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2010年6月18日 (金)

若林奮 /  収奪

6月16日

若林奮さんの残した言葉、若林さんについて書かれた文章を読んでいる。

私個人の記憶を書こうとして、毎日もがき苦しんでいる。なまぬるい文章ではとても書けない、と思う。

若林奮さんのあの異様な繊細さと、はっきりした正直さと……「正直」というのはつまり、自分の体験により持続された思索や身体感覚からくる言葉なので、嘘がない、ということだ。

毎日同じ場所で、川の水、気象、植物の成長などの変化を観察(体験)すること。人間でないものに実際に寄り添うこと。視覚を中心に全身体感覚として記憶する。

私が若林奮と毛利武彦を心底信頼したのは、芸術家としての生存に他者からの収奪がないからだ、とも言える。

どちらも個人的な体験に水源があり、身体と精神をぎりぎりまで使って、現場に行って描いたおそろしいほどの素描が残っている。

若林さんは、日の出町の、水源地に漏出するおそれのある有害物質について、明確な処理案をもたないまま進められるゴミ処分場建設への反対運動で、トラスト地に「緑の森の一角獣座」という作品をつくり、土地を保全しようと闘った。東京都の石原都知事はそれを作品と認めず、庭を破壊(強制収容)した。

長い戦いの中で、その都度若林さんは手を打って行動し、公権力への対抗で命をすり減らしたのだと思う。若林さんは亡くなったが、この処分場の汚染問題は解決していない。

若林さんは自然の中の生き物の居場所を考えることを彫刻にしようとしていた。自分と関わりのある空間を限定的に見る、ということ……それをどれだけ感じ取っているのかが常に重要だった。私達にできることは有限であるということ。彼の芸術的生存はあまりに誠実だった。言葉ではぐらかすようなインチキがなかった。楽観的でなく、これ見よがしでなかった。

もういちど「収奪」ということについて書くと、実際に心身全体に損傷を受け、どれほど個人的な厳しい体験をしたのか、自分がどれくらい感じ取っているのかは関係なく、当事者でないのに他者のそれをネタにして、人に見せるための作品(自分のお手柄)をつくる人間がいる。そういう人間は苦しんでいる当事者を救うどころか、その生命を収奪する。

他者の痛みの度合い、損傷の程度を知ることはできない。それでもそういう残虐な体験を自分だけは被らないようにして、それをあたかも自分の権利のように平然とネタにする人はたくさんいる。

残虐な体験こそが作品になるからだ。人の関心をひき、揺さぶるからだ。逆に言えば、体験なしにセンスだけで何かを作るなら、持続に限界がある。制作の思想(動機)の源が稀薄ならやらなければいいのに(やりたがる)。

不幸な経験、個人のつきあいの秘密の領域、喪の秘密まで収奪される。

S0002_3 若林奮先生

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