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2013年8月22日 (木)

サラ・ムーン監督 「アンリ・カルティエ=ブレッソン 疑問符」 /  介護

8月16日

サラ・ムーンが監督した「アンリ・カルティエ=ブレッソン 疑問符」(Henri Cartier-Bresson : POINT D'INTERROGATION 1995年公開)を観る。

「表に出ちゃいけないんだ 時代の流れの光に逆らい 物事を撮る いつも疑問符ばかりだ」

かわいらしい女の赤ちゃんに見える。これがアンリの幼少期。ワンピースを着た美少女。詩的な眼をした美少年。そして軍服。

「写真自体に興味があったことは一度もない ルポルタージュにひかれる」

「ある物を見つける いつシャッターを押すか もうすぐ、もうすぐ・・・感動の極みでシャッターを押す オルガスムスと似てる」

「瞬間で弾けて失敗する場合もある 一回きりなんだから」

「絵画は黙想、写真は射撃」

「写真は“そこにいなければ”という不安感がいつもつきまとう でも穏やかな不安感だ」

「スケッチが絵画の理解に役立つとゲーテは言った」

アンリ・カルティエ=ブレッソンのデッサンは彼の写真にそっくりだ。何を見ているのかがはっきりしていて余計なものがない。構図が直観的に決まっている。見たものをそのまま描いていながら、強烈な謎になっている。

棚畑、樹木、テーブルの上のカリフラワーと林檎。

「結局 何を見るかが大事なんだ」「やはり自分で描かないと無理だよ」

そしてまた写真の話。

「私は造型的に比率のとれていないものを見るのが我慢ならない」

撮れなかった写真は。「捕虜生活」

テリアードとの出会い。

「思い出はあるけど私だけのものだ 話す気はないよ」

「奇妙なことに偶然性には数多く助けられた」

「物の見方は意識下という概念・・・」「マンディアルグとは意見があった」

「一瞬で決まる時間との闘い つまり時間との闘いが内在する唯一の表現方法だ 指揮者もそうだが個々の音は彼のじゃない 

写真家は自ら創りあげる 一瞬にして・・・この位置、この高さでいいのか、リスクが多い」

「苦手なのはポートレート 内気なんだ 一つの目でのぞいて――じっと見つめている
被写体の人は話しかけられると思っている カメラを持ちバカなことを話しながら相手の内側にある沈黙をとらえようとする男なんて――どう見えるのか 簡単じゃないよ」 

「相手の沈黙を撮りたいんだ」

キュリー夫妻の娘夫婦

「人々が必ず持っている沈黙による表現を・・・そこに惹かれる」

フランシス・ベーコン、ジョルジュ・ルオー

「私は彼の前に一時間ひざまずいたままだった 彼は手をこすり合わせていた お互いに目をしばたたかせる」

エズラ・パウンド

「何もしゃべらずに」

コレットとポーリーヌ

「ポートレートは法則がないから好きだ」

ピエール神父

「直接の関係性が作れる」

アルフレッド・スティーグリッツ

「獲物を捕まえるが危険な目に遭うこともある」

トルーマン・カポーティの大きな里芋の葉の前でこちらを見つめている(私の大好きな)写真、

マチス、フランソワ・モーリアック、マンディアルグ、ボナール、ジャン・ランヴァン、ロバート・フラハティ、

犬とフォークナー、猫とソーン・スタインバーク

「昔に戻るんだ」 

ジャコメッティを彷彿させる筆致のマンディアルグの顔のデッサン。

「だが答えが見つかる問いかけではない 絵筆を使えば別だが・・・」

「アルベルトより小心者だが 私たちは似た者同士だ 人生や仕事に対し 同じような考え方を持っている」

1958年 中国の強烈な写真

「デッサンと写真は似通っている 黙想と行動の違いはある」

枯れ木が重なる沼の写真、

丘のデッサン、岩山、鉄橋、木立のトンネル、(博物館で描いたと思われる)マンモスの骨

「「時を考えた作品は時代を超す」ロダンだ」

白と黒のいくつかの二等辺三角形。斜めの線を異なる方向からの線が受け止め、また違う曲線がそれを受け止め、あるいは裁断する。ブレッソンはそこにあるものから直観的に、ただ一点の自分の眼の位置、高さ、角度を見いだし、トリミングなしに完璧な絵を抽出する。

そしてそこに通りかかる誰か(白と黒のぶちの犬、切り取られた光の窓の上を走るひとりの子ども、水たまりを飛び越える誰か、奇妙な何かを抱えた人)の瞬間を待つ。

ブレッソンの写真はルポルタージュでありながら完璧な絵、ピエロ・デラ・フランチェスカ、パオロ・ウッチェロ、バルテュスを思い起こさせる静かな、時に演劇のワンシーンのように想像を喚起する硬質な絵である。

これほどまでのデッサンを描ける一流写真家がいただろうか。

何よりも「眼」だ。眼が何を追求すべきかを知っていて、余計なものがこそげ落ちた筆跡は必然を辿る。

静謐に整ったブレッソンの写真との対比で、ブレッソンのデッサンの筆跡の素晴らしさが際立つ。デッサンは修練によりある範囲の技量を獲得することが多いが、ブレッソンの場合は、彼の生来の資質によるところが大きいと思う。

控え目であること。もののどこを見ればいいか、最初からわかっていること。

サラ・ムーンはルポルタージュとはあまり関係がないファッション写真家だが、写真の絵画的アプローチを追及した人であり、人の心を震わせる黄昏のような感覚世界の中に見る人を誘惑する方法を心得ている人だ。

この映画も、ブレッソンの持つ特有の魅惑を押し付けがましくなく、うまく撮っていると思う。

ブレッソンの描いたデッサンの暗い木立の中に歩いていきたい(私の)気持ちを知っているかのように、デッサンの中の樹の陰のほうにそっといざなうように撮っていたのに感心した。

8月17日(土)

夕方、信じられない電話。

7月27日に電話したとき、あれほど取りつく島もなかった新宿区の施設Kから、母が「待機」(あと数人待ちくらいの状態)になれるという連絡をいただいた。

7月に電話を受けたTさんという女性相談員は施設の待機順番はわからない人で、きょう電話をくれた相談員のHさんがすべてやっているという。(Tさんはそういう言い方ではなく、けんもほろろだったのだが・・・)。

とにかく、きょう連絡をくれた相談員のHさんはすごく親切で親身になってくれる感じがしたので、夢のようだった。年内に移れるとかの具体的なことが約束されたわけではないが、これで、あと何年になるかわからない不安の中で老健を転々としなくてもいい、という希望が持てた。

郊外の施設Tを見学に行ったのが7月25日。その時はこの先どうなるか何も見えず、不安で身体が痛いほどだったが、なんとなく感覚的にしっくり来ず、施設Tにお願いする決心がつかなかった。悩み苦しんで断ったが、本当に郊外の施設Tを断ってよかったと今は思う。

8月19日

きょうから数十年ぶりにまた書道を習いにいくことにした。

ずっと絵筆の持ち方になってしまっていて、書道の筆の持ち方を忘れていたので、先生に直接修正していただきたかった。

最初、大恥かきそうで緊張したが、筆を持ったら不思議と昔の感覚が戻ってきた。ああ、この感じだったなあ。なんて気持ちいい。

「得魚忘筌」。よい言葉である。

筆さばき、力の入れ方など、具体的に修正すべき点がはっきりわかれば、繰り返し鍛錬するのが楽しくてたまらない。夢中であっというまに1時間半。けっこう二重丸もらっちゃいました。

小二の時、書道を始めて、毎年1月2日に全国大会で武道館に書き初めに行かされたのは緊張した楽しい思い出。たしか当時はけっこうトロフィーとかもらっていたのです。

8月20日

近所の金柑の樹が、今年4回目の花を咲かせている。

最初は5月の17日くらいから一週間。それから毎月20日前後に5日間くらい咲いて8月で4回目。

最初の花が受粉して小さな実がなってもまた新しいつぼみがつく不思議な樹。

毎回小さな白い花に鼻をくっつけて甘い匂いをかいでいる。

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