眼で見たもの 直接性
3月19日
がんセンターに3時過ぎに電話して、この前の血液検査の結果を聞く。変化なし、とのこと(治ってもいないけれど、進行もしていない)。
眼で見たものをそのまま、言葉で描写しようと試みている。それを、本にしたいと思う。「あんちりおん」になるのか、もうちょっと大がかりな本になるのか、まだわからないが、とにかくそれをやり遂げるために文章を書いている。
眼で見たものをそのまま言葉にする、と言うと、知識人は必ず言う。そんなことは不可能だと。
言語というものが既に、あまりにも膨大な歴史と間接的なもの、比喩を恐ろしいほど含んでいるのだから、と。
けれど、私は言語学者ではなく、画家なのです。
「直接性」という言葉も奇妙な言葉だ。人間である限り、背景を持っているし、生まれおちて言語を持ったら、もう直接性は無くなるのかもしれないが、それでも、なまなましい感覚というものには、それぞれの次元がある。
たとえば、ジャコメッティの言葉などは、「私の現実」というものに誠実に対峙しようとした言葉だと思う。若林奮さんの言葉もそうだった。
共通の言語で話すのは難しい。実際の感覚に言葉をできるかぎり添わせていこうとしたら、ほとんどの人には理解されない。
いつも、瞬間ごとに、その会話の文脈で言葉の意味を判断しなければ(判断されなければ)ならない。だから、私は、さんざん時間をともにしてきた数少ない濃密な関係の人としか、話すのが怖いのだ。
あまりよく知らない人に、ああ、わかるわかると言われたら恐ろしい。
説明できないもの、言明不能なものを書きたいのです。でも、ある程度は伝達可能にしなければならない。
私は言語のテクニシャンが嫌いだ。経験としての身体感覚が強烈な人が好きだ。私は言語上級者でうそつきな人が嫌いだ。
「美しい絵画や美しい彫刻を実現するために私は作ったりしない。芸術は見るための手段にすぎない。どんなものを眺めても、一切が私を乗り越え、驚かせるので、自分が何を見ているかということが私には正確にわからない。あまりに複雑なのだ。だから、見えるものを少しでも理解しようと思えば、何も考えずに模写を試みなければならない。」―――「ジャコメッティ 私の現実」(みすず書房)の中の「なぜ私は彫刻家であるのか」(宇佐美英治訳)より
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