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2010年3月29日 (月)

浅田真央 「鐘」  身体芸術  アスリート

3月29日

もう一度、はっきり書きたい。今回の浅田真央の「鐘」は、アスリートとしても、身体芸術としても、あり得ない次元(と私の身体は、生々しく、リアルに、感じた)。

これがフィギュアスケートなのだろうか!?と度肝を抜かれた、と言ってもいい。(別の明るく楽しいい曲だったら、たぶん・・・私個人は、こんなにも心を奪われることはなかっただろうと思う。)

私は心底惚れこんだもの、震撼したものについてしか書きたくない。

浅田真央の「鐘」のプログラムは、恐怖を感じるほどに、艶がある。侠気(おとこぎ)と、エロスは矛盾しない。極限の生を見せながらも、同時に端正で、豪奢である。

私の身体が、激しく動揺するほどに、このプログラムはエロティークである。

浅田真央は、曲の展開にのせて、空気そのものの動きのダイナミズムまで変化させ、色彩、質感、空間の広がりや、捻じれ、時系列まで変化させて見せた。これを見て「表現力が足りない」などと言う人は、心底俗物根性で、無感覚な人だ。

浅田真央の「鐘」というプログラムについて、なにか批判を言えるような人間は、この世にいないはずだ。そういう次元の作品だと思う。

そして、完璧にやり遂げた。浅田真央本人がそれをよくわかっていると思う。

この奇跡の価値を尊重しないマスコミはおかしい。奇妙で不自然な弾圧を感じる。

ヤフーのトップニュースで、「浅田真央が気づいていない大切なもの」<青嶋ひろの>という記事を読んで怒り心頭に達した友人が、Skypeで電話して来た。

「しかしやはり今の浅田のスケートには、フィギュアスケートとしてまだ足りないものがある。ジャンプもそのほかのエレメンツも「技術」としては完ぺきに近いが、「氷の上で自分を表現する、何かを表現する」というフィギュアスケートのもうひとつの大切な部分が、まだ少し足りない。いや足りないのではなく、それができる力を持っているのに、必要であることに気づいていないのだ。」と<青嶋ひろの>という人は書いている。

浅田真央は、「フィギュアスケートに対する「意識」を目覚めさせ」ないと開花できないんだそうだ。

ヤフーのトップに来るような記事を書く権限を持っているいる人が、こんなに非常識で、無感覚なのだろうか。単に、あの恐ろしい「鐘」を見て、その素晴らしさが感覚的にわからない鈍感な、感覚異常な人だとしても、こんなに僭越な(でしゃばりな)発言をするものだろうか?このようなリスペクトに欠けた発言を、このタイミング(金メダル)でするのは、ライターとしておかしい。

じゃあ、「表現」とは何か、をきちんと言葉にすべきだと思う。

ファンは、肉体的、精神的にぎりぎりを生きるアスリートの言葉を聞きたいのであって、一ライターの主観には興味ない。

この、<青嶋ひろの>という人は、浅田真央に関する本を書いているらしい。蛭のように、アスリートを食い物にする人なのかな、と想像した。

青嶋氏がどういう人か知らないが、直感的には、すごく嫌なもの、不潔なものを感じる。まともな感受性があれば、そしてフィギュアの周辺にいて仕事をしているのなら、選手を大切に思っているのなら、今回の「鐘」の完璧な演技で、最高得点が出ない今の採点システムがおかしいことに激しい怒りを覚えるのが普通だと思う。

文体も、ぞっとするような気持ち悪さが残る。この人は、何も見えていないのに勝手に(しかもねっとりと)自己展開している、または白々しく世論操作をしている、と感じる。

何か強い世論操作、何かの利益誘導のように感じる。なぜそんなことをするのかは、わからないが・・・。

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