« 浅田真央、高橋大輔ドキュメンタリー / ミステリアスパロット | トップページ | 鎌倉 / 病院 »

2014年3月14日 (金)

福島の小児の甲状腺がん / 鈴木創士 『ザ・中島らも らもとの三十五光年』

3月14日

きょうの明け方(東京では気づかなかったのだが)、瀬戸内海西部の伊予灘を震源とする大きな地震があったらしい。愛媛の伊方原発や松江の島根原発に異状はなかったというが、「瀬戸内海は地震が少なく安全」というのは嘘だと思う。

3月11日の報道ステーションで、福島県で発生している小児甲状腺癌を大々的に報道していた。

通常100万人に1人から2人と言われるほど稀なはずの小児の甲状腺癌の発症が、現在、福島県では27万人中33人。

福島原発の事故由来の放射能と、当時18歳未満の福島の子どもたちに甲状腺癌が出たことには、国や県は因果関係は「考えにくい」と言っている。

子どもが実際に甲状腺癌になってしまった母親の苦悩。家族も親戚も「放射能の話、がんの話をするな」と言ってくるという。

18才未満の甲状腺癌の検査をやるのも、診断の権限も福島県立医大のみ、と県が決めているという。この県立医大の鈴木眞一教授は放射能と小児がんの因果関係に否定的。県立医大では患者自身の検査データについて、本人に説明も情報公開もしてくれない。

放射能と、小児の甲状腺癌の因果関係について、国が「考えにくい」と言っている根拠は、チェルノブイリの事故の直後、4年間は小児の甲状腺癌が出なかったからだと言っている。

しかし、番組がチェルノブイリを取材すると、事故当時(1986年)は精密に検査機械がなく、触診だったこと、精密な機械が手に入ったのは1989年~90年だったという証言が出てくる。事故4年後から爆発的に小児甲状腺癌が増えたのは、それまでは確実にデータが出る検査機械がなかっただけかもしれないという疑問が出てくる。

事故直後、被曝量を調査するために浪江町にはいっていた弘前大学の床波教授は、県からの圧力で、住民の被曝検査をやめさせられたという。つまりその時期の被曝データがないので、被曝量とがんの関連を証明できないようにさせられた。

実際に甲状腺癌になってしまった若い人や、その母親がものすごく不安になるのは当然なのに、福島県の行政も、県立医大の医師も、学校の教師も、癌と放射能と関連付けることに抵抗を見せ、放射能に怯える被曝者本人の口をふさごうとしていることがショックだった。

福島県から人口が流出することをおそれてか、県の物産が売れなくなることををおそれてか、健康被害に対する補償をしたくないからか、とにかく実際に癌になってしまった子どもに対して行政が酷い扱いをしている。そのことを報道してくれたのは画期的だったと思う。

この方たちが番組をわかりやすくまとめてくれています。

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3607.html

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-2007.html

甲状腺癌のうち、多くは乳頭癌という発育が遅い癌だが、年齢がいくと悪性の癌に転化することがあると言われている。

甲状腺癌で甲状腺を全摘してしまうと、甲状腺ホルモンがまったく分泌されなくなってしまう。甲状腺ホルモンは、全身の細胞の代謝に関わる重要なホルモンなので、無くては生命を維持できない。だから毎日甲状腺ホルモンの薬を飲むようになる。

また、甲状腺に隣接して副甲状腺という内分泌腺があり、これはカルシウムの吸収に関わっている。甲状腺癌を摘出する際に副甲状腺も摘出してしまうと、カルシウムが吸収できなくなるので、毎日ビタミンDを飲むようになる。

ビタミンDを飲んでいても、血中のカルシウム濃度が低くなり、手や足の指が攣る(テタニー)。私の経験では、長時間、食事をとらなかったりすると、手や足の指が硬く内側につっぱる感じで折れ曲がって、すごく痛い。もとに引っ張って戻してもすぐまた攣る。外にいる時にテタニーに襲われたら、とりあえず牛乳を買って飲むが、なかなか治らない。

もしも災害などで、甲状腺ホルモンの薬を飲めなくなったら、何日くらい生命を維持できるのかわからないが、薬はどこへ行くのにも持っていたほうがいいのかもしれない。

3月10日

毛利やすみ先生からお知らせのはがきをいただいていた展覧会を見に、日本橋高島屋へ。

やすみ先生の作品は暗い、でも暖かい月夜に、紅薔薇と水色のオキシペタラム(ブルースター)の花束が宙に浮かんでいる絵だった。

花束に結んだリボンが非常に丁寧に描かれている。

亡くなってしまった大切な人・・・毛利武彦先生たちに捧げられているのだと思った。

3月7日

鈴木創士さんが『ザ・中島らも らもとの三十五光年』(河出文庫)を送ってくださった。『中島らも烈伝』にさらにその後の文章と対談を加えた本だ。

Ssdsc02777

「らもは稲垣足穂の「歴史に対して垂直に立つ」って考え方が好きで、つまり当時の新左翼のマルクス主義のように、水平的に集団的に時間を動かすということが嫌いだったわけ。だからなんとかしてに垂直に飛ぶ、というかむしろ、スカラベか蝸牛のようにのろのろ上昇するやり方を見つけなければならなかった。そこで最初に出会ったのがヘンリー・ミラーとセリーヌだったわけです。」

「たしかにまったく矛盾なしに、結果でもなく、ましてや原因でもなく、何かの薄い皮膜のように、破れそうで破れない、何かおかしなもの、何か奇妙なもの、あるいは何かの結晶のように硬質で、愛に満ちたもの、あるいは軽くて、ゆるやかで、精妙で、繊細なものがそこにはたしかに存在するのだと思う。らもの本を読むことがそういうものであってくれれば僕もいいと思う。」

「俺はいま神学に興味があるんだ、スコラ哲学だよ。」、と鈴木さんが言って、「それはそれは」とらもさんが応える。鈴木さんがドゥンス・スコトゥスが気に入っている話をして、らもさんがその話につきあいながら、「でもおまえ、あいかわらず頭ワイてるんとちゃうか?」と笑う。

大人になってもそういう友がいるというのは―鈴木創士さんが15歳の時に中島らもと出会って、中島らもが死んでしまうまで、三十五年もずっと濃い付き合いが続いたということはすごいことだと思う。そして中島らもが亡くなって十年経っても、今も濃いつながりがあるということも稀有なことだ。

私にも大切な友がいる。しょっちゅう会うわけではないが、決して裏切らず、真夜中に電話しても話を聞いてくれるような友。虚栄が嫌いで、優しくて、才能溢れる友が。

|

« 浅田真央、高橋大輔ドキュメンタリー / ミステリアスパロット | トップページ | 鎌倉 / 病院 »

」カテゴリの記事

原発」カテゴリの記事

がん」カテゴリの記事