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2015年1月29日 (木)

父のこと、妹のこと、心境の変化

1月29日

父が死んでからもうひと月が過ぎ、自分自身、多分に心境の変化もあった。

父が死ぬ前と死んだ直後、私の神経は相当まいっていた。

昨年の9月後半に、ちゃびがそれまで普通に食べていた食事を急に食べなくなり、そのときからずっと、あれやこれやと必死で調べて試行錯誤して、いつちゃびが死ぬかもしれない緊張状態が続いてすごく疲れていたせいか、少し鬱気味になっていたのかもしれない。

毎日一緒にいて当たり前だったちゃび、私にとってかわいすぎて、冷静に認識できないほど大きな存在のちゃびが急に死んでしまう、という緊迫感は想像を絶する苦しみだった。

そして父(その時点では父が死ぬまで家族に酷いことをしていたと私は知らなかったので)と母(まだ存命)ももうすぐ死んでしまうという恐怖。

この恐怖はうまく言い表せない。私が彼らに依存しているからではない。そうではなくて、私がまだ物心つかない昔、どういうふうに彼らが生きていて、何を考えていたのか、聞いておくべきだったという苦い後悔に襲われてものすごく苦しんだ。

私の本性として、自分が生まれる前の時代のこと、自分が小さかった時代のこと、人々がどんな暮らしをして何を切望していたのかを知りたい、それを書き留めたいという欲求が激しくあり、それにしては結局日々をなんとなく無駄にしていた自分を責めていた。

日々がものすごい速さで過ぎて行っているし、人はどんどん年老いていっているのに、それをちゃんと受け止めずに無駄に過ごしていた自分に後悔していた。

私の『反絵、触れる、けだもののフラボン』に関して、私が尊敬する兄様姉様方の書いてくださった書評を友人が送ってくれたのだが、私自身の神経が疲弊しきっていたせいか、不思議なことに、本当に全然嬉しさが湧いてこなくて、ただただ申し訳なくて、自分が恥ずかしくて、消え入りたいような気持ちだけが切実だった。

こういうのが「鬱」というのだろうか?

私が尊敬していて信頼している私の好きな人たちが私の本について書いてくださっている、それは恐ろしくありがたいことだ、と頭では理解しているし、事実こんなにありがたいことは今喜んでおかなければ私の一生でこの先はもうないような気がする、と頭ではしっかり認識できているのだが、なぜか自分の心が浮き立つことがなかった。

なぜか自分が書いたものを自分が書いたと認めることができなくて、それに自分が価値を認めることができなかった。

心が浮き立たないこと自体が失礼ではないか、とさらに自分を責める状態。

私がずっとまともに絵を描けていない、全然よい仕事ができていないという自責の念があり、こんな私に対して、よい仕事をしている方々が何かを書いてくれるということの申し訳なさ、恥ずかしさが一気に押し寄せてきたような感じだった。

そして父の死の直後、(父が異常なことは昔からわかっていたが、さらに)父が隠していた異常な悪事の証拠を発見し、強烈な自責の念でうなされるようになってしまった。

それから二週間くらいは、毎晩、苦しい夢を見て、汗びっしょりで眼が覚めた。私がしっかりしていないせいで母を守りきれなかったという後悔で、身体ががちがちになって、首、肩、腰が痛んだ。

・・・

そして今はどうかというと、その時の自分の感情(脳の状態?)とは明らかに違う。

首、肩、腰が痛いのは相変わらずで、タイレノールを(一日に1錠から2錠)飲んでいるが・・・。

今は自分が、非常に乏しく貧しいものではあるが仕事をしてきて、それに対して何かを書いてくださる人がいるということがとても嬉しく、ありがたく、それだけで生きていけるように思えるように変化してきた。

抑うつ状態の時は、頭で理解していても実感として幸福感がわいてこなくて、どうしようもなく苦しかったのだが、今の私の感覚では、素晴らしい魅力的な人たちと知り合えている、そしてどんな状況に陥っても助けてくれる親友がいる、そのことは本当に幸せなことだと強く感じられるようになってきている。

どうして気持ちが落ち着いてきたのか記憶をたどってみると・・・

12月29日、鈴木創士さんがお優しいメールをくださったのに、素直に感受できなかった(すみません<(_ _)><(_ _)><(_  _)>)。父の非道さに動揺していて、父への憎悪と母への申し訳なさで心が滅茶苦茶に収集つかなくなっていた。

1月3日に水沢勉さんからお優しいメールをいただいたのに、父の悪事を阻止できなかった自分に責任があると思い、まだ混乱していた<(_  _)>。

そして教育者のT先生からのメールにあった 「そういう、虚言癖や盗癖、自分をかばったりよく見せる嘘、他人のせいにする癖など、」「 これらはある種の障害なのではないかという思いが強くなりました。」という言葉に、救われたような気がした(これに関してはあくまで私と私の家族に関して、あてはまると私が思ったので、私の家族以外のかたたちについてもそうだとは思いません)。

つまり 私がどんなに真面目に尽くしたり、苦しんだりしても家族の異常さが治るわけではないということ。その酷さは「性格」がおかしいと考えるべきではなく、「病理」「障害」「中毒」と考えるべきだと今は思う。

1月8日に詩人の斎藤恵子さんがくださったメールの中の「これまでお母様も貴女も暴力、金銭的苦労によく耐えてこられたと思います。どれほど我慢されたことか!でも自分がバカだったとは思わないでください。」「「死んでくれてよかった」このことばをどうぞ繰り返してください。」という言葉(この部分だけだと語弊があるが、長い文の中からの一部引用です)が身にしみてありがたかった。

精神疾患と思われる妹について、「心の病は本当に難しく、ただ貴女が巻き込まれることもなく」「貴女自身の無事を祈るばかりです」という言葉に、少し気持ちが楽になった。

父が依存症(中毒)で、家族をどんなに地獄に落としても、私をがんにしようと家族の金を盗むのをやめられない極悪人だったとしても、父が死んでくれた今は、もう私が父のせいで滅茶苦茶になるほど苦しむべきではない、ということ。

そして妹が父のように依存的な性格で、自分のだらしなさからきている不幸を母や私のせいにしようとも、私が妹に巻き込まれるべきではないということ。

・・・

過去を振り返ってみると、妹は、買ったばかりの私の服をよく盗んだりしていた。買ったばかりなのにどうして?どこにいったの?と私がたんすの中や、ありとあらゆるところを捜しまわっていても知らないふりで、「ほんとに知らない?」と聞くと、「知らない」の一点張り。

そして、子供を産んだばかりの妹の家に行くと、アルバムに、私の捜していた服を着て子供と笑っている妹の姿の写真があったこともある。「何、これ?」と私が血相を変えても、妹は{あはははは。」とへらへら笑っていて返してくれない。結局、私が泣く泣く諦めるしかない、そういうことの繰り返しだ。

妹が結婚したがっていた人に捨てられた時も、次に付き合った人とトラブルになった時も、電話をかけてきては泣きわめいていた。私がどんなアドバイスをしても聞くわけではなく、ただ延々何時間も同じことを言って、私に甘えたいだけなのだ。

妹はさんざん相手の悪口を言って、いかに自分が被害者かを訴えてくる。それでいて、私が「そんな人と付き合っても未来がないでしょう。もう別れたら。」と言うと、「それは理屈でしょう!心は理屈じゃないでしょう!」とぎゃあ~っと泣きわめく。じゃあ、勝手にしたら、としか言えない。毎日、同じことを繰り返し、こちらはすごいストレスだけがたまる。

今、思えばあの時も妹はアルコールがはいっていたのだと思う。

そうやって問題解決に向けてなんの決断もしないで、うるさく泣きわめいてばかりの人間と誰も付き合いたくないし、だから結局男の人も逃げていく、その繰り返しだ。

そういえば、妹が二十歳すぎで銀行に勤めていた時、酔っぱらって山手線の線路に落ちて、額をかち割って何針か縫ったことがあった(と母から聞いた)。

また、酔っぱらって終電で眠りこけて、高尾駅からうちに電話してきて、両親を高尾までタクシーで迎えに来させたことがあった(これも妹は私には内緒にしていたが母から聞いた)。

(自分ひとりでタクシーで帰ってきて、運転手さんをうちに連れてきて親にお金を払ってもらえばいいのに、なぜわざわざ両親を高尾までタクシーで迎えに行かせるのかわからない。私だったら、そんなお金がもったいないことをするのは耐えられないので、駅員さんに頭を下げて始発まで駅のどこかにいさせてもらうだろう。)

2003年から2010年くらいまで、妹は夫の転勤で海外(アジア)に行っていた。それまでは、私が我慢していたところは大いにあるが、妹とは普通に仲のよい姉妹だった。海外に行って2か月くらいの時には、妹から国際電話があり、いつものようにえんえん愚痴を聞かされた。

妹の帰国がまじかになった頃、母の具合が悪くなってきていたので、妹にメールをした。その時に、母に対して少しの思いやりもない返事がきたので愕然とした。

自分のことについて、「手が震える」とか「子どもの前でいつも、死にたい死にたいと言っている」というような信じられない言葉が書いてあった。今考えると、もしかしたらそれもアルコールの離脱症状なのかもしれないと思う。

海外に行く前は母や私に対する恨み言など言っていなかったのだから、海外暮らしのストレスがきっかけで何か変化があったのだろう、と思うのだが。

アルコール依存症の特徴である「否認」「被害妄想」「振戦」などぴったり妹にあてはまる。まさに病的だ。妹が海外から帰国した時、セラピストに通っていたらしいが、妹は酒を飲んでいることを隠してセラピーを受けていると思う。

冷静に考えて、妹が「自分の不幸が姉(私)のせいだ」というような態度をとっても、そんな理不尽な言動にいちいち耳を傾ける必要はない。本当に関係ないのだ。

・・・

今、私が考えていることは、自分のやるべき仕事に、誰にも邪魔されずに集中したいということだけだ。

鬱になりかかったのも、ここしばらく仕事に集中できていないからだし、父に対する水に流せない恨みも、私の二十歳代の、一番体力も充実して仕事に打ち込みたかった時を父のギャンブルの借金返済のために滅茶苦茶にされ、そのことを父が少しも悪いと思っていなかったからだ。

今は余計なつまらないことで時間を無駄にしたくない、と心底思う。

それと、ずっと私を支え続けてくれる親友のうちのひとりの「あなたは表現者になるしかない運命なんだ」という言葉を思い出していた。

「表現者になる」ということはどういうことか、もちろんはっきりとわかっているわけではない。「運命」というものが絶対だと信じているわけでもない。

ただ、私はこの言葉を、「どんな過酷な運命にたたきのめされても、それでもなにかを表現する行為しか私には残らない」というふうに読み返している。

それは「反時代的」な考え方かもしれないが、表現が鏡面反射のようにそれ自体で自動的に増幅していくのではなく、引き留める傷、その痕跡の奥に、たしかに苦悩し格闘した生があったと感じとらせてくれるものしか、「表現されたもの」としての価値を認めたくはない。このパラドックスが、私と、私の親友たちがともに持っている価値感だと思う。

この理屈で言えば、私自身が心身ともに潰されない限り、不幸は私のハンディにならない。

1月25日

母の施設に行く。

松の内が開けた頃が母の誕生日だったのだが、ちょうどインフルエンザの人が出たということで面会に来ないでほしいとの連絡があり、その日に行けなくて残念だった。

母には父が死んだことを言っていない。

今、母の頭の中には最初に出会った頃の、母曰く「きれいで優しい」父のイメージがあるのが救いだ。

帰りに中野ブロードウエイで古本を買う。いつも60年代~70年代のまんがを買うのだが、この日は探している本がなかった。妹のアルコール依存症が気になっているので、吾妻ひでおの『アル中病棟』と『うつうつひでお日記』を買った。

上村一夫の遺作で大好きな作品『一葉裏日誌』の文庫版があったので買おうとしたが、(廊下の本棚の奥のほうでとりだせなくなっているが)単行本は持っているので、(ものが増えるので)買うのをやめた。後で調べたら、実の娘さんの解説などが興味深そうでやはり買えばよかった。

それから天婦羅屋さんで食事。昭和な感じの飾らないお店で、話したことはないけれど私はここの白髪の店主さん(おじい様)が好きだ。

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ここの天婦羅屋さんのつゆには生姜のすりおろしが少々入っているだけで、大根おろしがはいっていない。私は天婦羅には大根おろしがたっぷりほしいので、必ず「しらすおろし」をたのんで、それでビールを飲みながら天婦羅があがってくるのを待つのが最高です。

下は大好きなめごちの天婦羅(2、3尾で380円!)。淡白ですごくおいしい。

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