« 巴旦杏 | トップページ | 4月10日 高円寺反原発デモ  »

2011年4月10日 (日)

震災 原発 動物 人間中心主義 肉食 アガンベン

4月9日

フルビネクは証言することができない。というのも、かれは言語をもたないからである。しかし、かれは「このわたしの言葉を介して証言する」。といっても、生き残って証言する者もまた、完全に証言することはできず、自分のうちにある欠落を語ることはできない。      (ジョルジョ・アガンベン 「アウシュヴィッツの残りもの――アルシ―ヴと証人』)

この「フルビネク」は「三歳くらい」の「アウシュヴィッツ」の子で、「話すことができず、名前もなかった」。(Levi 3,p.166)

「フルビネク」という名をもつ者は、「もっとも名もなき者」であり、「動物」であり、「もっとも弱い立場の者」であり、無名であることで「無きものとされている者」である。

「フルビネク」の名は人間の言語の中に登録されていない。「フルビネク」と聞こえた、その子の口からもれたきれぎれの音声は人間の言語の中にはない。

人間は有限な存在である。自分にできることはほんの少しであるだろうし、余命もそんなにあるわけではないだろうと思う。しかし生き残った私たちには、それがほとんど不可能でも、「遺棄されて殺された者」のために、その者の声に耳を傾ける責任はあるだろう。

自分はいわゆる「人間中心主義」が総じて嫌いである。こう言うと「人間社会から出ていけ」、とか「何も食べるな」、といったような反論にも値しない詭弁(上げ足とり)がでてくるので面倒なのであまり書かなかったが。

なぜ、人間は動物を殺していいのか、それは人間が考え出した「言語」というものによる。「言語」が人間中心の理屈をつくる。「言語」はどんどん膨張していく。欲望を巨大化させ、権力を巨大化させていく。

人間が生み出した人間のためだけのもの、「言語」は「文化」や「神話」「宗教」をつくり、それぞれに殺していいもの、殺してはいけないもの(大切にすべきもの)の区別をつくる。どの動物を殺して(食べて)、どの動物を食べてはいけないというきまりごとはそれぞれの文化、習慣、宗教ごとに存在する。そして狭い共同体の中で仮の「倫理」をつくる。

「言語」は位階をつくる。何もかもを判別していく。人工的につくりあげられた価値が膨張していく。人間中心主義は言葉を持たないものを圧殺していく。

「原発」は言語の最たるものだろう。最も人間的なもの、動物を殺すもの。

「肉食をしないなら何も食うな。それなら飢えて死ね。」と言われて私たちは生きられる「飢え」に追い込まれていく。

「原発がいやなら日本から出ていけ。」と言われて私達は「けもの道」に追い込まれていく。「原発の恐怖」は嫌だという動物を殺して、排除して一部の人間は最適で最高な人間生活を味わう。

けれど、どの文化の習慣にも、私達はまるまるそのまま従う必然はない。逆に言えば、本来は一瞬ごとに私たちは迷い、身体感覚に問うてみるしかない。その逡巡が不安で恐ろしいから、考えたら淵に落ちてしまうから、人間は仮の「倫理」をつくって安心する。さらには平然と(人間があとからつくった不完全な)「法」を持ち出して強弁する人さえいる。

なぜ人間は動物を殺していいのか?その理由は誰が何を言おうと、根拠はわからない。人間の都合であとづけに(人間がつくった)「神」を持ち出すことも多いが、人間がそう決めたから、としか言いようがない。

私自身は宗教を持たない。人間だけが大切とも思わない。人間は動物の一部だと思っている。動植物や虫 と共存できない世界なんて人も生きていけると思えない。

親鸞の「絶対平等」という考え方には惹かれた。宗派による決まりごとには興味がないが。

しかし小動物一匹助けるのもたいへんなことだ。充分に何かを尽くそうとしたら、ものすごいエネルギーがいる。それはそれは苦しむことも多い。何事にもこれはこうだ、と決定してしまえないから、誰かと関わりを持つというのはたいへんなことだ。

私は「ヒューマニズム」という言葉が嫌いだ。人間以下の人間のたとえとして動物の名を使うこと(たとえば「犬畜生」などの語)も嫌いだ。

「人間的」という語を、私は人間にしかない嫌な欲望が強い人と言う意味で使うことがある。たとえば権力や流行りのものに弱い人、巧みな言葉で支配しようとしてくる人、言葉は立派でもその人の習慣から出てしまう身体が機械的な人、巨大な利権の絡んだゼネコンのようなビジネスをもってアートだという人、動物に高級品と殺してもいい区別をつけていく人、経済効率でしかものごとを考えない人、いわゆるスピリチュアルにはまる人・・・つまりは眼の前にある瞬間を見ようとしない人、見えない(他者がいない)人。

逆にいきいきとした生命力に溢れる人を「動物的」な人と呼んでいる。

私は「絵」というものを、人間がつくりだした行為であるが「人間中心主義」に陥らないための一つの大切なものとしてずっと考えてきた。だから、「アート」(この言葉は嫌いだが通じやすいので使っている)と呼ばれているものの中で、あまりに人工的で、人間以外の生命を抑圧するように働くものを私は「絵」だとは思っていない。私にとって「絵」とは、自分の外にあるものを感受する行為であり、平面作品といういわゆる形体でなく、「絵」であるものと「絵」でないものがあると思っている。

4月6日 善福寺川の桜

Simgp3215

Simgp3214

Simgp3220

花を食いちぎる鸚哥。ワカケホンセイインコというらしいですね。

Imgp3218

黄緑色が鮮やかに映えている。

Imgp3221

Simgp3224

錆びたブランコの支柱と私の好きな片側だけ切られていないアシンメトリーの桜の古木。

Simgp3229

東北・関東大震災によって被災した方の犬・猫の救援情報特設掲示板です。

サイドバーにも追加しました。リンクしてくださるかた、お願いします。

http://tohoku-dogcat-rescue.com/

|

« 巴旦杏 | トップページ | 4月10日 高円寺反原発デモ  »

文化・芸術」カテゴリの記事

哲学」カテゴリの記事

動物」カテゴリの記事

」カテゴリの記事

身体」カテゴリの記事