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2014年8月13日 (水)

鶏頭 ソルダム / シモンの夏

8月10日

最近描いた鶏頭の素描。ケイトウの英名はCockscombで、やっぱり雄鶏のとさか。

Sdsc03827

ケイトウは、茎は直立していてあまり絵にならないのだが、その分花と葉がたっぷりと奇妙で面白味がある。

オレンジやピンクの綺麗な色のは、葉の柄のついているところから出ている鮮やかな花の断片のようなもの、深い紅色のは葉の中で混じっている紅色と緑の諧調を追うのが面白い。

いろんなかたちのケイトウを素描していきたい。

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60年代~70年代初頭のまんがに好きな作品がたくさんあるが、最近、ずっと昔から気になっていた作品を読むことができた。

水野英子の『シモンの夏』(1970)。

私が小学校の低学年の時に、知り合いのお姉さんの家で前半まで読ませてもらって、何がかいてあるのかよく理解できなかったのだが、強烈な印象を受け、その後何十年も、あれはなんだったのだろう、と気になっていた作品。

絵を描く若い女性が主人公で、夏に海辺でシモンという少年に出会う。シモンはなぜかその女性のことを「あなたはちっともきれいじゃない」と言う。

シモンは女性の恋人である老芸術家の顔を腐った木切れでつくり、腐った魚の骨や海藻できたならしいオブジェをつくって女性に「それがあなただよ!」と叫ぶところで前半終わり。

画面に大きく描かれたそのオブジェの印象は凄絶で、幼い私の眼の記憶には、それが海辺にうちあげられた腐ったものすべてを集めてつくった、どす黒く臭う恐ろしいものとして残った。そしてシモンという少年がどうしてそんなに猛然と女性を批判しているのか、それを知りたい、この続きを読みたいという気持ちがずっと心に残った。

つい最近、『シモンの夏』がサンコミックスの『ファイヤー!』第4巻の巻末に収録されていることを知って購入した。『ファイヤー!』は小学館文庫版を持っていたのでサンコミのほうを持っていなかった。

さて、今、この『シモンの夏』を通して読むと、すごい作品だと思う。この話のテーマは「芸術の虚偽」だからだ。

主人公24才のディアーヌは、多くのアーティストと競い、ニースの海岸に立つ総合センターをかざる大壁画を描く仕事を勝ち取った。「この壁画をだれに描かせるかは 世界中をわかせたものだった あらゆる 有名アーティストの名があげられ 選択がくりかえされ その売りこみも いちじは気違いじみていたものだ」。ディアーヌについて「その破天荒な創作態度は 世のアーティストたちを瞠目せしめ 形式にとらわれない自由さは 羨望の的となった 若さなのだとだれもがいった」

ディアーヌは大人数のスタッフを指揮し、巨大壁画「1000光年の神々」の制作を始める。それを崖の上から見て、シモンは「あの絵はまるで見栄のかたまりだな 自分の力をいっしょうけんめい見せつけようとしている 自分は こんな仕事が できるんだって どうだ どうだってね だれの絵か知らないけど……疲れるよ そう思わない?」とディアーヌ本人に向かってつぶやく。ディアーヌが「……わたしの絵よ」と言うと、シモンは「そう!? そうなのか! そういえばあなたに似てる」と言う。

ディアーヌの住まいを見てもシモンは「これがあなたの家? やっぱりあなたに似てるんだなあ でっかくて… がんばってるくせに どこか空しくて…」と言う。そしてディアーヌが10才の頃に描いたという絵を見つけて「ああ これはいいな! かわいいよ わすれな草だね だんだん空しくなってきてるんだね 今の絵は…」と言う。

それから例のどろどろに腐った海の漂流物のオブジェをディアーヌのアトリエにつくって「わかった? ディアーヌ それがあなただよ あなたのなかは虚栄でいっぱいだ いいかえればなんにもないんだ あなたはウソつきなんだよ 自分で気がついてないだけさ!」と叫ぶ。

ディアーヌは激昂するがシモンを追い出すことができず、シモンの言葉について考えるようになる。そして大壁画を仕上げる手が止まってしまう。

最後にディアーヌはシモンの言ったとおり、自分の絵は「虚栄のかたまりでしかない ひじを張った はったり屋のからっぽ」「なぜみなあの絵をほめるのよ なぜだれも気付かないの」「ビエンナーレも美術館も消えっちまえ!」と叫んで壁画を破壊しようとするが「壁画は夜空に黒ぐろとそびえたち わたしの小さな力で破壊することはすでに不可能だった」

そしてディアーヌは自分が描きためてきた絵と家に火を放ち、旅に出た。

物語の冒頭で、ディアーヌは教会の彩色をたのまれたときにペンキを建物にぶちまけて「わたしにとって神は最高の偽善者にすぎない」と言ったり、博覧会の記念碑をワラでつくって「記念碑ってのはなに? たしかなものはなにひとつないのになんとかしてそれにしがみつこうとする人間のおろかさよ」と言ったりしている。

しかし、そんな自分が「1000光年の神々」というただ威圧的なだけの巨大壁画を制作していることの矛盾には気づかない。

世俗的な権威でしかないにしろ、自分を大きな権威と同一視し、自分が力を持ち、自由にふるまっているという錯覚と優越感が(地位を保つための役割分担としての範囲で)、「アート」と呼ばれる大量のゴミを生んでいる。

この頃、水野英子はロックをテーマにしたまんが『ファイアー!』(1969~1971)を描いていた。少女が憧れるかっこいいロックスターを甘い夢のように描くのではなく、体制に反抗するものであるロックが、やがて体制側に打ちのめされ、主人公は純粋さを貫き通すがゆえに疲弊し、最後は正気を失ってしまうというという話。

水野英子のすごいところは、まんがというジャンルのなかで、人気ロックスターや有名アーティストにのぼりつめるストーリーを夢物語としてではなく、ロックやアートの意味や価値、腐敗した権威や経済システムの虚偽を問う話として描いたところだ。しかもすでに1970年に。

こういうまんがをのせていた当時の「週刊セブンティーン」の編集さんもすごいと思う。

この時代は反体制を貫き通すことがひとつの価値に成り得た。しかし今現在は、反体制や反権威などの立ち位置をとっても、それがひとつのスタイルにしかならず、そのまま体制側に吸収されてしまう。どんなに先鋭であろうとしても、闘う場所がない。

そして「アート」において、反体制を気どった「にせの問題提起」が、空しい商売をつくる。そこが問題なのだと思う。

60年代、70年代に活躍した私の好きな漫画家たち、岡田史子、水野英子、あすなひろし、矢代まさこ、北島洋子、上村一夫、宮谷一彦・・・、私が反応したのは、まずその「絵」、「線」の妙だった。

モノトーンの世界で、皆、変幻する線の表情から生まれる世界の深みがすごい。

8月9日(土)

母に会いにKへ。

母は37.4度の熱だった。8月5日(火)から熱が出て、高い時で37.5度で、下がった時もあったらしいが、微熱が出る繰り返し。

今までもこもり熱は毎年あったので、大事はないと思うが心配だ。

夕食はなんとか完食。加えて「極みプリン」を食べさせる。熱があるので、なるべく水分を摂らせたかったのだが、お茶は飲みきれなかった。

Oさんが、「3日の夕涼み会の時はすごく元気で、立ち上がりそうなくらいだったんですよ。」と言ってくれた。盆踊りや花火を見たそうだ。

私は胃が痛くて具合が悪かったせいもあるのだが、本当にうっかり3日の夕涼み会に参加するのを忘れてしまっていて、とても後悔。

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