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2014年12月

2014年12月31日 (水)

ちゃびの検査 猫の腎不全 / 音楽

12月30日

動物病院の今年最後の診療日に、ちゃびを検査に連れて行く。

朝、晩のアカルディ(オブラートに包んでいる)のおかげで、心臓の雑音はいい感じによくなっている。

体重は、前回3.32kgだったのが、今回3.38kgに増えていた!きのうの晩は輸液していないので、輸液分が増えたわけではない。

9月半ばに腎不全が発覚したときは2.8kgで、食欲がすごく落ちていて、もうだめかと思い、頭が真っ白になったのだが、

吐き気がするときはセレニア8mg(強烈な味なのでカプセルに入れて。これは一時間~2時間後に効き始め、24時間効く。)、それ以外の時は朝晩、まずはほんの2mmくらいのぺリアクチンを飲ませ、一時間以上経っても食べなかったら1.5mmほどのセルシンのかけらをシリンジで飲ますことによって、うまく食欲を出すことに成功している。

腎不全で食欲のない猫を飼っている人の参考になるかもしれないので書いておきますと、

最近あげている食事は、

腎臓サポート、キドニーケア、ル・シャット(デトレ)などの腎臓療法食のカリカリ(ドライ)を適当に10g~15gくらいお皿に入れ、

その上に銀のスプーンジュレ15歳以上用を少々かけ、

そのジュレ部分に、ミヤリサン(またはビオフェルミンやアシドフィルス菌)を粉にしたものとデキストリン(食物ファイバー)を少々かけて(ファイバーは多いと下痢するのでほんの少量だけ入れます)少しスプーンでなじませ、

その上に少量のレンジアレンをかけ、さらにそのレンジアレンの上にひとつまみのかつおぶしをかけたもの

これを何回か繰り返してあげています。

一時期はモンプチ白身魚と野菜入り15歳(缶詰)を気に入ったり、鱈や鮪を欲しがったりしたが今は落ち着いている。

「輸液をやめていい」と言われることを期待していたのだが、輸液は当分、今と同じ、一日おきに170ml程度(3回で1パックを使い切る)やったほうがいいと言われた。

・・・・

輸液の時には、針を刺されるちゃびも、刺す私も緊張でぷるぷるするので、ちゃびと私の緊張を和らげる音楽をかけている。

ちゃびは、自分の声に近い声が好きで、男の人のボーカルが嫌いである。ハードロックや電子音なども嫌い。

私は、音楽マニアではないのだが、好きな音楽がすごく限られている。アコースティック系でシンプルなものが好きで、ヒットした曲はほとんど好きではない。マイナー系でだいたい1975年より昔のものしか聞かない。戦前の歌謡曲も好き。

60年代のシンプルなロックやガレージ系は私は好きだけど、ちゃびは嫌いだ。

今までに輸液の時に聴いていた曲・・・

最初の頃はジョニ・ミッチェル「Tin Angel」。窓の水差しの中の磨かれた草、サテンの箱の中のタペストリーの剥げたビーズ・・・という出だしが好きだ。

ジュリー・ロンドンの「Cry Me A River」。これは落ち着く。

マリア・カラスの若い頃の「ハバネラ」。これは美しいし、気分も上がるのだが、けっこう緊張も強いられる。

カルメンマキ&オズの最初の頃。この頃のマキさんの声は素晴らしくて、アレンジも私は大好きだけど、ちゃびは落ちつかない。

浅川マキ。彼女はうまい。彼女の声は哀しくて温かくて非常にインスパイアされる。だけどちゃびはどうなんだろ。

淡谷のり子や織井茂子は、私は大好きだが、最後にオーケストラが盛り上がったりするとちゃびが落ち着かない。

ポール・マクレーンの「Is It Okay To Call You Mine 」。これは1980年の曲(私が聴くにはあまりに最近のものすぎる)だけど声も歌詞も大好きな曲で、この頃の内向的で繊細な役者だった彼も大好きだ。この歌は男声なんだけど私もちゃびも落ち着く。

最近はシモンズ。これはちゃびが落ち着くような気がする。ウイッシュや麻里絵など女性二人組は何組かいるが、意外にもシモンズが一番透明感がある。

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2014年12月29日 (月)

父が亡くなった / 心の病 / 差額ベッド

12月29日

きょう、また新たに父が生前にやった悪行が判明して、ショックと同時に、吐き気をともなう怒りが湧いてきた。

父が死んだ時、というより父が何度めかの痰がつまり、もうただ眠っているような、会話できない状態になった時は、すごい後悔に襲われた。

もっといろいろしてあげたかった、という後悔ではない。

父は、異常に自分勝手で、家族のお金を平気で盗むような人で、私は小さい頃から数限りなくひどい目に遭わされてきたから、正直、進んで父の介護をしたいとは思えなかった。

ただ、私が生まれる前のこと、父の子どもの頃のこと、肺結核になった17歳から片肺をとった25歳までに父が何を考えていたのか、結核で死にかかる前は何になりたかったのか、聞いておけばよかったと思ったのだ。

父の子どもの頃、青年の頃のことを聞いておかないと、私の知っている記憶、母や私がどれほど父に辛酸をなめさせられてきたのか、それが無駄に消えてしまうような気がした。

どういう風に育ったらあんな人間になるのか、理解することは不可能だが、それでも、もっと聞いておくべきだったと思う。そして私は、出来うる限り、すべてを書きたかったのだ。

父は祖母と祖父の本当の子ではない。

祖母は、父とは正反対。おおらかでおとこぎがあって明るくて美人で、とても人に好かれる人だった。私の大好きな太陽のような祖母が、私とまったく血がつながっていないことを母から聞いたときはすごくショックだった。

私は、祖母の素晴らしい遺伝子を持っていない。祖母は99歳近くまで生きた。

父はギャンブル依存症で、母や子供の頃の私をよく殴っていた。私にとって父は私に対して何かを与えてくれたり、保護してくれる人ではなく、私を不安の底に突き落として目茶苦茶にするような人だった。

幾度も父の異常性格のしりぬぐいをさせられた。怒りと吐き気で頭がおかしくなりそうな体験が山ほどあった。晩年まで、父の自分勝手さと異常性格はなおらなかった。

ただ、そのことが私の「もののみかた」をつくったのは確かだ。

このことは、また詳しく書きたいと思う。

12月28日

代々幡斎場にて、午後二時、父を火葬する。

ル・レーヴ(夢見る)という名のピンクの百合、ブルーなんとかという名の紫の蘭、ベージュのガーベラ、薄荷色のカーネーション、黄色と白のスプレー菊。スイートピー。

きのう、高円寺中の花屋やスーパーを廻って買い集めた花を棺に入れた。正月用の花束ばかりで、自分が買いたい花を探すのもひと苦労だった。

地方のお葬式で、火葬したあと、骨が人体のかたちのまま出されてきて、その骨を拾うのも、何回もさせられた経験があり、それがショックで怖くて吐きそうだったで、今回も心配だったのだが、

骨はざっくり混ぜられた状態で、四角いかねでできたものに入っていて、「弔事ですので、お骨は一回のみで。」という火夫さんのご指導のもと、二人一組で、あっさり一回つまんで終わったのでよかった。

「仏様が手を合わせているようなかたちなので喉仏といいます。」という説明。

おばあちゃんの時も代々幡だったような気がする。きょうと同じような感じだったのだろうか、あの時よりも、もっとあっさりとすんだような感じだった。

・・・・

今回の直葬で、都内にある代々幡、堀之内、落合などの火葬場は全部「東京博善」という会社の直営であり、火葬だけで一律59000円かかることを知った。

そのほかに骨壺約13000円、このふたつは絶対にかかる。その他保管料一日につき約8000円、火夫や事務、運転手さんへの心付け。

上記の斎場への支払いのほかに、葬儀社に頼まなければならないものは、棺、寝台車、納棺料、ドライアイス、案内の人件費などで、これが80000円くらい。

で、役所への手続きも自分でやり、棺に入れる花も自分で買って持って行き、写真もなしで、合計170000円くらいだったと思う(妹が明細を持って行ったので私の手元にないが、だいたいそのくらい)。

都内で直葬を考えている人の参考までに書きました。

12月26日

父が危ないと連絡を受け、I病院へ。

午後3時2分死亡。

泣き崩れる妹の背中をさすってやって、もう(妹は)十分介護したよ、という言葉を何回もかける。

妹はちょっとおかしいのだ。嘘つきで酷い人間だった父にべったりだったのだ。なぜかというと、妹は私のように、父の借金返済のために青春を滅茶苦茶にされた過去がない。妹はその時、まだ中学生だった。

しかし父の借金返済の時に母と私がどれだけ過酷な労働をしていたか、家族が心身ともに追い詰められておかしくなっている、その異様な事態に気づいていないはずはなく、妹がその原因である父にべったりになって母や私に少しもいたわりの気持ちがないことが異常なのだ。

妹は父と似ている。自己中心的で自分のだらしなさをすべて他人のせいにするところ。依存症で、ちょっとでも優しい言葉をかけると際限なくだら~っと甘えてくるところ。社会性や公平性がなく、自分に甘い人間にだけべったりくっつこうとするところ。

妹はアルコール依存症だと思う。酒が入ると完全におかしい。普通の酔い方ではない。まったく話が通じなくなり、一方的にへらへら笑ったり、激情的に怒ったり泣き出したり。

それだけでなく、アルコール依存症になってから、過去の記憶がいいように勝手に歪められている。 アルコール依存症について調べると「他罰的になる」という特徴があるので、もともとの性格がアルコールによって助長されているらしい。

私は、父から与えらえてきた精神的、肉体的外傷や、嫌悪感や、いろいろあるのだが、若い頃の母が(だまされて)すごく好きになった人だし、とにかく母がかわいそうで、激しく嗚咽してしまった。

・・・・

そのあと、泣きはらした顔で差額ベッドのことについて、病院側に言わなければならなかった。くたくたに疲れていたが、やはり、おかしいと思ったからだ。

「福祉保健局の人に話を聞いて、決まりでは家族が望んだのでない差額ベッド代、病院の方の都合でいれられた個室代は家族に請求してはいけないはずです。」という内容のことを言ったら、I院長は、

「あなたは決まりって言うけど、これは決まりの問題じゃなくて、公序良俗の問題だ。」

と言った。その「公序良俗」という言葉が、疲れた頭に、すごく印象に強く残っている。

つまり、「公序良俗」に反しているのは、私のほうだとと言いたかったのだろうか?

それとも「公序良俗」という語を出してきたわけは、病院側が家族に圧力をかけても、それは法的には規制されるようなことではない、やってもいいことなんだ、と言いたかったのか。

たぶん後のほうだろう。

「福祉保健局の誰がそう言ったの?メモしたいから名前教えて。」とも言われた。

I院長は「この件について僕に決定権はない。看護部長に聞かないとわからない。」と言い(嘘だと思う)、廊下で看護部長を待っていたら「会計に言ってくれ」と言われ、会計に行ったらソーシャルワーカーが出てきて、「でも妹さんは了解したんですよね。ちょっと確認してきます。」と言われ、

「妹は精神的に参っています。患者に何をされるかわからないと思ったので、怖くて了承したと言っています。それでも電話で了承しただけで差額ベッド代の金額を明示した紙に家族がサインしてない限り、家族に支払い義務はないと福祉保健局に聞いています。」とこたえた。

家族が死んだ直後で、ただでさえ胸がざわざわしている時に、病院総出でプレッシャーをかけられたけど、言うべきことは言わないといけないのでがんばった。

それで一応の解決をみた後、死者を囲んでぐったりしている家族のところへ、がちゃっと個室の扉を開けてI院長が入って来た。(はぁ~~・・・まだ、何か?・・・と私は下を向いていた。)

「お父さんは片肺だけでよく頑張ったと思います。いや、皆さんが随分、落ち込んでいるようだからね、私もこう見えて学生時代は鬱だったんですよ。」などから始まる演説があった。「鬱にならない秘訣はね。少しずつがんばること。」とか「皆さんの連携がうまくとれていないところがあるからね。」とか・・・

(残念ながら私は鬱病じゃない。依存症でもない。脅しやすかしでコントロールされるような人間じゃない。ぐったり疲れているように見えるのは差額ベッドの件で病院側に不当な支払いを要求された心労のせいなんですよ、と言いたかった。)

補足すると、この病院は看護師さんは親切だった。

とにかく老衰で亡くなりそうな患者を個室に移された場合、それは治療上の都合であるから、家族に支払い義務はない。

病人を介護している人、「差額ベッド代」で検索してみてください。

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2014年12月24日 (水)

父のこと 差額ベッドについて

12月24日

19日金曜日に父に会いに行った時は、父は6人部屋にいた。

妹から22日月曜日の夕方に、「21日9時過ぎに病院から電話があり、たんの吸引を嫌がり他の方に迷惑が掛かるからという理由で、¥14040/日 実費 (保険外)の部屋に移りました。断わったら何されるか分からないと思い承諾しましたが、実際キツいです」という内容のメールがあった。

ケアマネさんに急いで電話して聞いてみたら、差額ベッドは、家族が望まない限り、病院側の都合ではお金を請求してはいけない決まりがあるという。

確かに6月に父が国立医療センターに救急搬送された時も、一時危険な状態で個室だったが、その個室は治療のためなのでお金がかからないとすぐに説明があった。母が中野のリハビリ病院にいた時も、ずっと個室にいれられていたが、その分は請求されていない。

それで23日にI病院に、「もうお金がなくて実際にすごく大変な状態なので、申し訳ないですが、なんとか大部屋に戻していただけませんか」と電話をした。本日は休日で責任者がいないので、明日の朝、希望を伝えておきますと言われた。

そしてきのうの深夜、1時前に電話があり、父がもう本当に危険なので、病院に来てくれと言われた。

終電はちょうど終わってしまった時間である。

正直、今行くべきか考えた。始発で行けばいいんじゃないかとも思った。しかし気になるのは妹の精神状態のことだけである。妹は近郊の市からタクシーで駆けつけると言う。妹は、まだ父がすぐ亡くなるとは思えないらしい。それどころか回復を信じているようなところもある。妹の精神崩壊が怖かった。

着替えて、いくつかネットで調べたり、今年お世話になった人に出そうと思っていた手紙を確認したりしてからタクシーでI病院へ。

2:20くらいに病院に着いた。妹は子どもを連れて来ていた。父は金曜に会った時と同じく、会話は通じない状態で、酸素マスクをつけてほとんど動けない状態。点滴ははずされていた。

院長先生が来ていて、ナースステーションでお話を聞いた。

父の酸素レヴェルが50まで下がったので、もう危ないと思い、深夜なのに来てもらったが、今はまた93まで上がった、と言われた。

土曜にストレッチャーで撮ったという肺のCTとレントゲンを見せられながらの説明。肺から痰を吸引することで、一時下がった酸素レヴェルがまたあがったが、吸引で気管支を傷つけたりすると、逆にそれが原因で肺が詰まるおそれがあるので、難しい作業だという。

点滴や栄養も、糖尿病もあるので、やたらに入れたら血糖が乱高下したり、下痢したりするので危険と言われた。

もう覚悟しているので、身体に負担をかけないで、自然な感じでやっていただきたいのだが、問題は「差額ベッド代」である。

「何か、なんでもいい、質問はありませんか?」と院長に言われたので、思い切って「個室から大部屋に戻ることはできないんですか?」と聞いてみた。

院長のこたえは、要約すると

「もっと前に普通の状態ならともかく、今は危険な状態で、看護師の作業がやりやすいから」「こうして家族の皆さんが集まるにも個室のほうがいいと思うから」「一つ上の階に2人部屋があり、そこの差額は5000円だが、二人部屋は横にもう一人患者がいるんだから」「上の階の看護師に交代すると、今まで担当してきた看護師ではなくなるから」

といったよくわからないものだった。

「わかりますよ。実際問題としてね、私も大病院に入院した時に3万円の部屋に入れられてね。」という院長の話も、今、ここでの私たち家族の問題とは関係ない。

また、決定権があるのは看護部長で院長ではないという。

なんだか釈然としない。最初に個室にかえられた時から、すべて病院側の事情ではないのか。父は声もまったく出ないし、暴れる力はない。周りのひとに迷惑をかけられるような状態ではない。

問題は、病院の都合で個室に入れられるのはいいが、そのお金を私たち家族に請求することは正当なのか、ということなのだが。

そのようには言えなかったので、「もう本当に貧乏なので、なんとか差額のない部屋でお願いします。」と頭を下げた。

そのあと、「せっかく深夜に来てもらったけど、また安定したのでタクシーで帰っていいですよ。」と言われ、妹は子どもとタクシーで帰った。やはり妹のしゃべりかたがおかしかった。そうとう参っていて泣きそうで、なんかはっきりしない。

私は始発まで受け付けのソファにいようかと思ったが、なんだか気持ちがすっきりしないので、暗い明け方の街を新宿まで歩いて帰ることにした。

深夜3:40くらいに病院を出て、代々木八幡から代々木5丁目の閑静な高級住宅地を眺めながら、参宮橋のほうへ。参宮橋の商店街は少し昔のごちゃごちゃした感じがあって懐かしかった。右手にポニー公園の看板を見て、南新宿の方へ。

暗い中でも、屋根を樹が貫いている面白い形の家や、すごい豪邸や、枯草と古い壁だけ残っている駐車場や、細くて植物に覆われた階段を見ながら歩くのは楽しかった。

寒いけど、きょうは北風がなかった。ずんずん歩いていると、しゅんとした気分もきりっとしてきて、ああ、父は勝手な人だったけど、死ぬ時までこんなに家族をふりまわすんだなあ、と、なんだか滑稽なような、くすっと笑えるような気分になってきた。

きのうはいろんな後悔が襲ってきて、たまらなく胸が塞がれるような気持ちだったのだが、少ししゃんとしてきた。何が悔やまれるかというと、昔の生活のこと――子供時代のこと、祖母のこと、祖父のこと、麻布時代、お茶の水時代のこと、もっと聞いておけばよかったと思うのだ。父は文章を書くのが得意だった。絵も。

朝5時過ぎの新宿駅の地下街は、焼けたばかりの甘いお菓子の匂いがして、がらがらと荷を運んでいる人たちがいた。クリスマス用のお菓子だろうか。

帰宅してから、少しネットで調べると、やはり、家族が望んだのではない病院側の都合、治療の都合での差額ベッド代は家族に請求してはいけない決まりがあるようだ。

夕方、ケアマネのMさんに聞いてみたら、悪習だが、払わなくてもいい差額ベッド代を請求する病院は多いそうで、「老人介護でお金もたいへんなのに、皆さん我慢して払ってしまうんですか?」と訊いたら「断ると病院を追い出されると言う心配で払ってしまうかたが多いです。」と言われた。

まずは、病院のソーシャルワーカーさんに今から相談しておいたほうが、病院の会計時に言うよりもいいと思うとアドバイスをもらった。

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2014年12月22日 (月)

父のこと お墓のこと コロのこと

12月21日

日曜の朝。ずっと気になっていたが怖くて後回しになっていたことについて菩提寺に電話した。それは「うちのお墓はまだありますか?」という質問だ。

うちのお墓は都心の真ん中、東京タワーのすぐ下にある。祖父が60年くらい前に、麻布に住んでいた時に買ったものだ。

祖母が亡くなったのが2001年で、その時、住職さん(先代のご住職の息子さん)がうちにお経を読みに来てくれてた。祖母がお墓に入ったあと、介護疲れか、母の具合が悪くなってきてからはずっとお墓参りに行っていなかった。

年会費のこともきいたことがなく、うちのお骨は、もしかしたら今頃、無縁仏のほうに入れられていて、お墓がなくなっているのじゃないかと不安だったのだ。

私自身に関しては、自分が死んだあとのことにまったくこだわりがなく、どこかに散骨で終わりでかまわない。

ただ、祖父と祖母が昔ご近所でお寺さんと懇意にしていたので、そういう関係性の中で買ったお墓が、私の代でなくなったら祖母に申し訳ないような気持ちがある。

うちはもともとまったく裕福な家庭ではない。祖父は呉服屋かなんかやっていたようだが、横浜と麻布を反物を積んだ自転車で往復していたとか聞いたような記憶がある。

律儀で堅物だった祖父が、必死で稼いだお金で、麻布の家の近所のお墓を買い、昭和34年には西新宿の木造の家(その頃、西新宿は温泉と芸者の花町で、その中のある料亭旅館の離れの部分がうちである。その料亭旅館は私が小さい頃にはあったが、もうない)を買った。

うちのお墓はなんとか残っていた!西新宿の実家も朽ちつつあるが倒れてはいない。私が幼稚園の時に家で亡くなった祖父の記憶は、具合悪そうで怖かったのだが、貧乏なのにお墓と家を残してくれた祖父はすごいと思う。

それと、何より妹が不安定なので、6月に父が死にかかった時も「父の骨は直葬にして壺を家に置いておくのでいいね。」と言った時に、お経がないと成仏できないとか、本当に情けないくらい妹がぐちゃぐちゃしていたのを見て、お寺で法要してもらったほうが妹が落ち着く気がするからだ。

電話したら、ご住職本人が出た。「たいへんご無沙汰しております。新宿の福山です。」と言ったら「ああ、福山さん。」と覚えていてくれた。「あの西新宿のおうちはまだありますか。」と言われた。

お経と戒名と初七日までのお布施の額をはっきり聞いた。まとまった額ではある。でも年会費(維持費?)のようなものがないと言われたので、父はあそこのお墓にはいるのがいいような気がする。

小さい頃、毎年家族で行っていた、東京タワーの真下の、蝉の声がうるさい小さなこんもりした山と、古びた墓石の立ち並ぶお墓参りの風景の記憶、祖母の匂いを思い出した。

私は古いかけた墓石や、罅割れた石の階段が大好きだった。ぴょんぴょんとはねて歩いていた。

お墓の裏にいつも犬が繋がれていた。私はその犬が大好きで、抱きついたり、ノミをとったりした。白い犬、薄茶の犬、三代くらいかわったが、いつも同じようにおっとりしてかわいくて人なつっこい優しい犬だった。その頃の私と同じくらいの大きさだった。祖母がご住職とお堂の中で話しているあいだ、私はずっと夢中で犬と遊んでいた。

お墓の中の椿の樹には蝉の抜け殻がびっしりついていた。先代のご住職の奥様は、ふくよかな笑顔で、子供だった私と妹にいつも必ずチョコボールをくれた。

もうないかもと思っていたお墓が維持されていたことと、お経の金額がはっきりわかったことで、少し気が楽になった。もやもやと心配するのが一番よくないのだ。

直葬についてもネットでいろいろな葬儀社のプランを調べて検討した。24時間電話で相談できるので、いくつかの葬儀社の人と話してみた。こちらにとって助かる情報を正直に教えてくれる人のところに決めようと思う。

・・・・

夕方、H動物病院にちゃびの輸液をもらいに行き、コロの話をする。

コロは一週間前にH動物病院で3種混合ワクチンを受け、血液検査をした。その結果、抗体があるとのことで、先生の紹介してくれた八幡山の動物病院でシャンプーして、とりあえずH動物病院経由でどこか信頼できる行き先をさがしてもらうことになった。

遠いが動物病院のプロにシャンプーしてもらわないといけない理由は、身体についているかもしれない病原菌を洗い落とすのに、コロも腎不全があるので麻酔を使いたくないこと、それで専門家にやってもらったほうがいいとのこと。

困ったことに1月5日までシャンプーの予約がいっぱいだった。それまでコロが風邪をひきませんように。

シャンプーは6000円くらいかかるらしい。そのあとタクシーで連れてこないといけない。ちなみにワクチンと血液検査は9800円(保護猫価格)だった。このところ、本当に貧乏なのにどんどんお金が出て行っている。でも、コロに関しても希望が見えてきた。

父がもう危ないので、コロには絶対幸せになってほしい。

「きょう、うちのお墓がまだあるのか、お寺に電話で訊きましたよ。」と言ったら、「辛いですね。そういう話は。」と先生が言った。

ちゃびは、この前、シリンジが壊れたので濃い乳酸菌溶液をシリンジで飲ませなかったら2、3日で吐き気がして食べなくなった、と伝えたら「普通は乳酸菌とか、そんなにはやく影響が出るはずないんですけど、ちゃびの場合はわからない。あの子は特殊だから、そうなのかもですね。」と言われた。

「だってまた新しいシリンジにして、濃いめの酪酸菌とガスター飲ませたらまとまったうんこが出て、ゴロゴロが復活したんですよ。」と言ったら、「じゃあ、確かにちゃびはそうなのかもしれない。」と先生は笑っていた。

12月20日

昼過ぎ、親友と電話で話した。

父がもう危ないこと、妹が、前からおかしかったが、最近、特に不安定で、私にあたり散らしていること。妹は不安すぎて心の病になったのだと思うが、こんなふうに私だけにあたられると、私も真っ暗な気持ちになり、鬱になりそうだと話した。

友人は、「でも、こうして電話で話していても、あなたは全然心の病っぽくない。あなたの心は健康だ。」と言った。

でも、ここ最近、父母もちゃびも死んでしまうかもしれないという緊張の中で、毎日、張りつめているので、生きる喜びの感覚が抑圧されているのがわかる。

本来なら、ここで喜ぶべきだと思えることがあっても、心がふわっと軽くならない。

たとえば尊敬する人に作品をほめられること、それが最も私が嬉しいはずのことなのに、心が燃え立たない。涙が出るほどありがたいのだが、申し訳なくて恐れ多くて怖いような感じのほうがとても強く襲ってきて、心が委縮している。

申し訳なくて恥ずかしくて胸が痛くなるような・・・これって鬱じゃないのだろうか。ここで喜ばなければ、ほかに喜ぶ時なんて来ないと頭では理解しているのに。

緊張が続いたからだと思う。いろいろなことが苦しい。

今好きな画家のこと、これからやりたい仕事のことを話して、友人が「その話はすごく面白い、聞いていてもぞくぞくする。」と言ってくれたので、私の頭はまだ回転しているのかなあ、と少し落ち着いた。友人は頭が良くてフラット(偏見のない)で信頼できる人間だ。

土曜日だが、夕方5時頃、父のケアマネのMさんに電話したら、事務所にいらした。Mさんと話していたら少し楽になった。Mさんも当然だが妹の心の病に気づいているそうだ。妹が酒を飲んでいる時に言われたことは目茶苦茶なので真に受けないでいい、私が何かを言うと余計おかしくなりそうなので他人に言ってもらったほうがいい、と言われた。

12月19日

父がもう危ない状態なので、会いに来てくれという電話があり、代々木八幡のI病院へ。

先日電話した時は、だいぶ良くなって食事(ミキサー)もとれるようになり、20分ほどだが車椅子に乗った、と看護師さんから言われた。しかし今日は急変。

3時40分頃、病院に着くと父は酸素マスクをつけて薄目と口を開けたまま眠っていて、肩を触って起こしても起きず、話が通じない状態だった。点滴はすごくゆっくり、一滴、また一滴、という間隔で落ちていた。

6月に国立医療センターに救急車で運ばれた時も、誤嚥性肺炎と心不全で、もうたぶん助からないと言われた。酸素レヴェルがとても落ちていて、普通なら意識もない状態だと。あの時は大病院で、いろいろ本当に渾身の治療を尽くしてくれたので助かったが、今回はもうだめかもしれない。

なにしろ国立医療センターで奇跡的に救ってもらった恩も無視して、今度は絶対に煙草も甘いものもだめ、という条件で家に帰してもらった翌日から煙草も甘いお菓子も好きにやっていたのだから。

それでまた父は、10月に倒れて救急車で国立医療センターに運ばれて、緊急治療を施してもらってから代々木八幡のI病院に11月に転院した。

父の主治医が外来の診療中ということで、6時半くらいまで待って、主治医のお話を聞いてから帰ることにした。

主治医の0先生のお話によると、きのうまでは会話もできていたが、今朝、痰が詰まって呼吸レヴェルが80パーセントくらいまで落ちた、痰を吸引して、今は酸素レヴェルは94くらいまであがり安定しているとのこと。

深夜零時20分くらいに、妹から電話があった。父が亡くなったのかと思い、心臓がどきーんとしたが、そうではなくて、妹が異常に不安定になって(酒を飲んでいるらしく)、私に対して意味の通じないような言葉を吐いてを罵倒してきた。

普通の酔いかたではない。たぶんアルコール依存症というやつだと思う。妹本人は酒をやめたと私に言っていたが、実際はやめられないのだろう。それで彼女の大切な人も去っていったのだから。

深夜に突然電話が鳴って怒鳴られたりわめかれたりしたので、朝6時頃まで胸がざわざわして、全然眠れなかった。

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2014年12月19日 (金)

乳がん検査 / フィギュア雑感 / ちゃび、コロ

12月17日

8月に区の健診で引っかかり、9月に再検査して様子見だった乳がんの検診日。

きょうは、生まれて初めて上下につぶすマンモを受けるので不安だった。思った通り、私のほとんどない胸の肉を無理やりつかんで引っ張って、機械に合わせるのが痛くて・・・。

そして「じゃあ、呼吸を楽にして。ゆっくり押していきますよ。」という合図で機械がぎゅ~っとつぶしてきたら「痛たたた・・・」という声と同時に全身から汗が噴き出していた。

「うわ、すごい汗。だいじょうぶ?気分悪くない?」と言われ、「だいじょうぶです。やれます。」と応えながらもオエッと少し吐き気がしてしまった。「顔もすごい汗なのに手がすごく冷たい。ほんとにだいじょうぶ?」と言われ、「緊張してるだけです。だいじょううです。」と言いながらますます汗だくに。両胸の上下のマンモは苦しかった。横のマンモは前回と同じくそれほど痛くなかった。

次に超音波エコー。「くすぐったいでしょ?」と言われるが、私の場合は乳腺のせいなのかいつも押されると痛い。特に中心は痛くて苦痛。

少し待ってから診察室へ。きれいな女医のO先生。やはり8月に撮ったマンモと同じ場所、右胸の脇よりのところに白いものが見える、しかし変化していないので、やはり嚢胞ではないかと思う、という診断。嚢胞の中身は水だったりする、ということだ。

「何か異常は感じませんか?」と聞かれて、昔から時々胸の骨がすごく痛くなることがあるが、肋間神経痛だと思う、それと乳腺症というのか、胸を押されると相当痛い、と応えると骨は神経痛ですね、また、乳腺症はほんとによくあることなのでそれ自体は心配しなくていいと言われた。

区の健診は一年おきにしかないので、一年後にここでまた検査を受けてくださいと言われた。場合によっては針を刺して細胞診になるかと思っていたので、とりあえずはほっとした。

地下道を早足で抜けて新宿西口へ。ミロードのモザイク坂のイルミネーションがきれいだった。少し散歩してから帰った。

12月16日

12月11日から、またちゃびの調子が思わしくなくて、あまり食べず、11日の夜に胃液を吐き、それから12、13、14日の4日間、毎日セレニア(吐き気止め)を1日1回8mg飲ませていた。

具合悪そうなときは、空腹らしくお皿の前に佇んでいるのに食べない状態。食べたいのに胃がもやもやする様子。ごく少量のぺリアクチンとセルシンを駆使して、食べる量はゼロではないが少なく、うんこも少ない。元気がなくて歩き方もよたよたして見える。

そして何より私を悲しくさせるのは、調子が悪い時はゴロゴロ言わないのだ。

具合が悪くなった原因は不明だが、朝と晩アカルディ(オブラートに入れて)を飲ますときに、水のかわりにビフィズス菌、アシドフィルス菌を濃いめに溶きガスターの粉を混ぜたぬるま湯を5mlのシリンジに入れて飲ませていたら12月8日にシリンジのゴムが壊れてしまった。

濃い液体を吸ったせいでシリンジが壊れたと思われ、新しいシリンジに替えてから、ぬるま湯だけでアカルディを飲ませていた。

もしかしたら、それで善玉菌を増やす菌類の接種が減ってしまったことが影響したのかもしれない。

13日からまたミヤリサン(酪酸菌)などを濃いめに溶いて飲ますようにした。ガスターがなくなったのでジェネリックのファモチジンを買って飲ませている。

14日、ちゃびがもうだめかも、という私の不安がピークになって、異常な肩こりと頭痛に襲われた。いつもとは明らかに違うようながちがちの強い緊張。精神的影響か15日の明け方、不正出血があった。両親ももうすぐいなくなるのだろうし、すべてが悲観的に思えてくる。

そして15日、朝にうんこ2粒、昼にうんこ2本、夜にはついにまとまったうんこが出た!

そうなるとまたちゃびのゴロゴロが復活。16日には久しぶりの大音響でぐるにゃあ!ぐるにゃあ!とずっと爆裂している。

綱渡りの日々だ。でもまだ生きている。

T. Yが『デッサンの基本』20刷りのお祝いに、手作りのカードと私の大好きな赤坂の「しろたえ」のシュークリームをくれた。

12月14日

フィギュアグランプリファイナル雑感。

ロシアの少女たちの熾烈な闘いぶりに打たれた。

ラジオノワの滑り出す前の凄まじい表情が、とりわけ印象的だった。彼女は何としてでも勝ちたいという本当に凄絶な表情をする。そして舞台に出て行くときは、ぱっと切り替えて思いっきり可愛らしい少女の笑顔をつくる。

「自分はもう若くありません、もうすぐ16歳になります」と言ったという。彼女の中では 爆発するマグマが燃えている。そういう少女はたまらなく魅力的だ。

ポゴリラヤは、今回「火の鳥」を見て、脚さばきの美しさが際立って見えた。すらっと伸びた細長い手足を生かして、この人はとても女性的なエレガントなポーズをとれる人なのだと感心した。

演じ終わった時の苦しそうな表情と、キス&クライの涙をこらえた顔を見て、悲しそうな眼、コケットリーな唇、白金の髪がきれいだと思った。こんなに抒情をたたえた彼女がまだ16歳なのだと思うと不思議だ。

リプニツカヤは、正直で、まだ女性っぽいというよりは少年ぽくて、内に秘めるタイプのところが好きだ。彼女自身の魅力を外に向けてアピールするタイプではないから、手を離れた凧(夢)をつかまえるというような物語仕立ての演出になる(そういうやりかたのほうが彼女自身が演じやすい)のかな、と思う。

トゥクタミシェワは、最初に「アストゥリアス」を見たとき、大好きになった選手だ。あれから、あまりのプレッシャーのせいか不調になったり、怪我に苦しめられたりしたのに、彼女の素晴らしい意志と忍耐の力で復活してきたことが本当に嬉しい。

彼女の微笑と華やかな瞳はすごい。特徴的な手の柔らかい動きは、私の感覚ではもう少し全体的にやらないで、ところどころ硬質な動きにしたほうが好きかな、と思う。

12月13日

H動物病院にコロの捕獲器を返しに行き、先生に話しているうちに涙が止まらなかった。

明日、ワクチンを打ちに連れてくることになった。ケージには慣れたみたい。この子が里親さん募集中のコロです。

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ピンクベージュの毛と濃いグレーのまだらの不思議な柄のコロさん(雌 13歳くらい?)。食欲はすごく旺盛。

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眼の色はグリーン。
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12月12日

コロの件で、真冬を乗り越えられるか切羽詰まっており、いろんなところに相談している。きょうSさんと電話で話した。まだどうなるのか不安でいっぱいだが、少し希望が見えた。

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2014年12月11日 (木)

バーバーのアダージョ / ちゃび、コロ(愛情と責任について)

12月11日

病院に電話すると、父の病状は一時期より良くなったと言われた。一時期は点滴のみで食事ができない状態と言われ、もう危ないと思ったのだが。おとといは20分ほど車椅子に乗ってみたが、すぐ疲れたとのこと。

なにかとあわただしく、気持ちが休まることのない年の暮れ。

ちゃびは、以前の危機は乗り越えたような気がするが、身体の不調自体が治癒したわけではなく、私が、試行錯誤の上でなんとか対処する要領を得てきたという状態。まだまだ不安はいっぱいだ。

きのうは朝と夜に少量食べただけで、きょうは朝から食べなかったので、私の胸はとても苦しかった。

朝6時にアカルディをオブラートでくるんだものと、メラーゼ(犬猫の胃腸薬。これも1/4に割ってオブラートでくるんだものを2つ)飲ませた。(最近はベトメディンを飲ませても舌でうまく吐き出してしまうのでアカルディ+オブラートにかえている。)

左手でちゃびの頭を押さえた時に、ちゃびが頭を激しく振りながら歯をがちがちと噛むので、左手の指に牙が刺さって何度も血だらけになったので、今は投薬時には左手に軍手を使用している。

昼12:20、ぺリアクチンの2mmほどのかけら、2時、セルシンの1.5mmほどのかけらを飲ませる。それでも食べず、ずっとドーナツ座布団で寝ている。

夜9:25、アカルディ+オブラート、セレニア8mgを♯5のカプセルに入れて飲ませる(セレニアはよくきく吐き気止めだが大変高価で、16mg1錠が1000円もするのだが、酸性が強く、嫌がって吐き出してしまうのでカプセルに入れた)。

9:30、トイレに小さなうんこ2つ。レンジアレンの効果で真っ黒。

9:42ぺリアクチン2.2mmほどのかけらを飲ませる。

今度こそ食欲が出るかと期待したら10:43に胃液を吐いてしまった。吐いたものの中にセレニアのカプセルはないようだった。

深夜12:04、ガサガサいう音で飛び起きたら、ちゃびがごみ袋の中のカニ爪の殻をかじっていた。セルシン1.5mmほどのかけらを飲ませる。

12:25、ようやく腎臓サポート、キドニーケアにジュレをかけてミヤリサンの粉とレンジアレンを混ぜたものを食べ始める。

(酪酸菌は乳酸菌よりも胃酸に強いと聞いたので、最近はビオフェルミンからミヤリサンにかえてみた。アシドフィルス菌と一緒に乳棒で粉にして食事に混ぜている。)

私は少しほっとして熱いミルクを飲んだ。

それからちゃびは2時まで何回も休み休み食べ、まだ少し残っているのにそわそわとテーブルの上に乗っかったり、またごみ袋のほうに興味を持ったりした。途中で少しモンプチ白身魚の缶詰を混ぜてやった。

最近のちゃび。

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バレリーナのような足
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あにゃ~~ん。
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12月10日

朝起きた時、ついに発熱。これはまずいと思い、ご飯を炊いて部屋を暖め、アツアツのご飯を食べたり、サプリを飲んだりしていたら、夕方にはなんとか熱が下がった。

コロ(父が飼っていた猫)の世話について、とても悩んでいる。

ちゃびの体調管理でいっぱいいっぱいで、私の体力が乏しいために、コロの世話まで手が回らない。猫好きで几帳面で責任感の強い友人に手伝ってもらっているが、友人も仕事が忙しいので、たいへんな迷惑をかけている。

これから一番寒い時期に、はたして私が毎日通えるか。

今、コロはケージ飼いにして、レンジでチンする湯たんぽを入れてあげている。

ちなみに、ケージは大きめの2段のもので一万円くらいかかった。商品レヴューでは組み立ては簡単と書いてあったが、全然簡単じゃなくて、すごくたいへんだった!何がたいへんかというと、連結するプラスチック部品の穴が小さくて(個々により穴がきれいに空いてない部品がある)、ワイヤーにはめる時に、ものすごく力がいって指が痛くてたまらなかった。ペンチがあればよかったのだが、なかったので。

猫好きで愛情深い友人から見ても、コロはかわいくないという。ちゃびとは全く違う。野良猫の性格のまま、人に慣れない。甘えない。私がフードをあげても、ウーウーと威嚇したままがつがつと勢いよく食べている。ケージの中にトイレを入れておいても目茶苦茶に荒らしてしまう。

以前、コロをなでようとして鋭い爪で引っかかれ、右手の甲が裂けてたくさん血が出た。その傷跡は今もはっきり残っている。どうしたら10数年も飼っていて、こんな愛想のない猫に育つのか理解できない。

娘の私から見て、父は愛情深い人でも責任感が強い人でもない。いい加減で自分勝手でいらいらさせられる性格の人間だ。子の私が何をされてきたかを考えれば、 私も母も関わらず父が育てた猫がどんなに荒んだ性格であっても、しかたないのかとは思う。

ただ、怯えて狂暴になっているのは動物であるコロのせいではないのかな、と思う。不安な状態、生存が脅かされている状態なのだろうな、と。

一週間ほど前、おなかが緩かったので、コロの食事(ウエット)にミヤリサン(酪酸菌)と抗生物質の粉を混ぜてやったら、恐ろしく敏感に野性の勘で察知して、薬が混じっている皿だけは食べなかった。

正直、ウーウー、シャーッ!と威嚇されているので、ちゃびに対するような愛情が持てない。だけど保健所にやって殺処分になるのだけはどうしても避けたい。

私が病気でダウンしたらコロも死ぬしかないのなら、どこか猫を引き取ってくれるホームに預けたほうがいいのかと思案して、何か所か問い合わせてみた。一か所はメールで問い合わせたら寄付48万円(ほかに輸送に何万円か)。

もう一か所、電話で問い合わせたところは、若そうな男性から折り返し電話をもらったが、コロの年齢、避妊手術済か、ワクチン接種済か、血液検査済かなどを聞かれたあとに、「うちは全員がボランティアというかたちになっておりまして、一切利益をもらっていないんですよ。それで、10歳以上の場合は、一律40万円というかたちになっております」と言われた。

どうでもいいことかもしれないし、よくあることなのだろうが、始めに長く質疑応答した後に、なにか軽薄な口調で、「というかたちになっておりまして」「というかたちになっております」と言われると、その「不適切な」言葉づかいに引っかかってしまうのだ。そういう変な言い回しを、胡散臭く感じてしまう。

あちらは、なんとなく雰囲気として「婉曲」に言っているつもりなのか(?)、と思い、「婉曲」に言わざるを得ない「やましさ」があるのかな、という不信感が芽生えてしまう。単なる言葉遣いのおかしさなのかもしれないが、私の感覚では、気持ち悪いと思ってしまうのだ。

「というかたち」と言わずに「うちの規約では~です」とはっきり言えばいいのに。「というかたち」というのは、表向きの「かたち」であって実質はそうではないという意味なのか。

10歳以上の猫なら、いつ死にましたと言われてもおかしくないし、40万円払って預けたあとに、すぐ死にましたと言われるんじゃないかと想像してしまった。

私は命を無責任に放り出すことはできない。しかし、無責任なのはいつも父なのだ。私は長年その尻拭いをさせられてきたし、自分の命もぼろぼろにされてきた。

12月5日

がんの主治医に定期健診を受けるため、鎌ヶ谷の病院へ。

信じられないことだが今はアーバン・パークラインと改名したらしい東武野田線(ああ野田線という名前の方がいいのに・・・)の窓から、すっかり色の変わった木の葉を眺める。

9月には、地図もないまま、「道野辺」という素敵な地名に惹かれてここら辺を歩き廻ったのだな。

とても古い野馬土手が切断された断片として残っていて、断片と断片との間は、どーん!と大雑把なコンクリートの道が通っているような不思議な場所だった。

知らない場所をさまようのは、いつも楽しい。見たこともないものが待っているから。でも私が惹かれるのはたいてい古くて人に忘れられたもの、錆びたものとそれに絡まって繁茂したものだ。

診察の時、「猫の介護でやつれました。今、17歳なので、いろいろ薬とか、輸液とか私がしてるので。」と言ったら、A先生は「えっ?!17歳?!」と驚いていた。

確かに、飼っていない人からすれば猫の17歳は長生きでびっくりなんだろうと思う。ほんの10年ちょっと前までは、猫は10歳まで生きられれば御の字と言われていたような気がする。医療が発達した今は、17歳でも、まだまだ、もうちょっと生きてほしいと思ってしまう。

病院の2階の窓から見た空。時折ぱらぱらと雨が落ちてくる今日の雲は、微細な光が素晴らしかった。味戸ケイコさんの『あのこがみえる』の中の雲のように白金のエッジがきらめいていた。

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病院から出たあと、少し太陽が戻った。まわりには林も畑もほとんどないのだが、わずかに残った畑のほうに歩いて行き、捨てられたトマトの上に広がる水彩のような空を見つけた。

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船橋のホームから、私が大好きだった蔦の絡まる古い建物を見ようとしたら、もう壊されて無くなっていた。蔦が紅葉したところを撮りたいとミラーレス一眼カメラを持ってきたのに。淋しいが、9月に写真を撮ることができたのでよかった。

11月30日

ジェレミー・アボットの「弦楽のためのアダージョ」(サミュエル・バーバー作曲)。

悲歌。たっぷりと豊かに、とぎれることなく滑らかに、美しい線と抑揚を存分に見せて、なみなみと彼は「静謐」を演じた。

この作品はアボットの成熟した表現力にぴったりだと思う。

この曲を聴くと、やはり今はない大好きな人たちのことを想ってしまう。

大野慶人さんが「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち展」でこの曲を踊っていた。美術館の窓ガラスから光る緑が見えていた。

ついこの前のことに感じるが、あの時は9月の半ば、まだ、ちゃびもなんの変化もなく元気だった時だ。

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