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2015年1月

2015年1月29日 (木)

父のこと、妹のこと、心境の変化

1月29日

父が死んでからもうひと月が過ぎ、自分自身、多分に心境の変化もあった。

父が死ぬ前と死んだ直後、私の神経は相当まいっていた。

昨年の9月後半に、ちゃびがそれまで普通に食べていた食事を急に食べなくなり、そのときからずっと、あれやこれやと必死で調べて試行錯誤して、いつちゃびが死ぬかもしれない緊張状態が続いてすごく疲れていたせいか、少し鬱気味になっていたのかもしれない。

毎日一緒にいて当たり前だったちゃび、私にとってかわいすぎて、冷静に認識できないほど大きな存在のちゃびが急に死んでしまう、という緊迫感は想像を絶する苦しみだった。

そして父(その時点では父が死ぬまで家族に酷いことをしていたと私は知らなかったので)と母(まだ存命)ももうすぐ死んでしまうという恐怖。

この恐怖はうまく言い表せない。私が彼らに依存しているからではない。そうではなくて、私がまだ物心つかない昔、どういうふうに彼らが生きていて、何を考えていたのか、聞いておくべきだったという苦い後悔に襲われてものすごく苦しんだ。

私の本性として、自分が生まれる前の時代のこと、自分が小さかった時代のこと、人々がどんな暮らしをして何を切望していたのかを知りたい、それを書き留めたいという欲求が激しくあり、それにしては結局日々をなんとなく無駄にしていた自分を責めていた。

日々がものすごい速さで過ぎて行っているし、人はどんどん年老いていっているのに、それをちゃんと受け止めずに無駄に過ごしていた自分に後悔していた。

私の『反絵、触れる、けだもののフラボン』に関して、私が尊敬する兄様姉様方の書いてくださった書評を友人が送ってくれたのだが、私自身の神経が疲弊しきっていたせいか、不思議なことに、本当に全然嬉しさが湧いてこなくて、ただただ申し訳なくて、自分が恥ずかしくて、消え入りたいような気持ちだけが切実だった。

こういうのが「鬱」というのだろうか?

私が尊敬していて信頼している私の好きな人たちが私の本について書いてくださっている、それは恐ろしくありがたいことだ、と頭では理解しているし、事実こんなにありがたいことは今喜んでおかなければ私の一生でこの先はもうないような気がする、と頭ではしっかり認識できているのだが、なぜか自分の心が浮き立つことがなかった。

なぜか自分が書いたものを自分が書いたと認めることができなくて、それに自分が価値を認めることができなかった。

心が浮き立たないこと自体が失礼ではないか、とさらに自分を責める状態。

私がずっとまともに絵を描けていない、全然よい仕事ができていないという自責の念があり、こんな私に対して、よい仕事をしている方々が何かを書いてくれるということの申し訳なさ、恥ずかしさが一気に押し寄せてきたような感じだった。

そして父の死の直後、(父が異常なことは昔からわかっていたが、さらに)父が隠していた異常な悪事の証拠を発見し、強烈な自責の念でうなされるようになってしまった。

それから二週間くらいは、毎晩、苦しい夢を見て、汗びっしょりで眼が覚めた。私がしっかりしていないせいで母を守りきれなかったという後悔で、身体ががちがちになって、首、肩、腰が痛んだ。

・・・

そして今はどうかというと、その時の自分の感情(脳の状態?)とは明らかに違う。

首、肩、腰が痛いのは相変わらずで、タイレノールを(一日に1錠から2錠)飲んでいるが・・・。

今は自分が、非常に乏しく貧しいものではあるが仕事をしてきて、それに対して何かを書いてくださる人がいるということがとても嬉しく、ありがたく、それだけで生きていけるように思えるように変化してきた。

抑うつ状態の時は、頭で理解していても実感として幸福感がわいてこなくて、どうしようもなく苦しかったのだが、今の私の感覚では、素晴らしい魅力的な人たちと知り合えている、そしてどんな状況に陥っても助けてくれる親友がいる、そのことは本当に幸せなことだと強く感じられるようになってきている。

どうして気持ちが落ち着いてきたのか記憶をたどってみると・・・

12月29日、鈴木創士さんがお優しいメールをくださったのに、素直に感受できなかった(すみません<(_ _)><(_ _)><(_  _)>)。父の非道さに動揺していて、父への憎悪と母への申し訳なさで心が滅茶苦茶に収集つかなくなっていた。

1月3日に水沢勉さんからお優しいメールをいただいたのに、父の悪事を阻止できなかった自分に責任があると思い、まだ混乱していた<(_  _)>。

そして教育者のT先生からのメールにあった 「そういう、虚言癖や盗癖、自分をかばったりよく見せる嘘、他人のせいにする癖など、」「 これらはある種の障害なのではないかという思いが強くなりました。」という言葉に、救われたような気がした(これに関してはあくまで私と私の家族に関して、あてはまると私が思ったので、私の家族以外のかたたちについてもそうだとは思いません)。

つまり 私がどんなに真面目に尽くしたり、苦しんだりしても家族の異常さが治るわけではないということ。その酷さは「性格」がおかしいと考えるべきではなく、「病理」「障害」「中毒」と考えるべきだと今は思う。

1月8日に詩人の斎藤恵子さんがくださったメールの中の「これまでお母様も貴女も暴力、金銭的苦労によく耐えてこられたと思います。どれほど我慢されたことか!でも自分がバカだったとは思わないでください。」「「死んでくれてよかった」このことばをどうぞ繰り返してください。」という言葉(この部分だけだと語弊があるが、長い文の中からの一部引用です)が身にしみてありがたかった。

精神疾患と思われる妹について、「心の病は本当に難しく、ただ貴女が巻き込まれることもなく」「貴女自身の無事を祈るばかりです」という言葉に、少し気持ちが楽になった。

父が依存症(中毒)で、家族をどんなに地獄に落としても、私をがんにしようと家族の金を盗むのをやめられない極悪人だったとしても、父が死んでくれた今は、もう私が父のせいで滅茶苦茶になるほど苦しむべきではない、ということ。

そして妹が父のように依存的な性格で、自分のだらしなさからきている不幸を母や私のせいにしようとも、私が妹に巻き込まれるべきではないということ。

・・・

過去を振り返ってみると、妹は、買ったばかりの私の服をよく盗んだりしていた。買ったばかりなのにどうして?どこにいったの?と私がたんすの中や、ありとあらゆるところを捜しまわっていても知らないふりで、「ほんとに知らない?」と聞くと、「知らない」の一点張り。

そして、子供を産んだばかりの妹の家に行くと、アルバムに、私の捜していた服を着て子供と笑っている妹の姿の写真があったこともある。「何、これ?」と私が血相を変えても、妹は{あはははは。」とへらへら笑っていて返してくれない。結局、私が泣く泣く諦めるしかない、そういうことの繰り返しだ。

妹が結婚したがっていた人に捨てられた時も、次に付き合った人とトラブルになった時も、電話をかけてきては泣きわめいていた。私がどんなアドバイスをしても聞くわけではなく、ただ延々何時間も同じことを言って、私に甘えたいだけなのだ。

妹はさんざん相手の悪口を言って、いかに自分が被害者かを訴えてくる。それでいて、私が「そんな人と付き合っても未来がないでしょう。もう別れたら。」と言うと、「それは理屈でしょう!心は理屈じゃないでしょう!」とぎゃあ~っと泣きわめく。じゃあ、勝手にしたら、としか言えない。毎日、同じことを繰り返し、こちらはすごいストレスだけがたまる。

今、思えばあの時も妹はアルコールがはいっていたのだと思う。

そうやって問題解決に向けてなんの決断もしないで、うるさく泣きわめいてばかりの人間と誰も付き合いたくないし、だから結局男の人も逃げていく、その繰り返しだ。

そういえば、妹が二十歳すぎで銀行に勤めていた時、酔っぱらって山手線の線路に落ちて、額をかち割って何針か縫ったことがあった(と母から聞いた)。

また、酔っぱらって終電で眠りこけて、高尾駅からうちに電話してきて、両親を高尾までタクシーで迎えに来させたことがあった(これも妹は私には内緒にしていたが母から聞いた)。

(自分ひとりでタクシーで帰ってきて、運転手さんをうちに連れてきて親にお金を払ってもらえばいいのに、なぜわざわざ両親を高尾までタクシーで迎えに行かせるのかわからない。私だったら、そんなお金がもったいないことをするのは耐えられないので、駅員さんに頭を下げて始発まで駅のどこかにいさせてもらうだろう。)

2003年から2010年くらいまで、妹は夫の転勤で海外(アジア)に行っていた。それまでは、私が我慢していたところは大いにあるが、妹とは普通に仲のよい姉妹だった。海外に行って2か月くらいの時には、妹から国際電話があり、いつものようにえんえん愚痴を聞かされた。

妹の帰国がまじかになった頃、母の具合が悪くなってきていたので、妹にメールをした。その時に、母に対して少しの思いやりもない返事がきたので愕然とした。

自分のことについて、「手が震える」とか「子どもの前でいつも、死にたい死にたいと言っている」というような信じられない言葉が書いてあった。今考えると、もしかしたらそれもアルコールの離脱症状なのかもしれないと思う。

海外に行く前は母や私に対する恨み言など言っていなかったのだから、海外暮らしのストレスがきっかけで何か変化があったのだろう、と思うのだが。

アルコール依存症の特徴である「否認」「被害妄想」「振戦」などぴったり妹にあてはまる。まさに病的だ。妹が海外から帰国した時、セラピストに通っていたらしいが、妹は酒を飲んでいることを隠してセラピーを受けていると思う。

冷静に考えて、妹が「自分の不幸が姉(私)のせいだ」というような態度をとっても、そんな理不尽な言動にいちいち耳を傾ける必要はない。本当に関係ないのだ。

・・・

今、私が考えていることは、自分のやるべき仕事に、誰にも邪魔されずに集中したいということだけだ。

鬱になりかかったのも、ここしばらく仕事に集中できていないからだし、父に対する水に流せない恨みも、私の二十歳代の、一番体力も充実して仕事に打ち込みたかった時を父のギャンブルの借金返済のために滅茶苦茶にされ、そのことを父が少しも悪いと思っていなかったからだ。

今は余計なつまらないことで時間を無駄にしたくない、と心底思う。

それと、ずっと私を支え続けてくれる親友のうちのひとりの「あなたは表現者になるしかない運命なんだ」という言葉を思い出していた。

「表現者になる」ということはどういうことか、もちろんはっきりとわかっているわけではない。「運命」というものが絶対だと信じているわけでもない。

ただ、私はこの言葉を、「どんな過酷な運命にたたきのめされても、それでもなにかを表現する行為しか私には残らない」というふうに読み返している。

それは「反時代的」な考え方かもしれないが、表現が鏡面反射のようにそれ自体で自動的に増幅していくのではなく、引き留める傷、その痕跡の奥に、たしかに苦悩し格闘した生があったと感じとらせてくれるものしか、「表現されたもの」としての価値を認めたくはない。このパラドックスが、私と、私の親友たちがともに持っている価値感だと思う。

この理屈で言えば、私自身が心身ともに潰されない限り、不幸は私のハンディにならない。

1月25日

母の施設に行く。

松の内が開けた頃が母の誕生日だったのだが、ちょうどインフルエンザの人が出たということで面会に来ないでほしいとの連絡があり、その日に行けなくて残念だった。

母には父が死んだことを言っていない。

今、母の頭の中には最初に出会った頃の、母曰く「きれいで優しい」父のイメージがあるのが救いだ。

帰りに中野ブロードウエイで古本を買う。いつも60年代~70年代のまんがを買うのだが、この日は探している本がなかった。妹のアルコール依存症が気になっているので、吾妻ひでおの『アル中病棟』と『うつうつひでお日記』を買った。

上村一夫の遺作で大好きな作品『一葉裏日誌』の文庫版があったので買おうとしたが、(廊下の本棚の奥のほうでとりだせなくなっているが)単行本は持っているので、(ものが増えるので)買うのをやめた。後で調べたら、実の娘さんの解説などが興味深そうでやはり買えばよかった。

それから天婦羅屋さんで食事。昭和な感じの飾らないお店で、話したことはないけれど私はここの白髪の店主さん(おじい様)が好きだ。

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ここの天婦羅屋さんのつゆには生姜のすりおろしが少々入っているだけで、大根おろしがはいっていない。私は天婦羅には大根おろしがたっぷりほしいので、必ず「しらすおろし」をたのんで、それでビールを飲みながら天婦羅があがってくるのを待つのが最高です。

下は大好きなめごちの天婦羅(2、3尾で380円!)。淡白ですごくおいしい。

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2015年1月25日 (日)

ちゃび(認知症?) コロ(幸せ)

1月25日

ここ数日、ちゃびが興奮していて食べ方も少なくなっていたが、きょうは朝までふとんにはいったり出たりのソワソワがなかった。

それで朝、皿を見たらきのうの夜残していたカリカリ(キドニーケア)をきれいに食べてあった!

変な興奮がなくなったら食欲がまた出て来た。

気になるのはなぜか22日からずっとゴロゴロ言っていないこと。元気そうではあるし、機嫌も悪くないのになぜ?

18日~21日は、逆にゴロゴロ言い過ぎで一日中ゴロゴロ爆音だった。・・・不思議。

最近は昨年のあまり食べなかった時よりは元気で、私のスカイプのマイクの先についた黒いスポンジをやっつけたり、丸めたポリ袋を鞠のようにポンポンしてはねて遊んだりしている。

1月24日

ちゃびが朝から台所の流し台の上に乗っかって根三つ葉の葉を食べようとしていたので、買っておいたエディブルフラワー(無農薬の金魚草)をあげてみた。

猫草でもちゃびには硬すぎて、食べると変な吐き方をするので、最近は猫草は買っていない。

夢中になるとき、鼻に3本縦に皺を寄せるちゃび。

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ぺろり。

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朱色の金魚草。
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はむっ。
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ぺろり。

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お花が似合うかわいいちゃび~~・・・

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ここ数日のちゃびは、めまぐるしく様子が変化している。

18日、19日、20日は昼間はずっとゴロゴロ爆音をふかしていたが、夜になると朝まで落ち着かず、私のふとんにはいったり、出たり。

夜中、ふとんから出た時、机の上にあがって、やたらに紙類をかじってぺっぺっと飛ばすのですごく困る。

私がお風呂にはいったら、普段とまったく違うドスのきいた大きな声で叫ぶし。お風呂から飛び出して「ちゃび!」となでると「んにゃ?」とおとなしくなり、再び私がお風呂に戻るとまた叫ぶ。

21日に先生に相談したら「ぼけたのかもしれない」と言われてショック。ねこの認知症もまったく珍しくないそうだ。確かに、猫も歳をとったら自律神経とかいろいろ不具合は出ているのかもしれないが。

22日~23日は興奮のピークだった。朝から落ち着かなくて、紙をかじったり、変な大声で泣いたり。昔からうんこが出ないでイライラした時に紙をかじっていたので、トイレに閉じ込めるが、しない。

23日の午前3時ころから、流し台の上に上がったりしてうるさくしていたので、ごはん(まぐろスープとカリカリを別々の皿に)あげても食べないでソワソワ。

朝5時にミサイル弾丸走りをした!!うんこしたあとにしかしないはずなのだが、強烈に暴走。押さえて抱いたあとも身体に力がはいっていた。

不穏な感じでもなく、無駄に元気がいい感じ。

23日の夕方、動物病院の終わり間際に電話で相談。セルシンの量をうまく調整してみてくださいとのこと。今はセルシンはほんの1/10j錠くらいしかあげていないが、もう少しあげて、眠くなる量を加減してしてみて、と言われた。

「ぼけ」もどういう症状が出るか個体差があり、ムラがあるから、ずっと同じ状況ではないから、と言われた。

そもそもちゃびが以前のように食べなくなった直接の原因が「腎不全」ではなく、年齢によるいろいろ微妙な自律神経の不調なのかな、と思う。

ミサイル走りのあとの朝のアカルディ(強心剤)は、余計心臓がどきどきしたら困る(?)と思い、一回お休みしたのだが、先生にきくとアカルディは心臓を楽にさせて落ち着かせる働きがあるので休まないほうがいいとのこと。

1月21日

久しぶりにコロの顔を見る。

まだKさんのところにいさせていただいていた。「すっかりなついてだら~っとしてゴロゴロ言ってますよ~。」と嬉しそうにKさん。

「コロち~(涙)、よかったね~。あったかいね~。」コロはさらにふっくらしてご満悦になっていた。

コロは人に触らせるようになったが、油断するとみんな噛まれているそう(そこはかわってない)。

私がコロのところに行っている間、スカイプをつけっぱなしにして友人に聞いていてもらったところ、ちゃびは私がいないと大暴れの大騒ぎだったそうだ。

流し台の上に置いていたティーポットが倒れていてお茶が床にこぼれていた。

1月20日

一級建築士のTさんに実家を見ていただく。雨漏りや壁の崩壊など、すぐになんらかの修理が必要かどうかを見ていただいた。

結果・・・すぐに修理しないと崩れるという状態ではないようだ。

たぶん築69年。木造。

土台が地面にしっかりとはいってなく、「ふわっと」地面にのせただけの家で心配なんです、と言ったら、戦後すぐの家はみんなそんなもんだったそう。・・・ふう・・・。

北風が強い日。西新宿のファンゴーダイニングのランチがちょうど終わっていたので新宿駅西口のミロードでお茶を飲んでいろいろ相談にのっていただいた。

TさんはSさんのパーティーで知り合った人だ。尊敬する人のパーティーにはやはり素敵な人たちが集まっている。そして偶然の出会いでも相談にのってくださるなんて、本当にありがたいことだ。

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2015年1月18日 (日)

代々木 古い建物

1月17日

新宿郵便局に荷物を取りに行ったあと、友人とカメラを持って代々木方面を散歩する。

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昔、北新宿や西新宿のうちの近所にたくさんあった懐かしいアパート。今はなかなか見られない。外についている朱色のポストも素敵。

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ごちゃごちゃっとゴミが捨ててある片隅の、一番はじっこ。

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灰色のブロック塀と、忘れられた枯れ枝と、小さな朱色の実のなる枯れ蔓と・・・

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都会の隅っこの、こういう場所に一番抒情を感じる。ベルリンにもこんな感じのところがいっぱいあった。

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青灰色の壁の上を這う小さな朱色の実のいっぱい生った枯れ蔓。

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誰かが残した白と緑の色彩と去年のヒメムカシヨモギと。


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ここはその昔、ショーケンと水谷豊の「傷だらけの天使」を撮影したらしいビル。

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この破れて穴が開いてぼろぼろになった布のようなものの美しさに惹かれた。

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この襤褸布をアップで撮るために、またここに来るかもしれない。

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きょうは北風が冷たく皮膚を切るようだった。自然に猫背になってしまった。

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かつて極彩色だった、今はくすんだパステルカラーのビル。
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2列上段右から二番目のプレートのお店の名前が気になった。「うね女(うねめ)」かな?国立がんセンターの手前の交差点に「采女橋」というのがあったな・・・

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このビルとは違う、もうひとつの、古い塔のように見える建物のほうに行ってみようと言って歩いた。

ところがその塔は、新しいビルの中に埋もれていて、まわりを廻ってもたどりつけなかった。

狭い路地のデッドエンドにはヨーロッパ風のしゃれたカフェバーがあった。もう一度通りをまわって、古い飾りネオンのついた塔を眺めた。

いつか見た「かくれんぼ」という(連続ではなく1時間半くらいで完結した)アニメを思い出していた。深夜に偶然見て、濃厚な暗いノスタルジアに魅せられた。それからもう一度だけ、また深夜に再放送していたと思う。

戦後闇市の雰囲気が残る暗く寂びれた商店街を、親友を探してうろつきまわる少年(たしかネズミだったと思う)の話。

迷路のような路地を走ると、隙間から隙間に走り抜ける、やはり誰かを探しているような者たちが見える。

とても心細くて、不安で、懐かしくて、怖くて・・・最後は救いがない感じで怖い話だったのだけど、冒頭から中ごろまでの映像(絵)にとても惹かれた。

(「アニメなんか見るの?」とよく言われるのだが、アニメは好きだ。時間的にたくさんは見られないので選んで見るが、去年は「残響のテロル」は熱心に見ていた。絵もきれいだが音楽もよかった。)

・・・・

新宿南口まで凍えた手をさすりながら歩いて戻った。新宿サザンテラスのイルミネーション。昨年の暮れは慌ただしくて来られなかった。きょう初めて見た。

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2015年1月11日 (日)

西新宿 四谷

1月10日

西新宿の家の写真を撮りに行き、そのあと四谷で食事。

花町の名残り、「ホテルニュー寿」のあったところに咲いていた去年の枯れ紫陽花。レースのようにすかすかになっていて、ところどころ鮮やかに残る赤紫だ美しかった。

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四谷で天婦羅を食べた後、鈴蘭の灯りに誘われて「杉大門通り」を散歩した。
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ここにも花町の名残り、料亭のあった狭い坂。
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「ねこと薔薇の日々」という店の上に「喝采」という店がある。
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罅割れから植物がはえている古い石段に座ると、とても落ち着く。

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いろいろ悩みの多い毎日だが、最近年上の方たちに励まされることが多い。

T・Jさん、S・Sさん、 S・Kさん、S・T さん、H・Kさん、T・Tさん、M・Tさん、U・Sさん、Y・Fさん、S・Kさん・・・・・・人生の先輩方に支えられている。

私は人見知りで、まったく人付き合いが多い方ではないのだが、それでもこれだけ信頼できる人たちに言葉をかけてもらえている、ということに驚いた。

本当に助けられている、と感じるのは、通り一遍のなぐさめやきれいごとでなく、非常に具体的で経験に基づいたリアルな助言だ。

たとえば「心の病」の場合、治ることは難しい、相手が身内であっても巻き込まれないように逃げたほうがいいということ。たいがいのかたが「自分の身を守ることが一番大事」と言ってくれたことは大きい。

肉親だと嫌なのになんだかんだとずるずる巻き込まれてしまい、自分が誠実に正直に行動すればするほど、相手は甘えてきて暴挙に出る傾向にある。

だから尊敬する人たちが「身内でも捨てていいのだ」と言ってくれてほっとした。

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父のこと 妹のこと (心の病)

1月9日

父がこの10年以上の母の毎月の年金と、母が必死でつましく貯めた預金を盗んで全部ギャンブルで使い果たしていた証拠のファクシミリを妹に送る。

金額は胸が痛すぎて書けない。それだけあれば何年も暮らせるような額と書けばいいのだろうか。

妹は父が大好きなので信じたくないようだ。どうしても事実をねじまげたいようで、なぜか父の本性にショックを受けたのではなく「コロの件で誰も信じられなくなった(まるで私が妹を騙したというような)」という意味不明のメールが来る。

私が学生のころに父がギャンブルで多額の借金をつくった時、母と私が凄絶な苦労をして父の借金を返したこと、それで妹だけはなんの苦労もせずに短大にも行け、妹は就職してからも家に一円も入れていないことが、妹の記憶からはいつのまにか削除されている。

母と私は父に殴る蹴るされていたし、もろに借金を背負わされたので、父に対して敬愛の情を持てるわけもなく、父も自分の本性を知っている私のことはすごく警戒していた。

だから父は妹を甘やかして操った。

父の思惑通り、妹は父にべったりで、妹をかわいがっていた母と私のことはなぜか恨んでいる。

1月6日

暮れも押し迫る12月26日に父が死に、その時は、父は酷い人間だったがかわいそうな人なのだと、感傷的になったりもしていた。

そのあと、家のこたつの下から、そんな感傷など吹っ飛び、ただ吐き気がするようなペラっとした紙が見つかったのが12月29日のことだ。

きょう、新宿の区役所に行き、もろもろ手続きした後で、そのペラの事実を確認に某所へ向かった。

高層ビル群を歩きながら、横殴りの雨にずぶ濡れになった。

西新宿のタワーのひとつの地下で、メリル・デイヴィスに似た細面の、てきぱきとしたUさんの親切により、10年以上前から、徐々に認知症になりかかってきていた母のお金を父が盗んで、賭け事などで使い果たしてしまった証拠を確認した。

29日にペラを見た時の私のショックは、こんなにも一生懸命やって来たのに、父の汚い盗癖を阻止できなかった自分の生ぬるさへの後悔と嫌悪感で、本当に頭がおかしくなりそうだった。

親友は皆、「騙す方が悪いんだ。騙されたほうは悪くない。」と言うが、母を必死で守りたかった自分は、そんな言葉で納得できるものではない。自分の責任だと思う。

そしてきょう、昔から、結局死ぬまで治っていなかった父の病理の、さらに大きな金額の明細を見て、もっと唖然とした。

夕方、心身ともにくたくたになって帰宅。きょうだけで1・5kgやせて、また43kgに戻っていた。

5時すぎに、今までずっとお世話になっている父と母のケアマネさんに電話した。その時に新たな事実を聞いてさらに呆れてしまった。

妹が暮れに酔っぱらって泣きながらケアマネさんに電話して来て「姉はお金のことばかり言う。父はいい人ですよね。父を悪くいうような姉は父の法要になんかきてほしくない。息子と二人だけで法要したい。」と言ったというのだ。

つまり、妹にとっては、あんなにも差額ベッドのことなどで妹をかばって病院と闘った私が「金のことばかり言う人」で、私をがんにして、母の預金を死ぬまで盗んで使い込んでいた父は「いい人」なのだ。もう妹のことを心配することが、ほとほと嫌になった。

・・・

最近、教育関係の人と知り合えて、いろいろメールで会話させていただいているが、その先生の経験からの話で、たいへん説得力のある言葉があった。

要約すると、こういうことだ。

「トラブルや盗み(万引き)、問題行動はどの生徒でも起こりうることだが、問題は繰り返すパターンである。 経験上、このパターンは指導が全く通らない。 また、繰り返すので何度も指導をしないといけないので、その度に指導に対する耐性というか、 自分の防御のスキルがついてしまい、「こう(あやまれば)すれば大丈夫」 「この言葉で許してもらえる」という良くない学習をしてしまうようである。」

「職業柄、たくさんの人を見ているが、教育ではどうにもならない例がある。本人の心の弱さもあるが、それを許してしまう環境要因が改善を妨げてしまう。」

「「悪いことをしても、謝れば許してもらえる」「この人にこう言えばなんとかなる」「悪いことをしても、いいことをすればそれがなかったことになる」「自分は~な人だから、仕方がないのに周りがそれを理解してくれない。なんてひどい奴らだ」生徒指導をしていて、話の中からそういう匂いがしたら、保護者と話さなければと思うのだが、なかなか難しい。」

これらの言葉が、あまりにも納得がいった。つまり盗みの常習とギャンブル依存症には、人を傷つけているという認識すらない。悪いなんて思っていないのだ。ただどういうふうにごまかせばいいか、卑劣な騙しの手口だけを必死に考えているのだ。家族内であれば、それが警察沙汰にならないのなら、なおることなく、えんえん続くのだ。

・・・

そして、私と母はさんざん苦しめられてきた。私は父を許せなくて、小中学生の頃は、よく父に「眼が反抗的だ」と言われて、殴る、蹴るされていた。

廊下に頭を叩きつけられて、本当に眼の奥の暗闇に火花が見えた。

私が21歳の時、父が大きな借金をつくった。その時に母が離婚すればよかったのだが、母が私に言ったのは、「おばあちゃん(父の育ての親)を捨てることはできない」ということ、それと、「父を捨てれば父は野垂れ死にするような人生だろうが、それでは(まだ高1くらいだった)妹がかわいそうだから、離婚しないでがんばる」という言葉だった。

あの時、「私には貫きたい道があるから、これ以上私の人生を父に目茶苦茶にされたくない」と言って、家を出て行けば違った人生があったのだが。

私はそうはできない雰囲気に流されてしまった。家を出ることも許されず、大卒で就職した会社に5時半まで勤め、6時からは原宿の高級喫茶で11時まで働き、帰宅してからは買い取り用のジュエリーデザインを明け方まで書いて、その給料の全額を家に入れた。

まだ元気だった祖母も、そうとうな苦労をして親戚中からお金を借りていたと思う。私と母はそれこそ死に物狂いで働かざるを得なかった。

私が最初に入った会社は手描き友禅を描く工房だった。短大を出た二十歳前の女の子ばかりで、話題と言えば成人式の晴れ着の話や、自分が稼いだお金で海外旅行へ行く話ばかりだった。

華やかでふわふわした女の子たちと同じ仕事部屋の中にいて一緒に仕事をしながら、自分ひとりがまったく別の真っ暗な世界にいる感覚だった。

あの時、家族の中で私しか正社員だった者がいなかったので、私が父のためにサラ金に連れて行かれて判子を押させられたりもした。嫌で嫌でたまらないものをずっしりと負わせられるほとんど息ができなくなる感覚。

・・・

あの時のいつ終わるかわからない悪夢の感覚が、私の「もののみかた」をつくったのは確かだ。

直覚というのか、その時の苦しみと切羽詰った記憶が核になって、自分が夢中になれるものと、まったく良さを感じないもの、むしろ嫌悪するものとがほぼ瞬間的な判断でわかれている。

・・・

父の借金を背負わされたことの多大なストレスによって、私は即、腎臓結石で倒れ、がんにもなったし、とにかく何があっても父の根本的な性格、家族への愛情のなさは変わらなかったので、その後も父とは打ち解けることはできなかったし、表面上は何もなかったように振る舞われても、どう接していいかわからなかった。

母が具合が悪くなってきた時には私がいくら言っても無視して母の介護をしなかった妹が、父が入院した時には、かいがいしく父のために介護をし出したので私は本当にびっくりした。

妹は父が大好きだと言うのだ。父がそうだったように、妹は、いつのまにか完全に心の病になっていた。父がギャンブル依存症なら妹はアルコール依存症だ。

妹は、父の借金のために必死に働いていた母が、子供の時に自分と遊んでくれなかったから恨んでいる、と、いい中年になった今になってから、まったく気が狂ったようなことを言う。

その母に過酷な労働を強いた、まさに元凶の父が失業して家にいて、妹をさんざん甘やかしていたことにコントロールされて、父は遊んでくれたからいい人だと言う。

そして、私が妹を可愛がらなかったから妹は自分自身を愛せない性格になってしまったという。妹は昔、順調だった時には言わなかったような歪んだストーリーを今になって作り上げて私をののしっている。

(昔、妹が短大を出て大手銀行に就職したときは「家族の中で有名企業に就職できたのは自分しかいない」と偉そうに発言していた。母が「あの子はとんでもないことを言う。歪んでる。」と呆れていたのを覚えている。その銀行も2年くらいで離職したのだが、妹は昔から姉である私に対抗意識を持っていて、美大なんか出た姉とは違って自分は優秀なんだと常に言いたがっていた。)

実際は、(アルコールを飲んで際限なくわめき散らす妹に耐えられず)妹の夫が出て行ったので、その不安やさびしさを絶対に認めたくないから、しょっちゅうアルコールを飲んで前後不覚になって、なぜか関係ない私をののしっているのだが。

愛されない理由が自分の性格にあることを認めず、自分の都合のいいように過去を「合理化」すれば、自分が愛されない不安をごまかせるものなのだろうか?

母が施設にはいる前、私が通いで介護している時、少しでも身体に良いものをと、つみれと根菜や芋の煮物をつくって持って行って食べさせたり、風呂をわかして母を入れて身体を洗ったり、手足をマッサージしたりしていた。

その時、少し母の認知症は進んでいたが、時々「なんでこんなに優しくしてくれるの?」と私に言うことがあって、涙がこぼれた。「私は幸せね。M子(妹の名前)ならこんなことしてくれないもの。」とも言っていた。認知にムラがあったが、時折正気になっている時の言葉だった。

その時期、妹は母が寝たきりになっている部屋を無視して、子供を連れて隣の父の部屋に行って、長時間酒を飲んでへべれけになって笑い転げていた。父はまともなことなど一切言わない人間なので、そういう思いやりのないがさつな妹の態度を注意するどころか(父は下戸だが、ほかに相手にしてくれる人がいないので)一緒にTVを見たりしてだらしなく楽しくやっていた。

私は、母がかわいそうだ、母の介護を手伝ってくれ、と何度妹に言ったかしれない。そのたびに妹の態度は異常だった。「私をこれ以上利用する気なら無理だから。」というようなことを言って私に対して怒鳴り散らしてくることが何回もあった。

妹は、ただ自分を甘やかしてくれる人間になつこうとして、それで自己肯定しようとしている。でも妹の歪んだだらしなさをそのまま許容してくれる人間は同じく歪んだ人間しかいない。

私の今の一番の悩みは、妹が私のやることすべてにねたみのような感情を持っていて、異常行動に出ることだ。

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2015年1月 6日 (火)

コロ、里子に出る / 西新宿 高円寺

1月5日

コロは朝早くから福山家を出、京王線八幡山のE動物病院へシャンプーに連れて行かれた。

シャンプーはお洒落のためではなく(すでに血液検査やワクチンは済んでいるが)、里子に出す直前に、今までの皮膚や毛に付着しているかもしれない病原菌やウイルスを洗い流して、きれいな状態で引き渡すためである。

シャンプーしたあと、病原菌やウイルスが付着しているかもしれないキャリーに戻したら元も子もないので、シャンプーしているあいだに持参した次亜塩素酸水のスプレーでキャリーの中も外もまんべんなく消毒して、終わったらコロをその中に入れてくださいとお願いする。

シャンプー代5400円、八幡山から里親さんへのタクシー代1560円。

シャンプーして引き渡したたあとの、ウーウーうなっているコロちゃん。あいかわらずの迫力。「かわいいですよ~~。」と引き取ってくれたKさん。Kさん、コロをどうかよろしくお願いします。ひとまずは、よかった!よかった!

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コロを無事引き渡した帰り道、古いアパートの前で。

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私はとにかく枯れた蔓草や古びたものが大好きだ。

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1月4日

朝、アカルディのあとにぺリアクチンのかけら(2mmくらい)を飲ませたらちゃび、少し興奮。「にゃあお~ん。」という声とともに、廊下から水色のパイルヘアゴムをくわえてふとんの上に持ってきた。

それを飛ばしてあげると夢中でキャッチ。そのあと口でくわえたゴムをお手々で引っ張って遊ぶ。

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そのあと、どこからかひもつきゴムをさがしてくわえて運んできた。これにもじゃれてしばし遊ぶ。

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コロが明日、里子に出されるので、写真を撮るためにカメラを持ってきたのだが、うまく撮れなかった。玄関を開けた瞬間、「にゃ~~お!」と大きな声。カリカリをあげたら、ケージの二階からドスコッと音をたてて飛び降り、ものすごい勢いで食べた。ちゃびとはまったく別の生き物と思えるほどに元気。活力満点。

かつて十二社(じゅうにそう)と呼ばれた西新宿の古い階段。

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階段の途中、かつて栄えた花町の名残り、連れ込み宿屋のあったあと。この桜の樹は私が小さい時から毎年豊かな花をつけた。

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この階段の上にしゃがみ込み、幼稚園児だった私は、何時間も熱心に苔やイシミカワの花を摘んでいた。小さな小さな世界に飽きることはなかった。

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十二社にかつてあった大きな池を見下ろしていた大銀杏。

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大銀杏の下に昔からあるお蕎麦屋さんの猫たち。
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この日、私にとっては偶然の、しかも必然と感じる再会があった。家を出てすぐに、懐かしい幼なじみのHちゃんに出会ったのだ。

Hちゃんは小学校低学年の時に毎日のように遊んでいた友達で、私のことを「ちーちゃん」と呼んだ最初の子だ。

父が亡くなったことを話し、話題はぼろぼろになった家の修繕をどうしたらいいかの話、自分の葬式は無しにしたい話など現実的なもの中心だが、自分たちが幼い頃とはあまりにも変わってしまった西新宿、十二社の思い出にも花が咲いた。

この再会で強く感じたことは、私が今、共通の思い出や悩みを分かち合えるのは肉親ではなくて、むしろ他人だということだ。少なくとも妹とはこんな風にまともに話し合えない。Hちゃんがとても健気に思えた。

中央公園の中を横切り、キラキラしているホテルヒルトンの前の道を歩いて高層ビル群を抜け、新宿西口に出た。

クリスマスシーズンから華やかに灯っていたミロードのモザイク坂のイルミネーションが、まだきれいだった。
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1月3日

きょうもちゃびはぺリアクチンのせいなのか少し興奮して、深夜に時代踏み台の穴の中に入ってしまった。横にしないと出られないので横に倒して、出てきたところ。

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1月1日

夕方、歩いたことのない大通りを通って、妙法寺まで歩いてみた。公園の遊具のオブジェの後ろに濃い色の夕焼け。

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ここにも都営アパートの廃墟があった。

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風が冷たくて耳と指が凍えた。都会の廃墟。ごちゃごちゃした通り。私は好きだ。廃墟にこそ詩や絵を感じる。不気味だとか怖いとかはまったく感じない。

新宿駅まで歩いて15分程度で行ける場所に育ったことが、私の感性に与えた影響は多大だ。

秒刻みで変わっていく都会の風景。子供の頃の私が、何もわからないながらにも確かに眼にした時代の熱の記憶。その頃の時代の熱を知っている建物が、今は廃墟なのかもしれない。

何にしても「廃墟」が、人に見捨てられた風景が、誰も見向きもしない吹き溜まりの落ち葉が、私を駆り立ててくれる。

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妙法寺にて、どこかのかわいいわんちゃんを入れて撮ってもらった。

このお寺は、三百数十年前、元和(一六一五~一六二三)の頃、できたらしい。

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