« 若林奮 人間でないもの | トップページ | 若林奮 ジャコメッティ »

2011年8月12日 (金)

花輪和一 反原発 若林奮

8月12日

きょう、福島県内の農林水産業関係者約3000人が東電本社前で抗議デモのニュース。

花輪和一よりもらった手紙を読み返していた。

「反!原発」をテーマに10月に札幌芸術の森美術館で「アートから出て、アートに出よ。」という展覧会に出品する絵を現在描いているそう。

手紙の内容は痛快。さすが花輪さん、と惚れ惚れする。

「キレイぶりっこ、アカデミズムぶりっこ、芸術ぶりっこ」の絵が大嫌いとのこと。

「描き終わったカケジクを福島原発の見える所まで持参し、そこの路上に広げ、(絵の描いた面を下にして)思いきり踏んづけ、ボロボロにして、津波の中からひろってきたような状態の姿で出品してやりたいと思うが、」(気持はそうだが実際どうやるのかは思案中)

電話で、原発の欺瞞で殺された動物たちに対する怒りをぶつけあい、また、こんな状態でも関係なく、何も考えずにつまらない絵を描いて商売している人たちへの胸糞悪さをぶちまけあった。

「花輪さんの個展だったら見に行きたいけど、ほかの人が出ると思うと(誰が出るのか知らないが)、想像しただけでもう無理。」と私は言った。

あまり何も感じずにいろんな展覧会を見に行けたのは、いつの頃だったろうか?記憶にあるのは18歳の頃、今ならおぞ気だつような大嫌いな画家の絵があっても、その前をスルーして好きなものだけを見た。今ほど嫌悪を感じるものが少なかった(何もわかってなかったのだと思う)。

今は、歳月が堆積して、良いものと悪いものをたくさん見て、人生が濃くなったせいか、厭なものを見ると厭なものが身体に入ってくるような気がして、直接的な激しいストレスを感じる。「生きれば生きる程、読むべき本は増え、考えるべきことは積み重なる」ということが少しはわかったてきたのかもしれない。

吐き気がするような絵(または立体やパフォーマンス)とはどんなものかと言うと、「収奪」としか言いようがないもの。うまい下手は関係ない。むしろ手慣れていない頼りない線には魅力を感じる。

嫌いなのは手癖がついていて、紋切り型のものの見方と技巧が固着したもの。陳腐で、なんの疑問も怯えも感じずに絵を描くのが好きだと言う手慣れた人を見ると吐き気がする。生きている動植物の生命をコンクリづけにしていくような塗り固めた絵。現代美術の問題の重荷を背負わない自覚なき自己表現。

またはテキストだけがあれば作品はいらないもの。口先だけの倫理。身体感覚なしのパフォーマンス。

若林奮の言葉を借りれば、自分の「外」と関係がないものである。

ベルリンのアートフェアで、その場で鉛筆一本で記憶の風景を描いていた6歳の子供の絵を見たときの衝撃を思い出す。彼には鈍さがなかった。さり気なくて、鋭くて、危うかった。

それが記憶であったとしても外を見ようとしているもので、常に柔軟に変化するもの、類型でないもの、形式化されないもの、また、ある種の過敏さ、過激さに惹かれる。これは、まさにそういう人間の生き方に惹かれるということだ。

Dsc05620

↑花輪和一が送ってくれた北海道新聞(夕刊)「原発の毒火はいらない」

さすが地方紙。個性的で面白い記事が載せられるのはいい。

10月からの展示に出すものはこれよりさらに過激になるという絵の構想を聞いた。

若林奮が生きていたら、どんな行動を起こしたかと毎日考えながら、彼の残した難解な言葉を繰り返し読んでいる。何十回、何百回と読んでも、やはりすごい言葉だと思う。いわゆる文学者にも、美術批評家にも書けない言葉。唯一無二の思考力と実践力。

作品として「何ができるか」よりも「何ができないか、何をしてはいけないか」を問うこと。

|

« 若林奮 人間でないもの | トップページ | 若林奮 ジャコメッティ »

文化・芸術」カテゴリの記事

絵画」カテゴリの記事

動物」カテゴリの記事

まんが」カテゴリの記事

原発」カテゴリの記事

若林奮」カテゴリの記事

花輪和一」カテゴリの記事