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2014年6月

2014年6月26日 (木)

味戸ケイコさんからの手紙 / 文章、絵について

6月24日

昼間、耳をつんざくような雷と豪雨。夕方、友人と会う。

文章についての話。それと今現在の私の状況――父が死にかかって、担当医師にもほとんど生きて帰れないだろう、非常に厳しい状態と言われたのに奇跡的に生き残ったこと。それによって家族の非常に悲惨にこじれた愛憎と精神的苦痛がまた問題になっている話。

文章についての話はとても難しい。

私の生は結構陰鬱でしんどい部分がある。それなのに植物と絵画についてのことだけを書いて、どういう価値が生まれるのか、自分自身でよくわからない、焦燥を感じるところが大きい。

絵についての話。

私が最近すごく惹かれてやまないもの。ヴィクトル・ユーゴーの絵。ピサネロの素描。モンドリアンの花の素描と水彩。エドワード・リアが14才の時に描いた鳥の素描。ロートレックの動物の素描。C・R・マッキントッシュの花の素描。ハイスムの花の素描。ジョン・ラスキンの素描。

意識して選んだわけではなく、あまり知られていないもの、巨匠の代表作と言われていない絵のほうに断然惹かれる。

たとえばモンドリアンの水平と垂直で仕切られた赤、黄、青の絵を私はあまり見たいとは思えない。それよりもモンドリアンの、心がざわざわと掻き立てられるような夕暮れの、ものの輪郭が曖昧になってきた時間の風景や、繊細な樹の素描や、涙をいっぱいためたような百合や菊の水彩のほうが魅力があると感じる。

かつて赤、黄、青の抽象が最高の到達点であると認めた権威者がいて、もちろんモンドリアンの「冷たい抽象」はその時代の必然、その時の作者本人の意志の必然であったのだろうから、そこでモンドリアンの価値は決まったのかもしれないが、彼自身はその抽象が高く評価された後も、憂いに満ちたような花の水彩を描いている。今の美術界で機能している絵画の評価基準とは何だろう、今、現在の批評とはどこにあるのか、と思う。

友人はそれはものすごく重要な問題だと言った。

夜、調布や府中で猛烈な雹が降って、植物がずたずたに裂かれてしまったニュースを見る。

・・・・・・

先週の金曜(6月20日)に味戸ケイコさんからお手紙をいただいた。前に本と一緒にお送りした手紙の返信。どこをとっても凝縮されているような、とてもあたたかく、素晴らしいお手紙だった。

味戸さんの文字は、本当に味戸さんの絵と同じ、丁寧でコスモスの葉のようにそよいでいる植物の生命そのもののようなかたち。

「「思い出すことと忘れられないこと」は、見事に不思議にも子どもだった私と重なります。ふつう(ふつうとは何なのか未だにわからないけれど…)とはちがう、ふつう誰も目を向けない心をかけない、もの、ことにたまらなく惹かれ、愛着を持ってしまう子ども…

今の季節なら、あまり陽の差さない場所に咲いている細くてくねくねした枝にはらりと薄く小さいまばらな花びら、色合いも水をふくんだような、そんな紫陽花を愛おしい…と、相当、おとなになったはずの私も、いまだに変わらずに、こうして、生きています。

子どものときの知佐子さんに子どものときの私が会っていたら、きっととても仲良しになったと思います。でも今、こうして手紙を書けるのが嬉しいです。」 という、とても身に余るようなお言葉。

絵を見ればわかることだが、味戸さんも子どものころから話すのが苦手だったそうだ。「絵で話せばいいということなのかしらとも思っています。」 私もしゃべるのが苦手だった。家族とごく親しいともだち以外、人前ではまったく口を開かないような子どもだった。

味戸ケイコさんの文章で、僭越だが私がものすごく共感したものを引用させていただく。(『終末から』1974年4月)より。

「草むらのなかには空家がぽつんと、うつむいてたっていました。入口はしっかりクギづけされて窓のなかはいつもまっ暗でした。まるで夜を切りとったような暗やみがおそろしくて、いつも駈足でとおりぬけたのです。でもいつか、あの窓のなかを見てみたいというおもいに胸いっぱいになりながら走るのでした。そしてある日、とうとう決心したのです。ゆらゆらと背のたかい草は揺れていました。目のおくでまわりのものが白く滲んでゆきました。きがつくとわたしは、おそろしい窓のまえにたっていました。そして、その暗やみにすっぽり包みこまれたとき、そこにあったのは海の底にもにた優しい空間だったのです。」

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2014年6月24日 (火)

父の緊急搬送、 入院(4) / ウズアジサイ アカンサス

6月20日(金)

味戸ケイコさんからお手紙が来ていた。

病院へ行く道の端っこの植え込みに、「半夏生(はんげしょう、カタシログサ)」を見つけた。

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一見、花びらかと見える白い葉っぱが「半化粧」している。大雨が近い季節。

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病院の近くの細い小道。

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小道の途中にある鬱蒼とした植物の群れ。

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ギリシャ建築のモチーフによく使われていた大きなアカンサスの花房。アカンサスをデザインしたモチーフのデッサン用の石膏板が予備校にあったのを思い出す。

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病院に行くと、ものすごくショックなことに、庭の真ん中の芝部分に生えていたいわゆる雑草、ハルノノゲシ、シロツメクサ、ハッカなどを電動草刈り機で刈っている人がいた。

これがきのうまでの、私が慰められていた草たちの姿。今はこの草たちはなく、つるつるで、敷石と芝生だけが残っている。

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芝生部分に密生していた薄荷は全部刈り取られてしまったが、庭の隅っこにまだ密生していた薄荷を撮っておいた。

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この薄荷を一本摘んで、匂いを嗅ぐだけで、幾分か慰められる。

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父の退院のためのカンファレンス。17日に相談したMSWのM・Sさん、MSW長のO・Aさん、看護師長さん、ケアマネのMさんとヘルパーのMさんと私と妹で父が自宅に戻るための必要な看護と介護保健サービスの限界などについて話し合った。

きょうの父はほとんどしゃべらず、少しぐったりしていた。担当のA・S医師の話によると、昨日糖尿の薬を変えたら血糖値が70くらいまで下がり食欲も下がった。それできょうは37・6度くらいの熱がある、実は昨日はもっと具合が悪かったとのこと。

炭酸濃度に関して確認の質問をすると、入院以来81~60くらいで推移していて(通常の人の正常値は35~45で、70超えたら意識混濁なのだが、)81の時でも意識レヴェルは変わらなかったそうだ。

食事は現在、まだ訓練食。よく噛まないでかきこむ傾向があると言われた。これで退院して、またすぐに誤嚥するのじゃないかと不安だ。

食事、買い物、掃除、洗濯、入浴のなにひとつ普通にひとりでできる状態とは思えないが、介護認定の変更を申請しても、生年月日などの記憶や直前の記憶力は普通なので、あまり介護度があがるとは期待できない。

今まで母と父の介護のキーパーソンがすべて私だったのだが、父に関してのキーパーソンを妹に変えてもらう。

カンファレンスのあと、妹と本当に久しぶりに話して、父を発端とする家族の精神的外傷の連鎖があまりに酷いことにあらためて愕然とする。妹の不安定さをまともに見て、ものすごく疲れた。

それでも家族の悲惨さを話す時、時々笑い出したくなるのは何故なのだろう。きょうも泣いている妹の前で私も泣きながらアハハハハハ、と笑ってしまった。妹は私が笑ったことに怒っていたが、ばかにしているわけではないのだ。普通だったら有り得ないようなこじれた関係性を被りながら生きていることが、時々すごく滑稽に感じて、おかしくて笑い出したくなってしまうのだ。

6月19日

近所で見つけたウズアジサイと普通のアジサイのキメラ。

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花弁に見えるところ(実際は萼)が平たく大きく開いている部分が普通のアジサイで、丸っこく縮まっているのがウズアジサイ。

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2014年6月19日 (木)

父の救急搬送、入院(3) / 大切な友人との会話

6月18日(水)

大切な友人から、私の送った文章に関しての手紙が届く。

昨晩の電話で、私の一番よいところは、「今まで言葉にできないほどの酷い目にあってきているのに、決してかわらない純一な生命体としての向上心」と言われた。

「より自由になろうとすると、世の中の約束事がバラバラとほどけていく、そのアナーキーな沸騰する熱に絶えず自分をさらし続けることで、問いを発し続けている」

「もっとも微細な瞬間に向き合った時、有機的に運命づけられている命のうごめき、そこにどのように瞬間、瞬間、自分の感覚がさらされているか」

父が死にかかって救急車で運ばれてからのこの二週間、いろんなことを考え、本当に疲れてしまった。

以前は当たり前だった友との会話が非現実的に感じられるほど、過去の嫌なトラウマに打ちひしがれていたが、ここから少しずつ自分を取り戻せたらいいと思う。

6月17日(火)

父の入院する病院で担当医師とMSWとの面談。

I・S医局長から、肺炎による呼吸困難と心不全は治療できた、予想をはるかに超える驚異的な回復だと言われた。

K・K医師の説明。酸素の鼻腔カニューレもとれ、抗生剤もこの週末はやっていない、食事はゼリー食から訓練食になり、きょうは完食。歩行器を使って病院内を歩くリハビリをやっているとのこと。

在宅まで調整はあと約一週間と言われ、このあとリハビリ病院に行くと思っていたので、正直当惑した。自宅に帰れば前と同じ、誰の言うことも聞かず、内服薬も飲まず、まったく目茶苦茶な生活に戻ると思うからだ。

医師ふたりの説明のあと、MSWで看護師のMさんと面談。今までの父の生活ぶりから、どうしたらいいか話す。ここ一週間くらい、すごく体調が悪い中、ずっと考えていたことは、正直、私のものすごいストレスの原因である父にもう振り回されたくないということだ。

病院の近くの細い素敵な道に、背の高い杏の樹の実がたくさん落ちていた。

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夜、大切な友人から久しぶりに電話をもらう。

私の次の仕事についての話。きょう父の病院の面談だったことを話すと、私の小さい頃から今までの経緯を考えると、信じられないほど酷いことをされてきているのに、どうして父をかわいそうと思うの? と言われた。

歪んでしまった人間は、なかなかもとには戻らない、とも。

6月16日(月)

また不正出血。最近ずっと血が止まらない。ストレスで何回も目が覚める。

近所の杏の樹の実が全部収穫されて葉っぱだけになっていた。都会の片隅の本当に小さな樹だが、それでも毎年杏が実って日増しに濃く色づいていくのを見るのが楽しい。

夕方、母に会いに行く。夕食と「極みプリン」完食。

昔の写真をまとめたアルバムを見せる。「これ、誰?わかる?」と聞いて、すごく反応がある時と、ない時とがあるが、少し食べてからまた最初のページから見せるのを5回くらい繰り返していると、反応が冴えてきたりする。

母の若い頃の写真を見て「これ、いい女に見える。鼻筋が通ってるみたい。」と言った。(母は自分は鼻筋が通ってなくて全然美人じゃない、とよく言っていた。)私が生まれる前の父の写真を見せると、やはり「いい男。」と言う。

7時前に施設の裏口を出ると、すごくキナ臭くて、消防車が4台も来ていたのでびっくりした。すぐ前のお寺の脇の細道を入ったところが火事のようだった。施設の表玄関の前にある水道から消防車が水を引いているようだった。

6月14日(土)

ストレスで首が痛くて横を向けないほど。いろいろネットで調べたところ、自分の手で頭を持ってぐいっと倒すような強い首のストレッチは逆効果で首の筋肉を傷めるそうで、熱い蒸しタオルが良い、と書いてあったので、レンジで熱くした蒸しタオルを首にあてるのを4回繰り返してやってみた。

治療院でも、首、肩をマッサージするとき、外に耳ではっきり聞こえるように「ばつっ」と音がすると言われた。

夕方、Gと高田馬場でかきあげを食べた。今後の介護についての相談。

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2014年6月16日 (月)

ドイツからの友人

6月13日

ドイツから2週間ほど日本に来ていたギャラリストの友人と会う。

6時過ぎに待ち合わせ。久しぶりだが、元気そうだった。

以前、東京で会った時、3.11関係のアートのイヴェントをドイツでやりたいから無償で手伝ってと言われ、この緊迫した状態の中でドイツに行く金と時間の余裕がないので、そんな金があるなら被災者を直に手伝うのに使ったほうがいい、そんなアートよりデモの時の工夫したプラカードのほうがずっとアートだと思う、と私が言って喧嘩になった。

今回会った彼は、アート以外のもろもろの仕事で自分の生活費をつくって、少し余裕があるそうで、以前よりずっと冷静でまともだった。

彼は現在の日本の状態、問題の深刻さについて知りたがっていて、原発の問題、言論への圧力と表現の自由、憲法の改正などについて質問してきた。それについて久しぶりに拙い英語で一生懸命伝えようと努力する機会をもらえたので楽しかった(どうしても伝えたいことを伝えようと必死にならない限り、漫然と勉強していても英会話は全然覚えられないからだ)。

今の日本でリベラルな表現をやろうとしたら、圧力がかけられる可能性が高い(もちろん影響力の少ない無名な作家は無視されるだけだが)、日本がそうした状況にある中で、日本国内ではないしろ、ドイツのギャラリーで何かやろうとしてもなかなか難しいので、今はアート以外の仕事をしながらギャラリーを維持して、今後どういう活動をするか考える、というような話だった。

「芸術」とはもともと反社会的なものの名前であるはずだ。しかし政治的な変革が依然として急務なときに、「アート」が表現のテーマや素材に現代的な社会問題を取り入れたぐらいでは、現実は何も変わらないし、ましてや「感覚の攪乱」には程遠い。

作品、あるいは作品行為(この言葉の用例については、天沢退二郎氏の「作品行為論」がもちろんよく知られているが、作品と行為を二分しないという意味で私は使わせてもらっている)において、テキストだけで充分なのに、と思ってしまうものをたくさん見てきたので、社会が危機的状況の時こそ、「アート」の価値とは何か、「現場」でのアジテーションやシュプレヒコールではなく、どうしても「アート」でなければならない必然はあるのか、と考えざるを得ない。

私にとって、一生、これだけあればいい、貧乏でもお金を出して買ってそばにおきたい、と思えるもの、見てよかったと思えるものはごくわずかだ。

いろいろな国の人たちが集まって合同で何かをつくる、というのをやりたいのだとまた言われたが、それは、原発問題、憲法問題など緊迫した余裕のない時に、なぜドイツのその場所に集まらなければならないのか、旅費をかけてそこで何かをやるその内容に意義がありるのか。皆の共同作業というそれだけの理由で、安易に自己満足に陥りやすい危険なアイディアだと思う。

彼がとりあえず何か意義あることをやりたがっているのはわかるのだが、彼の頭の中でそれが亡羊としていて、それが自己満足に陥らないためにはいろいろなアイディアや人手が必要だろう。

私の思考を頼りにしてくれているのは確かで、ベルリンも物価上昇中で、円安もあり宿代はどんどん上がっているので、来るときは自分の部屋に泊まっていい(自分は親の家に行くから)と言ってくれた。

帰りに「美味しんぼ」の本が見たいと言ったのでブックオフに連れていったが、最新刊はなかった。一番新しいので2010年刊のしかなかったが、パラパラとページをめくると、2010年にはもう六ヶ所村の汚染や築地の移転先の土壌汚染などの食物への影響の危険性を描いていたことに驚いた。この漫画を全然読んだことがなかったが、以前からしっかり社会派だった。

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2014年6月14日 (土)

父の救急搬送、入院(2)

6月12日(木)

父の消耗品と洗濯したパジャマ2枚を持って病院へ。3日連続なのですごく疲れてきた。

きょうも医師からの説明があるので、先生が来るまで待てますか、と言われた。K医師から、転院先にリハビリ病院は難しいと思う、この状態だと療養型病院と言われ、去年、母の転院先を探していた時に面談しに行った療養型は料金が高くて、支払いが無理だったと答えた。

明日、MSWから私に電話をくれる、電話で話してから面談の日時を決めてくれと言われた。

とりあえずケアマネさんに電話。頭がわりとはっきりしているのに、寝たきりの人ばかりの療養型はかわいそうですよね、と言ったら、そう思う、と言われた。MSWさんに家族はリハビリ病院希望と言ってみようと思う。

淡い優しいヨーロッパ風の花が植えてある病院の庭。ヒルガオが絡まっていた。

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ラベンダーも盛り。

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後ろの樹もふわっとした繊細な葉の樹だ。

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とても良い匂いのフサフジウツギ(ブッドレア)。
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夏草が生えっぱなしなのが嬉しかった。この敷石を踏んで遊んでいるのは私くらいしかいない。

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6月11日(水)

父のリハビリのための上履きと靴下を買って病院へ。

若い親切な看護師さんとしばし話をする。父は家に帰りたいと盛んに言っているが、帰宅すればまた煙草も吸い、薬も飲まず、そしてまた同じことの繰り返し、人の迷惑を考えずに勝手にやり、お金にだらしなく、困ったときだけ人を呼び出す。私は耐えられないと思う。

帰りに、もろもろのものを取るため大江戸線で福山家に寄る。大荷物を持ち、三井ビルのオーガニックハウスで休んだ。

6月10日(火)

新宿区の介護関係書類を病院に提出。日にちがかかると思っていたのに、あっさりその場で書いてもらえたのでびっくり。N病院では1階受付に出す規則で、2、3日後に事務の人が書いてくれてから、取りに来てくれと自宅に電話連絡がくる仕組みで面倒だった。

父は救急病棟の個室から同じ救急階の内床と呼ばれる大部屋(一階の最初に救急車で運ばれた部屋と同じつくり)に移されていた。

酸素マスク(非侵襲的な人工呼吸器)が取れて、酸素カニューレのみになったので移動されたそうだ。酸素レヴェルは94。

きのう妹に延命処置の説明を医師からしてもらい、納得してもらったばかりなのに、もう、きょうの父は普段とあまり変わりないくらい、もとに戻っているように見えた。

「何で俺は救急車で運ばれたんだ?俺は誤嚥なんかするはずない。」と言うので
呼吸困難で死にそうだった、肺がひとつしかないのに誤嚥肺炎になっていて、糖尿で、肝臓も悪く、長年の喫煙で肺が委縮して硬くなっていて、昔やった結核菌がまだ出ている可能性もあり、結局菌は出ていなかったが、今度また誤嚥するか肺に穴が空いたら即死ぬから、と言っておいた。

担当のA先生から今の父の状態の説明があった。血中炭酸濃度は74とまだ非常に高く、
通常の人なら意識混迷、70歳代でこの値なら死ぬような値だが、しかし、普通にしゃべれ、きょうは少し歩くリハビリもやったそうで、この値でも生きていけるように身体が順応してきたのだろうとのこと。

だから、近々、この病院を出なければならない、その転院の相談を相談員と私でしてほしいと言われた。

リハビリに必要だから運動靴を買ってきて、と看護師さんにいわれた。

ストレスによる不正出血で鮮血が出ている。首がずっと鞭打ちのような状態。首は左、肩は右、背筋は右が痛い。治療院で触ると明らかに背筋が固く盛り上がっている、と言われる。

6月9日(月)

自分のがんの主治医による定期健診の予約日だったので、鎌ヶ谷の病院へ。

「体調はどうですか?」と言われて、父が救急入院したので、慌ただしく、緊張が抜けなくて「星状神経ブロック」を最近よくやってもらっています、と答えたら、「えっ!星状神経ブロック?!気を付けてくださいね。」と言われてショック。

「首を手術していろいろとっていると、動脈のポイントの位置がずれるので、私たち頭頚科の医師は、手術した患者さんには怖くて星状神経ブロックは打てないんですよ。」と言われた。ひぃぃい~・・・・。そうとう危険なことをやっていたのだろうか、そう言えば気道が詰まって息が苦しく、声が出なくなったことが、もう5、6回もある。

「一番まずいのはどんな危険なんですか。」と質問すると、「声帯を傷つけてしまうと声が出なくなる。」と言われて怖くなった。私は左右ふたつある声帯の神経の片方を手術の時に切ってしまっている。(どっちの声帯を切ったのか忘れているので、A先生に確認すべきだったのに、うっかりしないでしまった。)

東武野田線の進行方向左の景色には、まだ古い神社や森が一部残っているのを発見した。雨に濡れた森や野原が素晴らしく綺麗に見えた。秋にはあそこを歩きたいと思う。

うちの近所の杏の樹の実が色づいた。

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6月8日(日)

病院から電話があり、延命処置についての私の考えの確認をしたい、と言われた。

私は、最初に医局長から説明を受けた時に答えた通り、器官挿管はなし、心臓マッサージも、本人が炭酸ガスが脳にたまって苦痛がない状態なのに、肋骨を折って痛みを与えて数日延命するのはかわいそうだと思う、と答えた。

しかし妹が心臓マッサージについて決められないと言っている、と答えたらK医師から妹に、父の状態に関しての心臓マッサージ効果がどんなものか説明してくれる、と言われた。

雨が止んだあとの曇り空、近所を散歩した。

ソルダムの中身を連想する雨に濡れたタチアオイ。

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近所の家の庭木にあった李(スモモ)。阿佐ヶ谷の団地にあった鈴生りの李の樹を恋しく思い出した。

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これなんの種だっけ?近所の細い小道にあった面白いかたち。

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ドクダミとアナベルアジサイ。

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薄緑色の変わり咲きの鉄線(クレマチス)。

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全部罌粟坊主になった空き地の雛罌粟。

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とても紫が濃いアジサイ。

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6月7日(土)

きのう、むちうちのように首が硬くなって、首を傾げたり横を向くことさえ痛くてできなかったのがきついPMSの症状にそっくりだったのだが、その翌日の今朝、ひどい不正出血で綿ジャージもシーツも貫通して敷布団が血だらけだったので愕然とする。5月26日、27日に、頭痛で何もできないほどの大量出血があったばかりで、もうふらふらだ。

ストレスのせいと思うが、とにかく身体がしんどい。治療院に行ったら、きのうも首、肩の硬さがひどかったけど、きょうはさらに腰や脚までがちがちになっていると言われた。

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2014年6月 6日 (金)

父の救急搬送、入院

6月6日(金)

一日中大雨。

朝、ケアマネさんと電話で話す。ケアマネさんはまだ私からのメールを見ていなかったそうで、危険な状態と言われた、という私の言葉に驚いていた。

たくさんの老人を見てきたケアマネさんの感覚では、父がこのまますぐ死んでしまうという感じはしないとのこと。今まで誰の言うことも聞かず、さんざん好き勝手して(家族に迷惑をかけて)不摂生してきた人だから、本人の意思を聞くのがいいのでは、と言われ、確かに私がここで重圧を感じて思い悩むのは筋ではないと思った。

午後、福山家に行ってコロ(猫)の様子を見ようとしたのに姿が見えない。激しい雨なのにどこに行ったのだろうと、「にゃ~お、にゃ~お」と得意の猫の声帯模写で家中うを廻ったがいない。食事は少し食べた形跡在り。

父の使えそうなもの(きのう忘れた分)を大きな手提げ袋に詰めて病院へ。

5時頃着き、病棟ロビーに行ったら妹がいた。丁度、私が着いた時に先生から「結核菌は出ていなかった。だからマスクは不要です。」との報告を受けた。

病室に入れてもらい、妹が父に、気胸になったらドレーンを入れる治療をしたいかと聞いたら、父はわりとはっきりと「うん。うん。」とやりたい意志を示した。

若い看護師さんが父の病室に来て、少し話をした。「簡易人工呼吸器の画面に、炭酸ガス濃度の値は出ているんですか。」と尋ねると、そこには出ていないそうだ。

炭酸ガスはあいかわらず70近く高い(正常値は35-45)のに、「でも意思疎通できてるんですよね。」とのこと。、普通の人ならそんな異常な状態で話が通じることはありえないので驚異的なことなのだが、父は高校生くらいから肺結核をやって、20才くらいに片肺を取ってしまったので、身体がその危険な状態にうまく対応して生きてこられたのではないか、と言われた。

きょう、酸素マスクをはずして一回、ベッドのふちに座ってみるリハビリをやったときいてびっくり。もちろんこれから悪くなる可能性はあるが、片肺で体重30kg代でヘビースモーカーの父の身体は、常識では計れないほど屈強だ。

この若い女性看護師さんのお祖母さんは、94歳でご健在で、91歳まで一人暮らしをされていたという。

あとからまた先生から病状の説明があるからと言われ、ロビーのソファでガラス越しに雨の町を眺めていた。

先生の説明によると、肺炎のほうは救急で運び込まれた時よりもよくなっているとのこと。腎臓は弱っていなかったとそうで、抗生物質投与を2倍にしてみたら効いていると言われた。

「きのうは、そうとう厳しい状態ということでしたが・・・」と言ったら、病院では、よくなると思っていたのに悪くなった、とクレームを言う家族もいるので、最悪の可能性もお話ししておくということです、と言われた。

延命処置について、心臓マッサージ、昇圧剤、器官挿管の三つをやるかどうか家族で考えておいてくださいと言われ、妹がひどく多弁で騒々しく「心臓マッサージは延命に含まれませんよね。」などと蒙昧なことを感情的に言うので疲れた。妹はすべてにおいて理知や黙考や集中力に欠け、自己満足的、依存症的な傾向が強い。今までまともに介護したこともないのに、結局自己満足優先なのだと思う。

6月5日(木)

病院から電話があり、父の今後の治療方針について医師から説明があるので4時までに病院に来てくれと言われる。

昼から近所でパジャマ2着とタオル類などを買い、2時30分頃、福山家に行って父が使う日用品もろもろをとり、タクシーで病院へ。

父は一人部屋に移動されていた。

家族面談室で第四呼吸器内科の医長I・S先生から説明があった。同席者A先生、記録K看護師。さすが最先端の研究をしている大きな病院で、すごく明晰できちんとしている印象だ。

父の状態の説明。「厳しい話になりますが」と言われた。今朝から簡易人工呼吸器をつけた。高齢で片肺しかないのに肺炎を起こしている、やせて胸の筋肉がとても薄いので肺を動かす力も弱く、肺活量が少ない。喀痰排出も困難。

浅い呼吸のせいで炭酸ガスを十分に吐き出せず身体に炭酸ガスがたまり、脳が麻酔のような状態になっている。そのため呼吸が十分でないのに呼吸困難で苦しいと感じることもできず、炭酸ガスの貯留が重篤になると自発呼吸が止まり死に至る。このような状況は心臓にも負担がかかっている。

通常PH(酸性アルカリ性の度合い)7.35-7.45、Pco2(炭酸ガスの貯留) 35-45mmHg のところ、6月5日朝の時点で PH7.29、Pco2 71.9mmHg だった。

このままだと自発呼吸が止まる可能性があったので、今朝、非侵襲的な人工呼吸器をつけた。

しかし人工呼吸器による圧に耐えられず気胸を発症する可能性が高く、特に父のように長年喫煙し続けている人間は肺が硬化していて気胸になりやすい。人工呼吸器装着後の3時のレントゲンに、すでに気胸を疑う所見(肺の上部に隙間のように見える影)が見られる。

今後、心臓や呼吸が止まりそうになった時に、心臓マッサージや挿管管理を希望するか、と聞かれた。

また、差し迫った問題として気胸が増悪した時、ドレーン(あばらに穴を開け空気を外に逃がす治療)をやるかを決めてくれと言われた。

簡易人工呼吸器で酸素を肺に送り込みながら、同時に肺に穴が開いていて空気が漏れているとしたらドレーンを入れて肺の外の肺の容器内の空気を外に排出したとしても治療効果としては空しいのではないか。

「お父さんは片方しか肺がないのによくここまで頑張ってこられたと思います。たいへんなこともたくさんあったでしょう。最後は苦しい思いをさせないという考えかたも・・・」というような言葉をI・S先生に言われて胸がつまった。

とにかく生きて病院を出られる可能性は高くない、なんとかがんばって命が助かっても、まず自宅には戻れないということ。

その後、面会の際、今、昔やった結核の菌(がまだ肺にあるのかは不明だが)を外に出す陽圧の治療をしていると言われ、N95マスク(ホタテ貝のような形の固いマスク)を渡され、装着方法の説明を受けたが、今ひとつフィットしていない感じのまま病室に入った。

入院したことを妹には連絡していなかったのだが、もういつ臨終になるかわからないという感じだったので妹に電話で知らせることにした。

6時くらいに、もうひとりの医師から新たに説明があるので、もう少し待てますか、と言われて一階のカフェで20分ほどお茶を飲んだ。妹に電話したが留守だった。

6時過ぎA先生から、「現時点では、気胸ではなかった、肺に穴は開いていなかった。」と言われた。しかし簡易人工呼吸器により、気胸になる可能性が高い状況は変わらないとのこと。

夜、ケアマネさんにメール。

6月4日(水)

2時ごろ、ケアマネさんから電話があり、父のところに介護ヘルパー料金の集金に行ったところ、父がぐったりしていてお金も出せない状態とのこと。1日、2日と猛暑だったので熱中症の脱水症状の疑いがあり、ほっておける状態ではないのだが、父が近所のかかりつけの医師I先生の往診も拒否、救急車を呼ぶことも拒否しているので、どうしましょうか、と言われる。

何度もケアマネさんが父を説得してくれたが、すべて拒否の押し問答。

とりあえず往診をお願いし、ケアマネさんからの報告を待つ。ケアマネさんからの電話で、I先生の判断により、救急車を呼んだ、と言われる。病院の第一希望は、と聞かれ、とにかく個室は無理なので多床室ではいれるところで、とお願いする。

その後、ケアマネさんからK病院の救急に入ったとの連絡を受け、慌てて出かける。営団地下鉄から都営線への乗り換えを間違えてしまい、走って汗だくになって、4時過ぎに着いた。

救命救急センターの中で、父の病歴についての質問を受ける。ケアマネさんから保険証、鍵、貴重品袋を渡していただいて、ケアマネさんは次の仕事へ。

時間外待合室で待っていて、と救急の医師に言われて2時間以上待つ。2時間20分くらい待ち続けたところで、初めに入った救急の部屋に聞きに行くと、やっといろいろな検査が終わりつつあり、これから入院できる部屋を探すのでもう少し待っていてくれ、と言われた。

時間外受付の前の椅子で待っていたら、救急担当の医師から受け継いだという二人の内科の医師から挨拶された。父の病状は急性肺炎と言われる。

入院手続き後、部屋が決まって搬送。救急病棟のロビーの椅子で待っていたら、内科の担当医の女性のほうのI・K先生(糖尿病内分泌代謝科フェロー)から、父は肺結核歴があり片方しか肺がないのに肺炎になって、C型肝炎もやっている、糖尿もある、など、いろいろ複合的に、これから「イベント」があったら悪くなる危険が高い、と言われた。

「イベントがあった時に、お父さんは痛い治療は嫌がりますか?」と聞かれ、どう答えていいかわからなかったが、とりあえず「あんまり凝ったことは必要ないと思います。」とだけ答えた。

終わって一階の受付のところに出てきたら8時20分をまわっていた。そのあと新宿へ寄る。

6月3日(火)

あまりに硬直している首の筋肉を少しでも緩めるため、きょうも星状神経ブロック注射をしに行く。最近首の緊張がひどすぎるため、火曜と金曜、時間があれば水曜もブロック注射を受けに行っている。

火曜のM先生が一番注射が丁寧で痛くない気がする。痛いと言っても注射針を刺す痛さはほとんどなく、がちがちに固まった筋肉にぐっと液体を注入する時に、筋肉が張るというか突っ張るような痛みなのだが。

この注射を打って30分後くらいが緊張性頭痛もなくなり、一番楽になる。

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2014年6月 3日 (火)

毛利武彦の世界 第3回追悼・回顧展「都市風景」 成川美術館 / 富山のチューリップ 

6月1日

師毛利武彦の展覧会を観に箱根へ。

朝10時40分のロマンスカーで箱根湯本へ。6月なのに真夏のように暑い日。私は自律神経失調で体温調節がうまくできず、さらに紫外線アレルギーで顔に湿疹ができたことが幾度もあるので、すでにしんどい。

湯本からバスで真昼間、仙石原高原に着くが、陽射しがきつすぎてススキ野原まで歩けない。せめて川のせせらぎを感じに、近くの橋のたもとまで歩くが、暑くて頭が痛くなり、しかたなく宿で涼んでいた。

夕方6時20分頃、ようやく外に出る。すっかり涼しくなった人気のない道を歩き、楽しみにしていた仙石原のススキ野原へ。まず道の右側に仙石原湿原があらわれる。


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その道をはさんで向かい側になだらかな丘の仙石原のススキ野原。

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走って登っている写真が気に入ったのでモノクロにしてみた。

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右手に湿原、左手にススキ野原の丘が続く道。

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仙石原湿原植物群の碑。
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湿原の囲いの木の柵が素敵だった。

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夕飯はビュッフェ形式。揚げ茄子がおいしすぎて何回もおかわりした。あと写真にはないが小アジの干物がさすが本場のおいしさだった。
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6月2日

11時にチェックアウトしてバスで芦ノ湖畔の桃源台まで出る。湖の岸辺を散歩していたら、すごくおっとりしたかわいい猫ちゃんと出会う。

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めちゃくちゃかわいい~。
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貸しボート屋さんの猫だったらしい。すぐそばに昼寝しているもう一匹のかわいいキジ猫ちゃんが。

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芦ノ湖の貸しボート屋さんのボートと遠くに見える海賊船。

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桃源台から12時5分発の芦ノ湖スカイラインバスで箱根町へと向かう。840円で絶景が楽しめるスカイラインバスは一日に片道4本しかなく、今まで乗れる機会がなかったのだが、今回初めて体験できた。標高1000mの尾根を行くので車内に涼しい風が入ってきて爽快感抜群。

残念ながら三国峠の絶景ポイントでは薄曇りのため、富士山がはっきり見えなかったが、肉眼では画像右上の雲の下に富士山の姿を確認できた。

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箱根町に着いてから、日盛りを避けて、旧箱根街道杉並木へ。1618年に幕命によって植えられたと言われる樹齢400年の杉たち。
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山の上から水が落ちてくる場所。
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下に向けて曲がって伸びた不思議な杉の枝。

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杉並木を抜けたところにあるお土産屋さんのかわいい二匹のわんこと。

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成川美術館の入り口の手前にある古い身代わり地蔵尊。
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ついに目的の箱根成川美術館に到着。毛利武彦の世界 第3回追悼・回顧展「都市風景」。

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個人的に今回の都会風景の中で、特に感動したのは、「公園の雪どけ」(下の画像のパンフレット左ページ右上)と「知られぬ風景」だった。

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「公園の雪どけ」は、噴水の根本だけを描いて、華やかに破裂する噴水の上部は雪が浮かぶ水の中に写った像であること、この創意はやはりすごいと思う。銀箔を幾重にも貼った垂直に躍動する水の表現に見入ってしまった。

「知られぬ風景」(下の画像の右上)は、毛利先生には珍しく日輪の表現に色泊を使っている。その日輪の周りの艶消しの粒子の細かい絵の具の表現、ほぼ左右対称にして、日輪のアクセントと黒緑青の並木のつくる三角形の微妙なバランス、淡い金と黒緑青と白の響きがすごいと思った。

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最も不思議だったのは今回のパンフレットには載っていないが「屋上風景」だった。鉄塔に舟型の乗り物が四つ、チェーンでぶら下がっていて回転するデパートの屋上にあるような遊具が描かれている。

しかし、それは屋上の遊具ではなく、船が浮かんでいる港の風景なのかもしれない。たまたま鉄塔が手前にあって幻想的な想像を掻き立てる情景になっているのかもしれない。

それが都会の屋上の遊具を描いた絵なのか、港を描いた絵なのかは、見る者の見方にまかせられる。

成川美術館を出て、バス停でバスを待つ間、すぐ隣に「賽の河原」があることを発見。昔、この地は地蔵信仰の霊地で、たくさんの石仏、石塔が湖畔に並んでいたそうだ。こんなふうにまとめられてしまっているのが悲しい。

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6月なのにまだ咲いている春女苑と石仏。

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バスで箱根湯本まで出、湯本富士屋ホテルで遅い昼食をとり、川沿いにある早雲山の林を探索してみた。日差しが強い中、ここは鬱蒼としているが藪蚊が多かった。

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木漏れ日の斑模様。

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早川にアオサギが来ていた。

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5時前のロマンスカーで新宿に戻った。通路を挟んで対象位置の席に座っているかっこいいカップルが話している言葉がドイツ語に聞こえて、懐かしさを覚えた。男性の膝に頭を乗せて眠っている短パンで長いなま脚をさらしている女性が、とてもナチュラルで美しい人だったので見とれてしまった。

・・・・・・

5月31日(木)

ネットで私のチューリップの絵を見つけてくださった富山県花卉球根組合のFさんから連絡をいただく。

チューリップを心から愛し、実際にチューリップを栽培しているかたから連絡をいただくなんて、本当に嬉しい。

富山県花卉球根農業組合のHPはこちらから。

http://www.tba.or.jp/

5月30日(金)

母に会いに行く。きょうは前回とは対照的に、わりとはっきりしていた。無事夕飯を完食させた後、前回食べさせられなかった桃のゼリーといつもの極(きわみ)プリンを食べさせた。

国産桃ゼリーの桃がとてもシャキシャキとして硬かったので、お皿にあけて、スプーンで極小さく切断するのがたいへんだった。

髪の毛もきれいにショートに切ってもらっていた。とにかく、前回のようにぐったりしていなかったので本当に良かった。

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