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2010年6月

2010年6月26日 (土)

「シャティーラの四時間」  /  柏葉紫陽花 枇杷

6月26日

「シャティーラの四時間」を読んでいる。パレスチナに関するジュネの書いたものを読むのがちょっと不安だったのだが、不安を裏切る素晴らしいジュネの文章とインタビューでの「言葉」であった。まどろっこしい学者とはまったく違う、ジュネそのものの言葉。

文学者にもいろいろいるが、ジュネは、「眼」を持っていた。だからジャコメッテイとも気持ちが通じた。ジュネは言葉でアリバイ工作をして正しいことを平然と言う人たちとは違う。ジュネは信頼できる。

6月25日

昨日歩きすぎたために腰痛、背痛、肩痛。

石屋のおじさんが、枇杷の樹の高いところの蜜柑色になった実を高枝切り鋏で採っていた。地面に散らばったものを三つもらった。おじさんに樹について問いかけたら恥ずかしそうにしていた(昔の職人さんらしい人だ)。もう何十年にもなるが、肥料もやらないで自然にたわわに実っているそうだ。

雨を恋い、紫陽花の濃い瑠璃色の花玉と白の花玉の間を雨昼顔の蔓が縫って行く。

6月24日

鵜飼哲さんからジャン・ジュネの「シャティーラの四時間」が送られてくる。

3時過ぎに出かけて、母を外科に連れて行く。検査のためのレントゲンだったが、以前転倒した時に肋骨を折っていたことが判明する。

そのあと新宿まで歩いて出る。西新宿のビルの庭は柏葉紫陽花(カシワバアジサイ)で埋もれていた。緑がかった白い円錐花序がひんやりした感じを与える。

ヨドバシカメラで英語もできるコンシェルジユさんに説明を聞く。

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2010年6月18日 (金)

若林奮 /  収奪

6月16日

若林奮さんの残した言葉、若林さんについて書かれた文章を読んでいる。

私個人の記憶を書こうとして、毎日もがき苦しんでいる。なまぬるい文章ではとても書けない、と思う。

若林奮さんのあの異様な繊細さと、はっきりした正直さと……「正直」というのはつまり、自分の体験により持続された思索や身体感覚からくる言葉なので、嘘がない、ということだ。

毎日同じ場所で、川の水、気象、植物の成長などの変化を観察(体験)すること。人間でないものに実際に寄り添うこと。視覚を中心に全身体感覚として記憶する。

私が若林奮と毛利武彦を心底信頼したのは、芸術家としての生存に他者からの収奪がないからだ、とも言える。

どちらも個人的な体験に水源があり、身体と精神をぎりぎりまで使って、現場に行って描いたおそろしいほどの素描が残っている。

若林さんは、日の出町の、水源地に漏出するおそれのある有害物質について、明確な処理案をもたないまま進められるゴミ処分場建設への反対運動で、トラスト地に「緑の森の一角獣座」という作品をつくり、土地を保全しようと闘った。東京都の石原都知事はそれを作品と認めず、庭を破壊(強制収容)した。

長い戦いの中で、その都度若林さんは手を打って行動し、公権力への対抗で命をすり減らしたのだと思う。若林さんは亡くなったが、この処分場の汚染問題は解決していない。

若林さんは自然の中の生き物の居場所を考えることを彫刻にしようとしていた。自分と関わりのある空間を限定的に見る、ということ……それをどれだけ感じ取っているのかが常に重要だった。私達にできることは有限であるということ。彼の芸術的生存はあまりに誠実だった。言葉ではぐらかすようなインチキがなかった。楽観的でなく、これ見よがしでなかった。

もういちど「収奪」ということについて書くと、実際に心身全体に損傷を受け、どれほど個人的な厳しい体験をしたのか、自分がどれくらい感じ取っているのかは関係なく、当事者でないのに他者のそれをネタにして、人に見せるための作品(自分のお手柄)をつくる人間がいる。そういう人間は苦しんでいる当事者を救うどころか、その生命を収奪する。

他者の痛みの度合い、損傷の程度を知ることはできない。それでもそういう残虐な体験を自分だけは被らないようにして、それをあたかも自分の権利のように平然とネタにする人はたくさんいる。

残虐な体験こそが作品になるからだ。人の関心をひき、揺さぶるからだ。逆に言えば、体験なしにセンスだけで何かを作るなら、持続に限界がある。制作の思想(動機)の源が稀薄ならやらなければいいのに(やりたがる)。

不幸な経験、個人のつきあいの秘密の領域、喪の秘密まで収奪される。

S0002_3 若林奮先生

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2010年6月13日 (日)

限界概念  身体

6月12日

吉田文憲から、だいぶ時間をかけて手紙の返事が来る。覚書。

身体の個別性(私の身体が教えてくれる)ということを根拠にして、それを、より開かれた、「未決」の場所につなげようとすることが可能か――それは、原理的には、誰にもわからない。

《自分と「作者」とは何の関係もない》と「それを認める」こともウソになるし、「それを認めない」こともウソになる。これは歴史的にも緻密な議論がある、が、しかし…

A3のコピー用紙にびっしり5ミリほどの文字が書き込まれている手紙に対して、こちらはA4の紙に7枚、今考えていることを書いて、すぐメール便の速達で出した。久しぶりにボールペンで長い手紙を書いたら、腱鞘炎のように指の関節が痛んだ。

W杯アルゼンチンの試合を見る。

6月13日

TVで体操NHK杯を見る。

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2010年6月10日 (木)

毛利武彦

6月10日

火曜日に見に行った「毛利武彦の軌跡展」の覚書。

毛利先生の父、教武氏の作品(手の彫刻)だけでも、すでに圧倒される。高村光雲門下だと伺うが、言葉を失う迫力。

やはり素描はすごかった。根津時代のものは、十代の素描なのだろうか?(毛利先生は二十二歳で兵役に服し、二十六歳で復員されたときには、お宅は空襲で焼失している。)

横臥する人体。馬。素描の段階で、徹底して「見る」ことからすでにポエジーになっている。私がよく描く枯れたまま花瓶にさしてあるアネモネを、師も描いていたのにしんみりした。

「森」。画集の写真で見ていたのとは、まったく違っていた。実物の絵の空は甘やかなトルコ石色。透明な光が見えた。

「風景B」。これも実際の絵具の肌あいに触れたら驚くほど新鮮だった。岩絵の具の粒子の細かい、粗いの扱いわけが、厳密に詩的だった。

「刈る人」。そうとう粗めの赤色の岩絵の具。画面の夥しい亀裂。

「広場の鳩」。少女の手に食い込む鳩の爪の描写がすごい。鳩の眼とくちばし。鳩の正面の貌。それから右端の陰として描かれた鳩の羽のきわの白緑青の気。人物の顔は陰になりしんと静まり返っている。妙なる空間が鳩の修羅を包んでいる。

「サウロの回心」。「傾く、倒れる、堕ちるといった状態への観念的嗜好にひきずられていたのだろうか」と師がかつて書いている。馬の顔は、とがったもので絵具の上から無造作に引っかいて描かれている(これも印刷物ではわからない)。馬には耳がない。落下の背景にはそれを水平に受け止める面がある。(ここでは水たまり。)

「眩」。鋭いがうるさくない光の表現。光を俗っぽくなく描くのは大変難しいと思う。

毛利武彦の絵を今一度たどるときに、毛利先生の師が山本丘人だったことをもう一度(図録によって)たどってみた。

「どうも日本のものがつまらない。全然興味が湧かないんだ。」「光琳だとか宗達だとか、」「なんの感激もないんだ。」「鉄斎だってあれは支那の山水です」(毛利先生がメモに書かれたという山本丘人の言葉より。)

「丘人が当時係わって審査をつとめた日展では、有力な画塾による派閥の力学で入落から受賞までが決まるという旧態依然の惨状を目の当たりにし、またそれ以上に日本画を何とか時代に見合った新しいものにしたいという気持ちから、」(「オマージュ山本丘人展」練馬区美術館 図録より)昭和二十三年に、在野の新しい団体「創造美術」を結成。

山本丘人は「ことさら日本画の「変革」とか「近代化」などとは叫ぶことなく、画壇の因習や権威、日本画の伝統的装飾感や大衆的な嗜好といったものには一切迎合することなく、新来の洋画をはじめ東洋画の古典からも吸収すべきものは貪欲に吸収しながら」、(「オマージュ山本丘人展」練馬区美術館 図録より)

こうしてみると、そのまま毛利武彦の気質にもあてはまる。

山本丘人は「心もち」という言葉を大切にされていたようだ。それから「心象風景」という言葉。「本当は絵ではなしに少年時代から詩を書きたいと思っていた。」とも書いている。

私にとって毛利武彦の絵は、山本丘人を超え、さらにシャープに、真の前衛として、最後まで戦った硬質な詩に見えるのです。交わした言葉、すべてが箴言であり、詩であったともいえる。毛利武彦の存在自体がつねに闘争であり、詩であった。

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2010年6月 7日 (月)

大野一雄 / 毛利武彦

6月7日

私の師、毛利武彦の軌跡展が、7月19日まで練馬区立美術館で開催されています。

休館日 月曜(ただし7月19日は開館) 観覧料無料http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/

約20点ということなので、少ないような気がしますが(もっと見たい)……体調の良い日に行こうと思う。

「狂気から知性が生まれるとしても不思議ではありません。しかし知性から狂気は生まれません。できたならば、狂気のなかに深く入り込んでいることを願っています。」

「他人ごとのように踊りを見るな。犠牲じゃなくて、何かをやってあげる。なんとかしてあげたい。だけどこれでは気持ちだけであって迫力がない。気が狂わんばかりの気持ちが踊りを決定的にする。」

「顔は微笑みを浮かべる。顔に微笑みが浮かぶ。しかし内部では猛り狂っている。そんななかで稽古ができたら、こんな幸いなことはない。この微笑みは悪鬼の形相だ。悪魔は決してすざまじい顔つきで登場しない。微笑みを浮かべながら登場するんだ。かつてみたこともないような美しさと、鉄のような硬質のものと、まったく反対のような相貌、姿を持っている。悪魔の傷跡は表面にはけっして現れないものだ。かさぶたが外側にこびりついていないで、中のほうにかさぶたがこびりついている。」――大野一雄 「稽古の言葉」

「コンクリートと抒情なんかは、分けて考えられるものではなくて、一つの世界の中にある。抒情は、大事にされないというか、一段低く見られる傾向があるけど、私は沢山の生死の中から命が成立するように、コンクリートの中に、あるいはそれと重なって、抒情もまた成立しているのだと思います。抒情とコンクリートに完全分離した中で、狂気としてそれらを冷静にたぎらせるのなら、話は別です。耐えられないほどの抒情にふれたいと思っています。死にたくなるほどの抒情を。死にたくなる。生きたくなる。泣きたくなる。遊びたくなる。」――大野一雄「舞踏譜」

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2010年6月 5日 (土)

大野一雄  身体芸術

6月5日

98年に、大野一雄舞踏研究所に舞踏のレッスンを受けに行ったときの写真。「舞踏」を自分でやってみるのは初めてなので、当然緊張していた。

大野一雄先生は「まず、皆でフィルムを見ましょう。」と言われて、「アルヘンチーナ」のフィルムが上映された。カスタネットを手と一体化したように操り、軽快な曲で、蝶か小鳥のように、典雅に愛苦しく舞うアルヘンチーナ。宙に舞っているときの速い脚の動きが私の記憶の中で回転する。

そのあと、もう一本、一雄先生が石狩川の河口で、吹きすさぶ風にさらされ、水につかって舞っているフィルムの上映。おそらく「石狩の鼻曲り」という公演(「鼻曲り」とは鮭の異名)のときのフィルムと思われる。

そのあと、一雄先生のお言葉。

「鮭が生命の源泉を求めて、ただ一途に必死に川を遡る。そこで産卵するために、ただ無心に。銀色の鮭がどんどん黒くなる。それから真っ赤になる。そして産卵して、力尽きて死んでしまう。そして無数の精子がひとつの卵子をめがけて突進して、ひとつの精子が一つの卵子と結合して新たな生命が生まれる。そして生まれた稚魚は、そこにある母の死骸を食べて成長する。肉を食べて骨だけになったら、そこが稚魚の遊び場になって、そうやって、死んだものの恩恵の中で生命は生きている。

それから、ヨーロッパの教会に行った時、床いっぱいに張ってある大理石の下に、死体が大切に収められていた。そのとき、私は死体の上を歩いていた。同時に私は死者をおぶって、背負いながら歩いていた。また同時に、私は死者に背負われながら歩いていた。」

というような(十年以上前の私の記憶なのであいまい)お話をされて、「じゃあ、今の話をふまえて、皆で動いてみましょう。」と言われた。はじめてだったので、どう動いていいかわからなかったが、とにかくやってみた。一雄先生は「みんな、まだ固い。もっと自由に解放して。」というようなことを言われたような気がする。その次にまた、何かヒント(言葉)をくださって、もう一度やる、という感じで何回か踊った。

そして、レッスン終了のあと、おやつタイムがあり、そのあと、曲をかけて、一雄先生が身体がじっとしていられない、生命のはじけるような感じで庭に出て踊りだされた。バンドネオンのスペイン風の速いテンポの曲だったと思う。そのメロディを今も口ずさめるが曲名はわからない。

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アベリア(花衝羽根空木 ハナツクバネウツギ)の白いちっちゃな花を胸に挿して。

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そのときのレッスンでは、話されなかったが、一雄先生のそのときのお話には戦争の体験のことが強くあったのだと思う。誰かが死んで、かわりに生き残ったものがいる、そうして私達は、今生きている、ということをおっしゃりたかったのだと思う。それも、さりげない言い方で、心が通じる人にだけは通じるだろう、という淡々とした話し方で。

「戦時中、私はニューギニアに二年間働いていました。ある時には八千人の人が移動して、前の人が道に迷うと、それについて行った六千人が死んで、二千人が残った。そして食うや食わずで体がボロボロになって、おできができてね。」

「いよいよ負け戦になって終戦になったわけです。一万トンの船に何千人と乗って日本に向けて出発する。その時に、いろいろな人が、これから出発する、元気を出してやろうと言うのだけれども、次から次へと人が死んでいく。すると、」「水葬をやるわけです。」「本当にそれはね、悲しいですよ。」

「日本に帰ったときに「水母の踊り」をすっと演ったわけです。ニューギニアの帰り、生者と死者たちの体験。多くの人が船中で死んだ。水葬をして帰って来た。だから私は「水母の踊り」を演らざるをえなかった。」 ――「大野一雄 石狩の鼻曲り」の中の大野一雄×吉増剛造対談より 

6月4日

大野一雄先生の写真を整理して、ネガを探していたら、朝7時になってしまった。とくに95年から2002年くらいまで、私個人の人生では、(公演、個展などを中心に)大野一雄先生、若林奮先生、中川幸夫先生、種村季弘先生、それから吉増剛造さんや、笠井叡さんとの交流、が頻繁にあり、今から思えば、信じられないくらい彼らとの濃い体験に彩られた時間だったのに、今さら驚いた。

ネガを順番に並べてみると、息つく間もないほど次から次に強烈な時間の目白押しだった。

二、三時間の睡眠でがんセンターへ行く。寝不足だと首のうしろが痛く吐き気がする。

帰りに新宿のヨドバシカメラに寄り、ネガをデータ(DVD)化してもらうサービスに出す。

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2010年6月 3日 (木)

大野一雄

6月3日

大野一雄先生が亡くなった。

涙で、胸がいっぱいで、まだ、うまく言葉が出てこない。何度公演を観に行ったか、それがいつの、どこの公演だったのかも、大野一雄さんのいきいきと踊る姿の記憶が滅茶苦茶に交錯していて、ただ、苦しい。

横浜のレッスン場にも何回かうかがった。

気がむくと突然雨の中で踊りだされたりしていた。そのとき夢中で写真を撮った。

舞台公演のときも、アンコール以降は写真を撮ってもよいと言われたり、だから私のアルバムには、大野一雄先生の写真が山ほどある。大野一雄を撮れるときの胸の高鳴りったらなかった。奇跡の身体を撮れる快楽。

「天空散華」のときは、36枚撮りフィルム5本は撮った。許可をもらえるなら、あらゆる思い出の大野一雄先生の写真の中の選りすぐりをUPできれば、と思う。

「一雄は写真に撮られるのがもともと大好き。できたら舞台に上がってきて撮ってほしい。パチパチ撮ってほしい。見たければもっと近づきなさいという思いがある。」――大野慶人(「魂の糧」)

特別に印象に残っているのは(全部だが)、たとえば、詩人の阿部弘一先生の「風景論」の現代詩人賞授賞式(平成9年度)で、舞台との段差がなく、すぐ眼の前で踊られたこと。

阿部弘一先生は、私の師、毛利武彦のご親友で、それで毛利先生からその授賞式によんでいただいた。(阿部弘一先生はポンジュを訳してもいる、私の敬愛する詩人です。)

(阿部弘一先生は敬愛しているが、正直、そのあと、ちょっと私が詩人と思わないタイプの人も舞台にあがってしゃべっていた。それで個人的には、なにこれ?と内心げっとなったりもした。)

大野先生が踊りながら登場したとき、ものすごくいきいきと、突然、会場が大野一雄の世界に、(痛快なほどに)がらっと変わってしまった。鼓動が、息が、かぶりつきで眼を見開いている私の全身に触れた。

無造作で、凄味があって、生命の劇的な、うわっと魂をつかまれる踊り。幻想的かつ具体的な身体。すごく美しいものが、直にこちらの身体に入って来る。たまらない稀有な経験。

その次に一雄先生にお目にかかったとき、「あの現代詩人賞の会場での踊り、本当に素晴らしかったです。」と私が言ったら、「ああ、あのときは、すごくうまくいったね。ほんとにうまくいきました。」とおっしゃったのを覚えている。

私の初個展のときに、ご案内を出した。横浜は遠いし、まさか来ていただけるとは思っていなかった。大野先生にとったら私は知人でもなく、それ以前にも、ほとんど言葉を交わしたことなどないのである。

画廊に電話が来て、私が出たら、「大野です。今、近くまで来ました。今から行きますから。」と言われた。大野一雄先生ご本人だった。えっ?……体ががくがく震えた。あまりの驚きに電話を切ってから思わず叫んでしまった。居合わせた友人もびっくりしていた。

「まさか、来ていただけるとは思いませんでした。」と言ったら、一雄先生は、私の個展のチラシを持ってらして、「この絵の花を見てね。踊りもおんなじ。すーっ、すっーって楽に手足を伸ばしたんじゃ、なんにもならないの。苦しんで苦しんで、ねじれて、もがいて、ぐぐっと抵抗して、そうやってて動いていくものなの。そういうふうに、レッスンで、皆に言いました。」と両手で大きくジェスチャーをしながら言われた。

そのとき、カセットテープを持って来てらして、エルヴィス・プレスリーの「好きにならずにいられない」とマヘリア・ジャクソンの「I believe」で、私の絵の前で踊ってくださった。

そのときの感激は言葉にできない。大野一雄先生が、最高に尊敬する芸術の師が、自分の絵を(チラシを見ただけで)理解してくださった。このことは、何があってもずっと私を支えてくれたのだし、これからもそうだと思う。

そのとき、さらに、「おみやげを持ってきました。」と言われて、小冊子と資料のようなものをくださった。「ぼくのおじも、画家だったの。」と言われた。大野一雄先生のおじ様の絵ののっている古い、変色した資料だった。もう、たまらなく、泣いてしまった。               

1998  福山知佐子個展にて踊る 舞踏家 大野一雄氏

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私の顔は涙でぐしゃぐしゃ。

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