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2010年3月

2010年3月29日 (月)

浅田真央 「鐘」  身体芸術  アスリート

3月29日

もう一度、はっきり書きたい。今回の浅田真央の「鐘」は、アスリートとしても、身体芸術としても、あり得ない次元(と私の身体は、生々しく、リアルに、感じた)。

これがフィギュアスケートなのだろうか!?と度肝を抜かれた、と言ってもいい。(別の明るく楽しいい曲だったら、たぶん・・・私個人は、こんなにも心を奪われることはなかっただろうと思う。)

私は心底惚れこんだもの、震撼したものについてしか書きたくない。

浅田真央の「鐘」のプログラムは、恐怖を感じるほどに、艶がある。侠気(おとこぎ)と、エロスは矛盾しない。極限の生を見せながらも、同時に端正で、豪奢である。

私の身体が、激しく動揺するほどに、このプログラムはエロティークである。

浅田真央は、曲の展開にのせて、空気そのものの動きのダイナミズムまで変化させ、色彩、質感、空間の広がりや、捻じれ、時系列まで変化させて見せた。これを見て「表現力が足りない」などと言う人は、心底俗物根性で、無感覚な人だ。

浅田真央の「鐘」というプログラムについて、なにか批判を言えるような人間は、この世にいないはずだ。そういう次元の作品だと思う。

そして、完璧にやり遂げた。浅田真央本人がそれをよくわかっていると思う。

この奇跡の価値を尊重しないマスコミはおかしい。奇妙で不自然な弾圧を感じる。

ヤフーのトップニュースで、「浅田真央が気づいていない大切なもの」<青嶋ひろの>という記事を読んで怒り心頭に達した友人が、Skypeで電話して来た。

「しかしやはり今の浅田のスケートには、フィギュアスケートとしてまだ足りないものがある。ジャンプもそのほかのエレメンツも「技術」としては完ぺきに近いが、「氷の上で自分を表現する、何かを表現する」というフィギュアスケートのもうひとつの大切な部分が、まだ少し足りない。いや足りないのではなく、それができる力を持っているのに、必要であることに気づいていないのだ。」と<青嶋ひろの>という人は書いている。

浅田真央は、「フィギュアスケートに対する「意識」を目覚めさせ」ないと開花できないんだそうだ。

ヤフーのトップに来るような記事を書く権限を持っているいる人が、こんなに非常識で、無感覚なのだろうか。単に、あの恐ろしい「鐘」を見て、その素晴らしさが感覚的にわからない鈍感な、感覚異常な人だとしても、こんなに僭越な(でしゃばりな)発言をするものだろうか?このようなリスペクトに欠けた発言を、このタイミング(金メダル)でするのは、ライターとしておかしい。

じゃあ、「表現」とは何か、をきちんと言葉にすべきだと思う。

ファンは、肉体的、精神的にぎりぎりを生きるアスリートの言葉を聞きたいのであって、一ライターの主観には興味ない。

この、<青嶋ひろの>という人は、浅田真央に関する本を書いているらしい。蛭のように、アスリートを食い物にする人なのかな、と想像した。

青嶋氏がどういう人か知らないが、直感的には、すごく嫌なもの、不潔なものを感じる。まともな感受性があれば、そしてフィギュアの周辺にいて仕事をしているのなら、選手を大切に思っているのなら、今回の「鐘」の完璧な演技で、最高得点が出ない今の採点システムがおかしいことに激しい怒りを覚えるのが普通だと思う。

文体も、ぞっとするような気持ち悪さが残る。この人は、何も見えていないのに勝手に(しかもねっとりと)自己展開している、または白々しく世論操作をしている、と感じる。

何か強い世論操作、何かの利益誘導のように感じる。なぜそんなことをするのかは、わからないが・・・。

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2010年3月28日 (日)

浅田真央 「鐘」   身体芸術 アスリート

3月28日

私達は、散漫で雑多な日常に生きている。わかりやすくて安心できるもの、はやりのもの、慣れ合い、軽いおしゃべり。そして、ぎりぎりに追い詰められて決断しなければならいところからは、だいぶ手前で日常をこなしていく。

いつからか「アート イコール マーケティング(経済)」になって久しい。お金になるものが良いもの。なんでもあり。とにかく「なんでもあり」である。そしてお金のあるところに人が群がる。アートの価値付けは、それがビジネスになるなら、後付けでなんとでもなる。

それでも、わたしは、希少な才能、凄みのある美しさ、全身を震撼させてくれるようなもの、唯一無二の存在(と私の身体が感じるもの)を、見たい。

007は、誰でも知ってる。皆が大好き(わかりやすい)。だから、これ(ボンドガール)が最高に一般大衆受けするプログラムなんだ、とオーサーは言った。所詮、一般大衆はその程度のものだ、と。(「キムヨナ成長物語」に至っては、もう、(誰が興味を持つのか)意味不明。)

しかし、タラソワはそれに真っ向から、正攻法で挑んで見せた。出来得るかぎりの最も困難なことをやること、生存の危機に対峙した人間の挑戦の姿、ありきたりの日常からは隔絶した、ぎりぎりの生の実存そのものを演じて見せて、わかる人にはわかる、これこそが、本当の、極限のフィギュアスケートだ、と。

ものすごいものを見ると、人は言語不全に陥る。それを人間的な理屈ですらすらと言える場合は、たぶん言葉のほうが、身体を伴わずにしゃべっているのだと思う。

だから、この書きかたでは、少し書きすぎたのかもしれない。が・・・・

浅田真央の「鐘」へのごく個人的なオマージュ。

私の眼は、私の身体は、何を見たのか?

自分を固く抱きしめて俯く者。それから、全くの孤独と静寂の中で、重たい鉛の空間を両手で掻き上げる者がいる。なんという不穏。なんという孤絶。そして、身も凍る緊張の空気を、つーーーっと切り裂いて滑ったかと思うと、カッと氷を蹴って宙を舞う。ビュッと鎌鼬のような音がして、銀の炎が炸裂する。着地した彼女はにこりともしない。ただ、何か(眼の前のものではない何か)を一心に見つめている。

全ての重みに耐えるように地に伏しながら、高速回転。ひれ伏したまま、腕を背中のほうに掲げて、水から飛び立つ前の鳥が羽ばたくように高速回転。そして何かを断ち切るように振り掲げた腕を勢いよく振りおろして、立ち上がった彼女は、思いっきり激しい決意と怒りの顔を真正面に向けて、大きく螺旋を描いてて見せる。大きな黒い蜘蛛のような鉤裂きの指が鋭い。強靭な生命力が空気を振動させるような、獰猛な、無垢の生き物が走りだす。

足を高く揚げて旋回。恐怖の花が開く。風に打ちひしがれる巨大なアネモネ。そして強い嵐に翻弄される瀕死の生き物のように、ツイズルから一気に雪崩れ込むステップ。ここからは、もう、私の眼は、完全なカオスに巻き込まれてしまう。

雷鳴があり、頭上で沛然と砕け散るガラスがあり、それらが一斉に打ちつけてくる。無常の雨に打たれてしなだれる全ての花。爛熟の花。未明のおののき。白光するもの。腐りゆくもの。反撥する。うねる。捩れる。のけぞる。ちぎれる。そして炸裂!閃光!閃光!血液は、もはやその場所を留めず、指先にまで心臓が存在するようになる。透明な藍色。ざらつく石灰色。バーミリオン。金属。最も劇的な雲。凶暴な動物。最もエロティークな、最も毅然とした奇跡の彫刻。目眩く、瞬間、瞬間の彫刻。

すべてが、幾重にも、あらゆる空間に同時に存在し、回転し続けた。滑り終わった彼女が天を仰いで両手を高く掲げた時、これらの瞬間瞬間の全てが、浅田真央という、(わたしたちと同じように)生物学的な生を生きる一個の存在に帰属するものだったということに、はっと気付かされて、慄然とするほどだった。

わたし(の眼)にとって、これは、フィギュアスケートの閾を越えたものであった。とにかく、ものすごく異質な、凄いもの。あり得ないもの。

「不可能性(「可能性」ではなく、)に賭ける」と、言葉で言うのはたやすい。でも、誰がそれを生きられるというのか。誰が、こんな恐ろしいもの(身体)を、実際に、見せてくれるというのか?

今回、シロウト眼には、浅田真央ほとんど完璧に見えた。高得点が出て当然と思った。こんなに低い点数がショックであったし、全く不可解である。本当に稀有な才能が抑圧されて、わけのわからない演技が高い点数をもらえるような採点システムを、なんとか改良してほしい、と心より願う。

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浅田真央  「鐘」  身体芸術  大野一雄

3月26日

ここ3,4日、すごく体調が悪く、寝てばかりいて、ほとんどろくに食べられなかったのだが、久しぶりに友人と外食。稚貝のワイン蒸しとエビとホタテのフライ、おいしかった。

ものを見る力について、ほぼ絶対的に信頼をおいている親友に、オリンピックの浅田真央の「鐘」の演技の録画を見てもらった。(友人は、仕事で忙しくて、全くオリンピックを見ることができなかったという。)私は、録画の映像見ただけで、また落涙・・・・・。すると、友人は

「すごい!!・・・・何、これ?!!うわ・・・・・・・・・タラソワってすごいよ。異常だよ。狂ってるよ。」そして最近、私が涙を流しながら『鐘』の凄さを熱弁する理由が、今、やっと、わかった、と言った。「やっぱり、見なきゃわかんないもんだな。これは、ちょっと、ありえない。」

「これは、凄すぎる。まっっったく、一般向けでない。よくぞこんなプログラムをつくったもんだ。浅田真央はタラソワと絶対離れないほうがいいね。」と言った。

これについて、何か言葉にするとしたら、どうなると思う?と聞いたら、「言葉になんてできないでしょ。他のスケーターとまったく次元が違うんだから。これがフィギュアスケートだなんて思えないようなものでしょ。これが一体何なのかなんて言えないくらいの、ものすごいもの、なんだかわからない何かだ。」と言った。

そして、「今回の浅田真央の理不尽な状況、絶体絶命の状況をタラソワがわかっていてこの「鐘」を選んだのだとしても、それにしてもこのプログラムの、タラソワの、ものすごい情念というのか・・・・単に眼の前のオリンピックで金を獲るため、という目先の目標だけでは、こんな異常にすごいもんはつくれないだろう。タラソワっていったいどんな人生歩んできたんだろって思うよ、この「鐘」を見たら。」と言った。

そうだね。そして浅田真央は、天才的な感受性で、タラソワの意図したものを直感的に、身体的に掴んだ。本当に運命としか言いようのない奇跡的な出会いなんだね。浅田でなければ、こんな恐ろしいものを自分のものにするなんてことはできなかったろうから。でも、なぜかマスコミが、このもの凄さをに認めようとしないのが、すごーく、気持ち悪いのよ。

「一般の大多数が鈍いのは当たり前。キムのほうが滑りがきれいだとか、理由はあとからなんとでもつけられる。でも、これだけの厳しい決断を自ら意志的に選んでそれを実際に生きている浅田真央に対して、少しでもちゃかすようなことを言ったとしたら、それは余計な発言であり、ちょっとおかしい。何か大きな汚い力が働いてるのかもね。こんな極限の、ありえないプログラムやってたら、長くは続かないだろ。それほど「鐘」は人間じゃない次元にいっちゃってる。それに対して、確かに評価は酷すぎる。」

以前、日本が世界に誇る至宝、大野一雄先生の踊りを前に、私の眼前で、「そうとう気持ち悪いもの」と言った(絵画評論の本出してる)人がいたので、眼で見る力が全くなくて(あの恐ろしいほどの美しさ、気高さを感じなくて)も、平気でそういう本書けるんだ、と心底唖然としたけど・・・・鈍い感覚の人はどうしようもないとしても、それにしてもマスコミの妙な態度は解せない。浅田真央のような稀有な才能を潰すようなことをして、ちゃんと評価しないで、いったい誰が得をするんだろうねえ・・・?

「それにしても、(この演技は)いい。氷に引っかかってしまうところさえ、全て含めていい。恐怖を感じるほど凄い。衣装もぴったりあってるし、完璧に思える。本当にいい曲を選んだ。」

「もし、リアルタイムで、オリンピックでこれを見ていたら、衝撃が強すぎて、ちょっと精神的に耐えられなかったかもしれない。これを見て、採点のおかしさに滅茶苦茶に傷つくのは当然でしょう。滅茶苦茶ストレスたまるよ。」と親友は言った。

ストレスで、ほんとに全身痛くなるけど、それでも、その恐ろしい瞬間を見たいと思うのが私の性格なのだ。そこから、その眼で見たものに震撼するような体験を生きたいのだ。

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2010年3月23日 (火)

2ちゃんねる  Twitter  写真 ことば 芸術

3月22日

Twitterを始めてみたが、うまく使う方法がよくわからない。写真に関して言えば、ブログよりも少し人に見てもらえるのかな?と思う。

日本の有名人のTwitterをいくつかのぞいてみたが、少し読んだだけで、すごく怖かった・・・こんなに、日常のおしゃべりがわあっと入ってきたら、私には、もう、まともにものを見ることができなくなってしまう。日常会話が怖いのだ。静謐な状態でないと何も描けないし、書けない。ごく親しい友人と話すときも、笑い話もするが、ほとんど本質的な話(時間を濃密にするための会話)しかしない。それだったら何時間でも夢中で話せる。

有名人で無い人の中に、素敵な人がいるのだと思うが、まだ、フォローするのが怖い。

2ちゃんねるをたまに見ている。見るようになったのはごく最近である。PCを持っていないころ、掲示板とはとても恐ろしいところだ、と聞いていたのだが、実際に見てみたら、そうは思えなかった。ひとつの話題にしぼっているので見やすいし、本当にいろんな人がいるが、思ったよりバーチャルなところではなかった。むしろ逆に生々しい感覚を感じることのほうが多い。ここに語らずにはいられなかたんだな、と思える(共感する)ことも多い。こういうのは必要な場所だと思う。玉石混交で、ひどい内容のカキコミももちろんあるけど、たまに、すごく言語センスの良い人がいて、ウマイ!!と手を叩いて笑ってしまうことがある。

最近で一番笑ったのは、「缶ポックリか」の一連のスレである。(すばらしい!)

ハイアートに詳しかったり、現代思想や現代芸術をたくさん知ってる人のほうが、センスがいいのかと言えば、全然そんなことはない。そんなヒエラルキーはない。直接会った人の中で、知識を弄ぶ悪臭芬芬たる人も少なくなくいた。とくとくと知識を語るけれど実質的には全く他者への共感能力のない人、軽薄、無神経、無感覚、しかも退屈な人、そういうのと比較してしまうせいなのか、むしろ2ちゃん(の一部)が面白いし、ほっとする。

情報(知識)として知っていることと、その人の存在自体に芸術的才能(芸術を見る才能も含めて)があるかどうか、は全く違うことである。そしてまた、知っている、理解しているとはどういうことか(いったいどういう身体状態のことなのか)、がつねに問われなければならないと思う。

情報(知識)を集めて、系統立てて組み立てて、自分は最先端の芸術をこんなに良くわかっている、と自慢げに語る人がいる。そして、本物の、のっぴきならない剥きだしの生(必然的に芸術にうちこまなければ生きる道がない生)から、権力欲にまかせて、いいように、無感覚に、収奪する。

蛇足だが「初心者殺し」と書いてあったメンヘラ系の板を、おそるおそる、ちらっと覗いてみたが、思ったよりずっと、まともだった。たまたまなのだろうか、なかなか素敵なつぶやきがぽつっと書いてあったので、感心してしまった。

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2010年3月21日 (日)

剥き出しの生  ジョルジョ・アガンベン  中川幸夫  宮西計三 

3月21日

今、朝の7時過ぎ。眠れなくて、発泡酒を飲んでいる。

外大のI先生から、今から中国へ講演に行く、というメールが5時半くらいにきて、気をつけて行ってらっしゃってください!!!と返事したら、「あれ?早起きですね。」と返ってきた。

本当に最近お目にかかったばかりだが、ドイツ語のメールの訳をやってくださっている。最初、先生がひな形をつくってくださったのだが、私が、相手に対して毅然とした感じのメール文を出すことにひるんでしまったので、結局日本語から書きなおしましょうか、という話になった。

私なんかの感覚(他人からはわかりにくい、超過敏と、思いつめて考えあぐねる感じ)を汲んで、親切にしてくださる人は、本当に奇特な(無償な)人である。だって、ほんとに、自分は商売にならない人間なんだから。実際、すごく権力志向(人間的な欲望)の強い人からは、まったく相手にされない。それは、一瞬で直覚的に、相手の表情からわかってしまう。

「アガンベンのアウシュヴィッツの残り物――アルシーヴと証人」を読んでいる。

「剥きだしの生は、なにものも必要とせず、なにものにも適合しない。それはそれ自体が唯一の規範なのであり、絶対的に内在的である。」ここを読んで涙が出た。

抜き差しならないぎりぎりの生の状態では、倫理は消える。そして、いつでも、ぎりぎりの生の体験者は、実際は自分の体験を証言することができない。

これは、私たちには想像を絶する(たぶん決してなまなましくは想像することができないであろう)アウシュヴィッツのことだけを言っているのではない。

次元はさまざまに違えど、他人に見せるための(いわば営業用の、対社会のための、楽に生きていくための)自己を持たず、何かを必死に追い求めて、自分(身体感覚的)に妥協を許さない生き方をしたならば、いつでも、そこでは、いわゆる「人間の」「社会の」基準は消えてしまう。

つまり、芸術でいえば、誰も理解してくれない状況、全くの孤絶の状態に追い込まれるだろう。そこでは、究極の評価者は、「内在」、自己の希求に対する「剥きだしの」誠実さのみになる。

たとえば、ゴッホやアルトーのように。宮西計三や中川幸夫さんがずっとそうだったように。ほとんど、狂気か餓死寸前まで追い込まれるだろう。

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2010年3月20日 (土)

眼で見たもの  直接性

3月19日

がんセンターに3時過ぎに電話して、この前の血液検査の結果を聞く。変化なし、とのこと(治ってもいないけれど、進行もしていない)。

眼で見たものをそのまま、言葉で描写しようと試みている。それを、本にしたいと思う。「あんちりおん」になるのか、もうちょっと大がかりな本になるのか、まだわからないが、とにかくそれをやり遂げるために文章を書いている。

眼で見たものをそのまま言葉にする、と言うと、知識人は必ず言う。そんなことは不可能だと。

言語というものが既に、あまりにも膨大な歴史と間接的なもの、比喩を恐ろしいほど含んでいるのだから、と。

けれど、私は言語学者ではなく、画家なのです。

「直接性」という言葉も奇妙な言葉だ。人間である限り、背景を持っているし、生まれおちて言語を持ったら、もう直接性は無くなるのかもしれないが、それでも、なまなましい感覚というものには、それぞれの次元がある。

たとえば、ジャコメッティの言葉などは、「私の現実」というものに誠実に対峙しようとした言葉だと思う。若林奮さんの言葉もそうだった。

共通の言語で話すのは難しい。実際の感覚に言葉をできるかぎり添わせていこうとしたら、ほとんどの人には理解されない。

いつも、瞬間ごとに、その会話の文脈で言葉の意味を判断しなければ(判断されなければ)ならない。だから、私は、さんざん時間をともにしてきた数少ない濃密な関係の人としか、話すのが怖いのだ。

あまりよく知らない人に、ああ、わかるわかると言われたら恐ろしい。

説明できないもの、言明不能なものを書きたいのです。でも、ある程度は伝達可能にしなければならない。

私は言語のテクニシャンが嫌いだ。経験としての身体感覚が強烈な人が好きだ。私は言語上級者でうそつきな人が嫌いだ。

「美しい絵画や美しい彫刻を実現するために私は作ったりしない。芸術は見るための手段にすぎない。どんなものを眺めても、一切が私を乗り越え、驚かせるので、自分が何を見ているかということが私には正確にわからない。あまりに複雑なのだ。だから、見えるものを少しでも理解しようと思えば、何も考えずに模写を試みなければならない。」―――「ジャコメッティ 私の現実」(みすず書房)の中の「なぜ私は彫刻家であるのか」(宇佐美英治訳)より

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2010年3月19日 (金)

Twitter 右手のけが  AA大辞典(仮)

3月18日

朝6時くらいに寝ようと思ったら、ある事故(書くと長いのです)により、右手をけが。急いで水道で洗ったが、けっこうな血が出た。バンドエイドしかなかったので、とりあえずそれ3枚でおさえたが、どんどん血が出てきてバンドエイドがずぶずぶになってしまうので、何度が替えた。痛くて眠れない。タイレノールを飲んでも痛くて全然眠くならないので、8時くらいに、ついに発泡酒を飲んでしまった。化膿しませんように・・・。

在宅医療の先生に母の検査結果を聞くために、1時頃実家へ。きょうはホウレンソウとエビのグラタン。帰りに実家であまっていた化膿止めの傷薬をもらって来る。

夕方、吉田文憲さんに電話したら、今、花巻から帰ったところだそう(宮沢賢治学会)。けがをしたまでのいきさつ(電話線の修理から始まる)が長かったのだが、その話、もう、十分ドラマチックだよ、と言われた。それから本の話、Twitter始めた話、それから最近ひとりで大笑いしていたAA大辞典(仮)の話。

http://maruheso.at.infoseek.co.jp/aadic/

TwitterとAA大辞典(仮)については、パソコンを見たことも触ったこともない人に、パソコン歴2年のシロウトが説明するのだから、説明が難しく、珍妙な会話である。

AA大辞典(仮)の話は、私の好きな「今井軍団」(誰だかは知りませんが)や「イマノウチ」シリーズや、「モスラー」などについて話したのだが、おおウケで、爆笑だった。「今井軍団」については、嵐って知ってる?歌の最初の部分で桜井くんがラップしてるんだけど、ラップって知ってる?から始まる説明になる。それからモナーの説明。

そのほか2ちゃんねる用語で、とくにうまくできてると思えるいくつかの語を説明したら、すごい!相当なセンスの良さだね、と感心していた。

ほんとに、2ちゃんの中に、たまに感嘆するようなセンスのものがあって、あざとくて嫌~な感じで退屈ないくつか(たくさん)の現代美術と呼ばれているもの(または自称しているもの)よりずっと好きである。

アガンベンの話をしていて、もしかしたらレヴィナスのほうがいいかも(私に気持が通じるところがある)という話になった。

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2010年3月17日 (水)

「デッサンの基本」第5刷り  Twitter

3月17日

1時過ぎから、NTTの人が来て、大もとから部屋までの線と差し込み口を取り替えてくれた。2時間半もかかった。お金もかかった。この建物に付いていたもともとの設備が、ネット用じゃなかったって、今更・・・。があん・・・でした。

Twitter,よくわかんないけど、初めてみました。

もたもた、登録手続きなどしていたら、ナツメ社さんから、また重版のメールが来た。びっくり・・・!デッサンなんてものに興味ある人、世の中にあまりいないと思ってたんですが、思ったより、ずっと、売れたので、驚きです。買ってくださった方、本当にありがとう存じます。

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2010年3月16日 (火)

 毛利武彦 中川幸夫 種村季弘   電話  自転車

3月16日

電話が、通じはするのだが、数十秒で切れてしまうようになり、頼みの綱のSkypeも、同じ状態になる。ケイタイを持っていないと、こういう時は、たいへんである。公衆電話からNTTに電話。ウィルスセキュリティゼロの仕業じゃないらしい(ほんとうか?)。

電話機は、ファクシミリも、留守電も壊れているのだが、敬愛する恩師、毛利武彦先生ほか、数人の、大切な人のしゃべり声が入っているので、買い換えていないのである。

さらにその前使っていた電話機は、愛する中川幸夫さんや種村季弘さんとの会話が入っているので、それを消したくなくて、壊れてもずっとコンセントをつないでいるのである。

種村さんが生きておられるうちに、ドイツに住みたかった・・・留学先を探してくださったこと、思い出すと泣けてたまらない。種村さんと、中川さんとの個人的な思い出は、好きすぎて、苦しすぎて書けない。

今日は、母の外科や、デイケアや、訪問医療やら、いろいろ、友人に頼んで電話してもらい、すぐにぶつっと切れてしまうSkypeで、何回もかけなおして、ぶつ切れに何度も話を繋いだ。

自転車(15年前に買った)も、タイヤチューブがパンクしているので乗れないのだが、修理するべきか、新しいのを買うべきか迷いながら、ずっと徒歩のみでがんばっている。

瑣末な話だが、やかんも壊れている。ピーピーケトルの笛が取れ、蓋のネジも取れていて、毎朝やけどしそうで、ひどく危険なのである。

今、もう朝の5時すぎ。この頃、やっと、本のための文章を書くのに、勢いがついてきました。私の場合、カオス状態の苦しい準備期間が長く、絵も文も、加速し出すとスピードは落下する物体みたいに高まる。

Twitterをやってみようかな・・・と思っています。今はどこにいるかわからない昔の友人と話せないかな、と思ったり、けれど、対人恐怖症気味なのと、あまり頻繁にPC開かないんで、どうなんでしょう・・・?

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2010年3月14日 (日)

ミモザ

3月12日

ドイツにエアメイルを送るために、阿佐谷の郵便局に行き、ついでに、団地のあたりを散策。

何本ものミモザの木が一斉に満開だった。団地の中のミモザは、桜の樹のように、少してんぐ巣病になっていた。今のうちに病気の枝を切り取って焼却するべきなのに、余計な草刈り(シロツメクサやハルジョオンやタンポポも全部みな殺し)ばかりやっていて、肝心の樹や草を大切にしていない。

蕗の薹がいっぱい、もう咲いていた。沈丁花の強烈な匂いに、歩く途中で幾度も出会い、振りかえって、そのありかを確認した。幸せそうな犬の散歩に、何度もあった。

3月11日

ケアマネさんと、マッサージの人と、ベッドの柵の会社の人と、今日初めての訪問医療の医師と、アシさんと、たくさんの人で、ベッドひとつでいっぱいの狭い部屋の中がたいへんなことになった。

なんだかんだの打ち合わせで、くたくたに疲れた。

石屋さんのところに実のなる樹があったでしょ?と母が言った。よく覚えてたね。枇杷の樹だよ、たくさんもらってたでしょ。

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2010年3月11日 (木)

ドイツ  /  母の怪我(頭)

3月10日

東京語大のI先生と会う。

お忙しいところを抜けてきてくださった。私のほうはひどく緊張していたが、率直で、心ある先生だったので感激。

これからどうなるかわからないが、作品に心血を注ぎたい。

3月9日

母がきのう、また転倒して、今度は頭を3針縫ったというので、びっくり。午前中、外科に連れて行く。みぞれの降る寒い日。頭と言っても、首に近い後ろ頭だったので、大事には至らず。とりあえずほっとした。

夜、雪になる。

アガンベンの「アウシュビッツの残り物」を読み始める。言葉を精確に分類していく(知識人の)言葉でなく、リアルに近づくための言葉、自分の中のなまなましい「証言」の言葉を探したい。そのためには、むしろ言葉はあいまいになるはずだと思う。

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2010年3月 5日 (金)

市村弘正  /  母の怪我 

3月5日

がんセンター。血液検査4本取られて、見ただけでぐったり。その後2枚胸のレントゲン。11350円もかかった。

その後実家に行き、母を外科に連れていく。野菜と鰯のすり身の煮物、おいしいと言って食べてくれる。

坂の途中の小料理屋の五色の椿の木の下で、ほら、椿満開なのよ、と言うと、あそこの枝のが、一番大きい、と指をさす。眼で見る快感を知る者は、生きている。

3月3日

市村弘正さんと茅ヶ崎で会う。その前に1時間ほど、東海岸という地名の、不定形に屈折した細い路地を歩いた。

3月2日

2月28日(日)の夜、母が室内で転んで、肘の薄い肉がV字に大きく裂ける、けっこう大きな怪我をした。月曜の朝、近くの外科に行き、出血がひどいので、とりあえず傷の中に止血綿を詰めて、ざっくりと縫った。

きょう(火曜日)は、私は、まず東京医科大に行って、母の在宅診療のための診断書と紹介所をもらいに行く。きのうから風邪の熱がきつくて、はあはあ言いながら小走りに急いだ。

3階で医師に面談してから、1階へと階段を下りて、ふと気付くとマフラーを無くしていた。会計から各種登録に回されて、相当待たされてから、防災センターに問い合わせに行った。紫色で、けっこう大きくて、こういうモコモコとした素材、なんて言いましたっけ?とぼーっとした頭で尋ねたら、70がらみの警備員さんに、「ふりーす。」と教えられた。

そのあと、実家により、母を外科に連れて行った。きょうは、気温6度くらいで、母は、しきりに寒いと言っていた。私は熱で、ぼーっとしていて、あまり寒くなかった。包帯を取ると、中のガーゼは、恐ろしいほど血だらけだった。止血綿を取って中の血を出して、細かく縫うので、とりあえず私は処置室の外に出された。家族がショックを受けるほどには、本人が痛がらないのが救いだった。

作っていった煮物を、おいしいと言ってたくさん食べてくれる。

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2010年3月 1日 (月)

浅田真央 身体芸術 アスリート

2月28日

フィギュアスケートと体操(と新体操)は、昔から興味があって、よく見ていた。言葉だけの、いんちきな、あとづけの正当化による観念や倫理的発言みたいなもの(文学、絵画、思想、あらゆる場面でよく出会う)が大嫌いで、いつも、本物の、極限の、身体そのもを見たい(そんなものを見られる機会はそう無い)と思うからだ。(私の場合、特に日本人を応援したいという気はない。身体的(芸術的)衝撃力のある稀有な才能にだけ惹かれる。)

浅田真央が彗星のごとく現れた時も、陰影(深み)のないブルジョワ的印象で、その表現に全く興味はなかったのだが、今回、「鐘」を見て、初めて、烈しい衝撃を受けた。私がドイツに行っていた間(去年の10月)に、浅田はすごいことになっていたらしい。

しかしタラソワもすごい人だと思う。(帝政ロシアの)抑圧され、理不尽に踏みにじられる民衆の烈しい怒りを表現するって、浅田に本来(最も)欠けている人生体験を、そのまま・・・・。

しかも現在のフィギュアスケートの理不尽な採点法(意味不明のルール改悪)では、まさに、今、リアルに浅田がその身をもって、その「理不尽さ」をまともに体験することになった。「鐘」の重さは、現実の重さだから、浅田が4年後にこのプロをやったほうが良かった、というのは誤りだ。タラソワは19歳に、よくぞこんな素晴らしい本物のプロを贈ったと思う。タラソワは賢い。どんな溌剌とした明るい曲でも、この採点の闇ルールには勝てないし、この状況では身体が(明るい曲に)乗るわけもない。

つまり、最も暗く、重厚な曲と、極限の難度を課したプロをやること(他の誰にもできない、フィギュアスケートの限界を破るような、異状な困難に立ち向かう状態)で、初めて「自由」な発露を得る、というわけだ。

浅田は、ノーミスで、完璧に「鐘」をやり遂げれば、金メダルもあると信じていたんだね。もちろん愚直な私も信じていた。だけど現実は、最初から全く理不尽な採点方法で、もう結果は決まっていた、というわけらしい。

FSでは、冨田洋之以来の、本当の、鬼気迫る身体と、本物のアスリート魂(侠気)を見せてもらいました。

自分の出番の直前に、世界中にさらされた中で、(わーーっという歓声と、キムの意味不明な超高得点という)公開の理不尽な暴力(凌辱)に遭った浅田の、それでも必死に集中しようとする表情ほど、胸に迫るものは無い。

阿修羅のような顔だった。「鐘」は全く暗すぎる曲ではなかった。「今」の瞬間にふさわしかった。ここで、明るく楽しい曲なんて、できるわけないし、くだらない。、身体と精神の極限の「危機」そのものだった。曲が始まって、ものすごい度胸と集中で、3Aを2回決めたあと、どんなに必死に集中しようとしても、ふっと、(何かを)考えてしまうのは生き物である限り仕方ない。

スパイラル、ツイズルから恐ろしいほどの気迫のステップを見たとき、この瞬間の最大振幅を生きる生命を見た。

鉛色、白金、閃光、波、金属、錆、狂ったように乱れる髪、砕ける飛沫、泥、引き裂かれる布、夜の森、はためく襤褸、爛れた動物、暴風、散る一瞬前の花、鳥の叫び、血のにじんだ皮膚、軋む骨、など・・・・

私の場合、(希少な芸術作品や、動物や、ごく特別な人間に)最高に揺さぶられる時には、いくつもの映像や色彩が重複して見えるのだが、まさに時の渦巻きがいくつも同時に視覚的に訴えてきて音も躍動する色彩に見え、言語化不可能な、長さのわからない時間であった。見た経験の順番も、螺旋状に混じってしまう。一瞬のまたたきの時間に、あらゆるものを同時に見てしまうので、そう感じるのだろう。

ミスと言って取りざたすほどのミスではなかったと思う。そのミスも含めて、とにかく物凄かった。(そのように極限まで、精神的にも肉体的にも、内側からも、外側からも追い詰めたのだから、当たり前なのだが)恐ろしく異質であったし、凄み、痛み、緊密、衝撃、無名色、迫るもの、必死で息をする身体そのものであった。

よく耐えて、よく潰されないで、全て出し切ったと思う。これだけひどいことをされて、発狂しないだけでも、転んで意識がぶっ飛んだりしないだけでも、すごいと思った。悔し涙も含めて、(たくらみの無い)真正面切った作品だった。誰よりも高難度で奇跡的なプロを、とにかく完璧に、ノーミスでやりたかったし、できる確信があったから、悔しかったのだ。

伊藤みどりをはるかに超え、芸術性も超高水準の浅田が金メダルを獲れないルールって理解不能。高難度な技をやるより、簡単な技をきれいにやるほうが爆点(恣意的なGOE)の出る競技なんてあり得ない。(フィギュアはいつから、こんなに気持ち悪い採点法になったのか??)

カタリナ・ビットやビアンカ・パノヴァが好きだったけれど、今回の浅田の「鐘」に較べれば、物足りないような気になる。

キムの演技は、省エネで、きれいにまとめられていたが、特に、芸術的ショックを受けない。この戦略(内容)で、機械のように正確にできるまで、何万回も訓練させられてきたのかと思うと、かわいそうだ。よく、その国家プロジェクトに、耐えられると思う。新しい困難な技に「賭ける」という新鮮味(自由)なくして、よく我慢できる、と思う。EXを見て、なんかほんとに気の毒になった。(勝利の喜びがほとばしる感じではなかった。007なんて、本人は、やってて楽しくないから、とてもEXでやる気にはならなかったのだろう・・・)

浅田は若干19歳で、こんなすごいプロをもらったのだから幸せだ。19歳で、これだけの苦しみと深みの実体験ができ、それを自分の本物の作品にしたのだから。この残虐さに耐えて、今までなかった艶が出てきたように思う。

ロシェットはいつもどおり、平凡だった。Pチャンはもっとひどい(不気味)。ウィアーは良かったのに(採点が)気の毒だった(色気も愛嬌も技術もあるのに)。美姫もちょっと(採点が)、かわいそうだった。

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