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2014年11月17日 (月)

『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』ジャック・デリダ 鵜飼哲訳 / ちゃび、兎のひろこ

11月17日

おととい、鵜飼哲さんより、ジャック・デリダ 『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(マリ=ルイーズ・マレ編、鵜飼哲訳、筑摩書房)を拝受。

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最近、歳を重ねるとともに、今までにも増して動物のことばかり考えているので、この、デリダの動物についての講演をまとめた本を送っていただいて本当に嬉しかった。

鵜飼さんに御礼のメールを送ると「もっともお届けしたい方に本が渡り、安心しました。」と、これまた恐縮なお返事をいただいた。今、ベルリンにいるという。ベルリンは、今はとても寒いだろう。

生まれて少し経ってから、、私は肉を食べることができなくなった。私は動物を食べることに異常に恐怖を覚えるのだ。その恐怖が何十年にもわたり、私の身体反応をつくりあげてしまっているので、私は街を歩いていて肉を焼く匂いにも吐きそうになってしまう。

私は生まれてから一度も肉の料理を「おいしそう」と感じた経験がない。それどころかその肉と、自分の愛した犬や猫や鳥や、街でも田舎でも出会う生き生きした動物たちとの違い、区別がよくわからないのだ。だから肉料理を前にしただけで、すごく苦しむのだ。

もちろん自分の身体感覚は、一般的にはなかなか理解されるものではない。一般の人は、肉について、それを殺された動物だとは思わない、食べ物だと思う。そのような文化(社会的な制度化された言語)の中で教育されてきて、それが当たり前になっているのだから。

動物虐待に反対する人でも、肉食に関してまでは感覚が呼び覚まされない場合が多い。そのことに対して、私は過激に対立したりしようとは思わない。ただ、そういう(肉食の)場から逃げたい、その場を避けたいとは思う。

私にとって不思議だったのは、デリダなどの哲学をよく読んでいて、「動物」をめぐる問題についても卓越した文章を書ける人が、実際の生活ではまったく肉好きのグルメだったりすることだ。

文章の中で問いを立てられたとしても、自分が食べている現実の行動の中では何も問うことができない。まして感覚、感情が伴うかは関係がない。最初から身体感覚を持つか、持たないかということとは隔絶されているのだ。人間的な文化の中で生きることと、身体感覚を持たないこととは、本人にとって何の齟齬もなく同時に成立する。こういう人たちに会うたびに、私は今まで非常に違和感をおぼえてきた。

この本の編者マリ=ルイーズ・マレのまえがきから引用する。

「「動物」の問いは彼の多くのテクストに顕著に現れている。彼の全作品を通じてのこの執拗な現れは、少なくともふたつの源泉に由来する。その第一はたぶん、特異で激烈なある感受性、哲学がもっとも蔑視あるいは失念してきた動物的な生の諸側面と、おのれが「共感している」と感じるある種の適性であろう。

ジェレミー・ベンサムが動物について、「それは苦しむのか〔Can they suffer〕?」と問うたことに、彼が非常に大きな重要性をみとめるのもそれゆえである。「問題は動物たちが推論することができるかどうか、話すことができるかどうかではない」とベンサムは言う、「そうではなく、動物たちが苦しむことができるかどうかなのだ」と。一見単純なこの問いはしかし、ジャック・デリダにとっては非常に深遠なものである。」

「これが第二の源泉であるが、彼にはベンサムが提起した問いが、非常におおきな哲学的妥当性をそなえており、哲学の歴史においてもっとも恒常的かつ執拗な伝統に、ある迂回路によって、真っ向から対立することなく反対し、それを側面から叩くのに好適なものと考えられたのである。

それが人間を〈ロゴスを具えた動物 zoon logon ekhon〉と、あるいは〈理性的動物 animal rationale〉と、すなわち「動物」として、ただし理性を付与された動物として定義するときでさえ、この伝統はつねに、実際には人間を、動物という類の残りの全体に、人間のうちのいっさいの動物性を拭い去るまでに対立させ、相反的に動物のほうは、本質的に否定的な仕方で、人間に〈固有のもの〉とみなされる以下のような事柄のすべてを欠いたものと定義してきたのである。

「・・・・・・言葉、理性、死の経験、喪、文化、制度、技術、衣服、嘘、偽装の偽装、痕跡の抹消、贈与、笑うこと、泣くこと、尊敬等々」。

そして、「われわれがそのなかで生きているもっとも強力な哲学的伝統は、これらすべてを「動物」に拒絶してきたのである」とジャック・デリダは強調する。

さらに彼は書く、哲学的「ロゴス中心主義」は支配の立ち位置から切り離しえないものであって、まずもって「動物についての、ロゴスが欠落した動物、ロゴスを〈持つこと-が-できること〉が欠落した動物についての命題なのである。アリストテレスからハイデッガーまで、デカルトからカント、レヴィナスおよびラカンまで維持されてきたテーゼ、定立、あるいは前提なのである」と。

「そもそも動物に加えられる暴力は「動物」animalというあの偽-概念、単数形で用いられたあの語からはじまると彼は言う。あたかもすべての動物たちが、ミミズからチンパンジーまで均質な全体をなしていて、それに「人間」が根底的に対立しているかのように。」

(行分け-引用者)

人間は動物を殺してもよい、支配してもよいとされてきた根拠がどこからきているのかを問い直すと、人間の「言葉」による定義が問題になる。

その考察よりも前に、直観的に動物の肉を食べることに恐怖と拒絶を感じる人間がいてもまったく不思議ではないはずだ。

私が肉を食べないと言うと、「じゃあ、魚介類はいいの?」とか「野菜だって生き物でしょ。」と言う人がいるが、そういう人が一番無神経でナンセンスだと思う。生き物すべてを食べるか、食べないかではない。その理由を口外するのがためらわれるほど、それは親密で、秘密の経験だが、体温が高くて鳴いたり甘えたりする動物は、あまりにも自分に近いと感じるので、私は殺すことが嫌だし、殺されたものを食べるのも嫌なのだ。

また、私が(肉食の習慣に対する比ではないほどに)最も嫌悪感を抱くのは、動物を殺して、その死体を利用したアートだ。社会的な表現課題が口実にされることも多いが、欺瞞のなかの欺瞞そのものだと思う。身体感覚が死んだ人間にとっては欺瞞という感覚もなく、それを意識するのは不可能なのだろうが。

「脱構築は忍耐強く差異を多数化して、「人間」と「動物」の伝統的対立を基礎づけうるものとあまりに長く信じられてきた、この「固有のもの」の前提的な境界の数々の脆弱性、多孔性を現しめるのである。そうすることで脱構築は、動物「一般」の「動物性」に関するいっさいの保証を揺るがすのだが、人間の「人間性」に関する保証もまた、それに劣らず揺るがすのである。」

11月16日

高円寺でやっている福島その他の地域で保護された猫たちの里親募集の会に行ってみた。遺棄された猫を保護する具体的な方法について、食べ物のやりかた、寒さ対策など、いろいろ少しずつでも勉強したかったからだ。

「動物相談員」という名札をつけている人から、少しお話を聞くことができた。

ケージの中にいる猫たちは、皆、きれいでかわいかった。だから私が予想したよりも多くに貰い手がついていてよかった。

建物の外の通りに保護猫募金のための猫の小物の出店があった。革の小物があったので「あ、皮だ~」と友人が言った。「え、何?」と売っていた男性が聞いてきた。やはり猫の命を救うことから、革製品も動物を殺して剥いだものだという発想にはつながらないようだ。

それにしても猫の保護と里親探しの活動をしているボランティアの人たちは尊敬に値する。本当に大変なご苦労があることだろう。ずっと続いていることがすばらしい。

私は今、カンパというかたちでしか協力できないのだけれど・・・。

・・・

最近のちゃびは、夜7時~8時くらいにぺリアクチンを1/8錠くらい飲ませると1時間後くらいから食べ始め、断続的に朝まで食べている。昼間はひなたぼっこしてゴロゴロ言っている。

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体重は、ちゃび3.2~3.3kg。私は44kg。低めでまあまあ安定。

11月15日

昔、西新宿に住んでいたEさんからのおさそいで、新宿西口の中央公園の中にあるエコギャラリーでやっている「新宿絵手紙花の会展」を見に行く。

とてもよかったです!

Eさんは、80代後半のかたなのだが、ものすごく若いのだ。背筋はまっすぐ、歯は全部自分の歯で、きれいにそろってピカピカ、頭の回転も速くて、とても元気。Eさんに会うと、こちらが元気をもらえる。なんだかありがたい気持ちになる。

20名くらいの皆さんの作品を見て、「絵手紙」という型にはまりすぎないで、細かく描きこんでいる人もいたし、自由な幅を持ってやっているのが良かった。先生の作品は輪郭をサインペンではなく鉛筆で描いているものもあり、旅先での「素描(スケッチ)」はとても臨場感あるものだった。

見て描くことによって「もの」と触れ合ったり、注意してよく見る習慣がつくことは頭にもよいことだと思う。

皆、楽しそうだった。

・・・

この中央公園の管理事務所の前に、なぜか最近ケージができ、兎の「ひろこ」ちゃんがいる。「ひろこ」ちゃんはたった一匹で、仲間がいないのが、見ていてかわいそう。誰かが公園に捨てたのが保護されたのだろうか?

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それにしても、ひとりぽっちじゃかわいそう。
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兎は飼ったことがないが、イギリスの田舎に行った時、野原の中をわさわさと大勢の兎が駆けているのを見た。その時、自然の中の兎は、こんなに元気なのかと思った。

その旅では、ベアトリクス・ポターの住んでいた湖水地方まで旅した。愛玩用として買ってきた一匹の兎を愛し、繰り返し描くことで、ついには湖水地方の広い範囲の自然を守り抜くまでになったポターの、最初の、若かった頃の素描が見たかったのだ。ポターの描いたキノコや苔や毛虫の素描は、生き物の真髄をつかんでいて本当に魅力的だ。

頃は4月だった。ポターの住んでいた家の庭に咲いていたキツネノテブクロは、絵本の中にあったのと同じ薄紅色で黒い点々があった。その花の記憶が強烈に残っている。雨の中、歩き廻った湖水地方はとても美しかった。

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