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2012年1月23日 (月)

日隅一雄 / David / 表現

1月24日

かわいい雪だるま。誰かを待っているのかな。

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1月23日

日隅一雄さんと木野龍逸さんの新刊【検証 福島原発事故記者会見 東電・政府は何を隠したのか』が届く。発売前に増刷が決まったそうで、おめでとうございます。今、半分くらいまで読んだところ。

夜11時過ぎに外に出てみた。アパートのベランダの柵の上には6cmくらい積っていた。裏通りは足跡が少なくて、白、白。枯れ木の上に真新しい雪が光っていた。空は赤灰色。

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1月22日

David McNeill が講演をするというのでカフェ・ラヴァンデリアへ。Davidはアイルランド出身のフリージャーナリストで、英インディペンデント紙を中心に執筆している。彼と、彼のガールフレンドとボスニア出身のSurejmanと、何人かの外国から来た人たちと高円寺で飲んでいたのは震災の前のことだ。きょうは久しぶりに彼ら夫妻と会え、彼らの赤ちゃん(去年の6月生まれ)にも対面した。

Davidは東北大震災後の原発関連の取材も精力的にしているそうで、福島の現地の人達のリポート、自主避難した人たちのたいへんさなどの話と質疑応答。外国から来た日本語の上手な人がたくさん来ていた。

「日本の大手メディアは震災直後、福島に行かなかった。それは会社が行くなと命令したからで、日本の記者はジャーナリストとしてのアイデンティティよりも会社に帰属しているというアイデンティティのほうが強いから。イギリスだったら、会社に禁じられてもその禁を破って現場に行くジャーナリストは必ずいると思う。そこが日本が決定的に違うところ。」という言葉が強く心に残った。「たとえ禁を突破してスクープをとったとしても、それを会社が喜ばない。握り潰されて報道できないのが日本の現状かも。」と。

ジャーナリスト魂と言えば、日隅一雄さんのブログが今年にはいってからさらに衝撃的になっていて、私にはショックと胸の痛みの連続で、言葉が出てこないのだが、やはり彼は凄いと思う。及びがたいものを感じる。

一月6日からついに麻薬系の鎮痛剤の投与が始まったとのこと。オピウムとの再会からおみくじの「託宣」まで、この文章はすごい。

http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/d/20120108

最近のお身体の写真【胆のう末期癌宣告後236日目】ペインコントロール初期の状況その5&最新のデータ(1月15日)

「冒頭の写真は、撮りたてのスクープ(笑)。事実をそのまま伝えるべきだ、それが遺体であっても、その情報を伝えるべきだ(もちろん、時間帯、メディアの種類で一定の自粛はありうるが…)とマスメディアを批判してきた私の渾身の一枚です(笑)。」とある。

http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/d/20120115

「自分で納得しないと済まされない性格なので…。悪い情報でもいいから、納得できれば、それは受け止めることができるんだけど…。」と1月18日のブログに書いておられる。自分の体内のどこがどういう状態で激しい痛みになっているのかを検証したいのだ。知りたい、知った上でどう対処するか決めたいという気持ちはすごくわかる(私も手術のときに医師を質問攻めにした)。けれどここまで自分のたいへんな状態ををさらしながら感情を抑えて、しかも軽快に、ナルシスティックでない明晰な文章が書けるだろうか。

自分のやっていることを冷静に見つめられること。あきらめないで眼をそらさないこと。

「表現」について。「自己表現」という言葉を使うとき、本来「自己表現」自体は悪いことではないのだが、仲間うちでは「表現の価値がないものを自己満足で表現している」という意味で使われるのが慣用になっている。もちろん人それぞれに価値基準が違うから、その表現に惹かれる人どうしが集まって、それぞれにふさわしい共通の価値基準の友人ができるのだろう。

自分は自分の絵や文章をさらすとき、恐怖を感じずにはいられない。自分にはあまりに及びがたい者(もの)が存在しているからだ。その厳しさの前で震撼してしまう。それと同時に毎日の現実のリアリティ(日隅さんのことを読むリアリティ、母を介護するリアリティ、自分の身体の痛みのリアリティ、友人と弾丸のように語り合うリアリティ、動物や植物とつきあうリアリティ、何かを夢中で見つめているときのリアリティetc....)に比べてあまりにもそぐわない乖離症的表現が眼から身体に否応なく入ってくるときにストレスを感じずにはいられない。私にとっては現実の毎日がスペクタクルなのだ。大切なものにじっくりつきあうために、それと対峙するために自由で率直でいなければならない。

日隅さんの表現は究極の表現だ。リアルそのものを記録として提示しようとしている。そこには茶番がはいる余地がない。初めにもっともリアルな「死」があって、そこから何をするのか必死で考えなければならないとき(私もスピードは遅いが手術不適応癌患者であるというリアリティは常に持っている)、何を選ぶか。彼は全身全霊ジャーナリストであることを選んだ。

日隅一雄さんが自分の闘病生活をここまで公開してくれることを、胸が痛みながらもありがたく思う。なぜなら私は彼の誰にもまねできない生き方に非常に関心があり、苦しくても彼のことを見たいし、知っていたいからだ。

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