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2014年11月11日 (火)

『デッサンの基本』(ナツメ社) 第20刷り

11月11日

『デッサンの基本』(ナツメ社)が第20刷りとなりました!

買ってくださったかたがた、本当にありがとうございました!

・・・

デッサン(素描、写生、スケッチ)の基本とはなにか、これを言うのはとても難しいと思います。

「デッサン」「素描」「写生」「スケッチ」、どんな言葉を使ってもいい(その差異を言葉の上で厳密にしてみてもあまり意味はない)と思うのですが、「見て描く」ということは、今の時代にはとても重要な意味があると思います。

今の時代は、100年前、50年前よりも、ずっと自分の外に「在るもの」を受動する身体能力、外に「在るもの」との関係性、そのリアリティが欠落した時代だと感じるからです。

こういうことを言うと、必ず「自分の外に何かが在るのかどうかはわからない」という人がいるけれども、私は、自分の外の、自分以外の生命との関わりの中でしか自分の生を感じられないと思っています。

私にとってデッサン(素描、写生、スケッチ)とは「自分の外にあるもの――特に、自分以外の生命、生命的な傾向のもの」を、どう感受するのかを確かめる、あいまいな時間を伴った手作業です。

有限な時間と身体を持つ私が、その中で出会う私の外に在る生命的なものを、どうとらえ、どう描くのか、その描き方は、いろいろなやりかたがあると思います。

一瞬、一瞬が過去になっていくなかで、「見たものを見たままに描く」ということは、それ自体に矛盾を含んでいます。

「見る」とは「主客未分」の混沌のなかで「見る」ことでしょう。

ここを描きたいというポイントさえ描ければ、紙の端から端まで埋める必要もないし、自分がやりたいタッチで良いのだと思います。

もちろん私自身も、ここをとらえたいという欲求どおりに鉛筆を自在に操ることができるわけではなく、失敗ばかりですが、何かと向き合って描いた時間は、その時の自分の気持ちや身体の状態とともに、紙の上に定着され、かけがえのないものになるような気がします。

さらに言えば、私は絵を「具象」と「抽象」、「本画」と「習作」に分けることもおかしいと思っています。

多くの画家において、最初のデッサン(素描、写生、スケッチ)が、作品よりはるかに力強く、美しく、生き生きと感じさせることは多い。それは初めの直観の切迫した何かなのでしょう。

『デッサンの基本』第20刷りの記念になにか絵をupしたかったので、初心を忘れないために、私の美大受験前に描いた古い素描(静物着彩)をのせてみます。

自分の高校時代の素描には、ろくなものがないですが、制限された時間の中で、与えられたモチーフのどこに気持ちを入れて描くことができるかを探して描いていたと思います。

Sdsc04460

上の絵は、モチーフにボウリングのピンがあるのが、なんか変で嫌でした。

高校の授業が3時頃に終わってから、走って電車に乗って予備校に行った、不安で慌ただしい毎日の感覚がよみがえって来ます。

Sdsc04463

美大受験のための予備校で描かせられるデッサンは、ひとつの「型」、ひとつの「制度」であって、決してこのやりかたが一番正しいというわけではないと思います。

今は、自分の描きたいところはどこなのか、もっと端的に表せるようなデッサンを、そしてその中に時間を描きたいと思っています。

 

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