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2014年6月16日 (月)

ドイツからの友人

6月13日

ドイツから2週間ほど日本に来ていたギャラリストの友人と会う。

6時過ぎに待ち合わせ。久しぶりだが、元気そうだった。

以前、東京で会った時、3.11関係のアートのイヴェントをドイツでやりたいから無償で手伝ってと言われ、この緊迫した状態の中でドイツに行く金と時間の余裕がないので、そんな金があるなら被災者を直に手伝うのに使ったほうがいい、そんなアートよりデモの時の工夫したプラカードのほうがずっとアートだと思う、と私が言って喧嘩になった。

今回会った彼は、アート以外のもろもろの仕事で自分の生活費をつくって、少し余裕があるそうで、以前よりずっと冷静でまともだった。

彼は現在の日本の状態、問題の深刻さについて知りたがっていて、原発の問題、言論への圧力と表現の自由、憲法の改正などについて質問してきた。それについて久しぶりに拙い英語で一生懸命伝えようと努力する機会をもらえたので楽しかった(どうしても伝えたいことを伝えようと必死にならない限り、漫然と勉強していても英会話は全然覚えられないからだ)。

今の日本でリベラルな表現をやろうとしたら、圧力がかけられる可能性が高い(もちろん影響力の少ない無名な作家は無視されるだけだが)、日本がそうした状況にある中で、日本国内ではないしろ、ドイツのギャラリーで何かやろうとしてもなかなか難しいので、今はアート以外の仕事をしながらギャラリーを維持して、今後どういう活動をするか考える、というような話だった。

「芸術」とはもともと反社会的なものの名前であるはずだ。しかし政治的な変革が依然として急務なときに、「アート」が表現のテーマや素材に現代的な社会問題を取り入れたぐらいでは、現実は何も変わらないし、ましてや「感覚の攪乱」には程遠い。

作品、あるいは作品行為(この言葉の用例については、天沢退二郎氏の「作品行為論」がもちろんよく知られているが、作品と行為を二分しないという意味で私は使わせてもらっている)において、テキストだけで充分なのに、と思ってしまうものをたくさん見てきたので、社会が危機的状況の時こそ、「アート」の価値とは何か、「現場」でのアジテーションやシュプレヒコールではなく、どうしても「アート」でなければならない必然はあるのか、と考えざるを得ない。

私にとって、一生、これだけあればいい、貧乏でもお金を出して買ってそばにおきたい、と思えるもの、見てよかったと思えるものはごくわずかだ。

いろいろな国の人たちが集まって合同で何かをつくる、というのをやりたいのだとまた言われたが、それは、原発問題、憲法問題など緊迫した余裕のない時に、なぜドイツのその場所に集まらなければならないのか、旅費をかけてそこで何かをやるその内容に意義がありるのか。皆の共同作業というそれだけの理由で、安易に自己満足に陥りやすい危険なアイディアだと思う。

彼がとりあえず何か意義あることをやりたがっているのはわかるのだが、彼の頭の中でそれが亡羊としていて、それが自己満足に陥らないためにはいろいろなアイディアや人手が必要だろう。

私の思考を頼りにしてくれているのは確かで、ベルリンも物価上昇中で、円安もあり宿代はどんどん上がっているので、来るときは自分の部屋に泊まっていい(自分は親の家に行くから)と言ってくれた。

帰りに「美味しんぼ」の本が見たいと言ったのでブックオフに連れていったが、最新刊はなかった。一番新しいので2010年刊のしかなかったが、パラパラとページをめくると、2010年にはもう六ヶ所村の汚染や築地の移転先の土壌汚染などの食物への影響の危険性を描いていたことに驚いた。この漫画を全然読んだことがなかったが、以前からしっかり社会派だった。

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