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2011年12月12日 (月)

GF 浅田真央 / ベルリン

12月11日

浅田真央選手が御母堂の危篤でGFを欠場したことに対して批判的なつぶやきをした人達が話題になっている。twitterと言っても、つぶやきというよりも強い言い方の意見、発言であるから、すごい(怯えの無い)性格だなあと思う。

人が最も大切に思う人の危篤に駆けつけることに、当事者でも関係者でもない他人が強い口調で反対意見を言う――たくさんの人に損益が出るから、と。こういうのを「全体主義」と言う。全く不気味である。

浅田真央選手が危篤の知らせを受けてから飛行機に乗っている間の時間、その十数時間を想像すると、内臓もちぎれるような耐えがたい時間であったろうと、悲痛な思いがする。ものすごく濃縮していろんなことを思い、考えてしまっただろう。

しかし浅田真央は自分の才能のかけがえの無さを自分で理解しているから、それをちゃんと大切にするだろうと思う。

あまりに特別な存在であり、敬愛していた人が癌で亡くなったときのことを思い出す。身体が痛いほど苦しんでいるときに、ある人に「もっと前向きに」というようなことをつらつらと言われて、その人に二度と会いたくないと思った。言った人は私にとって敬愛の対象でも、特別な存在でもない、遠い関係だったからだ。「死んだのがあなただったら、今頃こんなにも苦しんではいない」と心の中でつぶやいた。その人の言葉が胸に響くような相手(尊敬する人や理解力のある親友)でなければ、苦しみや悩みを決して正直には吐露しないと決めた。

また違う人に「大切な人の死を糧にして」と言われたとき、激しくその人を嫌悪した。「糧」にするわけがない。未だ何一つ「乗り越えて」もいない。ただ耐え続ける中で仕事をするのみ。

大切な人が亡くなるたびに自分は表現に対してシビアな性格になっていった。他者(人間以外の生き物も含む)の不幸や犠牲をネタに自分は安全なところにいて自己表現する自称アーティストや文学者に嫌悪感が止まらない。そういうのを「収奪」と言う。少しでも身を呈して自分以外のものを救う実践がないのならおとなしくしていてほしいと思う。

「当事者」性の無い人間が他者の不幸をネタにすることが「パブリック」では許される、としても、「当事者」性の無い人間の「収奪」のある作品に全く心を揺さぶられないことだけは確かだ。だが。これも私の個人的感性にすぎない。

「当事者」でない人間が「当時者」をネタに自分のお手柄をつくる場面を、傍で見るのではなく体験したからそう思う。

夜、ベルリンとskypeで会話。こちらの夜10:30頃から2時間ほど話していた。ベルリンに来るなら長く滞在して山ほどの企画のアイディアの相談に乗ってほしいという。確かに相手の企図を理解するには長い時間がいる。私はドイツ語はいくつかの単語のみ、英語もお互い不完全。

大きなアートのイベントで何か意義あるものをやるのはとても難しいと思う。「アートの社会的役割」という言い方はおかしい。芸術とはそもそも反社会的なものだからだ。

私は極々個人的な共有不可能なことだけが芸術になると思っている。テーマが大きければ大きいほど空疎で瞞着しかなくなる。一瞬の胸を突かれる衝撃がなければ。

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