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2014年1月23日 (木)

マーク・ロスコ 『ロスコ 芸術家のリアリティ』

1月22日

マーク・ロスコの美術論集『ロスコ 芸術家のリアリティ』(中村和雄訳 みすず書房)を読んでいる。

2003年に佐倉のDIC川村記念美術館で若林奮先生の展覧会があったとき、期せずしてロスコ作品の実物と対峙する機会があった。大きく静かな色面には非常に微妙なニュアンスがあり、色と色がさざ波のように蠢いている感じもあった。いったい何を考えていた画家なのだろうとずっと気になっていた。

ロスコは1903年に生まれ1970年に自殺した。

1970年にロスコとその妻が亡くなった時、この本の編者であるロスコの息子クリストファー・ロスコは6才だった。それからこの原稿が編集され本になるまでに35年がかかった。

すぐれた画家の書いた文章は、例外なく非常に興味深い際立った文章だと言えると思う。そこにすぐれた実作者個人の特異な思索と苦悩があり、一般化して共通理解できるような言葉ではない。浅薄な言葉しか書けないが絵だけはすごいという画家を見たことがない。気どりだけで「何も言っていない言葉」を書く作者、神経が鈍いと感じさせる作者の作品はやはり何も見るべきものがない。

「単なる形の定まらない抽象と見えかねない」絵で有名になったロスコが何を思索していたのか。この本はロスコの絵が完全な抽象になる10年も前に書かれたものであり、また、彼自身の絵の秘密に関しては直接書かれておらず、「芸術家は何をしているのか」が書かれている。しかし「見かけ上空虚にも思える彼の絵画が多くの意味内容に満ちていることをわからせようと奮闘する」論考でもある。

多分に観念的であり、言葉づかいも独特でわかりにくいところも多いが、確かに絶えず絵画について考え続け、実作し続けた人の文章だ。

1940年初頭には、ロスコは理解されていなかった。評価されず、誤解されていることへの痛切な思いと、生活の不幸と鬱のなかで「真の芸術的な動機」について彼の哲学を彼の言葉で書こうとし、この本が書かれた。

クリストファー・ロスコの序によると、ロスコの代表的抽象絵画についてロスコ自身の考えは、「それ以前の芸術からの革命的離反」などではなく、「彼が言うところの「造形過程」、すなわち芸術の発展は、内在的な展開の過程なのである。」

「ロスコが抽象という時、」「視覚を通して知覚される対象にではなく、芸術家自身にとってのリアリティに従おうとする営みのことを意味していたと考えられる。」

ロスコは「絵画を成り立たせるため」の「まったく異なった2つの方法」を、「便宜上」、「触知的な造形性」と「視覚的あるいはイリュージョン的な造形性」と呼んだ。

昨年末に行った「〈外〉の千夜一夜」の講演で、宇野邦一さんがドゥルーズのリトルネロについて話していた。その時、視覚の中に触覚がいかに介入してくるかという例で、エジプト壁画についてロスコが書いた美術論に言及されていたことが、この本を読むきっかけとなった。「造形性」や「空間」の章を読むと、ロスコの身体感覚の強度がわかる。

「概括的に言えば、エジプトの壁画は混じり気のない造形的[触知的]空間の例であり、ペルジーノの絵画は完璧なイリュージョン空間の創出を目指していたということができる。」

「エジプトの例においては、」「すべての人物は一本の水平線上にいる。」

「エジプトの壁画には、空間の後退を示そうとする努力がまったく払われていない。」

「にもかかわらず、これらの絵を見る時、私たちは、人物が空間の中に存在している、と感じるのである。

単色で描かれたこれらの神秘的な人物たちの周囲の色彩には、空気の――あるいはむしろ色のついた空気の――質感がある。人物たちはその空気の中に浸っているのである。それはまさしく、人物たちを埋め込んだ一種の粘液、あるいはゼリー状の物質と言い得るものである。

つまりここでは空間は、人物像の背後にある何かの性質としてではなく、触知できる容積を持ち、人物像とともに壁の面に向かって前進してくる実態として描かれているのだ。」

クリストファーの言葉を引用すれば、「『芸術家のリアリティ』の真価は、その論拠の完璧さにも、それが論戦にどれほど耐え抜き得るのかといった点にもない。むしろここで貴重なのは、一人の芸術家の、めったにはうかがい知れない世界観が、極めて詳細にわたって論じられているという点である。」

そして画家は自分の絵画が「誤解され、」「何も考えない大衆にによって踏みにじられてしまう」ことをいつも恐れている。

「極めて個人的な性質のもの」であり、「彼の生命に直結した内的なもの」である絵画を、公衆の面前に送り出すことは常に彼の傷つきやすさと怒りと直結する。

ロスコは美術教育の社会的責任に高い関心を持ち、左翼的政治立場でありながら、自らを徹底した個人主義者だと言明しているところも共感するところだ。

1月21日

気温10度を超えた日、なんとか風邪も治ってきて、久しぶりの外出。

北新宿にまだ残る「染物洗張」と書いた暖簾の店の前を通る。

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私が小さい頃、祖母が和裁の仕事をして、よく一緒に連れられて麻布の近くの染物洗張のお店に行った。着物の染め色の見本帳を見るのが面白くてたまらなかった。「あらいはり」という不思議な言葉を聞いただけでわくわくした。

あの頃、西新宿にも何軒かあった染物洗張の店も、最近はどこにもないので、たまに出会うと嬉しくなってしまう。

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北新宿の住宅街に一軒ポツンとあるかつてのお味噌屋さん。「マルマス味噌」の看板。

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枯れ蔦の絡まるものを見つけるといつも立ち止まってしまう。何の作為もなく人の手も入らず、植物に浸食されている状態に惹かれるのだ。それも熱帯の繁殖力旺盛な植物ではなく、都会でもよく見られる蔦。

西新宿の古いアパートも、窓が開かなくなるほど蔦に覆われているものをかつてよく見た。12月には紅葉して美しかった。2005年くらいに再開発で全部潰されてしまったが懐かしい記憶の風景だ。

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駅のフェンスのキカラスウリ(黄烏瓜)。擦過する中央線。
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新宿に出、久しぶりに充実した食事。

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この店のメニューは完全にNoMeatなので私には安心。真ん中のお皿の「里芋と崩し豆腐の揚げ団子」が抜群においしかった。

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1月20日

佐藤亨さんより新刊『北アイルランドのインターフェイス』(水声社)が届く。ありがたく拝読。

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