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2010年4月

2010年4月30日 (金)

 ルイ・フェルディナン・セリーヌ

4月30日

30日になったのか…きょうは祝日?世間のゴールデンウィークの日にちなどがまったくわからない。昼間、町に人が多かった。

最近、近くの医者からは、サクロフト、タイプロトン、アテネントイン、ロペラニール、コレポリー、コロネル、(以上胃腸関係)、マイスリー(睡眠薬)、レキソタン(動悸が激しいとき)を出された。

それでなんとか、ずうっと止まらなかった下痢と嘔吐がやっとこさ止まって来て、睡眠薬初体験も、なるほどいつもより体全体がだるくなる感じで、少し深く眠れた(?)ような気がする。それと、立ち上がれないときも、ちゃびがずっと顔のところにくっついて寝ていてくれた。

毛利先生のことを思うと、喪失感で、精神が崩れそうになるが、それでも私自身は、全く宗教もイデオロギーも天国も信じない人間で、いわゆる「スピリチュアル」関係のものが全く大嫌いで、ジンクスも験担ぎも興味なし。宇宙と一体になるとか、宇宙のエネルギーがなんたら、霊がなんたら、とか言う人も大嫌い。パワースポットとかパワーなんとかも大嫌い……自分で何かを描くなり、書くなりするしか立ち直る道はないと思っている。(まあ、親友に泣き言をいうくらいは許してもらいたい。)

ここ数日、セリーヌを読んでいて、彼の誠実さは、ものすごく慰めと励ましになった。

「ほんとうの憎しみってのは、そいつは底の底から来るんだ」「こういう憎しみはひとをぶち殺す。他にもまだ根の深い憎しみがあるだろう、そういうのはいつまでも消えずにそこらじゅうを漂うだろう。浸み込んで大地を毒すだろう。もうそこからは邪悪だけしか生えてこない、死者たちのあいだにも、人間たちのあいだにも。」  (なしくずしの死)

「戦争みたいな問題でも、本質に到達するのは容易なことじゃない、幻影はなかなか退散しない。」   (夜の果てへの旅)

「ローラは、要するに、幸福と楽観のたわごとを並べ立てていただけのことだ、人生の恵まれた側に、特権と、健康と、安泰の側にいる、そしてまだまだ長生きできる見込みのある人間はすべてみなそうだが。」   (夜の果てへの旅)

「魂というものは、肉体がぴんぴんしているうちはその装飾にもなれば快楽にもなる。」「世間のやつらは、二つの態度のうちそのときどき自分に都合のいいほうを身につける、それだけのことだ!」

「真相の中に僕はしんまで漬かりきっていた、それどころか自分の死に一歩一歩あとを付けまわされているようなものだった。」  (夜の果てへの旅)

「勉強は人間を変え、人間に誇りを授ける。人生の底まで踏み込むためにはこいつをくぐり抜けなくちゃだめだ。それまでは、ただまわりをうろつくだけだ。解放されているつもりでも、なんでもないことにつまずく。想像が勝ちすぎるからだ。言葉の裏を見抜けない。」

「相手を商売人と承知して近づくときに感じるこのい本能的嫌悪感、これこそは誰にも何も売りつけたことのない人間が自分の貧乏な境遇にたいしてせめても抱き得る慰めのひとつといっていいだろう。」

「美しいふくらはぎを眺めることと、できればそれを撫でてみること、それをこの男は人生無上の喜びの一つに数えていたのだ。」「たとえその男がどれほど偏狭な俗物であるにせよ、要するにこのピュタの奴も芸術家のはしくれだったのだ。」   (夜の果てへの旅)

      

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2010年4月29日 (木)

沢渡朔  セリーヌ 

4月28日

雨。四谷三丁目の街路に薄紫のライラックが咲いていた。雨に打たれて匂った。

沢渡朔さんに写真を見てもらいに行く。

とにかくシュテファンには、錆、廃墟がぴったり似会っている、と言われた。そして、私の作品として撮るなら、もっと、がんがん私の世界のほうに引き入れてやったほうがいい、と。言われていることは理解できるが、けれどシュテファンはシロウトだから、私個人としてはつくりすぎることをやりたくないのだ。

むしろ、相手がプロのモデルだったら、たとえばQIで会ったオスカープロモーションのK君になら、こちらの気持ちが痛まずにどんどん演出の注文をつけることもできると思うが。

強い演出は、記憶にならない。「絵」にもならない「絵」は私にとってもっと身体的な、体温とデキモノのようなものだから。

画家なんだから、もっとどんどん絵をやったほうがいいんじゃないの、と沢渡さんに言われて、描くのはいいんですけど、部屋の中に溜まっていくのが困るんで、絵なんてどんどん増えてもなんにもならないんじゃないかって思う時がよくあって…と言ったら、「ええ?!なんにもならないなんてことはないんじゃない?!いいものは死んだあとも残るんだしさ。」と真面目な調子で言われた。

確かに、毛利先生が亡くなられてから、これから絵を描いても、いったい誰が見てくれるのだろうか、という悲観ばかりが渦巻いている。この想念はどうにもならない。それで、どうしようもなく息が切れる。

絵はデキモノみたいなもので出てくるときには勝手にでてくるんですよ、と言ったら。そりゃあいいね、自然にってことだからね、と言われた。

Dsc03528 沢渡朔さん

4月27日

クリニックで星状神経ブロック注射を打ってもらって、横になって10分くらいしたら、首を締め付けられる蟇蛙のような声が勝手に出て来て、気がつくと、咽喉仏の下のあたりがぎゅっと詰まって口から息が吸えない。慌てて看護師さんを呼んだが、咽喉がしまって声が出ないで涙ぽろぽろ。反回神経のほうに麻酔が流れて、横隔膜が動かなくなったということだった。それから15分くらい、休んでいたらやっとおさまった。

4月25日

23日からずっとセリーヌの「夜の果てへの旅」と「なしくずしの死」を読んでいる。

「完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分をくたばらせたものを忘れ去ること、人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにあの世へ去っちまうことだ。棺桶に片足を突っ込んだときには、じたばたしてみたところで始まらない、だけど水に流すのもいけない。何もかも逐一報告することだ、人間どもの中に見つけ出した悪辣きわまる一面を、でなくちゃ死んでも死にきれるものじゃない。それが果たせれば、一生は無駄じゃなかったというものだ。」                   ――セリーヌ 「夜の果てへの旅」

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2010年4月22日 (木)

毛利武彦 若林奮 種村季弘 大野一雄 中川幸夫 

4月21日

膨大な数の写真を、朦朧とした頭で整理していた。ほとんどが枯れ植物や、奇妙な風景、野良猫などの写真だが・・・。

毛利武彦先生と若林奮先生と種村季弘先生、そして大野一雄先生と中川幸夫先生の写真を、記憶をたどりながら、整理した。

毛利先生の写真は、自分で思っていたよりもあった。やはり、おそろしく美しい顔。十年前の写真など、特にぞっとするほど、かっこいい。

若林先生は、お元気なときは、記憶よりもふっくらしてらしたんだな、と悲しくなる。

種村先生・・・雨の中の記憶。眩しい山道の記憶。

中川先生は、オマージュ瀧口修三のときなど、思いっきりはじけるようないい笑顔。天空散華のときは、ものすごく充実した幸せそうな笑顔。

大野先生は、雨の中、突然タンゴで踊ってらしたっけ。私の個展のときには、マヘリア・ジャクソンのI believeで大きく手を挙げて踊ってくださった。

いろんな写真を見るのは不思議なことだ。自分に対して常に持っている自分の経験のイメージより、自分は強烈な経験を生きている。それなのに、またすぐに、これではまだ足りないと思いこむ。「手に負えない暴力」との出会いは、これからものを書くことによってしか実現できないのかもしれない。

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2010年4月20日 (火)

毛利武彦

4月20日

クリニックに行って、注射を打ってきた。

少しずつ、自分に出来る限りの仕事をすること。疲れたら、仮眠をとって、また仕事すること。有限な生命力を大切なことだけに使うこと。嫌いなものにつきあわないこと。

毛利先生との記憶。たくさんの思い出が錯綜する。

昔、私が癌センターに入院したとき、病院の公衆電話から友人Tに電話した。もう、もしかしたら、だめかもしれない、と。そうしたら、Tが、いきなり「毛利先生に電話しなさい。」と言ったのでびっくりした。私はそのとき、「だって、最近、ろくに絵を描いていないから、ずっとご無沙汰しているから、今更恥ずかしくって、申し訳なくて、できないよ。」と泣いた。Tは、「いいから、だいじょうぶだから、とにかく電話しな。」と言った。

そしてあまりの緊張で、震える手で電話した。私にとって、毛利先生は、数年間ろくにまともな絵を描いていないような自分が、年賀はがきを出すのも恥ずかしくてできなかったくらいなのに、こんなときに甘えられるような存在ではなかった。

「先生、今がんセンターにいます。明日、手術なんです。もう、お会いできないかもしれません。先生のお声が聴きたかったので…すみません…」

毛利先生が何と言ってくださったのか覚えていない。ただ、とても驚かれて、心配してくださっていた。

翌朝早く、全く知らない先生が病室にやって来て、「やあ!福山さんてあなた?と言われた。「僕はここの外科部長なんだけど、慶応高校のときの毛利先生の教え子で、きのう、かわいい教え子をよろしく励ましてやってくれって先生から電話をもらったから。手術、だいじょうぶだから、気を強く持って、元気だして、頑張ってね。」と言われた。

そして毛利先生は、孔雀の版画を家に贈ってくださった。「祈心回癒」と濃い鉛筆で書かれてあった。

退院して、創画展などで、お目にかかった時、先生!と声をおかけすると毛利先生は、必ず、「おや、まあ!…(よく来たね。)」というように両手を大きく広げて眼を丸くして、少しおどけたような仕草で笑いかけてくださった。

あれから、幾度も、先生が具合が悪くなったとき、そしてまた回復されたとき、奥様が、「毛利が倒れたら、あなたも倒れちゃうものね、それがよくわかってるから…毛利にはまだまだずっと元気でいてもらわないとね。」とおっしゃっていた。

あのとき、死にかけていた私と対照的に、咲き誇る洋蘭のような華やかな美貌で、癌センターに見舞いに来てくれたTも、もういない。

一番先に死ぬと思った私が生き残ってしまった。

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我が師 毛利武彦

2009年1月7日 「デッサンの基本」に載せる毛利先生のデッサンをお借りしに行った日に

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毛利武彦

4月17日

告別式。

ふらふらしていて、なんだかあまり覚えていない。

読経…

稗田先生のあとに、阿部弘一先生の弔辞。

筆を鋭いナイフのようにして、…というところと、セザンヌの故郷にスケッチ旅行に行ったときも、ラベンダー畑に仁王立ちになって一心に描いていた、という言葉が残っている。

焼香…やすみさん(奥様)が、しきりに、私に、だいじょうぶ?だいじょうぶ?と訊いてくださって手を握ってくださった。先生のことを本に書きます、と私は泣きながら言った。

彦丸さんの、父はたくさんの人(教え子)に慕われ、幸せな人生だったと思います、父にとっては絵を描くことが生きることだった…というような喪主挨拶。(私の頭が朦朧としていたので記憶が不正確…)

いろんなことの順番が、ぐるぐると回って、記憶の時系列がわからない。

阿部先生にだけは、泣きながら深く頭を下げて無言のあいさつをした。

献花になったとき、白い花を手向けるのが嫌で、祭壇の上の花を使うなら、紫の花はないんですか、と係りの人に訊いたら、紫の花はあとから出てきます、と言われたのでそれまで待った。

薄紫のカーネーションを持ったとたん、恐怖が増した。はっきりと、死体が離れて行ってしまうのが怖かったのだ。後ろのほうに並んでいたが、列が動いて行くときに、「怖い!」と声に出して行った。

係りの人のおみ足のほうにも、手向けてください、という声を無視して、お顔の右耳の下のところに花を入れた。

棺を見送るのも怖かった。火葬場に行くバスによる人もいたが、たぶん私は、焼く時に立ち会ったら、耐えられなくなって、おかしくなってしまっただろう。

死の、のちの死が怖い。

死の、あとの

4月18日

朝まで原稿を書いていた。毛利先生との会話。私の人生の地獄のような時期にどんなに救ってくださったか・・・・・

「絵」についての、根本的な、時にシヴィアな会話。

とても正直な、・・・・掛け値のない、ほんとうの言葉。

秘密の領域として、誰にも言わないできた師との会話も、今は書くべき時だと思う。(それが出版できる内容なのか、危険すぎるのかは、また別の段階の話である。)

(私の)頭は自分で予測したより、文章が書けるくらいには、意外にしっかりしているようだ。ただ、体は、どっと疲れと痛みが出てきている。

棺の中の美しすぎる顔が限りなく何度も浮かんできて、私が、もっと仕事を必死でがんばれば、また、今までずっとそうだったように、師のご健康を、常に24時間必死で祈れば、毛利先生はたすかる・・・死ぬことはない、という意識に、繰り返し襲われる。

これって、なんなのだろうか?私が狂っているのだろうか・・・それとも、これで、正しいのだろうか?

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2010年4月18日 (日)

毛利武彦

4月13日

ここ10年以上、この日が来るのを恐れて、恐れて、夏の猛暑の頃、冬の雪の頃、いや、いつでも、24時間、ふと思いついては、胃が捻じれるような痛みを感じ、眼の前が暗くなったり、吐いたり、泣いたりして来た。

それなのに、13日の夕方、美大の同級生から電話が来た瞬間、なぜか、そのことを、思いつかなかった。ああ、Oさん、どうしたの?と私は明るく応えた。

最大にして最愛の師、唯一、私が震えるほど畏れる画家、精魂込めた仕事を見てもらいたいこの世でただひとりの人、毛利武彦が亡くなった。

えっ!?なにも、なにも、わからなかった。わからない。信じられない、と私はただ繰り返した。Oさんも、僕もまだ、実感がない、と言った。

最後の、本当に最後の、ほんとうにすごい先生がいなくなってしまったね、と二人で言った。(もう、この世に誰もいない・・・・・)

この(これから来るであろう)異様なほどの苦しみは、毛利武彦が、たまたま自分の先生だったからとか、自分をかわいがってくれたからではなく、毛利武彦が、唯一無二の、最後の稀有な、「画家」であると思うからである。

毛利武彦のような稀有な画家はどこにもいない。毛利武彦のどんな亜流が出ようとも。

もう、誰も、この世に心底敬愛できる画家がいない、ひとりもいない、という事実が、重たすぎて、真っ暗な金属の空が自分の真上からのしかかって身体を潰してくる感覚に、耐えられるのか、これから、どうなってしまうのか、わからない。わからない、としか言いようがない・・・

ほとんど虚無につかまってしまいそうだった。

もう、ほとんど絵をやめている美大時代からのほんとうの親友にだけ、電話をした。それ以外の人にはひとことも、なにも言いたくもなかった。

さなえちゃんは、まず、最初に、「ふっこ(私の呼び名)、だいじょうぶ?」と言った。

「ずっと、ずっと、何年も、このことを心配して苦しんで来たんでしょ。」

「うん。ずっと・・・・・毎日、体がひどく痛かったよ。」と答えた。

それからは、もう嗚咽してしまって、「うまくしゃべれなくてごめん・・・」と言いながら、なんとか式場の説明をした。さなえちゃんは、クリーニング店でパートを始めたので、行けるかわからないけれど・・・・どうか、悲しみすぎないで、と言った。

4月15日

さなえちゃんからA4の郵便物が来ていたので驚いた。封を開けると、昔(私ががんセンターから退院して彼女の家に遊びに行った頃)さなえちゃんが描いてくれた私のスケッチと、昔から変わらない優しいていねいな文字の手紙がはいっていた。

「毛利先生は情の深いとてもいい先生でした。ふっこがあまりにも悲しんで体調を崩すのではないかと心配で、慰めにはならないかもしれませんが昔ふっこのことを描かせていただいたスケッチがででてきましたのでコピーを送らせていただきます。ふっこのように学生時代と変わらない人は珍しいですね。

毛利先生はふっこの才能を認め、ふっこの好きな詩人の名前がわかる程ふっこの深いところを理解していらした先生です。」・・・・・・号泣・・・・

4月16日

通夜。

どこでどう電車を乗り換えたのかもわからなかった。長いエスカレーターで幾度も吐きそうになった。呼吸がおかしい。口で息をしているが、時々酸素不足でくらくらする。

呆けたように、震えながら増上寺にはいった。たくさんの人々の中、席について、自分が力なく悲しんでいるのか、同席しているたくさんの人たちに、言明できない何か怒りのような感情を抱いているのかわからなかった・・・・・

そのとき、「ふっこ。」という声がななめ後ろから聞こえた。さなえちゃんだった。「うそ・・・!来てくれたんだ。」そのときばかりは素直に泣き崩れてしまった。私がどうなってしまうか心配だったから、クリーニングのパートを早番に替えて来てくれた、という。

私は、帰る前に、棺の中の先生の顔をじっと、全て焼き付けるように見た。

趣味の良い深い苔色のブレザー、グレーのシャツ、艶消しの渋いネクタイ。

巻き貝の内側のようなはっきりとした痩せた耳のかたち。白くすべらかな肌。落ちくぼんだ美しい眼がしら。すらりとした余分な肉のない縦長の鼻。彫刻的な、きわめて美しい、老人らしくない若々しい清潔な相貌。ほんとうに、見惚れるほどの美男である。

ほんとうに死んでいるのだろうか?

こんなに美しい晩年があるだろうか。

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2010年4月 8日 (木)

ドイツ    

4月7日

かねてからメールでやり取りをしていたベルリンのNoraさんと、初めて対面する日。3,4日前から緊張していた。雨の渋谷で待ち合わせ。外大のI先生が来てくださったのでだいぶ気は落ち着いた。

Noraさんは大江健三郎などをドイツ語に訳している翻訳者。あとNoraさんのドイツ人のお友達がふたり、画家で東工大で教えているZさんと、ドイツ現代史専門のAさんがいらした。

感じのよい気さくで知的な人たちだったので、会ってしまってからは自分でも意外なほど(私にしては)話せた。久しぶりにビールおいしかった。英語も無意識にしゃべっていた。

ベルリンでの発表はどうなるかわからないけれど、今更焦ってもしかたないし、諦める必要もないので、自分に今できることをやろうと思う。

Noraさんに、デッサンの基本の本のモデルを探して、Stefanに出会えて、彼が神秘的で、静かで、知的で、すごく美しい雰囲気を持っていたので、ドイツが好きでたまらなくなったのだと言ったら、そう、今でもずっと、続いている?と優しい眼で言われ、わからないけど・・・たぶん、きっと、ずっと、と答えた。

4月8日

朝、Stefanから待ちに待った長いメールが来ていた。

最近、新しい仕事と引っ越しで死ぬほど忙しかったのだそうだ。ゲッティンゲンのアパートに贈った抹茶が戻ってきた時は焦ったが、その時はマンハイムとハイデルベルグの大学でアルゴリズムのプロジェクトに関わっていたとのこと。

Lünebuger Heideの近辺でテクニカルプロジェクトのリーダーになったのは、とりあえず良かった。

今夜は、とりあえず、Stefanの写真にProsit!

Twitvideoも、Stefanの写真をUPしたら、もう他の雑多な日常の写真をUPする気がうせてしまった。

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2010年4月 3日 (土)

ジョルジョ・アガンベン アウシュビッツの残りのもの――アルシーヴと証人

4月3日

ついにジョルジョ・アガンベンの一冊をまずは最後まで読み終えた。感涙・・・・素晴らしい。こんなすごい本を書いた人が同時代に生きていると思っただけで、鳥肌が立った。これからずっと、繰り返し何十回も読むと思う。とにかく、今は興奮してしまっている。

これは「証言」とはなにか、「証言」するものとはどういうものか、という問いの本である。

さらに言えば、いったいなにが、「証言を成り立たせている語ることの不可能性と可能性のあいだのつながりを」「断ち切っている」のか、という問いの本でもある。

ここ十年以上、ずっと、言葉と身体の関係に悩み、苦しみ、知識人のシンポジウムやら、イヴェントやらに行くと、必ず自分だけが激しい身体的苦痛で、全身汗だくになってしまい、周りを見回しても、誰一人苦しんでいる人はいないのに、それがどういうことなのか言明できず、本当に苦しんだ。

また、自分のドキュメンタリー映画を撮られた(被写体となった)時も、「言表」の可能性について、また、「証言」と「収奪」について、内臓がちぎれるくらいに苦しんだ。

そういう全てのことについて、応答してくれている本であり、私にとっては、一生に読む本のうちに、おそらくベスト5にはいるくらいの本であるような気がする。

この本は、フーコーやバンヴェニストなどの論を参照しつつ、彼らが「文や命題ではなく、まさに言表されるものを明確に対象とし」、「言説(ディスクール)のテクストではなく、それの生起の事実そのものを問題にした」ところから、「主体、自我、意識のようなものが、言表されるものに、つまりは言語活動の純粋な生起になおも一致できるのか、という問いを果敢に提起」したことを論じている。

とりあえず、今はここまでしかことばにならない。

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