冨田洋之 豊田国際 2日目
11月16日
豊田国際2日目。11時30分くらいに会場に行くと、きのうよりずっと熱気で長蛇の列。すぐ横で写真を撮っている家族が、冨田のお母さんとお兄さんと気づく。
席につき、きょうはずっとオペラグラスで冨田の表情を胸に刻む。アップは体に力を入れないで、いろんな柔軟を少しずつ。床に仰向けに寝て両足を30cmくらいのところで止めたり、本当に全身のあらゆる部分をまんべんなくやる。
冨田が平行棒のところに来る。森泉さんと中瀬選手も一緒に、慎重に銀色の物差しできっちりと幅を調整している。砂糖水、塩水、蜂蜜など一式置かれた場所からボトルをとって、丁寧に塗る。マグネシウムの粉を手につけてから、最後パンパンとマットの上に手をはたくのが印象的だった。
平行棒をつかんで少し心配そうに見上げる、私の大好きな冨田の表情。彼は必ず右目のほうの眉が上がる(左目を少し困ったようにしかめる)。全く晒された生命が匂い立つ。
それから、瞬間のけもの的躍動があり、「象徴なき象徴の神々しさ」(私たちはいかなる神も持たないから)があり、静謐と、冷徹と厳格さの中に混然となったあまりに柔らかい子猫のような命が一気に噴出して、誰もが魂を奪われてしまう。
左のふくらはぎに手術したあとのような長く白い傷痕が見えた。
平行棒も、鉄棒も、吊り輪も、下から見るとひどく巨大だった。怖かった。
今日の彼は凛として張りつめた精神が共振してくるようだった。周りの空気が澄むようだ。
平行棒の慣らしを何回か終え、彼が鉄棒のほうの椅子に座わる。バッグから白いテープを出して指に巻く。それから静かに心を高めるようにプロテクターを手にはめる。画家魂としてはとても平静に見られない魅惑的な仕草。始めはちょっと慣らす程度。最後はコールマン(息が止まりそう)で、後方に身体を回転させる感じでマットに転がる着地。
日頃の練習が全てであり、そのイメージを再確認するための肩慣らしではあるだろうが、それでも本番にピークを合わせるための精神と身体の取扱い、その持っていきかたに非常に興味がある。
何万回、何十万回と練習しようとも、精神と感覚はより高みを目指すだろうし、試練は新たな試練を生むに違いないところで、一瞬一瞬の新しい賭けをどうするのか。その果てしない、計り知れない未知の領域で、冨田は引退を選んだのだが・・・。
二種目目の彼の平行棒まで、一種目目の演技が終了するまで奥で待っている冨田はずっと腕を回転させたり、前屈したりし続けていた。
二種目目の平行棒の選手入場があり、心臓はパンクしそう。鹿島選手が平行棒真横のスタッフブースに移動して、じっと、すごい真顔で冨田の最後の演技を待つ表情に胸を打たれた。目の下に影の隈があるように見えた。
互い違いに進行する女子の床の演技に、私は目をやる余裕があるはずもなく、冨田の表情を追っていた。彼の前の床の演技中、彼は斜め下の宙を見て、じっと動かなかった。ただただ静かに集中している演技直前の姿。彼の演技の番が来て、彼が砂糖水を塗り、白い粉をはたいて立ってから、床の採点が長引き、彼が美しく片手を挙げるまで測定不可能の時が流れた。右肩に黒紫の内出血がいくつもあるのが、生々しくはっきり見えた。
彼の演技については、あまり書けない。ものすごくしゅっと長く延びた足がダイナミックだった。彼のきゅっと食いしばった顔が、なまなましくも強烈に輝いた。世界一美しい倒立に歓声が上がった。異様に張りつめた凝縮した瞬間。どんな言葉も追いつかない凄味のある優美さと迫力。
それから、彼の鉄棒についても、うまく言葉が出ない。正直、落ちたらどうしようと思い、心臓がぎゅっとつかまれるように痛かった。しかし彼は戦慄させるほど晴れやかにやり遂げた。およそ人間らしくない凄さ。帰宅してから、北京よりもさらに難度を上げた構成だったと知り、さらに胸が焦がれた。
引退のセレモニーのとき、冨田は「去年の北京では、生涯味わったことのないような重圧を味わい」と言った。「去年」が間違いであることさえ、私もまた気付かなかった。あまりに凝縮された、あまりに懸命な時を過ごすと、はるかに時が経ったように感じることがある。
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