« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月

2011年6月27日 (月)

ヘンリー・ダーガー展 覚書

4月28日にヘンリー・ダーガーを見た記憶をたどる覚書。(もうほとんど絵の展覧会に行きたいなどと思うことがない私だが珍しく見に出かけた四月の記憶。)

ヘンリー・ダーガーの画集も持っていない。図録も買わなかった。映画も見ていない。

かつて夢で見た光景。

地平線に真っ直ぐ伸びる線路の消失点に垂直に立ち上る海鼠の黒煙。それと交わってて斜め水平に伸びる雲。短い緑は遥かかなたまで。代赭の靴下を履いた八人のひょろひょろした幼い足が線路を渡って行く(この作品は展示されていなかった)。

嵐が来る。追いかけて来る。黒橡(くろつるばみ)の、海松(みる)色の、灰鼠の、ゼラチンの、蠢く雲が追いかけてくる。雛罌粟を、雛菊を、姫百合を、若木をなぎ倒して。オレンジと紫の服の裾をなびかせて逃げる少女たち。虹色のパラソルが、夏の帽子が飛ばされる。宙に浮く蝶の羽やヤギの角を持った少女たちが振り返る。

皆、思っていたより大きな絵だった。

いわゆる「構図」というものがない。「構図」と呼ばないほうがいいと思える、もっと完璧な、どこで切っても絵として成立するような完璧な自律と繋がり。「発生」または「出現」。」

それは一回性の出来事であり、だからこそ無限の時間に少女たちの冒険が続く。

たどたどしさ、初々しさを保ちながら、異様に卓越した美しさを獲得した。固定観念の檻と無縁だったから、さりげなく延々と、飽くことなく奇跡を起こした。

幼稚を逆手に取って自由や無垢を気取ればたちまち醜悪さが溢れだす。人に見せつけようとしたらその人間の陳腐さを曝す。

巷に溢れかえる表出のどこに詩がある?

ダーガーには誰もが陥る厭らしい罠がなかった。人間社会が押し付けてくる固定観念がなかった。いつも生まれて初めてものを見るように、震えるような繊細さととびきりの情熱で描き続けることができた。

ありきたりな新聞広告の写真をトレースする方法で異次元の清冽な世界に入って行った。

どんなに残虐な地獄絵図でも。少女嗜好、残虐嗜好、猟奇的な物語に焦点を当てるのには私は興味がない。

気象。迫ってくる雲の動態。生々しさと心細さ。気象についての、彼の5000枚ほど書いたものが残っていたというが、一度でも静かに集中して雲を眺めたことのある者だったら、彼の描く雲に息を呑むだろう。

飛び散る爆発物の煙の形態の妙。飛散するものが詩だった。

幼な心に頼りになる大好きな猫の匂いのする生き物。「猫頭のブレンゲン。毒あり。ブレンギグロメニアン島。ここに描かれているブレンギグロメニアンはベセンディン種で、羽をたたんでいるところ。」「猫頭のブレンゲン。毒なし。キャサリン島。」

ジキタリス(キツネノテブクロ)、パンジー(三色菫)、ナスタチウム(金蓮花)、ポピー(雛罌粟)、フロックス(花魁草)、デイジー(雛菊)、コスモス、薔薇、百合、チューリップ、たまになんなのかわからない怪物のような花もあるが、たいていの花は名前がある花で、それぞれの風情を持っている。単なる装飾文様ではなく、花弁はめくれ、呼吸し、生きているのだ。

ダーガーは人に見せようと思わなかった。だから、どこかしこにも詩がむこうから交信してきた。

人に見せないこと、途上であること、このことがどんなことなのか本当に想像できる人間はほとんどこの世にはいない。

本当に大切なものは死ぬまで話さないで、離さないこと。

アーリュ・ブリュとかアウトサイダー・アートとか、後から誰かが文化の範疇に勝手に分類したのは不遜なことだ。

彼の死後の作品の発見者、下宿の大家であったネイサン・ラーナー(熊の形の蜂蜜瓶をデザインした人)のいたわりと敬愛のある言葉だけが心に沁みた。

いろいろな分野の著名人のオマージュは、不遜にして僭越。もっともダーガーと関係のない人達が声高に語れば、ダーガーを幾度も殺していく。

|

2011年6月19日 (日)

「毛利武彦先生を偲ぶ会」 阿部弘一 フランシス・ポンジュ

6月18日

夕方7時より東京駅八重洲口近くの居酒屋で師、、毛利武彦を偲ぶ会。

自分自身がまったく画壇と関係なくアウトサイダーなので今の美大の教授や先輩後輩と顔を合わせるのが場違いで苦痛なのだが、ひとつだけ素晴らしかったことがある。

尊敬する詩人、阿部弘一先生と久しぶりにお話できたことである。

阿部弘一先生は恩師、毛利武彦先生の60年来のご親友であり、フランシス・ポンジュの翻訳もされている。幾度がお会いして、ずっと個展にも来てくださっている。阿部弘一先生に絵を見られることは、自分の程度を見透かされる思いでたいへん緊張せざるを得ない。阿部先生、と声をかけることさえ躊躇われる。俗なことの大嫌いな、厳しくも背筋のすっと伸びた美しい佇まいの詩人である。

自分が大学を出て3年のとき、絵の下図を持って師、毛利武彦の自宅を訪ねたことがある。大学卒業と同時に親の借金で絵を諦めて就職と同時に他に二つのバイトに振りまわされて、もう疲弊しまくりで人生が嫌になっていたころ、それでも、絵と完全に離れてしまうこと、毛利先生と完全に切れてしまうことが怖くて、もう一度だけ毛利先生に絵を見てほしくて、師の家を訪ねた。

今思えば5年や10年のブランクも耐えられると思えるが、卒業と同時に眠る時間もないほど働き詰めの生活が3年続けば、そのころの若くて激しい焦燥で満ち満ちた自分には、もう一生絵は描けない(勘が戻らない)、取り返しがつかないような、お先真っ暗な気持ちになっていた。

毛利武彦先生のアトリエ、渋い落ち着いた木の風合い、大きな書棚。なぜか詩の話をした。夭折した幾人かの好きな詩人、村山槐多や矢沢宰の話をして、師は、「もう、歳を追い越しちゃっただろ。」と言った。今、思えば、学徒出陣で二十歳前後で亡くなった芸大の同級生のことを思われていたのだと思う。

ふいに、「あなたの一番好きな詩人は、レミ・ド・グールモンじゃないの?」と言われて髪の毛が逆立つほど驚いた。その当時夢中になっていた詩人を、なぜいきなり当てられたのかわからなかった。「なぜですか?」と眼を丸くする私に「そう思った。」と毛利武彦は笑った。

「僕の友達がフランシス・ポンジュを訳してるんだけど、知ってる?」と毛利先生は本棚から阿部弘一先生訳のポンジュ詩集を取り出して私に見せた。それが、阿部弘一先生とポンジュを知った最初であった。それから、阿部弘一先生の『測量師』『風景論』『野火』』という詩集や、阿部先生訳のポンジュの『表現の炎』『フランシス・ポンジュ詩選』『物の味方』などを読むようになった。

阿部弘一先生が『風景論』で現代詩人賞を受賞された時、毛利先生ご夫妻が授賞式に誘ってくださって、そこで大野一雄氏の奇跡的な舞いがあった。あとで大野一雄先生に「現代詩人賞のときの、あの踊りはものすごかったですね。」と言ったら、大野先生は「ああ、あのときは、すごくうまくいったのね。」と答えられた。そんなことも強烈な思い出として残っている。

2011年6月18日、阿部弘一先生の奥様やお嬢さんのご様子を伺った。人が歳を取って行くということ。定年から始めた弓道もずっと続けられているそうだ。

「娘を見るとあなたのことを思い出すんですよ。お元気かなあ、と。」と言われて、「お嬢さん、私よりお若くてまだかわいいですよね。」と言ったら「いや、同じくらい。ちょっとだけあなたのほうがおっきいかな。」と言われた。

次の個展の予定を尋ねられて「原発事故のあとで、正直絵が描けなくなりました。」と言ったら、「私くらいかと思ったら福山さんもですか・・・・私もそろそろ立ち直らなきゃならないと思ってはいますが。」と言われた。

「戦争のような地獄の体験は、もう生きているうちには二度とないと思ってましたけど、またありましたね。本当に、生きていると、何が起きるのかは、わからないね。」と阿部先生は言われた。

それから、去年ベルリンに行った話をしたら、阿部先生は勇気がありますね、と笑っておられた。阿部先生もドイツのフランクフルトからスエーデン、フランス、イギリスと大学を3カ月回られたことがあるそうだ。それから私が18歳のころ、初めて毛利先生に逢った頃の話をした。

私が恋い焦がれた偉大な才能の人、そして私の絵を認めてくれた偉大な師、若林奮さんが亡くなり、種村季弘さんが亡くなり、中川幸夫さんが遠くに行き、毛利武彦先生が亡くなった。毛利先生が亡くなったとき、あまりの哀しみで私の身体の細胞がだいぶ死んでしまった感じがする。今、絵を見せるのが恐ろしいのは阿部弘一先生だけだ。

阿部弘一先生、初めてお会いした頃より髪が白くなった。けれど静かに麗しい佇まいで。

|

2011年6月12日 (日)

611新宿原発止めろデモ!!!! / 「デッサンの基本」第10刷り

6月11日

我が生まれ故郷新宿での原発反対デモの日である。これはどうしても参加せねば。

明け方4時に寝、朝8時に起きて西新宿の生家に母を迎えに行く。荷物をまとめてタクシーで北新宿(東中野寄り)の施設へ送る。母は足が悪いので雨で坂道で滑りそうなのでおそるおそる歩く。

11時20分施設着。なんだかんだ用事を済ませ、その後再び西新宿の家に徒歩で帰る。柏木という町、まだ古い昭和40年代の面影の残る狭くて曲がりくねった裏道を歩く。雨上がりの青葉の鮮やかな中に去年の枯れてスカスカになった黄カラスウリの実がいくつも美しく残っているのを見た。

家に寄って母の処方箋を薬局に出し、別の外科でレントゲンの診療情報書(新しく利用する施設に提出するため必要)を書いてもらい、「施設利用にレントゲンなんて法的には必要ないのに、意味がわからないのだが」と外科の医師に文句を垂れられる。(こっちもこんな無駄に体力とお金を消耗する検査は嫌なのだが。)

あれこれ用事を済ませたらもう2時近くである。友人と会うため新宿行きのバス停(歩いてもバス停2つの距離なのだが、この時は疲れていた)でバスを待っていたら、新宿から警察の人員輸送車がぞくぞくと中央公園脇のケヤキ並木を下ってきたので俄然興奮!血がたぎるような感じがした。

新宿の友人の仕事場でピンクとグレーのコピックでコピー用紙に猫の口を描き、インスタント猫面(下半分のみ)をつくって両面テープでマスクに貼って、デモに出発。

3時前新宿西口中央公園(この公園は幼い時、毎日遊び、雑草を摘んでいた馴染み深い場所なのです)の南通りに到着。

まず眼にはいったのは道の向こう側にずら~と並んだすごい数の警官。(うわぁ・・・)

(写真はすべてクリックすると拡大します)

Sdsc05483_2

サウンドカーが3台待機していた。みんなそれぞれの出で立ちで並んでいて興奮。回りで気になったものを撮影。これはシンプルでかっこいい「反核」のデザイン。

Sdsc05490

眼とだらんとした手がかわいいガイコツ。手前の鎌を持った死神のデザインも素敵。

Sdsc05495

警察官段取り中。

Sdsc05491

細かい打ち合わせをしている模様。 

Sdsc05492

Sdsc05493

「どうする?どの車についていく?」と友人と相談して2代目のパンクっぽいのに決めた。どの集団のどの位置に入るのかを自由に決める、この瞬間は大事である。(まわりの雰囲気が合わないと思ったら歩道にさりげなく抜けて梯団の流れを見て、音楽のタイプや周りのプラカードなどの様子を感覚的に掴んで自分がしっくりくる位置取りをする。)

さあ出発するぞ~!!!雨もあがり、気温も上がり、すでに興奮して汗だくだ!

Sdsc05496

都庁と新宿NSビルの横を通り 甲州街道へ。

Sdsc05499

コピー用紙のインスタント猫面である。

Sdsc05501

甲州街道を新宿方面へ。今回風船が多かった。

Sdsc05503

ヨドバシカメラのある道(二番街)に入り、さらに右折して狭い通りでアピール。

Sdsc05504

高速バスターミナルの横。(短い距離だが)こういう裏通りを騒がしく通るの好きだ。

Sdsc05505

小田急ハルクの前へ。カリヨン橋の上でたくさんの人が見ていてくれた。

Sdsc05508

次の青梅街道の大きな交差点の歩道橋の上にもたくさんの人が。

Sdsc05511

右折し、新宿大ガードに向かう。

Sdsc05518

新宿大ガード下に爆裂サウンドが反響して雷のよう。おまけに上を電車が通って身体中揺さぶられる爆音。かわいそうに。隣にいたご機嫌だった赤ちゃんもちょっと泣いちゃいました。

Sdsc05520

歌舞伎町を左に見ながら靖国通りを行く。伊勢丹の方へ右折。伊勢丹とマルイワンの間の通りから甲州街道へ。

Sdsc05523

右折して南口の高島屋を右前にのぞむ甲州街道の細い道にはいる。

Sdsc05524

新宿駅ビルの手前、昔、南口の場外馬券売り場だったあたりを右折。

Sdsc05526

アルタが見えて来た!!!

Sdsc05532

アルタ前広場にはいるとき、テープが張り巡らしてあり、警官の厳しい誘導があった。

3時間半くらいデモって、やっとアルタ前の広場に着きました。(偶然ですが)画面に猫が~。(ラッキ~!)

肩と腰と足の裏がすごく痛いです。デモを完歩したのでホッとしたけど、寝不足だし限界が・・・・

Sdsc05536

素人の乱、松本哉さんが話し、皆、盛り上がる。広場(といっても狭い)はぎゅうぎゅう詰めで動けない。横の欅の木の上から大きな鳩の糞も強烈に(ビターン!!!という音で)落ちてくる。

Sdsc05538

6時から大集会ですごいイベントをやるそうだ。しかし本当に疲労と貧血で倒れそうだった(朝8時の朝食以来何も食べていない)ので、近くの中村屋マシェーズで休む。マシェーズの向かい側の歩道の角で右翼の人達がなにかわけのわからないことを叫んでいた。

猫面2体とともに撮影。

Sdsc05542

ちなみに、このトロピカルフルーツパフェはあまり甘くなく爽やか酸っぱいシャーベットがはいっていておいしかったです。

休んで元気を取り戻し、再びアルタ前に戻ってみると警官がすごい。アルタ側の歩道から広場のほうを撮ってみた。

Sdsc05544

サウンドカーの上で歌う人。少し離れてスピーチする人。混然と、だが大きな乱れもなく盛り上がる。

Sdsc05545

警官は少しわらわらしている。

Sdsc05546_2

Sdsc05548

歩道の外このテープの内は通行は可だが撮影のために出たら怒られる。撮影は歩道内からのみ。

Sdsc05549

ここでまた広場を離れ本屋に。そしてまた、テープで規制する中をすり抜け今度はアルタの向かい側広場の方に入ってみた。立ち止まらないように、とスピーカーで盛んに警官が叫んでいる。

福島瑞穂議員が演説していた。脱原発の話で盛り上がる。

Sdsc05553

松本哉さんが最後に脱原発の意思を語る。

Sdsc05556

同時にアルタのビルの壁に文字が!!!

偶然だが阿修羅像と文字の組み合わせに心奪われた。1.を撮影し損ねたが

1.稼働中の原発停止。

Sdsc05559

2.定期検査中等で停止している原発を再稼動しないこと

Sdsc05560

3.原発の増設中止

Sdsc05562

4.児童の許容被曝量20ミリシーベルト/年の完全撤回

Sdsc05566

5.原子力発電から自然エネルギー発電への政策転換

Sdsc05567

会場は興奮!!集会はクライマックス。

Sdsc05568

最後、8時を過ぎ、〆に全員でジャンプしてお開きとなる。

Sdsc05571

熱気冷めやらず、帰らない人もいっぱい。

Sdsc05572

きょうは全国一斉デモ「6.11脱原発100万人アクション」というエポックな一日だったが、新宿だけで20000人集まったらしい。

Sdsc05574_2

Sdsc05573

警察の指示に従ってください という電光文字が流れている警察車両。

Sdsc05575

この写真はうまく撮れた。

Sdsc05576

熱気熱気熱気。

Sdsc05577

デモは民主的な抗議活動であり、デモの権利は誰にも奪えないと思う。やりかたが気に入らない人は、自分の気に入るやり方で原発抗議活動をしたらいいと思う。

私はこれからも参加したいデモや抗議活動にふらっと参加するし、サウンドデモの音楽が自分の好みでなければ肌の合うミュージシャンの鳴らす音のほうにふらっと移動し、周りのシュプレヒコールが気に入らなければ気に入った雰囲気のほうに流れていくだけだ。

6月8日 

デッサンの基本 第10刷り!

6月2日に「デッサンの基本」第10刷りの連絡がナツメ社よりあった。10刷りまで行くとは正直思っていませんでした。買ってくださったかた、本当にありがとうございます!

第9刷りの連絡がナツメ社から来たのは実に3月11日だったのである。

喜んでメールの返事を書いている最中に、あの地震が来た。それからはもう、増刷を喜ぶ気持ちもふっとんでしまい、震災と原発の恐怖ですべておしまい、本のことも、絵の制作や発表のことも何も考えられなくなった。声も出ないほどの恐怖。この絶望と恐怖の中で、アートだなんだと言うことが醜悪に感じられた。死者が出て、さらに放射能汚染の死の恐怖に苦しんでいる人がたくさんいるのに、東京で(東京も安全な場所ではなく、不安でいっぱいの状況で)自分の絵を描くことが自己満足のエゴに思えた。もっとやるべきことがあるのではないか、と。この地獄の中で、自分がつくった作品を誰かが喜ぶなんて発想が不潔に思えた。

あれから3カ月、・・・もちろん原発事故の被害は収束するどころかどんどん汚染は広がるばかりだが、できる範囲で原発抗議活動をしながら、自分の望む作品を作りながら生きることも許されるのかもしれない、とやっと少しずつ思える状態になってきた。

きょうは親友ふたりと新宿の店で10刷り記念のささやかな祝い。(増刷は遠い道のりだろうけれど)10刷りになったらお祝いしよう、と約束していたのだ。

新宿のビルの3階にある小さな店はガラス越しに夕日が反射し、ベランダに植えてある華奢なオリーブの木が3本。その向こうに屋上にあがる細い階段がある。ときどきウェイターがお皿を持って上がって行く。屋上はどうなっているのだろう。

スペインのフィゲラスのオリーブしか生えていない丘を登り、丘のてっぺんの白い石作りの素朴な教会に遭遇した記憶、そこを越えたら急に視界が開け、濃い藍色の海と、不思議な顔やオブジェがくっついた「卵の家」(ダリがガラと住んでいた家)が間近に迫っていた記憶がふいに蘇る。煌めく海で二匹の大きな犬が嬉しそうに泳いでいたっけ。

店で魚介類のイタリアンを食べた。

そのあと古い喫茶店に行きたいと吉田文憲さんが言ったら、友人が先頭立って歩き、『らんぶる』に行くはずがなぜか『ル・ブラン』の前に連れて行かれたので笑ってしまった。

『ランブル』で古い喫茶店『スカラ座』などの話を聞く。

6月6日

築地の采女橋の手前の小さな公園。日盛りの中、そこだけが陰影を作り、ひんやりとしていた。作業服の人たちが石の上に座って休んでいた。姿は見えないが、ゴジュウカラのさえずる声が葉漏れ日の上のほうから聞こえていた。

魚市場に向かう歩道で、敷石の上に落ちていた鮮やかな黄緑にオレンジの筋がはいった小さな花を見てアッと声が出た。

リリオデンドロン・チューリッピフェラ。若林奮先生の愛した樹の花だ。気がつけば周りの歩道はすべてありきたりなプラタナスなのに、この短い道の樹だけがユリノキなのだ。

決して東京のあらゆるところで見られるわけではないこの風変わりな花を見られただけで、瞬時に記憶が押し寄せ、胸が揺すられた。

主治医のA.M 先生が私の貧相な胸のレントゲンフィルムを掲げながら「う~~ん・・・」と言ったので、また悲惨なことを言われるのかとかしこまっていたら、「少し小さくなってるかもしれません。」と言われて「えっ?!そんなことってあるんですか?」と驚いた。

血液マーカーの数値が最初に摘出した時と同じくらい(380程度)まで下がったとのこと。今まで毎回少しずつ上がっていた(550程度まで)のに下がったのは初めてだそうだ。ちなみに、正常値は35程度だとのこと。

この検査をしたのは2月で、あれから原発事故のショックでなかなか病院に来られなかったのだ。だからこの3カ月で数値が上がったかもしれないが。とりあえず少し嬉しい。

|

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »