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2012年3月

2012年3月26日 (月)

表現 アート

3月26日

22日、木曜の夜、ベルリンから来たギャラリストに会ってからずっと苛々していた。

彼自身まったく他者のこと、彼の知り合いや、まして日本のフクシマのことなど考えているわけもなく、自分の利益のこと、自分の仕事の延命のことしか頭にないのに、お題目をフクシマとすることで、何らかの良いことをしていると思いたがっていること、その計画に誰もボランティアでサポートしないことを怒っていること、その勘違いに頭に来ていた。

誰も無料奉仕したくないのは当然だ。自分がクリエイティブな人間だと言うなら、独りで、誰にも甘えないで、誰にも見てもらえなくても、誰にも評価されなくてもやるべきだ。それなのに10人はいないとできないとか、自分が被害者かのような言い方。

こう態度の被害に私は何度も遭遇したことがある。責任は自分にない、主体は自分ではない、と言いながら、他人を犠牲にして、お手柄だけは自分のものにしようとする態度。どうにでも解釈(評価)は見る人にまかせる、と言いながら非常に人間的、一般的な記号を読ませようとする軽薄さ。

好むと好まざるとに関わらず私たちはポストモダンの空気を吸って生きている。価値判断を先送りし、断片化し、つまり「なんでもあり」の世界。

何でもあり、と言いながら後付けの解釈を期待する。一般的解釈(似非倫理)はもっとも共有されやすい欺瞞だ。

いつ「ここ」が「そこ」になるかわからない恐怖を生きられないならやめるべきだ。

「なんでもあり」の、いわばそのアナーキーな状態に投げ出されてあること、人間の規範を抜け出て、人間でないものになること、そこを生きられないものはすべて芸術表現として何の価値もないと思う。

若林奮はそれをわかっていて旧石器時代の洞窟壁画に立ち返って、その場所、その遠い視線から今現在を焼き尽くした。

彼のやったことは現世的価値では測れない。

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2012年3月23日 (金)

ドイツからの友人 / アート 表現




3月22日

ドイツからの友人と会う。きのうは6時頃と言われて、きょうは8時頃、9時頃、と二転三転して結局夜10時とケイタイで言われて高円寺で。

結局理解できずに喧嘩してしまった。普段は私はどんなに自分と価値観が違う人に対しても、「自分はそうは思わない」とか「自分はそういう表現を全然好きじゃない」ということは言わないのだが、過去に自分の意見を飲み込んで言わなかったことで、どんどん自分にストレスがたまる状態になっていったので、あっさり言うことにしたのだ。

3年前、初めて会ったときにも言ったはずだが・・・。自分が熱狂できる作品をつくる人はほとんどもう亡くなってしまった人で、あとはいわゆる「アーティスト」ではない人で言動が魅力的な人のほうに興味がある、ということ。

死のことを考えたら、「ばかげたことをやって、それを面白いと見てくれる人に期待する」みたいな表現は苛々して見ることができない、と具体的に作品を出して言ったのだ。彼が私に教えてくるアーティストは全部嫌いだと。(事実、深夜のギャクアニメや、ブログやツイッターで面白いこと(イラストなど)描いてる人を見つけたときのほうが思いっきり笑えるし、素直に好きだ、素晴らしいと思う。)

そうしたら「死は個人的なことでしょ。それはフクシマと関係ない。」と言われたので呆れると同時に激怒してしまった。「死のことをリアルに考えられない人間に、フクシマのことをリアルに考えられるわけがない。他人の死のことを痛めるわけがない。」と私は言った。第一私の身体のことを配慮する気がないのなら、友人でもないし、私もストレスがたまって一銭にもならない悩み相談を受ける気はない。

事実、日本のバブリーなアートは、ほとんど死の恐怖なんて想像できない安全な場所で、ときに口先(言葉)だけでヒロシマからアウシュビッツからお題を頂戴(収奪)しては安易にやってきたのではないか。

日本にいなくてあの災害を経験していなくて、もし被災地を助けたいと思うならアートと関連づけることを考えないほうがいいと思う。どうして安全なところにいて、こじつけたい(利用したい)と思うのだろう。

フクシマを恰好のネタにして皆でおしゃべりすることがコンファレンスという経歴になり、少しでも自分が「有意義な」ことをした、という自己承認の手助けになんるのだろうか?でもやっぱりそこにアートはいらないと思う。脱原発の先進国なら何か革命のための手助け、ドイツからのインスパイアをしてほしい、と前にskypeで言ったのに。

「私の絵はフクシマ前とまったく変わらない。何一つ変わらない。」と言った。この意味を彼はわかってくれないようだった。

「私は作品を見れば大体わかる。次にテキストがインテレクトかどうか。テキストがイグノラントな人はもうどうしようもない。」と言った。彼は「作品だけでは判断できない。」と言った。眼で見てわからないとは正直なんだろうけど、それなら良いテキストが書ければ作品はいらないんじゃないかと思う。判断できない作品と、ごく普通の誰でも語れるようなテキスト、その何が面白いのだろう?誰か批評家が持ち上げれば、それとどこかの国のなんとかフェアに出ていてそこそこのキャリアがあるという情報を得れば、それでよいアーティストだと思えるのだろうか?

それを見ても誰も啓発されない、勇気もわかなければ他者のために何かをしようなんて思えない人工的な何かに、誰か言葉の達者な人がうまく価値づけ(こじつけ)をして、経済が成り立ち、誰かに大きなお金がはいる、その繰り返し。美術史と社会現象の中で、価値づけはどうにでもなる。どんな屑でもお宝だと理由づけできるのが腕のみせどころ。

「今からアートでフクシマをテーマにしても、事故後から変わったと思われるから難しい。5年前なら良い企画だった」と言った。ふざけないでと思う。「30年も40年も、もっと前から真面目に核に原発に反対してきた人たちはいるわけで、なかなか報われなくても、そういう無名の人たちのやってきたことの意味は大きいと思う。なんでアートの「収奪」のために、アート企画中心に考えるのだろう。

「女性差別をテーマにしたら」とか冗談じゃない。そんなアートは山ほどあったし、すごいのもあればくだらないものもたくさんあった。そういう過去の運動を知らないで言っているのだろうか?私は記号的なものは衝撃にならないと思う。アクテヴィティとして行動を起こすなら別だが。

なにか非常に言語化(こじつけ)されやすいものがアートとして成立しやすいと思っている節があって、どうにも共感できなかった。

彼は、「お金とか関係なく、本当はどんなアートが好きなの?本当は、じゃあ、何がやりたいの?」という質問に「わからない。」と答えた。本当に好きなものがないのだと思う。

理解できないのは、私が彼の提示してくるアーティストにまったく興味がない、と言ったら、なぜ彼に私が怒られなければならないのか?だ。私が大嫌いな人とむこうが付き合おうが、私は彼の選択に口をはさむ気はないし、興味ないのだ。彼の自由意思だと思う。

どうして私に自己承認を強要してくるのだろう?「あなたは間違っていない。がんばって。」と私に言わせたがるのだろう。(なぜか自分の不安を私にぶつけてきて、私がそれを忍耐してすべてを受け止めないとわかると私に激昂する人がけっこう頻繁にいるので非常に困る。私は人並みはずれた理解力と許容力を持っている、と勝手に思われて、つまりなめられているんだと思う。)それにしても幼稚だ。

かつて自分がバブリーにお金を回転させることができたとして、それが今は不可能になって私(バブリーなことと縁のない人間)にあたっているとしか思えない。何か自己不安を解消するために「確実なこと」「良いこと」を企画して成功させたいのだろうが、その内実が私にはあまり必然に思えず、やっぱり表層的で空疎なことは変わっていないと思う。

「フクシマのことはもう言わないで。(自分の価値づけにフクシマを利用するのはやめてほしい)。」という私の言葉に彼はすごく怒った。

表向きの看板は立派でも内実としては自分が何もインスパイアされないようなものに追随することはできない。私は余分なお金と時間を全く持っていない。

と書いているとき(3:20am) 彼から謝罪のメールが来た。

3月18日

新宿のNSビルで食事。このエレベーターから見る景色が自分の故郷。正面に見える住友三角ビルのむこう、中央公園を垂直に通り抜けると自分の生まれた家。

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一階正面の壁、右よりにくっついている巨大な水時計が好きだ。
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3月17日

久しぶりにHが家に来て探し物を手伝ってくれる。

彼女は対人ストレスを避けるため、ごくごく限られた人としか絶対に会わない。彼女はズケズケした人、自己顕示の強い人を極端に嫌う。

彼女からしたら私の対人忍耐力は驚異的らしい。メールは返事出さない。手紙は即捨てちゃう、くらいにすれば、と彼女は言った。

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2012年3月17日 (土)

日隅一雄 三木由起子対談 「こんなに遅れている日本の情報公開制度」

3月16日

国立がんセンターへ。3月5日の予約をすっかり忘れていて薬がなくなっているのにきのう気づき、A先生じきじきに予約を入れてもらった。

血液4本、レントゲン2枚。大量出血のあとにまた血を抜かれたので(気のせいか)すごくだるい。

会計待ちでロビーの長椅子に座っていたとき、奇跡ではないかと思った。3か月前に会計待ちのときに目を奪われた今は亡き種村季弘先生によく似た佇まいの人が、また斜め左側の長椅子に座った。椅子の位置関係もこの前と同じ。中折れの茶の帽子、こぎれいな黒のコート、知的で静かな雰囲気。文庫本を読んでいる。背格好も目と唇のかたちもそっくり。私が予約通り3月5日に来ていたら会えなかったと思う。

1時予約で会計がすんだのが2時30分。6時開場の岩波アネックスの日隅さんの対談まで、築地でゆっくり食事でもしていればいいのだけれど、少しでも休みたくて、地下鉄で家に戻った。3時過ぎに帰宅。ちゃびをもふもふ抱きしめてお茶を飲んで休憩。

Yに電話。久しぶりにつながった。またすぐ仙台に行くと言う。私が日隅さんの病気のことで苦しむことが心配だと言われた。

5時に家を出た。岩波についたのは5時45分。開場後、席について資料を見ていたら日隅さんに話しかけているご婦人がいて、「きょう退院されたの?」という問いに「いえ、退院はしてません。」という日隅さんの声が聞こえた。

3月10日のブログで、「ついに動くと痛みが出るタイプの癌痛が始まってしまいました。」と書いておられたので

http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/d/20120310

ものすごく心配だった。あれから入院中で、きょうはこのイベントのために病院を抜けて来られているようだ。

「遅れていた岩波のブックレットがついに4月初めに出ます。」とゲラを持って嬉しそうな日隅さん。思ったよりはお元気そうでよかった。

三木由希子さんは「情報公開クリアリングハウス」理事長。このNPO法人は、1980年創立の「情報公開を求める市民運動」が情報公開法の制定を受けて祖ぢ機械編をした結果、1999年12月に生まれたものだという。(「クリアリングハウス」という言葉はもともと「通行手形」を意味し、そこから現在では「情報センター」という意味でつかわれているとのこと。

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福島県から公開された、県に最初に届いたモニタリング結果とSPEEDIの結果。福島県が知っていたならなぜ県民に知らされなかったのか。3月12日、13日は水の支給を求めて子供連れで公園に並んだ人たちもいたという。

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9時近くなった最後のほう、日隅さんがやはり痛そうにしていたので心配だった。

次は4月14日に長時間やるという。

私自身も病院と血液検査で疲れたせいか、途中で一瞬くら~っとしてしまい頭が前のほうに傾いたりしたのだが、とにかく行けてよかった。

3月15日

母を東新宿のMに送る。ベッドに座っている母を立ち上がらせようと両手を脇からまわして持ち上げたら、今までにない激しさで左腰の神経痛。Mの帰り、地下鉄副都心線の階段を3段降りたとき、これはやばい、という痛みが走り、階段を戻ってエレベーターを使う。

ずっと電話もファクシミリもつながらなかったYは、被災した仙台の弟さん(家は半壊、弟さんは大けが)に代わって、家を修理するお金を集めるために仙台と生家を奔走していると聞く。

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2012年3月14日 (水)

3.11 一周年 /  『デッサンの基本』第12刷り / 表現

3月13日

ナツメ社さんから『デッサンの基本』第12刷りが決まったとのメールが来る。おとといからずっと鬱うつとしていたが、とりあえずすごく嬉しい。

去年、第9刷りのメールが届き、本当にわ~っと喜びで舞い上がる気持ちでメールの返事を描いているときに、あの揺れが来たのだ。それからはずっと絵を描けない日々が始まった。

その後『デッサンの基本』は昨年5月末に第10刷り、10月末に第11刷りが決まったとのメールをいただいた。

どこかで誰かが「デッサン」―(「素描」といったほうが感覚的にはあうが、)ものを眼で見て鉛筆で線を引くことに興味を持って、この本を手にしてくれることがあったら、これほど嬉しくありがたいことはありません。

自分の外にあるものを「眼」によって深く感じることが「絵」のはじまり」だと思います。ものを見て、鉛筆で線を引く楽しさ、これだけはたくさんの人にひろまっていってほしい。

描いてみて初めて、今までよく見えていなかったものが見えてきて、新しい世界の発見があります。この作業は誰も傷つけないし、外の生命とつながる方法にもなる。

ものをよく見て、それを紙の上に線を引く作業にかえていくこと、これは、自分の外に存在するものを受容することであって、いわゆる「自己表現」(仮の単語として、何かを表すのではなく自分を表すという否定的な意味)ではない、というのが私の考え方です。

もちろん「表現」は主体と客体と入り混じる場所に起こるものであるだろうが、自分の外にあるもの(生命)を認める、生かす、ということなく、自分の中にある表現欲望や自己承認欲望が強く出た表現を私は見ることができない。

「表現」について考え続けているのは、震災後に始まったことではないが、震災と原発事故というたいへんな事態にあって、「表現」について、また「アート」と呼ばれるものについて、以前よりさらにシビアに考えてしまうのは確かだ。

誰かを元気づけられるような「アート」がそうそうあるとは思えないし(喜ばれる立場にある人はやるべきだが)、かえって傷つけることもあると思う。「捧げる」とか「供する」という言葉での「自己表現」の押し売りや「収奪」、安易に使う言葉が事実の重さに吊り合うのか、そういうことばかり考えてしまう。

3月12日

前日に引き続き、夜一睡もできず朝7時すぎに寝た。

生理前の過緊張と重なったのもあり、具合が悪い。

3月11日

3.11の一周年。一日家にいてTVの3.11特集などを見ていたら、本当に心身ともに苦しくなってしまい、身体(肩、首、腰、胃、おなか)が痛くてたまらない。

食欲がなく、一日中温かい甘酒(酒粕を解かした甘くないもの)ばかり飲んでいた。

夜、眠れずぼーっとパソコンをいじっていたが涙が止まらない。

自分にとって大切な人の死の苦痛が、いろんな他者の言葉とともに入ってきて、自分の体験と入り混じって、混沌とした苦しみと悲しみでどうしようもない感じになっていた。

もうひとつは原発、放射能廃棄物というとてつもない人間的過ちの重さに、身動きできないほどの恐怖とストレスを感じたのだ。

3月10日

新宿のジュンク堂でいろいろ本を調べる。そのあと四谷で食事。久しぶりにおいしいものを食べたがおなかの調子はよくない。

8時40分頃帰宅してPCを開けたらすぐドイツからスカイプがかかって来た。

いろいろ悩んでいるらしく2時間相談されるが、私には聞いてあげるしかできない(資金繰りのことなんかわかるくらいなら今頃とっくに裕福になってる)。スピーチの原稿の修正を頼まれて読むが、日本語の言いまわしがおかしくてよくわからないので、ドイツ語のできる友人にメールをまわす。友人がきれいな日本語に訳しなおして赤と消し線を入れてくれた原稿を送ったら喜んでいたが夜中3時半くらいになる。

彼は「作品がどうでも、もう、しっかりした考えを持ったアーティストとしかつきあいたくない」と言ったが、それなら作品はいらないんじゃないかと思ってしまう。

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2012年3月 8日 (木)

ルドン アルマン・クラヴォー

3月6日

ずっと前にオルセーで見たルドンが恋しい。

油彩なのに筆の効果でパステルのように見せているものもあった。筆触というものの魅惑を痛いほど甘やかに感じた。

アルマン・クラヴォーもまた寡黙な人であったろう、とクラヴォーの描いた理知的、端正ですっとした線を見て思う。アルマン・クラヴォーは独学の植物学者であり、ルドンが二十歳のころから彼に深い影響を与え、ルドンが50歳のときに首を吊って亡くなった。

ルドンの描く人物は皆唇を閉じている。なかには唇自体が見えない者もいる。彼らは語るとしても口ではしゃべらない。とても、とても静かだ。

灰色の中の灰色。灰色の諧調の卓越。

実際の植物をとてもよく見て描いているのがわかる。

ルドンの静けさに満ちた絵を人混みの中で見るのは転倒である。

3月5日

母を下落合のSに迎えに行く。

新宿の小田急フローリストに、見たことのない素晴らしく魅力的なチューリップがあった。

ミステリアス・パロットという。私の大好きなブラックパロットと何か薄紫のフリンジのを掛け合わせたのだと思う。たいへん珍しい花で、もう入荷はないと言われた。

3月4日

夜ドイツとskypeで2時間ほど話す。彼は、ドイツにいる知り合いの若い日本人アーティストはとてもセルフィッシュだと言った。自分の自己表現、自分のお手柄をつくることしか考えていないと。

「東京ではできなくてベルリンではできることはあるか」、と彼に聞かれて、「それはいっぱいあると思う。東京では原発反対と公園のベンチに書いても警察に連行されるような状況。デモも規制されている。ベルリンは壁の落書きがそのまま絵になっているし、常に民衆の意思が繁栄されるところ。デモクラシーと自由なアートの可能性が許されているところじゃないかと思う。日本には真のデモクラシーがない主権在民ではない。。私たちは管理されている。アートも極度に経済と結びつきさまざまな欺瞞がある。」と言った。

被災後の日本に住む私の考えとしては、原発に反対の意思表示や、微力であってもできる範囲でのアクテヴィティを続けていくことが重要だと思う、その中で記号的(原発をネタに収奪するようなもの)ではない、本当に個人的真実の絵を描いていくこと。

脱原発先進国であるドイツから、東京にいる私たちを主権在民のための静かな革命へとインスパイアしてくれるような交流が欲しい、そのための場所としてそちらの建物の一部に他国のアーティストにより増殖し変化していくモニュメントをつくるなら協力したいと言った。

3月2日

新しいパソコンが届く。

1GBだったメモリが一気に8GBに。プロセッサはi7。一日に何回もフリーズしてどうにもならなかったのがサクサク動く。重いデータを古いPCから移動するときの速さがすごい。

生まれて初めて買ったPCの次のPCがこれだけ進化したとは・・・しかし写真の画像編集は前のほうが簡単だった気がする。

ずっと季村敏夫さんの「ノミトビヒヨシマルの独言」と高校生のとき好きだった原口統三の「二十歳のエチュード」を読み返している。

「二十歳のエチュード」は今の自己表現欲望の強い若い人たちにはまったく何を言っているのかわからない独白なのだろうと思う。彼は19歳で自殺した。今読むと十代のころに読んでいたときよりずっと、「表現」と「自我」の問題が身に染みる。時代は変わってしまったとはいえ、とても共感する部分がある。

3月1日

久しぶりに銀座方面に出かけた。プランタンでアンティーク市をやっていたので、私の大切にしているある小さなアンティークのメンテナンスについて質問したら、企業秘密なのか教えてくれなかった。そして私の嫌いなデザインのものを「すごいレアものを特別に見せてあげる」と言って薀蓄を語りだしたのでものすごくストレスがたまった。押しが強くて放してくれない人、度を超した自慢話ほど厭なものはない。

プランタンの外の花屋で(たぶんゴヤという名の)オレンジ色の八重のチューリップと黄色いヒヤシンスの鉢を買った。

ミオソテスという名の青灰色のヒヤシンスが欲しいが、まだ一度も花屋で会ったことがない。

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