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2010年7月 4日 (日)

若林奮 Dog Field

7月3日

多摩美術大学美術館、若林奮 Dog Field展に行く。

http://www.tamabi.ac.jp/museum/exhibition/default.htm

鍵岡正謹さん(岡山県立美術館長)のお話「思索する犬と彫刻家」を聞く。

いくつかの若林作品について、「さっぱりわからない」という感想も含めて、誠実なお話だったと思う。鍵岡さんのお名前だけは知っていたが直接講演を聞くのは初めてだったが、感じのよい方だと感じた。

若林奮さんのドローイングには、いつも刺激を受ける。

「わかる」とは簡単に言えない難解さを持ちながら、なお共感するものがあって、見飽きることがない。

なぜ惹かれるのか、そのことをなんとか言葉にしたくて、若林さんの過去に書いたものや、対談の発言を毎日読んでいる。

若林さんの言葉について、一回や二回読んだだけでは、それがどういうことなのか、どういう状況で、どんな身体の状態で、どんなふうに感じた体験なのか、想像するのは容易くない。

誰かの「言葉」を読む。人それぞれに読み方は違う。その「言葉」が生まれた「体験」「身体」を想像するには、想像する側の「身体」が、それぞれのやりかたで感覚「体験」を積むことで変わって来る。「感覚」と「感情」も切り離すことはできない。

「触覚的」になにかを捉えるために「視覚的」な感覚をきっかけにする。もちろん、音や香りや温度や光や風や湿度やいろいろな要素が同時に関わり、そのときの身体の状態すべてが刻々と変化しているのだから、感じたことを「言葉」にするのは困難である。

その困難さに立ち向かうとき、そこで言葉が崩壊するのは必然だとしても、それでもいかにいんちきくさいことをしないか、をいつも考えている(と感じられる)人が好きである。(たとえば、セリーヌの「嘘」は、「いんちき」ではない。)

私が猛烈にストレスを感じるのは、何も感じていない(と、私には感じられる)のに、上手な「言葉」だけがすらすら口をついて出てくるような、不誠実な、饒舌な「言葉」なのである。「言葉」だけが「主体」を伴わずにしゃべり続ける。「言葉」が「身体」を偽装するとき、たくさんの動物たちが惨殺される。

若林さんが一貫してしゃべっていたことを確かめたくて、うらわ美術館のときの資料や昔の図録などを引っ張り出して見ていたら明け方になっていた。

興奮した勢いでワールドカップサッカーの試合を見た。アルゼンチンかわいそう…スペインは応援していたので勝って嬉しかった。

7月2日

今頃、雨の中に、白い小さな柑橘の花が咲いている。夏蜜柑も文旦も朱欒も5月に強く匂って、一週間くらいで散っていたので、不思議だなあと思ったら、金柑の花である。

柑橘の花は、その果実と異なって、まったく酸味のない、きれいな香りである。はごろもジャスミンよりも上品な感じ。どこかの王女が愛したというネロリ(たしかビターオレンジの花の香水)もこんな匂いなのだろうか。

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