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2009年5月

2009年5月31日 (日)

VX2000 多摩川

5月30日

VX2000を持って、多摩川で撮る。

ウマゴヤシ、アカツメクサ、シロツメクサが満開。ハルジョオンは終わって、ヒメジョオンが咲き始めていた。

今日の目的は、アイリスと明るさのの実験。タムロンのマクロで撮っている時と同じくらい自在に自分の思う通りの絵がVX2000で撮れるかの練習。

2時くらいに多摩側に着く。アカシアの樹の切り株が無造作に置かれた場所は、連日の雨に濡れて、ちょっと汚らしくなっていた。ぐじゅぐじゅに濡れているとそこかしこに散らばっているゴミも汚らしくなってしまう。ここにシュテファンを座らせるのはちょっとできないと思った。

多摩川べりを下流に向かって歩きながら、植物を撮る。最初撮った時は、あとか思えば明るすぎて失敗。アイリスを開放気味にして草の露のアップを撮るなら、もっと暗く調整しないといけなかった。

自分がのぞいているファインダー(液晶画面)が全て。その瞬間以外のどんな思考も入れるべきではない。画面を見て、気に入らないのであれば、撮るべきではない。そうしなければ、後で入り込んでくるもろもろの言葉によって、自分の大切な感覚さえおかしくなっていってしまうだろうから。

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2009年5月26日 (火)

映画 詩の言葉

5月26日

きのうと今日は最悪に体調が悪い。肩痛、首痛、頭痛、生理痛でタイレノールとレキソタンを飲んでいる。常に吐き気に襲われて、VX2000を持つのは絶対無理(重すぎる)。一眼レフでマクロで撮っているとき、いかに自分が自由なのか(精神的、身体的に)、思い知る。

映像の中の言葉をずっと考えている。沢渡さんの撮影日記や、高橋睦朗さんの言葉を読んでいる。ベンヤミンの言葉や、谷川俊太郎さんの「アリスをとりかこむ声」も・・・。

いらないものを、徹底して拒否しなければだめだと思う。気持ちが最高に高まった瞬間の絵しか撮らないのは、stillと同じ。その上で、偶然性を引き込んでいかなければ。

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2009年5月25日 (月)

VX2000 Pusteblume

5月23日

Pusteblume. 息の花。

穂綿が空気に震えて、冠毛が飛ぶ瞬間を撮るために今日もVX2000を持って町を歩く。

私の好きな廃屋の庭に、まさに今開いたばかりの大きなたんぽぽの穂綿があった。たぶん皆がおしっこをかけるのだと思う。その場所にしゃがみ込んでとにかく撮る。裏側の鬱蒼とした茂みの中に、ハルノノゲシの穂綿が赤錆びの壁の前に咲いていた。茂みの中にじっとしゃがんで夢中で撮っていると、服の上から大量に蚊に刺された。このとき、初めてVX2000で、自分らしく撮れた手ごたえがあった。錆びの上に絡んでいた去年の枯れ蔓に引っ掛かって震える、小さな冠毛を撮ったのである。

5月24日

朝起きたら、光眩しい雨。雨が止んだ3時頃、新宿へ出る。ヨドバシカメラと、マップレンタルで機材のことを聞いて、無印良品やTAKAQなどで、白かマンガニーズブルーのシンプルなシャツ(映画の衣装)を探して歩く。マイクもどうしていいのか決まらないし、シンプルで、エレガントなシャツはどこにもない。ほとんどのシャツには余計な柄やデザインがはいっていて、日常的な夾雑な粉飾がうるさい。

5時すぎに雲が変化して、曇り空の割れ目に青空がのぞき、詩的な絵になって来たので、慌てて帰宅し、アパートの前の道路に、椅子の上にのせたグラスに入れたたんぽぽの穂綿を置いて、VX2000で撮る。毎日、穂綿を苦心して撮っている。ただ、ふうわりと種が飛ぶ瞬間を劇的に撮りたくて。

地元の商店街で、意外なところにエレガントな白いシャツを見つける。

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2009年5月22日 (金)

ロケハン

5月16日

カメラマン二人とVX2000のための多摩のロケハン。

曇りで、風も強く、べロアの上着を着ても肌寒いくらいの日。

どうしてもたんぽぽの穂綿を撮りたいのに、もう季節が終わっていて、ほとんどない。それに実際に撮ってみると、イメージどおりにはいかず、穂綿を飛ばすだけでものすごく難しい。

多摩の林は、急勾配のところが多くて取りにくかった。梢のうねりを利用して、風のかたちを撮りたかったが、車の音は邪魔だし、風は吹いたり吹かなかったりで、なかなかうまくいかない。

多摩川の周辺は、どこに行っても忍冬(スイカズラ)と野生の小さな白薔薇が咲き乱れていた。

久しぶりにカメラバッグを背負ったので、とにかく肩と腰がひどく痛くなった。筋力が異常にないので、シュテファンを撮ったときも、申し訳ないがモデル本人に持ってもらったのである。

5月19日

ロケハンだけでくたくたに疲れて、翌日は肩凝りで強い頭痛がでるほど、まだ肩腰が痛い。シュテファンからメールが来、6時頃、日時調整のお願いに行く。

5月20日

区の癌検査のあと、ヨドバシカメラで話しを聞く。

5月21日

とても風の強い日。夕方5時頃VX2000を担いで善福寺川のほうへ。蔓植物のある、小さいけれど私の好きな林の中で、風の描くうねりを撮っていた。もう藪蚊がいて、顔など滅茶苦茶に刺される。風を追いかけて、着実にそれに合わせてカメラをゆっくり回そうとすると、結局右手だけで持たなければならず、ものすごく肩が痛い。

川沿いの道は、草がやたらと人工的に刈られていて、安らげない。

小さな森を背景に蝙蝠たちが旋回するのを撮っていた。1分、2分と撮る間に、蝙蝠たちの数がどんどん増える。

まっ暗い池の前で、HORST JANSSENの言葉の朗読をして撮ってみた。1mくらいで撮れば、私の小さなガンマイクで充分声は聞こえる。ただ、池のモーター音がうるさかった。

5月22日

「デッサンの基本」の本のカバーデザインが3つ届く。ひとつを選んで返答。

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2009年5月15日 (金)

谷川俊太郎 ~もう一度初めから書き方を覚える~

5月14日

谷川俊太郎さんと吉田文憲さんの対談を聞きに、フェリス女学院大の緑園キャンパスへ。

谷川さんが非常に率直かつ的確に話すことにとても感銘を受けた。公開のイベントで、あそこまで正直に、誠実に語る詩人は見たことがない、と思った。

文化的なものを引き継がないところから、言語以前の闇(無意識)から言葉を出す。意味可能態。言語の地獄から湧いてくる。

人情(人間的)は苦手。非人情(生物に感じるインパーソナルな情)は信じる。詩を信用していない。言語を信用していない。「わたし」を超えた世界(コスモス)――自分の死と結びついた暗黒物質のある宇宙、無名性、名づけ以前の世界を信じる。

詩は自己表現ではない。伝えたいことはない。メッセージはない。メッセージを読み取ってもらうのは構わない。花は相手を意識して咲くのではない。

ディスプレイに意外な言葉が出てくる。それを見たときには、それが人を楽しませるのかの反省(フィードバック)が起きる。遂行の段階では強い理性が働く。

デタッチメント。廃墟。人が誰もいない風景。「渚にて」(核戦争後の世界を描いた映画)。ひとりでいることがくつろげること、実生活では隠しておかなければならないことが詩を書くためには良いことかもしれない。

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2009年5月13日 (水)

たんぽぽのほわた

5月12日

母の付き添いで、東京医大へ。薬を待つのに2時間もかかった。たくさんの人、病気の人を見た。旺盛な生命力を感じさせる欅の緑の中を、十二社への坂を下って帰る。この見事な、生々しい欅を、道路拡張のために切るというのだろうか。中央公園の中は草いきれがした。

夕方、家に帰ってから、シュテファンに写真のデータを入れたUSBを渡しに行く。

シュテファンは、もうすぐドイツに帰ってしまう。「まだ、帰りたくないよ。」と言った。レーバーツァーン(ライオンの歯、たんぽぽ)の白い頭をなんて言ってた?と聞くと、「プロスト・ブルーメ。」(と聞こえた。)プロストはフッて吹くという意味だと言った。

シュテファンは、私の撮った写真をとてもよい写真だと言った。彼のように「収奪」のない人間を、私は本当に久し振りに見るのだ。彼には、ナルシシズムのために妙に自己否定的になったり、過剰に自分をアピールしたりすることがない。リューネブルガーハイデという紫の花の絨毯の原野から来たからなのだろうか。

彼は一度も自分の専門知識についてしゃべったことがなかった。けれども、ひとつの花の名を私がたずねる時、いつも、電子辞書で、わかるまで調べてくれた。「さあ・・・知らない」と言われたことが一度もなかった。彼は、私が嫌がるような、人間的、一般的な話をしたことが一度もなかった。

卒論は、コルプス・・・漢字の頻出度を解析するソフトを開発するのだと言った。

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2009年5月 9日 (土)

谷川俊太郎 デッサン 身体 言葉 三木卓 福井佳子

5月9日

午前中に谷川俊太郎さんに電話し、きのうの(デッサンの本のための)帯文の御礼を言う。

「デッサンの技法についてはわかんないけど、(私の)文章に共感して」書いてくださったとのこと。「(言葉と物の関係は)ずっとぼくも考えてたことだから。」と言われた。

きのうは三木卓さんの「震える舌」を読んでいた。福井佳子さんと三木卓さんは、身体感覚そのものを書く、というところで共鳴していたのだなあ・・・と深く感銘を受けた。

「震える舌」で書かれているのは、確証のない世界の中で、ふいに襲われる生命の危機に立ち向かう時の、極めて緊迫した、全身の細胞をフル活動させねばならない状態の身体と意識であり、そこには言葉や観念の欺瞞の余地がない。

真に切羽詰まった時の言葉は「動物」の言葉である。それは掛け値なしの「身体」である。

谷川俊太郎さんもずっと、「人間」の言葉に苦しめられてきたのだろう。

鵜飼哲さんと対談するにしても、私は、人間の言葉の側からの脱構築の説明なら要らないと思う。動物の側へ、ぎりぎりの身体でなければ、対話にならない。

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2009年5月 8日 (金)

谷川俊太郎 デッサンの基本

5月8日

谷川俊太郎さんより、「デッサンの基本」(もうすぐナツメ社より発刊)の帯文のための文章が届く。4つくださったが、どれも捨てがたく、どれを選ぶか迷う。

「花」という言葉が花を覆い隠している

デッサンは花という言葉を剥ぎ取って

花という得たいの知れない存在に近づこうとする

            *

紙の上にワープして

花は「花」という言葉から

自由になる

花が生きるように沈黙のうちに線も生きる

それがデッサンではないか

            *

目前の具体物を紙の上に抽象化する過程で失われるもの

それを惜しむことで何かを得るのがデッサンかもしれない

            *

「写す」のは写真でもできる

デッサンは「移す」のだ

花を紙の上に

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2009年5月 7日 (木)

鵜飼哲 動物

5月7日

きのうは鵜飼哲氏と吉祥寺で会う。「ゆりあぺむぺる」は煙かったので、雨の中で待っていた。

動物。私有。スイカズラ。声。アイシャドー。多摩蘭坂。福井佳子。革命。党派の殺し合い。読解。絵画。反発。デリダ。創世記。素描。詩。名づけ以前。小説。ジュネ。ゲイの言葉。ゲニスタ(金雀枝)。映画。カシスビア。草木。情動。アディション。暴力。収奪。ファジーネーブル。原生林。写真。表現。色彩。肉食。匂い。眼の記憶。盲目。言語による補完。偶然を取り込む。直観と信憑。

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2009年5月 6日 (水)

谷川俊太郎 鵜飼哲 シュテファン

5月6日

朝10時30分、谷川俊太郎さんからの電話に飛び起きる。

3つ(「デッサンの基本」の帯文を)書いてみたけど・・・と言われ、びっくり。速すぎるし、もう(仕事を)受けてくださってた・・・?!寝ぼけた頭に心臓が激しく打ち付けた。まだ、締切に余裕があります、と言ったら、「それじゃ、もっと推敲してみる。」とのこと。

谷川さんの「定義」と、デリダの「盲者の記憶」を読んでいたら、シュテファンからメールが来た。カオティックに忙しいけど、映画はファイン、とのこと。良かった・・・とりあえず、本当に良かった・・・。

私が撮った彼の写真も気に入ってくれたようで、家族に送りたいのでフルサイズのデータが欲しいと言ってくれた。

2時頃、鵜飼哲さんから電話。都合が悪くなったのでは…と一瞬心配になったが、「雨なのでお身体に障るかと思い、近くまで行きましょうか・・・」と言われた。とんでもないです。お忙しいところを・・・

きょうは、(年中、酷い目にあってる私にしては)すごく、信じられないほどうまくいってる日で、びっくり。しかし、こう物事が願いどおり進むことは滅多にない。

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2009年5月 5日 (火)

盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟

5月5日

一週間くらい前から、左目の奥が痛くてたまらない。視神経に疲れが溜まったのだろうか。

「盲者の記憶」(ジャック・デリダ著 鵜飼哲訳)を読んでいる。問題は、これがデリダの「絵画読解の実践」であるということだ。私自身は読解できる絵画、あるいは読解を許す絵画に関心がない。古い絵画であれば、何らかの読解を誘う意図があったとしても、そこから関係なくこちらを震撼させる線や生命的な何者かの暴力性に惹かれたりする。最近(同時代)の絵画で、読解を期待するようなものであれば、吐気がするほど嫌いである。

私が惹かれるのは常に文学的でないもの。言葉の比喩から逃れたもの。私が書きたいのは、文学でない文章。誰の読解をも許さない絵。

とにかく、明日は鵜飼哲と会う。

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2009年5月 4日 (月)

谷川俊太郎 ロケハン

5月4日

午前中に谷川俊太郎さんに電話。今、取材中というお忙しいところに電話してしまったようだった。「資料ありがとうございました。」と言われて「?」一瞬何のことかわからなかったが、「すごく文章がうまいんでびっくりしました。」と言われ、この前お宅に伺ったときに持参していた「すばる」のエッセイと、同人誌「あんちりおん」のことと気づき、かあぁ!となった。読んでもらえると思っていなかったのだ。「読んでくださるとは思っていませんでした。」と正直に言うと、「読みますよ。」と言われた。感激。

夕方、手紙を添えて、「デッサンの基本」のゲラを、お約束どおり谷川さん宅の大きな郵便受けに入れる。

阿佐ヶ谷もまた、白薔薇と、木香薔薇と金雀枝の盛り。羽衣ジャスミンは枯れかけてきたが、まだ強烈に匂う。そして私の大好きな金銀花(忍冬、スイカズラ)の花が咲きかけていた。この花の匂いがたまらなく好きである。

ロケの場所のことで頭がいっぱい。どうしようか・・・

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2009年5月 3日 (日)

廃墟

5月2日

(個人的に思い出深い)ある廃墟に会いに行き、まだ奇跡的に無くなっていなかったのだが、厳重に立ち入り禁止になっていて、ぐったり疲れる。(でも残っていたのだ。たくさんの人に汚されることもなく、ひっそりと・・・)

夜、アシュリー・ヘギが亡くなったと知ってショックを受ける。

そのあと、パソコンを開いて、キヨシローが亡くなったことを知り、身体ががくがくとした。

同じ時代に生まれた才能の塊。あの声自体がおそろしい生き物であり、とにかく、強烈に魅惑する動物であった。大胆というよりも、華奢で感じやすいこと自体がラジカルであった。

廃墟のすぐ近くの小さな丘に上ると、古い崩れそうな石段の上に生々しい木片がたくさん落ちていて、拾うと柔らかく湿っていて、樹の匂いが立つのだった。原始を思わせる巨大なスズカケの樹の上のほうに、キツツキがいる、とわかるのだが姿は見えなかった。

5月3日

吉田文憲さんより、三木卓さんから電話があって、福井佳子全詩集が、あんなに美しい本になるとは思わなかった、と感激してくれていたと聞く。本当に気にいってくれたのだ、とほっとする。

(私は、正直、自分の絵が誰かにすごく気に入られることがある、ということを信じられない。あまりほめられることをイメージしたことがない。いつも、逆に身体全体がおかしくなりそうなくらい、緊張するし、余裕がない。思いつめて打ち込むほど、新なアイディアが出てくる。だから、最初の発想が貧しく思えてくる。そして、今、自分が描いたものが失敗に思えてくる。だからいつも苦しい・・・・

夕方、吉田さんと待ち合わせて国立へロケハン。清志郎を忍んで、たまらん坂をのぼる。それから一重の白薔薇や、八重のクリーム色の木香薔薇がはらはらと乱れ散る垣をいくつも過ぎ、果樹園の中を歩いた。微かなかわいいブルーベリーの花の満開の枝に、鉄線(クレマチス)が絡み、深紫と赤茶色のジャーマンアイリスが凛として咲いていた。一ツ橋の古い煤けた校舎と、蔦に絡まれた赤松や枝垂れ桜は絵になると思った。

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2009年5月 1日 (金)

福井桂子全詩集 その2

5月1日

福井桂子全詩集を読んでいる。

アルメリア、ひば、翡翠(かわせみ)、はこべ草、うすばかげろう、いそしぎ、草ひばり、矢車草、おおばこ、ほうせんか、ニセアカシア、いら草、水杉、つゆ草、薺(なずな)、アオサギ、ムラサキサギ、大烏、箒草、アカンサス、サフラン、スカンポ、カラス麦、ライ麦、ハネウツボカズラ、忘れ草、フリージア、さわぎく、雪ヤナギ、石楠花、夏水仙、メヒシバ、ムギワラギク、ハルジオン、アキノノゲシ、スズラン、スズメノテッポウ、チシャ菊、エゾユキウサギ、ツメクサ、ニリン草、カガリビバナ、浜防風、オオミズアオ、ウスベニアオイ、イソヒヨドリ、霜つけ草、アレチマツヨイグサ、枯葉蛾、しろたえぎく・・・・・

福井桂子さんの詩に登場する「幽かな魂」たち。全て私のものすごく好きなものである。当たり前だが、私の好きなのは言葉ではなくその実物であり、実物が好きだからその呼び名も好きである。彼女の詩を読む時、私にはそれらの息づく情景がはっきり見える。それは身体の記憶だから。

福井さんと野を歩けたら、どんなに幸せだったろう。ひとつひとつの草花や虫に立ち止まり・・・・・。

私は言葉だけを弄ぶ人を強烈に憎んでいる。眼にて触れたこともなく、喪失の痛みに耐えかねることもなく、ただ言葉を扱う人を。

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