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2013年1月

2013年1月31日 (木)

チューリップ(モンテ・オレンジ)水彩素描 

2月7日

ここ2週間ほど日を追って描いていたチューリップの素描(クリックすると大きくなります)。時系列は上から順番。

オレンジの八重のチューリップはモンテ・オレンジ。少し花弁が尖っている赤の八重のチューリップは、名前不明。全部で10本。

1月24日の開きかけ。チューリップは同花被花(萼と花弁の区別のはっきりした異花被花に対し、萼と花弁の区別のない花。内側3枚の花びらが花弁で外側3枚が萼)。

特に八重咲きやパロット咲きのチューリップには、萼のような葉のような花びらのようなものがついていることが多い。そういう奇形に美しさを感じるので、そういう個体をよく選んで買っている。(画像はクリックすると大きくなります)

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チューリップの花の裏側のツヤとガラスのように張った感じ。

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モンテ・オレンジと赤い八重のチューリップの正面。花弁に雄蕊がくっついていたり、花弁だが蕊だかわからない状態に混じったもの多数。

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花びらが開いて逆反りになって少しつっぱったような力の線に美しさを感じる。

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つっぱった力がしなだれてきた頃。個体によっては乾いて縮れてきた。

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かさかさ、ぱらぱらになった頃。

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夕方N病院へ。3Fのリハビリ病棟に移ったと聞いて、快復に向かったのかと期待したのに個室にいて鼻から酸素吸入していたのでショックを受ける。朝10時に移動させてから顔が真っ赤になり、心筋梗塞かと思ったが、血圧が188まで上がっていた、あとは脳にも血液にも異常なし、と言われた。

私が着いた時にはしっかりしていて、私に「起こして。」と言った。私の手を両手で握って、「かわいそうに氷みたい。代わってあげればいいのに。私は寝てばっかりいるから温かいのに。」と言った。食事の許可が出たので食べさせるが、クリップみたいなもので指に留めている酸素濃度を計測する機械の数値が95まで下がったら呼び出しボタンを押してください、と看護師さんに言われる。

食事中、なんとかおかずと林檎のすりおろしを食べたが、途中で眠ってしまう。そのあと少し譫妄。食べ物が口に入ったまま起きないので看護師さんに言うと、強く起こしたが起きないので口の中に棒の先にスポンジが着いたものを入れて掻き出そうとしたが口を開けない。チューブで吸引しようとしたが嫌がる。そのあと一瞬眼が開いたのでお茶を飲ませてなんとか口の中の食べ物を嚥下させる。

2月6日

雪は予想より少なく、雨に変わった。寒い日。駅の向こうの花屋に行く途中で耳がキンキンに冷えてズキズキした。

八重のピンクのチューリップ(フラッシュポイント)と白地に紫のすじのはいったチューリップ(フレミングフラッグ)を買う。

2月5日

N病院での介護認定に立ち会う。きょうは夕食時も傾眠で眼が開かないままだったのでどうしようかと思いながら食べさせる。カリウムとカルシウムの補給のため昆布の顆粒(無塩)を食事に混ぜる。

食事50分くらい経ってから眼が開く。急に調子がよくなり、おかゆを自分で完食。

2月4日

N病院。夕食時調子がよく、母の小さかった頃の母の両親のことなどよくしゃべる。母は麻の糸をつくって染め、機を織って着物をつくっていたこと。父はすごい根気と丁寧さをもってきめ細かい炭を焼いていたこと。父の名前の話で、母がすごく久しぶりに笑ったのを見た。

TVの画面で、小田原の海に立った大きな虹の映像を見て、「きれい」と母が言った(ここ5年くらい母がTV画面に反応したことがなかったので嬉しかった。)

2月3日

N病院。母に昔の写真を見せたら反応があった。私の赤ん坊のときの写真や母の母と5才の私が母の生家の庭の池でお皿を洗っている写真など。久しぶりに話が通じているので涙が出た。(やはり栄養不足で神経回路が悪かったのかと思う。)

夕食、1時間以上かかったが、入院後初めての完食。最後は自分でスプーンでおかゆを食べることができた。

2月2日

N病院へ。親族に対して、愛情や同情や共感がないのであれば介護するふりなんてしないでほしいと思う。本人の感覚では自覚がないのだろうが。

狸小路の子猫たちが飲み屋のウィンドウの前の棚のところに座っていた。かわいがられているなら本当に良かった。

夜。K・Tに電話。気持ちが通じない人だというストレスで気分が悪くなったら、胃の下のほうが痙攣して夕食を全部嘔吐。頭痛に耐えて寝る。

2月1日

昨日歩き廻ったせいか筋肉痛。治療院ですごく硬くなっていると言われる。

6時にN病院へ。なんとかおかずのみ完食。いろいろ苦しそうでたいへんだった。

8時頃帰宅してからきょう初めての食事。きのう読んだ本につられて、柚子の香りのする天婦羅蕎麦をつくる。

1月31日

母の病室へのG歯科の訪問診療に立ち会うため、4時にN病院へ。

診療後、6時まで中野ブロードウェイをうろつく。3Fで探していた某漫画家の1970年頃のコミックスを315円で発見。あまり見たことがないレア本なので購入。その後、水木しげるのレターセットや工作キット、楳図かずおのTシャツなどを見、ドイツ製のビザーレのポストカードをチェックし、大好きなコサージュ作家の作品やミリアム・ハスケルのネックレスやローズ・オニールのQPを見、地下に降りて昭和の雰囲気そのままの商店街を見て歩いた。8段もある390円のソフトクリームや、スナックと飲み物セットで300円のお店や、いろんな鉱物結晶を売るお店を眺めて歩いた。

暮れた狸小路の蕎麦屋の横にに3匹の赤ちゃんの野良猫がいた。どうかかわいがられていますように。

6時にN病院に戻り、母に夕食を食べさせる。なんとかおかずのみ完食。

1月30日

宮沢賢治『蜘蛛となめくじと狸』から『寓話 洞熊学校を卒業した三人』への変貌。

これは生き物が生き物を食って大きくなろうとする残虐な殺戮の話だが、「なるほどそうしてみると三人とも地獄行きのマラソン競争をしていたのです。」という一行で終わる初期の『蜘蛛となめくじと狸』のほうが、私の心には強く響いた。

1月29日

母、転院。9時30分にH病院へ行き、会計清算。ケアマネのMさんが書類を届けに来てくれる。Mさんは顔中に怪我。大雪の後の凍結した上をいつものように自転車で走って転倒し、同じくH病院でCTを撮ったそうだ。介護の仕事も命がけだ。

10時に介護タクシーが来る。中川幸夫先生が住んでいた近くを通り、紅葉山下を通って中野へ。N病院まで6020円。母がレントゲンを撮っているあいだ壁に貼られたN病院便りを見ていると、反原発デモに手作り横断幕で参加しているリハビリ職員さん達の写真があった。12時から昼食を50分かけて母に食べさせる。おかずのみ完食。

そのあとピザの店で休んだが、きのう眠れなかったせいで喉を通らない。

1月27日

25日にベルリンからメールがあり、新年の挨拶とスカイプで話したいと書いてあった。忙しいので、まず用件をメールで書いてください、と返事すると返事が来ない。他人から一方的に甘えられること、理不尽な要求をされることが、もう本当にうんざりなので、用件のみを聞くようにすることが今年の決意。

1月26日

母の夕食の介護に行くと、向かいのベッドのマーガレットさんに呼ばれ、左手にキスされた。1947年くらいに日本に来た宣教師さんらしい。

1月24日

名古屋のいずみ画廊の小山さんより藤田嗣治展のご案内に添えて丁寧なお便りをいただく。「浅田真央さんは、2年前、世界選手権で不調だった時、小塚崇彦君といっしょに食事しました。テレビで見るとおりの聖女でした。」とのこと。

1月23日

チューリップ(モンテ・オレンジ)を買う。

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2013年1月22日 (火)

吉岡実 『土方巽頌』

1月21日

ここ数日、吉岡実の『土方巽頌』をゆっくり読み返していた。読み終えて、ちょうどきょう一月21日が土方巽の命日であることに気づいた。

この本を読むと、1967年から1986年の吉岡実の日記から、当時、土方巽と吉岡実の周りに、その時代を代表する綺羅星のような詩人、前衛芸術家、批評家たちがいかに集っていたかが生々しくわかる。

公演や授賞式のあとの延々とした飲み歩き。今の時代ではとても考えられない芸術家の狂騒。

また、世界でも類を見ない「舞踏」というものの草創期の様子が想像できる。最初は舞踏の身体は白塗りではなく、黒塗りだったという興味深い証言もあった。

私がその当時大人だったら、見に行ったろうか、と考える。身体表現としての「舞踏」は非常に興味があるが、初期の土方巽の、鶏を生贄に捧げるような「燔」「犠」の儀式は、私は絶対に受け入れられない。演出のために実際に動物を殺すのは、芸術とは正反対の行為だと思う。だから、そういうことをやるかもしれないと知っていたら、絶対に私は行かないだろう。

いくつか観た土方巽のフィルムと、持っている写真集の中の、筋と骨格だけの緊張感に充ちた肉体とポーズを見るだけで十分すぎるくらい伝わってくる。

1998年の「土方巽とともに 天道地道」の公演を思い出す。大野一雄先生も種村季弘先生もお元気だった。胸が痛くなるような思い出・・・・・・。

種村季弘+吉増剛造+吉田文憲のシンポジウム、種村先生は「とげぬき」の少年の話をされたのを覚えている。少年が無意識に何気ない仕草で足に刺さったとげを抜いているから、その姿は美しい、自分が美しいと見られていると少年が意識したら、その姿は美しくもなんともなくなってしまう、と。その日、種村先生にカンガルーポーの赤い奇妙な花のはいった花束を渡した・・・。

それにしても土方巽の言葉はすごい。言葉が、そのまま土方巽の舞踏そのものを生きていて、それはつまり、日常の生の時間が、そのまま身体言語であり、舞踏である。

大野一雄先生もそうだったが、何かをつくっているわけでも、表現しているわけでもない。存在自体が特異で、言葉は常に詩的な箴言であり、強烈に人を惹きつける。

「外と内とかがフランスあたりの哲学ではやってるらしいけれど、もともと外が内側なんですね。内側は皮で外側が内臓、これを二十年前から私は言っています。内側が包む、外側が包まれる内臓なんだよっていう思考があたりまえの考え方だったんですよ。」(土方巽)

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2013年1月11日 (金)

浅田真央 『反絵、触れる、けだもののフラボン』

1月11日

水声社の担当さんから手紙。『反絵、触れる、けだもののフラボン』について週刊読書人(2012年12月14日)に田中和生さんが書いてくれていたのを見つけて送ってくれたとのこと。

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「画家の福山知佐子によるエッセイ集『反絵、触れる、けだもののフラボン』(水声社)。美術や芸術について語る言葉が、慌ただしい現代社会とはまったく別の、生死と直に触れた時間の流れを感じさせる。浅田真央の「鐘」論に感動した。」

と書いてくださっています。書評するかたにはたくさん本が送られてくるのに、実際に読んでくださり、そこに目をとめてとりあげてくださったことに本当に感謝です。

『反絵、触れる、けだもののフラボン――見ることと絵画をめぐる断片』は、昨年11月に出た本ですが、心から敬愛する(もう亡くなってしまった)芸術家へのオマージュと、胸がいっぱいになるような苦しい、また幸せな思い出と、私がいつも見つめている動物、植物や黴(カビ)や苔(コケや雲などについて感じることをなるべく見えるがままに書いた本です。

「もっとも劇的な雲、異空間の生成――浅田真央「鐘」に」は、以前ブログに書いた文章を推敲し、浅田真央の演技の芸術性に焦点をしぼって、書き直したものです。なるべく見えるがままを、脳裡に残像としていつまでも残るものがなんなのかを、言葉にするように努めたものです。

私にとって「見る」とはどういうことなのか、「芸術」とはどういうことなのか、を書いた本です。興味のあるかたはどうか読んでいただけたら幸いです。

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1月10日

中野のN病院に母の転院のための面談に行く。(高円寺のK病院のような)余計な料金加算がなく、しかも一人部屋も2人部屋も4人部屋も差額なし、という良心的なシステム。さらにスタッフが若い人ばかり。ここに無事転院できますように。

ブロードウェイの天婦羅屋さんで食事。ここのご主人は白髪のおじいちゃんで、なんともレトロな良いお店。このあと母の病院に行かなくていいなら、コチやサヨリの天婦羅で梅サワーなどを飲んでのんびりしたいところだ。

まんだらけで古い絶版まんが本を物色。「変や」で昔の病院にあった内臓標本模型や、ブリキのおもちゃなどを眺める。

使い捨てマスクの大箱を買おうとブロードウェイのドラッグストアをいくつか見たが、値段はいろいろ。角にあったほんとに古い小さな薬局で50枚入り100円のを見つけて購入。

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2013年1月 9日 (水)

新年  アネモネ

1月7日

「一本のアネモネあらば 希望なる 言葉 かすかに 雨滴のごとし」

歌人の森島章人さんからいただいた美しく繊細な年賀状に書かれていた短歌。

たいへんなこと、苦しいことはたくさんあっても、今年も美しいものを見つけ、それを記憶にとどめていきたい。

森島さんの次の歌集、『アネモネ、雨滴』も楽しみに。(私のアネモネの絵を使ってくださるというずっと前からの約束。)

前田英樹さんからも、新しい本を「とてもよかったです。」と書いてくださった賀状をいただいた。大学の教授はものすごく忙しいと思うのに、読んでいただけたことがとても嬉しい。

今年も素敵な人と関わる素敵な時間がたくさんありますように。集中して物事に取り組めますように。

1月6日

今頃になって、近くの神社に初詣。宗教やげんかつぎはまったく信じないのだが、この小さな神社の、茅の輪や、古い桜の樹や紅梅の樹に会うのは好きだ。

1月4日

神奈川近代美術館葉山館の水沢勉さんから「濃密なご著書。圧倒されました。」と書いた年賀状をいただく。

きょうは母は少し熱があるのか、ぐったりしていた。なんでも油断はできない。

1月3日

夕食時に行くと、熱はなんとか下がったようで、点滴とアイスノンはしていなかった。とにかく、いったんはほっとした。

私のこともわかるようで、少し会話も通じたので、なんとか励ましながら、夕食はおかずだけは完食(おかゆはお腹いっぱいで無理)。

1月2日

夕食時の介助に行くと、母はまだ高熱のまま。後ろ頭と左脇をアイスノンで冷やされていた。点滴はアミノ酸系のと、抗生物質のと2本していた。

唇がカラカラで、すごく弱っている様子。目を開けないし、声も出ないし、食事はまったくできなかったが、看護師さんがベッドの頭部分を上げて、ぐったりしている母に無理やり薬を飲ましていた。誤嚥しないのかと心配。

血液検査の結果を尋ねると、少し炎症がある、手術の傷口が赤くなっているので、たぶんそこが炎症を起こしている、とのこと。

帰宅してから、夜、不安で眠れなかった。ここまま感染症で死んでしまったら、あまりにもかわいそうだと思い、いろいろな記憶が廻った。

1月1日

毎年、大晦日の11時45分くらいに家を出て、2日参りの初詣に近くの小さな神社に行っているのだが、今年は寒くて風邪をひきそうだったので、風邪をひいて母にうつしたら母が死んでしまいそうなので、行くのを止めた。寒いせいだと思うが、このところずっと頭痛と鼻水がある。

しかし元日から母の様子がおかしい。夕食時にいくら声をかけても目を覚まさない。正月は病院に看護師さんの人数も少ない危険な時期なのだが、看護師さんを呼んでみてもらう。

熱が39度以上あり、瞳孔も調べたがそこは異常なし。脳のCTをとるが、脳出血などでがなかった。血液を採り、検査の結果は明日出るとのこと。

晴れやかな新年とはいかず、不安いっぱいなスタート。

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