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2012年3月14日 (水)

3.11 一周年 /  『デッサンの基本』第12刷り / 表現

3月13日

ナツメ社さんから『デッサンの基本』第12刷りが決まったとのメールが来る。おとといからずっと鬱うつとしていたが、とりあえずすごく嬉しい。

去年、第9刷りのメールが届き、本当にわ~っと喜びで舞い上がる気持ちでメールの返事を描いているときに、あの揺れが来たのだ。それからはずっと絵を描けない日々が始まった。

その後『デッサンの基本』は昨年5月末に第10刷り、10月末に第11刷りが決まったとのメールをいただいた。

どこかで誰かが「デッサン」―(「素描」といったほうが感覚的にはあうが、)ものを眼で見て鉛筆で線を引くことに興味を持って、この本を手にしてくれることがあったら、これほど嬉しくありがたいことはありません。

自分の外にあるものを「眼」によって深く感じることが「絵」のはじまり」だと思います。ものを見て、鉛筆で線を引く楽しさ、これだけはたくさんの人にひろまっていってほしい。

描いてみて初めて、今までよく見えていなかったものが見えてきて、新しい世界の発見があります。この作業は誰も傷つけないし、外の生命とつながる方法にもなる。

ものをよく見て、それを紙の上に線を引く作業にかえていくこと、これは、自分の外に存在するものを受容することであって、いわゆる「自己表現」(仮の単語として、何かを表すのではなく自分を表すという否定的な意味)ではない、というのが私の考え方です。

もちろん「表現」は主体と客体と入り混じる場所に起こるものであるだろうが、自分の外にあるもの(生命)を認める、生かす、ということなく、自分の中にある表現欲望や自己承認欲望が強く出た表現を私は見ることができない。

「表現」について考え続けているのは、震災後に始まったことではないが、震災と原発事故というたいへんな事態にあって、「表現」について、また「アート」と呼ばれるものについて、以前よりさらにシビアに考えてしまうのは確かだ。

誰かを元気づけられるような「アート」がそうそうあるとは思えないし(喜ばれる立場にある人はやるべきだが)、かえって傷つけることもあると思う。「捧げる」とか「供する」という言葉での「自己表現」の押し売りや「収奪」、安易に使う言葉が事実の重さに吊り合うのか、そういうことばかり考えてしまう。

3月12日

前日に引き続き、夜一睡もできず朝7時すぎに寝た。

生理前の過緊張と重なったのもあり、具合が悪い。

3月11日

3.11の一周年。一日家にいてTVの3.11特集などを見ていたら、本当に心身ともに苦しくなってしまい、身体(肩、首、腰、胃、おなか)が痛くてたまらない。

食欲がなく、一日中温かい甘酒(酒粕を解かした甘くないもの)ばかり飲んでいた。

夜、眠れずぼーっとパソコンをいじっていたが涙が止まらない。

自分にとって大切な人の死の苦痛が、いろんな他者の言葉とともに入ってきて、自分の体験と入り混じって、混沌とした苦しみと悲しみでどうしようもない感じになっていた。

もうひとつは原発、放射能廃棄物というとてつもない人間的過ちの重さに、身動きできないほどの恐怖とストレスを感じたのだ。

3月10日

新宿のジュンク堂でいろいろ本を調べる。そのあと四谷で食事。久しぶりにおいしいものを食べたがおなかの調子はよくない。

8時40分頃帰宅してPCを開けたらすぐドイツからスカイプがかかって来た。

いろいろ悩んでいるらしく2時間相談されるが、私には聞いてあげるしかできない(資金繰りのことなんかわかるくらいなら今頃とっくに裕福になってる)。スピーチの原稿の修正を頼まれて読むが、日本語の言いまわしがおかしくてよくわからないので、ドイツ語のできる友人にメールをまわす。友人がきれいな日本語に訳しなおして赤と消し線を入れてくれた原稿を送ったら喜んでいたが夜中3時半くらいになる。

彼は「作品がどうでも、もう、しっかりした考えを持ったアーティストとしかつきあいたくない」と言ったが、それなら作品はいらないんじゃないかと思ってしまう。

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