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2008年8月24日 (日)

冨田洋之 hiroyuki Tomita 人倫を超えた存在 

8月21日

冨田洋之の北京が終わった。

その繊細さ、その虚栄のなさ、その透徹した強靭な精神力に、あまりに共振してしまい、彼の試合のときは、緊張して胃痙攣になるほど、私の好きなジムナストである。

ここ数年、冨田洋之が一貫して言い続けてきたことは、「美しい演技」であり、「しなやかな体躯を極限まで使い、いかに優美な演技を体現できるか」であり、「勝とうと思って演技をしていない」とも言っている。

全試合後のNHKのインタビューでは、「体操男子団体の銀メダルへの道」とタイトルづけられ、「この時点で中国に勝てると思ったか」、「アメリカに逆転できると思ったか」、などの問いに、強制的にマルバツの札を上げさせるという、全く冨田の信条無視の、浅薄なアナウンサーの対応が続いた。

そのとき、冨田は、札を上げなかった。そして、「中国の演技を見ていなかったので」、「自分の演技に集中することだけを考えたので」、と答えた。「それでも、嫌でも中国の高い点数は目にはいってくるでしょう。」と、まだ言う、アナウンサーの口調を腹立たしく思った。

冨田洋之は、決して不快感や嫌悪感を表に出さない。優勝したときでさえ、声高に雄たけびを上げることも、はしゃぐこともない。けれど、信条を曲げて同調することもない。

冨田洋之が貫いたものは、パワーゲームとは無縁のものであり、国威発揚とも無縁のものであり、いわゆる男性的な筋肉志向とも無縁なものであり、体操競技という身体表現とは何か、の、根本の問いであると思う。

同じ技の練習を、比喩ではなく何万回もやること。余計なことに興味のない性格。自分が何に最も価値を置くか、がブレないこと。

言葉を使いこなす能力にたけていて、言葉だけで倫理を繕う、まやかしの身体の文学者や美術家をいやというほど見てきたので、ことさらに、すべてを犠牲にして身体演技そのものをさらす冨田の真摯な美しさに打たれる。「芸術性」という言葉さえおこがましい、と思う。

冨田洋之は、「比喩」ではない、嘘がない、そのまま、である、ということは、まさに「人倫」を超えた存在である。

世界の人が、冨田に目が釘付けになるのは、彼の白光色の精神そのものの身体の奇跡を見るからだろう。

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