毎日、娘さんの病院に通っていた。

E藤さんの娘さんは、4年半の入退院をくり返し、今年の5月までと余命宣告されたとお聞きしていた。その余命から半年、E藤さんにとっても、際限のない不安と緊張に苛まれた日々だっただろう。

亡くなられた娘さんと喪主のご主人の勤め先の人たちが多く来られていると思い、知人のいない私はテーブルの端っこに一人でポツンと座っていたのだが、隣に来られた高齢のご婦人お二人とお話しをしてみたら、同じ十二社のかただった。しかもご婦人のお一人は同級生のお母さんだった。

よくよく見ると、離れたテーブルに中学時代の同級生もいた。歳をとってすっかり様子が変わっていて気づかなかったが、小学校の同級生も。

E籐さんは90歳近い高齢で人望があるかたで、お付き合いしている人がとても多いので、昔の十二社の人たちがたくさん来ていたのだ。

娘さんを若くして病気で亡くされたE藤さんに対してかける言葉もなく、ただ物言えぬ苦しさだけが喉もとにこみあげてくる。それでもE藤さんは、たくさんの昔馴染みが集まってくれたことを嬉しく思っているようだった。

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20年前、ちゃびと最初に出会った場所

11月4日

ちゃびの火葬。

仏教徒でもなく、すべての宗教を特に信じない私は、移動火葬車を選んだ。

遺体を渡す時、ちゃびの亡骸と別れるのがあまりに辛すぎて、号泣してしまった。

未練が果てることなく、ちゃびの顔にちゅっちゅっと吸うように口づけると、けだもののちゃびの匂いがして、私の胸いっぱいに満ちて溢れ、身体に衝撃が走った。

匂いからは死んでいることがわからなかった。このまま、ずっとちゃびの遺体と暮らしていけたらどんなにいいだろうと思った。

「お骨を一緒に拾いますか?それともこちらでやりましょうか?」と聞かれて、吐きそうになって、「考えられない。」と答えてその場(近くの駐車場)にしゃがみこんで泣いた。

40分くらいして、火葬が終わったと電話がはいった時は、かすかに落ち着いていた。と言うより、現実がよくわからなくなっていたのかもしれない。

ちゃびの骨を拾って、骨壺に入れたが、私は泣いていなかった。もちろん悲しくないわけではなく、身体や心の痛みが消えてなくなったわけでもないのだが、一瞬、呆けたような、真っ白な、時間とも空間とも言えないどこかにはまりこんでしまっていた。

ちゃびのお骨をいったん自宅に置いてから、20年前にちゃびと出会った善福寺川のほとりまで自転車を引いて行った。最初の時にちゃびを自転車で連れて来たから、やはりそこへは自転車で行きたかったのだ。

ちゃびが捨てられていた善福寺川沿いの瓢箪池近くの土手の角に着いた時、激しい悲しみで泣き崩れてしまった。

あの時から20年が過ぎたこと、そのあいだにちゃびが人間で言えば100歳近くになっていたことが信じられなかった。その自分のふがいなさも、すべてが酷く悲しかった。

あの時、私は、先に保護した茶トラの赤ちゃん猫の「ちび」が、懸命の治療の甲斐もなく、たった17日で亡くなってしまったばかりで、あまりのショックに物凄くやつれていた。すっかり青ざめて、眼の下に真っ黒な隈をつくって、私はガリガリに痩せた幽霊のようになっていたと思う。

「ちび」は、たった17日で、掌にのるような赤ちゃんから、少し大きく成長していた。

死ぬ前に、私に撫でられて、「ちび」が安心したようにゴロゴロ言っていたのを鮮明に覚えている。どうしたらよかったのだろう、どうしたら救えたのだろう、と私は際限なく苦しんだ。

呑気に、無責任に、野良猫に食べ物をあげたりして満足しているのは、人間の無知とエゴでしかなく、ちっちゃな赤ちゃん猫が、野良猫のまま予防注射もされないでいれば、あっという間にパルボ(伝染性腸炎)などの病気で死んでしまう、という現実を、いやというほど思い知らされたのだ。

その数日後に、私はちゃびに出会った。

私は「ちび」を失った悲しさと苦しさに胸が潰れてしまいそうで、どうしようもなくて、無性に野良猫に会いたくて、自転車で善福寺川沿いに行った。そこで野良猫の世話をしている女性と、ふと言葉を交わしたのだ。

人に怯えていて捕獲するのがたいへんだった赤ちゃん猫を、やっと捕獲して、これから大切に育てようとしたのに、パルボで、入院させただけで死なせてしまった、と言ったら、その女性が教えてくれた。

「ちょうど今、捨てられたばかりの赤ちゃんがいるのよ。」と。

善福寺川沿いの土手の角の隅っこに、誰かが引っ越しの時に粗大ごみを不法投棄し、一緒に段ボールの中に猫の親子を入れて、その上に重しのようにテレビを乗せて捨てて行ったという。

猫たちの鳴き声を聞いて、その近くの植え込みに住んでいたホームレスの人が、段ボールの中から猫を助け出して植え込みの中に移動してくれた、と。

そして、その植え込みに連れて行ってもらって、私はちゃびと出会ったのだ。

お母さんとちゃび(1997年7月21日)。お母さんはいろいろミックスされた柄の子だった。

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ちゃびにはあと2匹の白い男の子と女の子の兄妹がいた。当時、お世話をしていた女性が2、3人いて、そのうちの一人と私とで引き取った。私はちゃびと白い男の子(コナと名づけた)をもらった。

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人を怖がらなくて、白い女の子とおっとりとポーズをとっていたちゃび。

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その植え込みのあったところは現在、駐車場の一部になっている。だからホームレスの人も住めない。

すべてが淋しくて悲しい。

11月5日

ちゃびがいないことが苦しすぎて受け入れられない。

2日で2kg痩せた(現在162cm、44kg)。

泣きすぎて眼の上と下の骨部分と眼窩がずきずきしてすごく痛い。

ドクン、ドクンという胸の真ん中を殴られるような動悸がして眠れない。呼吸が苦しくて「はあ、はあ、」と声に出てしまう。

夜中、幾度も「ちゃび!」と呼びたくなり、だけど呼ぶことでものすごく苦しい現実に塗りこめられてもっと苦しくなるので、声に出して呼びたくない。心の中だけで呼んでいる。

なににも慰められない。なにも欲しくない。

食べたくない。お酒だけは飲める。お酒を飲むと激しい動悸が収まって少しだけ楽になる。

・・

ちゃびのことを大切にしてくれた友人と西荻を歩いた。

ちゃびと出会う前に私は、わずかなあいだだが、西荻に住んでいて、その頃はアンティークに夢中だったので、当時のアンティーク屋が今もあるか気にかけながら歩いた。

アンティーク屋巡りをしても心が浮き立つとはまったく思えなかった。ただ、自宅にいて、ちゃびがいないという耐えがたい痛みと向き合うことから、ほんの一瞬でも逃避したかっただけだ。

当たり前だが、20年以上も時がたてば、街並みはずいぶん変わっている。真新しいものには興味はない。当時、よく目の保養に行っていたアンティーク屋さんは、ほとんど(fujiiya、ベビヰドヲル、ムーンフェイズ、アーバンアンティークスなどなど)なくなっていた。

信愛堂書店さんは小さくなって、新刊の書籍が減り、品ぞろえも変わっていた。

自分が住んでいた住所も正確には思い出せず、近辺を歩いてみたが、どうやらその建物はなくなっているようだった。

「地蔵坂下」という忘れていたバス停の名前。22年くらい前に、このバス停の名を楽しい気分で見たことははっきり覚えている。

日が暮れて風が冷たくなった時、急にちゃびがいないという現実に襲われて、通りを歩きながら激しく嗚咽してしまった。

老舗の酒屋さんで飲みなれている銘柄の日本酒の小瓶を買い、裏路地で一口飲んだ。激しい動悸を抑えるには今のところ、これしかないのだ。

私が住んでいた頃もあったはずの古い酒屋さん。当時はお酒なんて興味もなかったので酒屋があることにも気づかなかった。

当時と変わらず、(意外にも)なくなっていなかった駅前の「天下寿司」という回転寿司で、かつてお気に入りだったカリフォルニア巻(エビとアボカド)を食べた。

なにをしても、どうにもならない悲しみから逃げられなかった。

11月6日

E藤さんから電話。ずっと闘病中だった娘さんが3日に亡くなったと。

言葉が出なかったが、お通夜に伺うと伝える。

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2017年11月 8日 (水)

ちゃびが亡くなりました

11月2日

11月2日(木曜日)、午後12時30分、ちゃびが亡くなりました。

20歳と4か月(推定)でした。

1997年の7月、善福寺川のほとりに捨てられていた生まれたばかりの赤ちゃんちゃびと出会い、一目見て、私は魂全てを奪われてしまい、この子と暮らしたい激しい欲求を抑えることができませんでした。

(その直前に、近所で鳴いていた、ちゃびに似た茶トラの男の子の赤ちゃんをやっと保護したのに、その子がパルボにかかっていて、17日間の入院の甲斐なく看とることになったという、思い出すのも胸が潰れる経験がありました。)

死んでしまった「ちび」と同じ名前をつけて、この子を誰よりも大切にかわいがろうと、自分の部屋に連れて帰って来たのは7月24日でした。

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信じられないような美少女だったちゃび。
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それからちゃびは私の一番の宝もので、ちゃびにまさるものは何ひとつなくて、20年以上一緒に、ものすごく密に生きてきました。

いつでも、ちゃびがいつか先に死んでしまうことを思うと、とてもそんなことは1秒だって考え続けられなくて、頭がおかしくなりそうだった。

ちゃびがいなくなることがあまりにも苦しくて、頭がおかしくなって、今はまだおかしいまま、混乱したままです。

肋骨の真ん中とみぞおちが殴打されるような痛みに、吐きそうになって号泣してしまう。夜も苦しくて眠れない。

まだふっくらしていていつも一緒に寝ていた去年(2016年)のちゃび。

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眠る時、私のあごの下に頭をうずめてはゴロゴロ言っていた。(2016年10月16日)
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夜中に眼を覚ましたら、じっと私の顔を見ていたちゃび。(2016年12月23日)
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とにかくいつも私にべったりくっついて離れなかったちゃび。
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(2016年12月24日)
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私がPCを使っている時、いつも私のひざ(太もも)の上に乗っかってきたちゃび。

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私が仕事すると必ず邪魔したちゃび。本をつくるために整理中のスケッチブックの上に乗って、仕事よりも自分にかまって、とアピール。いつもすごく甘えっ子でご機嫌だったちゃび。
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去年の暮れ(当時19歳)はまだまだすごく元気でした。
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今年の8月くらいから、ちゃびは胃腸の具合が悪くなり、病院でも原因がわからないまま、私はできることはすべてしようと思った。

日々、激変するちゃびの体調を見ながら、必死で介護してきました。

亡くなる日の前日は、それ以前よりずっと調子がよく、快復傾向にあると信じていました。

まだちゃびがいないことをとても受け止められません。

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2017年10月29日 (日)

『アネモネ・雨滴』 森島章人歌集

10月29日

10月19日に森島章人さんから、歌集『アネモネ・雨滴』が届く。

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一本のアネモネあらば希望なる言葉かすかに雨滴のごとし

第一歌集『月光の揚力』から18年、待望の第二歌集です。

跋に、「砕かれる寸前の形、火を上げながらなお立っている形が歌であればよいと願う。」とある。

雛罌粟(ひなげし)の揺るる向かうをしめらせて今宵阿修羅が足洗う音

きみの掌(て)になぜに集まるふはふはと舞ひそびれたる花粉、雪など

一色に胸塗りつぶしわが行くにサルビア園、傘乱立の夏

赦(ゆる)されて生を享(う)けたるけだものよ赦(ゆる)しえぬ世に金の尾立てよ

ひそかなる空の耳あり成し遂げしものなきなげき抱きとむるごと

にごりゆく記憶の底にくもりなき夏誰(た)がかざすをりをりは匕首

きちきちと空気の中を鳴るものよそこに骨などないはずなれど

氷菓溶けだす前に言はむ 炎天を裂けばすがしき半裸の言葉

森島さんの歌は透明な光と微かに囁く声、静かな追憶の世界。死の歌が多いが、声高に叫んだりはせず、どろどろした情念がたぎるような歌にはならない。

この本の中には私の画「風の薔薇・あねもね」を口絵として使ってくださっている。

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この歌集の世界に入りこみ、遠くて哀しいところを彷徨えば、いたるところに「アネモネ通り」や「アネモネ領」への入り口が隠されている。

暗きところをかすかに上(のぼ)りやがて咲くあなたの息がアネモネと言ふ

なだるるは歌のみならず昨夜(きぞ)こころなだるるなかにひらくアネモネ

もとより庭などありませんが天心のアネモネを少しだけなら

おさがしの玩具さびしきドラムならアネモネ通りにたしかあるはず

アネモネ通りつきあたり 猫町の噴水春を濡らして帰せ

きみ照らすアネモネ通り西はづれ火を売る店を捜しにゆかむ

アネモネ領 きみの瞳の奥にあり門ひとつなし北へと続く

私は母を失って、強烈に蘇るまだ元気な母と一緒にいた頃の身体感覚とともに、この歌たちを読んでいる。

そしてやはりあまりに近くにいすぎて、失われることなどどうしても考えられなかった愛猫の介護に切羽詰まりながら。

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2017年10月27日 (金)

エンケン(遠藤賢司)さんを悼む

10月27日

母が亡くなってからもうひと月が経とうとしているが、喪失感で息苦しい。

この前の台風で12℃まで冷えた日から風邪を引いてしまい、まだ微熱と喉痛に悩まされている。

おととい10月25日、遠藤賢司さんが亡くなられたと聞き、絶句・・・。

「ほんとだよ」が好きで、1stアルバム『niyago』がすごく好きで、昔からよく、絵を描いている時に繰り返し聞いていました。

非常にセンスのいいギターと、微風のように囁く甘い声が本当に素敵で、、何気ないようで無限に広がる強烈で詩的な情景を見せてくれる歌。

佐々木昭一郎脚本のドラマ「さすらい」に出ていた姿をもう一度見たい。たしか15年くらい前?に再放送され、うちのどこかに録画テープがあるはずだ。

個展の時におはがきを出したら来てくださった。

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私の描いたチューリップの絵(写真で後ろに展示してある絵)を見て、エンケンさんは「これは宇宙の花?」と言った。

「いえ、これ、チューリップをそのまま写生して描いたんですよ。」と言ったら驚いていらした。

アネモネの絵を描いたおはがきを出したら「美しいなァ・・・部屋に飾っています。」と書いたお返事をいただいて、すごく嬉しかった。

何度かエンケンバンドのライブに行った。ものすごいエネルギーにあふれたステージで、途中で酸素の缶を吸ったりしていた。スタイルも、とにかくかっこよかった。

演奏の合間のおしゃべりで「ヒロ・ヤマガタの絵は、なんてひどい絵なんだ!!!」と言っていたので、友人と顔を見合わせて笑ってしまったのを覚えている。

猫に似ているからフクロウも好きで、フクロウの人形や小物を集めていると言っていたので、ちっちゃなフクロウの陶人形をプレゼントしたこともあった。

少ししか話したことはないけれど、気どりや偉そうなところがない少年のような人だった。

好きな人がまたひとり、この世を去ってしまった。ものすごく淋しい。

・・・

新潟のおじ(母の妹の旦那さん)から、母の生家の写真が届いた。

山奥の古い茅葺の家。母がこんなところから東京に出て来て、激動の新宿で生きたと思うとすごく不思議だ。

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