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2013年1月22日 (火)

吉岡実 『土方巽頌』

1月21日

ここ数日、吉岡実の『土方巽頌』をゆっくり読み返していた。読み終えて、ちょうどきょう一月21日が土方巽の命日であることに気づいた。

この本を読むと、1967年から1986年の吉岡実の日記から、当時、土方巽と吉岡実の周りに、その時代を代表する綺羅星のような詩人、前衛芸術家、批評家たちがいかに集っていたかが生々しくわかる。

公演や授賞式のあとの延々とした飲み歩き。今の時代ではとても考えられない芸術家の狂騒。

また、世界でも類を見ない「舞踏」というものの草創期の様子が想像できる。最初は舞踏の身体は白塗りではなく、黒塗りだったという興味深い証言もあった。

私がその当時大人だったら、見に行ったろうか、と考える。身体表現としての「舞踏」は非常に興味があるが、初期の土方巽の、鶏を生贄に捧げるような「燔」「犠」の儀式は、私は絶対に受け入れられない。演出のために実際に動物を殺すのは、芸術とは正反対の行為だと思う。だから、そういうことをやるかもしれないと知っていたら、絶対に私は行かないだろう。

いくつか観た土方巽のフィルムと、持っている写真集の中の、筋と骨格だけの緊張感に充ちた肉体とポーズを見るだけで十分すぎるくらい伝わってくる。

1998年の「土方巽とともに 天道地道」の公演を思い出す。大野一雄先生も種村季弘先生もお元気だった。胸が痛くなるような思い出・・・・・・。

種村季弘+吉増剛造+吉田文憲のシンポジウム、種村先生は「とげぬき」の少年の話をされたのを覚えている。少年が無意識に何気ない仕草で足に刺さったとげを抜いているから、その姿は美しい、自分が美しいと見られていると少年が意識したら、その姿は美しくもなんともなくなってしまう、と。その日、種村先生にカンガルーポーの赤い奇妙な花のはいった花束を渡した・・・。

それにしても土方巽の言葉はすごい。言葉が、そのまま土方巽の舞踏そのものを生きていて、それはつまり、日常の生の時間が、そのまま身体言語であり、舞踏である。

大野一雄先生もそうだったが、何かをつくっているわけでも、表現しているわけでもない。存在自体が特異で、言葉は常に詩的な箴言であり、強烈に人を惹きつける。

「外と内とかがフランスあたりの哲学ではやってるらしいけれど、もともと外が内側なんですね。内側は皮で外側が内臓、これを二十年前から私は言っています。内側が包む、外側が包まれる内臓なんだよっていう思考があたりまえの考え方だったんですよ。」(土方巽)

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