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2010年8月27日 (金)

大野一雄頌 触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン

8月26日

現代詩手帖9月号 「総力特集 大野一雄――詩魂、空に舞う。」が送られてくる。

この本に書く機会をくれた編集長亀岡さんに感謝。

大野一雄先生についての文章を書かせていただくにあたって、相当の身体負荷がかかった。眼から入って来て自分の全身を震撼させる不思議、そのものを書きたかった。不可能だとわかっていても、それに近づきたかった。あの時点で、あの字数制限の中では、自分としては燃え尽きました。

笠井叡、笠井久子夫妻のインタビューが読めてよかった。個的な体験からのリアリティある言葉だった。

笠井叡さんは、大野一雄先生ご自身が凄絶な戦争体験について語った(また、口を閉ざした)言葉について、ジョルジョ・アガンベンの本にふれている。強制収容所の証言について、それほどの体験をしたときにはもう沈黙せざるを得ない、ということ。私がものすごく感銘を受けたアガンベンの「アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人」という本である。

あまりにも重い体験をしたとき、人は言葉を失う。感覚や感情を言葉に置換できない。それは、個の体験であり、他とは共有不可能な、声にならない声にしかならない。逆に言えば、その記憶を反芻しようとしたら自分の身体を損傷するほどのたいへんな経験なしに、知識として持っている所詮他人事にすぎない凄惨さについては、人は技巧をつくした言葉をえんえんと語ることができる。

私は(今までの自分の経験として)そういう「場」にあって、余計なおしゃべりをする人に異常なほどストレスを感じる。

誰かの文章を読むとき、私は文字面の技巧にはまったく興味がなく、そのひとの身体だけに興味がある。そのひとが言葉以前に、どんな身体の状態の極みに触れたのか。どんな言語化不能な体験を、(それをのぞまなくても、暴力的に)受容したのか。そのひとの「眼」が本当はどんな世界を見たのか。

言葉でつくろえない段階を、私はやはり「眼」で見てしまう。他人の文章を読んでいても、「視覚」を通した身体でしか受容できない。

体験の重さ、身体の受容能力の強烈さは、隠しようもなく、言語に現れる(はずだ)、と思っている。

大野一雄先生の実際の介護日誌とヘルパーに入ったお弟子さんたちの言葉を読めたのはすばらしいことだと思う。これは、本当に価値がある、私にとって必要な言葉。

私にとって必要なのは、最先端の言語ツールを駆使した言葉ではなく、言葉ではとても捉えきれない身体。凄絶な体験をくぐりぬけて透き通って来た身体。

それは私自身の身体がいつも死と近いところにいるからであり、さらに近親者の死に近いところで介護の責任を負う身であるからである。

この理由において、外(言葉の外側にある個の身体、他者の身体)を持たない言葉、狭いジャンルの中でしか価値を持たないもの、装飾過剰、権力志向、偽倫理、目立ちたがり過剰、自分の作品についての自信過剰、売り込み過剰、つまらないおしゃべり過剰などに激しい嫌悪感を抱く身体になってしまった。(頭で諫めても身体が反応するのでコントロール不能。)

大野一雄先生は、私を根源的なところで、いつも泣かせてくれた。本当に大切なひとでした。

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