« 眼で見たもの  直接性 | トップページ | 2ちゃんねる  Twitter  写真 ことば 芸術 »

2010年3月21日 (日)

剥き出しの生  ジョルジョ・アガンベン  中川幸夫  宮西計三 

3月21日

今、朝の7時過ぎ。眠れなくて、発泡酒を飲んでいる。

外大のI先生から、今から中国へ講演に行く、というメールが5時半くらいにきて、気をつけて行ってらっしゃってください!!!と返事したら、「あれ?早起きですね。」と返ってきた。

本当に最近お目にかかったばかりだが、ドイツ語のメールの訳をやってくださっている。最初、先生がひな形をつくってくださったのだが、私が、相手に対して毅然とした感じのメール文を出すことにひるんでしまったので、結局日本語から書きなおしましょうか、という話になった。

私なんかの感覚(他人からはわかりにくい、超過敏と、思いつめて考えあぐねる感じ)を汲んで、親切にしてくださる人は、本当に奇特な(無償な)人である。だって、ほんとに、自分は商売にならない人間なんだから。実際、すごく権力志向(人間的な欲望)の強い人からは、まったく相手にされない。それは、一瞬で直覚的に、相手の表情からわかってしまう。

「アガンベンのアウシュヴィッツの残り物――アルシーヴと証人」を読んでいる。

「剥きだしの生は、なにものも必要とせず、なにものにも適合しない。それはそれ自体が唯一の規範なのであり、絶対的に内在的である。」ここを読んで涙が出た。

抜き差しならないぎりぎりの生の状態では、倫理は消える。そして、いつでも、ぎりぎりの生の体験者は、実際は自分の体験を証言することができない。

これは、私たちには想像を絶する(たぶん決してなまなましくは想像することができないであろう)アウシュヴィッツのことだけを言っているのではない。

次元はさまざまに違えど、他人に見せるための(いわば営業用の、対社会のための、楽に生きていくための)自己を持たず、何かを必死に追い求めて、自分(身体感覚的)に妥協を許さない生き方をしたならば、いつでも、そこでは、いわゆる「人間の」「社会の」基準は消えてしまう。

つまり、芸術でいえば、誰も理解してくれない状況、全くの孤絶の状態に追い込まれるだろう。そこでは、究極の評価者は、「内在」、自己の希求に対する「剥きだしの」誠実さのみになる。

たとえば、ゴッホやアルトーのように。宮西計三や中川幸夫さんがずっとそうだったように。ほとんど、狂気か餓死寸前まで追い込まれるだろう。

|

« 眼で見たもの  直接性 | トップページ | 2ちゃんねる  Twitter  写真 ことば 芸術 »

文化・芸術」カテゴリの記事

絵画」カテゴリの記事

哲学」カテゴリの記事

まんが」カテゴリの記事