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2015年10月

2015年10月29日 (木)

味戸ケイコ個展―あわいのひかり―

10月26日

味戸ケイコさんの個展ーあわいのひかりーを見に銀座のスパンアートギャラリーへ。

(2015年10月26日~11月7日 最終日は17:00まで 日曜休廊)

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久しぶりにお目にかかれて、たいへん嬉しかった。

味戸ケイコさんと、「桜のアリス」と「薔薇のアリス」の絵とともに。

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「桜のアリス」は着物姿のアリスが兎や栗鼠やティーカップやトランプカードを桜と一緒に抱きかかえている。

「薔薇のアリス」は猫や鳥や王冠をかぶった芋虫やキノコを薔薇と一緒に抱きかかえていて蜥蜴が逃げ出している。

会場風景。

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ほかにも暗闇の中、蝶が溢れて光る草原に佇む少女、

浜辺の水際で跳ねる少女――まわりは薄暗く浜に映った少女の影の部分が光になっている、

人気のないサーカスの旗やテントの前で風に吹かれている少女、

夜の庭の透き通る野薔薇の中にいる少女、

暗くなって見えなくなる寸前の夕焼けの雲の下の少女など、

無口で淋しげな少女と、ゆっくりと動き息づいている「あわいの光」を描いた作品が並ぶ。

味戸ケイコさんの描く少女は、皆が集まる賑やかなところには入っていかず、ひとりでぽつんと淋しい場所にいる。

そこは静かで孤独なのだが、そっと虫や植物が寄り添い、温度や湿度を変える風や、心地よい闇や、移ろいやすい光で満ちていて、決して空虚な場所ではない。

そこに蠢いているものは微細でおとなしいものだが、生命の強度を持って語りかけてくる。

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たいへん迷ったが、少女がじっとこちらを見つめている絵を購入した。

子どもだった頃からずっと心の中にいる少女が、私の部屋にいて、私が絵を描くのを見ていてくれるように。

・・・

私の着ていた黒のベルベットの服を見て、味戸さんに「自分で作ったの?」と訊かれた。すべて高円寺の古着屋でごく安く買ったもの(マーガレット・ハウレル、アン・テイラー、シビラなど)だが、「最近はこういうのないから。ベルベットでしょ。なつかしいわ。」と言われた。

毎年、秋が深くなると黒いベルベットがたまらなく着たくなる。これも幼い頃から私が憑りつかれている憧れだ。今よくあるポリエステルの「ベロア」と呼ばれているものとは違う、伸縮しない生地で、深い漆黒の艶のある昔風のベルベット。

味戸ケイコさんが鉛筆だけを気が遠くなるほど重ねて描く、深い、懐かしい闇もベルベットに似ている。

味戸ケイコさんの故郷の函館の海について以前書かれた文章が素晴らしかったという話から、「私は西新宿で生まれたので、街はすっかり変わってしまいました。」と言ったら、味戸さんも一時期、新宿に――私の強烈な憧れであった1960年代初期の新宿に住んでおられたと聞いて興奮した。

1966年まで曙橋近くに住み、そこから多摩美に通っていたという。

寺山修司の映画に出てくるような、本物の「ろくろっ首」の見世物を、当時の花園神社の縁日でやっていたと聞いてびっくり。

赤テント、黒テント、天井桟敷の芝居小屋、ごちゃごちゃした出店や、まだ草ぼうぼうのところも多くあった新宿。味戸さんはその頃流行っていたジャズ喫茶にも通っていたそうだ。

・・

私が子どもの時の味戸ケイコさんの絵との出合いは衝撃だった。

非常に内向的な子であった私の心の奥に、そのまま重なる世界。

他の人にはなかなか理解されることのない、言葉では説明できないもどかしいもの。

だが自分がいつも夢中で見ているものを、ちゃんと見ていて、絵にしてくれている人がいるということ。

夕焼けの雲がどんどん翳っていき、最後の暗い鼠色の帯になって見えなくなるまで、たえず変化し、ぎらぎらしたり、澱んだり、ぼおっと柔らかく放射する、濃いグレーからまばゆい銀色までの雲のかたちを、漫然と眺めるのではなく、細部までも一瞬一瞬の絵として見つめている人がいること。

『あのこが見える』はわたしにとって忘れがたい絵本である。

やなせたかし責任編集の『詩とメルヘン』で、安房直子さんの文章に味戸ケイコさんが描いていた絵も強烈に心に残っている。

今頃の季節には、味戸ケイコさんの描いた独特なコスモスと澄んだ冷たい空気の感触がよみがえる。

コスモスの葉のような文字のはがき。この(コスモスたちが書いた)手書き文字の絵が、2005年に刊行された単行本『夢の果て』には載らなかったのがすごく残念だ。(『詩とメルヘン』1974年12月号「秋の風鈴」より)

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下の絵は、風鈴のほかは何もない貧乏な絵描きの部屋で、よく見ると床の上の暗がりの中に硬質なパレットと一本の筆が置いてあるのがすごいのです。そのパレットについた絵の具は、闇の中でぎらぎらと光っているのです。

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下の、コスモスが一斉に咲いた朝の絵も『夢の果て』の単行本には掲載されていなくて悲しかった。
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こちらも私の大好きな絵。小学館文庫の楳図かずお『おろち4 秀才』のカヴァー(1977年)。

「秀才」と併録されている「眼」の内容からのイメージだろうが、暗い工場を背景に突っ伏した少女の背にぼおっと咲くコスモス。(ちなみに私は楳図かずおの『おろち』シリーズが大好きなのだが、その中でも「秀才」「眼」は特に好きな作品だ。)

黒々とした工場を映す水の反射と、光を発するコスモスと、ていねいに描かれた髪の毛の対比がぞくっとするほどかっこいい。

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2015年10月27日 (火)

四谷シモン「シモンドール」展

10月24日

四谷シモン「シモンドール」展を見に、恵比寿のLIBRAIRIE6/シス書店へ。

恵比寿西口の坂を登る。坂の途中の、去年、沢渡朔さんの「少女アリス」展を見た素晴らしく魅力的な古い建物(ルソレイユ)が破壊されて無くなっているのを見てすごくショック。

下は2014年10月10日の懐かしいルソレイユの建物。

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少し迷って、LIBRAIRIE6/シス書店にたどり着き、奥の部屋に飾られている小物に見覚えがあり、ここがルソレイユの3階の、沢渡朔さんの個展会場の隣にあったギャラリーだと気づいた。

古くて不思議な雰囲気のあるもの、自分の感覚を揺さぶるものがどんどん無くなっていく。自分が何に惹かれるのか、それを確かめたくて、何年ぶりかに四谷シモンの人形を見に来てみた。

私が少女だった頃、原宿駅の構内に貼ってあったエコール・ド・シモンのポスターを見るたび、強烈な憧れに胸が締め付けられた。

あれから随分時が経ち、日本では球体関節人形が独自の発展を遂げ、表現としての人形制作もそんなに珍しいものではなくなった。「ゴスロリ」が流行るとともに、球体関節人形も安易でよく見るようなファッションになってしまった。

四谷シモンは1960年代に雑誌「新婦人」に澁澤龍彦が書いたハンス・ベルメールについての紹介記事に触発され、球体関節人形の制作を始めたという。そして日本における球体関節人形作家の先駆けとなった。

その澁澤龍彦の言葉に促されて、1973年、四谷シモンは「未来と過去のイヴ」という人形をつくる。発表時、青木画廊のオーナーは、警察に摘発されることをおそれて個展開催をためらったという。

「未来と過去のイヴ」はきつい化粧でガーターベルトをした娼婦のような裸体の人形で、今なら考えられないことだが、それが警察に摘発されるかもしれないとおそれなければならない時代だった。

澁澤龍彦は「未来と過去のイヴ」発表時のパンフレットに「お行儀のよい芸術という概念から、少しばかり外れたような邪道の芸術作品」「胡散くさくて、贋物めいていて、バロック的なところのある芸術作品」「これにエロティシズムの要素が加われば、もう言うことなしである」と書いている。

ところが今はどうだろう。「芸術という概念」は無意味で、「邪道」と呼べるような道は無く、どこを歩いてもいいのならそもそも道などないようなもので、そうなると、当然、どこにも踏み越えることが輝かしい侵犯となるような「エロティシズム」のタブーもない。

世に溢れるものは、球体関節人形にとどまらず、「贋物めいている」どころではないし、「美しさ」も「謎」も「異端」も「エロティック」も生存できる余地がない。

・・

扉をはいってすぐ右側にいた少女の人形。今回の展示ではこの子の顔が一番好きだ。

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奥にいた少女の人形。アンティークの白い木綿レースのドレスがきれいだった。

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奥の角にいた大きな袖のドレスの人形。この人形の顔は金子國義の絵のように眉をそびやかし、赤い口をしているが、ことさらに挑発的ではない。

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部屋の真ん中にいる質感の違う人形。(奥の部屋に座っていらっしゃるのは四谷シモンさん。)

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この、眼の下が黒く見えるざらついた顔の人形は、明るいギャラリ―ではなく、人気のない暗い廃屋の中ではまったく違う艶やかさを見せるだろう。

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いろいろなかたちの手がガラスケースの中に展示されていた。私はこの、一番白くて、手首そのものが俯せに倒れている人形のように見える一体が好きだった。

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手の対面にいた少年の人形。
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私がものに美しさを感じる要素に、「古拙」というものが重要なひとつであると感じた。

人がつくったもの、そのものに意図せずに加わっていく何か。

顔については、人でも、人形でも、紗がかかっているようで、遠くを見ているような二重の目。自分の記憶なのかさえわからない懐かしい記憶を呼び覚ましてくれるような「顔」。

人が描かれていない「絵」にも自分にとって「詩的」と感じる顔が確かにある。「象徴なき象徴」であるともいえる「顔」。

・・・

四谷シモンは俳優としても活躍している。それについてはほとんど知らないが、テレビドラマ「男と女」で、ゲイの役を演じていたのが印象に残っている。

最後のほうで、恋人役の原田芳雄が、樋口可南子と暮らしている四谷シモンを訪ねて来る。原田芳雄が女性的な絡みつくような口調で「あの女が好きになったの?」と訊くと、四谷シモンは吐き捨てるように「いやだよ、あんなきたない女。」とこたえて、ふたりは抱き合う。

ドアの内でそれを聞いていた樋口可南子は傷つき、呆然としたように、いつもの精神療法のための箱庭をかまう。覆された箱庭の下からは大量の薬の錠剤が出てきて、ドラマが終わる。(・・・いいドラマだった・・・。)

60年代の沢渡朔さんの写真のなかの四谷シモンもひときわ印象的だ。

四谷シモンは、ハーフのような雰囲気のモデル(沢渡さんの昔の奥さん)と一緒に撮られている。「不思議の国のアリス」に出てくるウサギが持っている大きな懐中時計をぶら下げていたり、浜辺の煤けた木の舟の中でアンティークなタイプライターを打っていたり、黒い山高帽子を手に陽気に踊っていたりする。

・・・

ギャラリーを出ると4時。まだ暗くなる前で良い風が吹いていた。

恵比寿の裏道を歩いた。意外にもビルの谷間に蔦の絡まる古い家を発見。

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下の家は、また別の御宅。十数年前までは西新宿の青梅街道の近くに、こういう蔦の絡まる古いアパートがたくさんあったのが懐かしい。

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アメリカ橋を渡って、広尾までてくてく歩いた。

いかにも都会の、ハイセンスな店が連なる。途中、「タカチホ化学」という強烈にインパクトのある建物を発見。周りのおしゃれな店と馴染まない我が道を行く感じがすごく素敵。

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錆びた鉄の交錯の奥の暗がり。侵入者を遮るたくさんの針。

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私にとってこれが魅力的に見えるのは、これが人に見せるためにつくられたものではないからだ。
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2015年10月20日 (火)

大野慶人「花と鳥 舞踏という生き方」 / 野毛

10月18日

「大野一雄フェスティバル2015『生活とダンス』」のなかの、大野慶人ダンス公演「花と鳥 舞踏という生き方」を見に、横浜のBankART Studio NYK へ。

すぐ裏に海を見渡すこの会場は、大野一雄先生が亡くなった時に、追悼の展示があった場所、大野慶人さんが黒いスーツを着た大野一雄先生の姿の指人形の踊りを演じるのを私が最後に見た場所だ。

3階のフロアに大野一雄先生にまつわる展示があり、その中に、今年6月19日に急逝された室伏鴻さんの写真と映像があった。

下の右側が室伏鴻さんの舞踏の写真。左は中西夏之の絵。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

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下は舞踏の映像。室伏鴻ソロ作品「quick silver」の完全上映。

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大野一雄舞踏研究所で行われた大野先生のレクチャーを、映像とイヤホンからの音声で体験できるコーナーもあった。

下の画像、正面にあるのは、大野一雄先生がいつも座っておられたお気に入りの椅子。

これは妻有の河川敷で中川幸夫先生と「天空散華」を公演された時にも大野一雄先生が座っていた、

その踊りのあとも光と小雨に濡れ、赤や黄のチューリップの花びらにまみれて、暫し河原に置いてあった、白い塗りが剥落して緑色の下塗りが絵画のように出ている、素晴らしく美しい椅子だ。

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大野一雄舞踏研究所の模型と、その向こうに研究所の写真、それと研究所で実際に使われていた窓。
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開演を待っていたら、受付に笠井叡、久子夫妻があらわれる。

笠井久子さんとは、笠井叡、麿赤兒公演『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』にご招待いただいて以来、久しぶりにお会いできたので、すごく嬉しかった。しばしお話しする。

・・・

2時少し過ぎに開演。一番前のほぼ真ん中の座布団の席をとった。

演目は、まず「鳥」、そして土方巽が大野慶人さんのために振付けた三部作、土方巽三章(「死海」より)。クラウス・シュルツェの宇宙の暗黒に広がっていくような機械音にのせて、とても懐かしい踊りを見た。

・・・

衣装替えの幕間に、大野慶人さんが出演された映画「へそと原爆」(1960年、細江英公監督・脚本・撮影)が上映された。

この映画は、たった14分であるが、私には恐ろしく長く、筆舌に尽くしがたいストレスだった。

鶏を傷つけて、その鶏が海に逃げ込んで苦しみ悶え、死にゆくさまをえんえんと撮っている。

「舞踏」の起点に「燔祭」があったとしても、その映像に、なにかの「生贄」とか「供物」といった意味合いは読みとれないし、読みとる気にもならない。

あるいは、敗戦後まだ15年しか経っておらず、人や動物たちが大量に死んだ記憶も生々しいその時代に、たとえ一羽の鶏の命の重さなど感じられようもないとしてもだ、食うためでさえなく、映像作品として仕上げられる表現のために、それを殺すのは、私には受け入れられない。

それはメタファ―でもなんでもない、たんなる残虐行為だ。私はこの映画に限らず芸術家と呼ばれる(あるいは呼ばれたがる)者によくありがちな、そうした驕りを許せないと思っている。

映画の冒頭、土方巽の腕など身体の一部が映し出されるが、運動する人の足もとに、ふわっと白い鳥の羽根が飛んで来た時点で、ものすごく嫌な予感がしたので、そこからはできるだけ画面を見ないように下を向いていた。

細江英公の、土方巽や大野一雄を撮った多くの写真は、本当に素晴らしく魅了されるが、この映画には拒絶反応しか持てなかった。

・・・

私にとって吐き気と脂汗が出る地獄のストレスの14分の映画が終わり、

やがて耳をつんざくバッハの「トッカータとフーガ」のパイプオルガンの大音量とともに、山盛りの大振りな造花をのせた帽子、黒いドレスに白い綿レースのマント、ハイヒールのディヴィーヌ登場。

思いっきり艶やかに、たっぷりと。

すぐ近くの床から、私はライトに照らされるディヴィーヌの顔を見上げていた。

斜め上を切なく見上げ、失われたものを見つめるように小首を傾げるディヴィーヌ、慶人さんの眼と鼻の線は一雄先生そっくりだった。

時がねじれて空気が震えながら回転しているようだった。

ディヴィーヌが舞台の上のレースマントに顔を埋めるように倒れて、暗転のあと、今度は金色のアールデコ風のレースのドレスで登場。

そして「浜辺のうた」に合わせて、夢見る少女のように、時折スキップして踊る大野慶人。

「あした浜辺をさまよえば 昔のことぞしのばるる・・・」

長い長いピアノの間奏、もう涙がこぼれて止まらなかった。

盛大な拍手のあと、アンコールで華やかなタンゴ。

この曲は1998年の「世紀末からの跳躍 天道地動 土方巽とともに」(世田谷パブリックシアター)のとき、笠井叡さんと元藤燁子さんが踊ったタンゴの曲だ!

もしかしたら違う曲なのかもしれない(私はその曲名を知らない)が、私には、あのときの背筋を反らせ眉をそびやかしてリードする稀代の伊達男のような笠井叡と、嬉し恥ずかしそうに頬を上気させる長いドレスの元藤燁子のタンゴの踊りが鮮やかに見えたのだから。

もしかしたらあれは幻だったのかもしれない。舞踏とは、なんと胸に残る幻なのだろう。

大野一雄先生の踊りを夢中に見ていた頃のこと、あの時の緊張と興奮と胸が苦しくなるような痛み・・・、種村季弘先生もまだお元気で、あのシンポジウムの日、私は種村先生に赤いカンガルーポーの花束を渡した。いろいろと目をかけてくださったこと・・・、時が確実に過ぎていることがつきつけられて、どうしようもなく哀しかった。

それと同時に、大野慶人さんの中に大野一雄先生が生きているのを見て、なんとも言えない感動があった。

二度目のアンコールでは、慶人さんが演じる黒いスーツ姿の大野一雄先生の指人形が、「愛さずにはいられない」を踊った。

この曲は私の初個展のときに(私には予想だにできなかったことだが)、大野一雄先生が来場されて持参のカセットテープをかけて踊ってくださった曲で、私にとってはとても堪らない涙、涙の思い出の曲である。

大野一雄先生、そして種村季弘先生・・・、中川幸夫先生や若林奮先生も亡くなり、私の絵の直接の恩師、毛利武彦先生も亡くなった。私も母の介護などで身辺が慌ただしくなり、昔のようにいろんな舞台や展覧会に行くことも、本当に少なくなった。

私にとって心から尊敬し、愛する人たちが亡くなるたびに、私の身体は激しい損傷を受け、そこからうまく回復できなかった。

それとともに時代が急速に変わり、私の傷ついた身体が浅く軽く平準化された「言葉」に覆われていくことに、どう折り合いをつけたらいいのかわからなかったのだ。

偉大な師たちが私に残してくれたものをもって、私がこれからどう生きていけばよいのか、それを突きつけられるようで、たまらなく苦しかった。

舞台にいるときだけが「舞踏」なのではない。大野慶人さんは「舞踏という生き方」を生きている。

私も「絵描き」とは「生き方」なのだと思うし、そうありたい。

・・・

舞台が終わってから、見覚えのある大野先生のスタッフのかたと少しお話しした。そのスタッフのかたはきっと覚えていないだろうが、2003年の銀座エルメスギャラリーでの中川幸夫先生の展覧会に、大野一雄先生が車椅子で来られたときにお話しして以来なので、実に12年ぶりだ。

そのかたは長年、大野一雄先生の介護をされたかただが、今も大野先生宅の近くに住んで、ご本人も舞踏を続けていると聞いてじーんとした。

一階のカフェに大野慶人さんが降りて来たところで、一緒に記念撮影をしていただいた。

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ちなみに、下が1998年「土方巽とともに 天道地道」の公演後に一緒に撮っていただいた写真。大野慶人さんと。
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大野一雄先生と。
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いつも優しい笑顔で握手してくださった大野一雄先生。
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下は「土方巽とともに」最終日、出演者アンコールの華やかな踊りのあと、クロージングパーティーの時の笠井叡さんと。

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・・・

大野慶人さんの舞台を見た後、かつて大野一雄先生が細江英公さんに撮影された(この写真は本当に素晴らしかった)場所、根岸競馬場跡の建物を見たくて根岸に行った。

根岸の駅からはすごく美しい工場が見えた。

工場の反対側の小学校の横の山道を、落ちて行く夕陽の速度と競争して走って登ったら心臓が破れそうだった。

米軍施設横に森林公園があり、その入り口から競馬場の廃屋の3つの塔が見えた。もう暗くなりかけていたので、その方角だけを確認して、きょうは撮影を諦めてバスで日ノ出町へ向かった。

種村季弘先生の『徘徊老人の夏』のカヴァーに使われた写真の場所、「都橋商店街」に行きたかったのだ。

下が種村季弘『徘徊老人の夏』(1997年、筑摩書房)のカヴァー。1964年の東京オリンピックのときに建てられたという、なめらかなカーヴもモダンな、怪しげなちっちゃな飲み屋がびっしり詰まった建物は、種村先生の好きそうな場所そのものだ。

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下が本日撮った都橋商店街。18年経って、お店の名前はほとんど変わってしまっていた。

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と思いきや、なんと種村先生のカヴァーで目立っている「バラエティショップ 北欧」の文字が、今は「かりゆし」になった店の赤いビニールの庇にうっすら残っていた!

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「MIYAKO BASHI 都橋商店街」というアーチ看板は無くなっていたけれど、ビルには文字がついていた。
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その後、野毛をうろつく。立ち飲みの店がたくさんあるが、若い人で賑わっていた。

「もみぢ」というとっても素敵な御菓子司(おんかしつかさ)を発見。Sdsc07269
その隣の二階の「サンドイッチ アイスクリーム 珈琲」という文字のある木枠の窓も素敵。

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「旧バラ荘」「元バラ荘」と書いてある不思議なかたちの建物。
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「野毛大仮装 世界発!野毛発!ハシゴ酒ハロウィン」と書いたポスターが貼ってある。

朝から何も食べていなかったが空腹を感じず、夢中でたくさんのものを見た一日だった。

帰りに種村先生がよくやってらしたように、駅の売店で缶ビールを買ってホームで飲もうと思っていたのに、みなとみらい線の駅の売店が閉まっていたので残念だった。

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2015年10月13日 (火)

剱崎

10月12日

気温24度。風の澄んだ日。友達と海を見に行く。

京急で剱崎へ。

ちゃびにゆっくり薬とごはんをあげてから家を昼前に出たが、2時ごろには岬のバス停に着いた。

前方に小さく見える灯台を目指して歩く。覆いをかけてある大根畑が続く道。ものすごく風が強くて日傘ごと全身が吹き飛ばされそう。

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女郎蜘蛛と灯台。灯台の周りにはアザミやハマウドの花が咲いていた。海を見渡すフェンスにはイケマ(ガガイモ)の実が生っていた。
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灯台の鏡のような金属の扉が美しかったので記念に撮ってもらうが、風が強くて泣いているような顔になる。
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灯台から海へ。
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ススキに覆われた絶景の道を降りる。途中、薄紫の可憐なハマシャジンが咲いていた。

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浜の近くには朱色のハマカンゾウと紫のクサフジが咲いていた。Sdsc07206

「剱崎」の名の由来は、昔、船が沖で難破した時に、三浦の総鎮守である海南神社の神主が岬から剱を海に投じて竜神の怒りをしずめた、という伝説だそうだ。「つるぎさき」だと思っていたが、地元の人は「けんざき」と呼んでいた。

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強い風に削られて彫刻のようになった自然の造形。ミルフィーユのように薄く重なった地層の筋に見とれる。
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とにかく強風で顔が痛いくらい。
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暑くはないけれど陽がまぶしい。

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カモメと。
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砂色の岩礁の合間にできた群青色の潮溜まりがいろいろな絵を見せてくれる。
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丘を登って帰る道、鮮やかな薄紫の野菊が咲いていた。野原に咲いているヨメナやノコンギクとは違い、花弁も葉もぽってりと厚みが合って丸い。茎も太くて頑丈そうで強い風にも耐えている野菊。
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バス停の前の庚申塚にハルジョオンが挿してあった。。このような庚申塔は都会ではほとんど見られない。
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白山神社というバス停でバスを降りて三浦海岸の浜で貝殻を拾った。

こちらは風も強くない穏やかな砂浜。拾った貝は雲母のように光るナミマガシワ。それと赤いウミギク、イタヤガイ、アズマニシキ。
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遺棄されたボートの中にびっしりとオシロイバナ(白粉花)が咲いていた。

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錆びたトタンの小屋の周りにはススキとツキミソウ。10月の海は静かだった。

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2015年10月 6日 (火)

浅田真央復活

10月6日

2015年10月3日、浅田真央、満を持して完全復活の「蝶々夫人」。

この人の身体能力はどうなっているのだろう。多くのアスリートがピークを終える頃に、さらに豊かになって戻って来て、以前よりもジャンプが楽に飛べているというのはいったいどういうことなのだろう。

浅田真央がこのまま引退してしまったら本当にさびしい、しかし戻ってきても身体が前のようにはならず、さらに苦労するのだろう、そう考えて暗い気持ちになっていた時には想像だにできなかった、500日の休養など嘘のような堂々たる競技復活。

この身体は何?と狐につままれたような気持ちだった。ただただ、常識では計り知れない特別な能力を持った人としか言いようがない。

また浅田真央の競技を見ることができるなんて夢のようだ。

美しく風格のある演技。しなやか、優雅ささも以前のまま。張りつめた切望の表情もよかった。衣装もあっていた。

しかし、個人的には、いつもながら、やはりローリー・ニコルの振付にあまり興味が持てない。浅田真央の新たな面を引き出し、表現力を最高に生かす振付とは思えない。

もはや19歳で「鐘」を、23歳で「ピアノコンチェルト」(ともにラフマニノフ作曲)を演じてしまった浅田真央が25歳で演じる「蝶々夫人」は、ほかの誰にもできないような、見る人の度肝を抜くような斬新な振付であってほしい。

タラソワなら、愛する人を信じて待ち続け悲劇に至る女性の苦悶をどう振り付けただろうか。

ソトニコワの演じる「灰色の途(病の果てに)」は対照的な振付だった。曲の始まりから肩を大きく回して大きなため息をつくような仕草で、見るものを揺さぶってきた。

「私は病気、病気よ・・・私は生きていたくない、あなたがいなくなって、私はほんとにもうだめ・・・私は血をあなたの体へ注ぐ・・・」と嘆き歌う声にのせて、ソトニコワの身体は激しく訴え続けた。

ソトニコワの演技は、ひとつひとつの独特のポーズと表情が、さらっと流れてしまわずに、くっきりと、強く「訴える」。だからとてもソリッドに見える。

独特な肩と首の使いかた、首を上下にたっぷりと振ったり、胸を張り背中の肩甲骨を寄せるポーズで張りつめた激しさを出す、腕を真っ直ぐに伸ばして手首をひねったり、指に力を入れてぱっと伸ばしたりして、表現に強度をつけていくのがとてもうまい。

ソトニコワは踊りたくてたまらないのだ、内側から激しく迸るものがあるのだ、と見える。

浅田真央はせっかく特異な身体能力を持っているのだから、もっと個性的な、非凡な演出で見せてほしい、彼女ならもっとすごいものができるのに、と思う。

かつての浅田真央の「仮面舞踏会」と「シュニトケのタンゴ」の映像を見返してみた。

「ロマノフ王朝の最期」のシュニトケのタンゴも、毒殺されて苦しみあがく「仮面舞踏会」も、豪奢と頽廃と、滅亡の前の煌めき、死に至る前の悶絶、けばけばしいまでの重厚さと荘厳を、初々しく可憐な浅田真央に負わせたタラソワは本当に凄かった。

「シュニトケのタンゴ」は浅田真央がジャンプで苦しんでいた時のプログラムだったが、哀愁と激しさを併せ持つ振付は本当に素晴らしかった。

暗さ、残酷さ、悲劇の運命とそれに抗う生命の煌めき。

タラソワの振付には響きあう色と複雑なディテイルを持つ濃い絵が見える。曲の音を消して演技だけを見ても、身体が音を奏でている。

ローリー・ニコルの振付はいつも、ありがちな解釈からの「隔絶」がなく、「対比」や「陰影」が淡く、「独特」や「非凡」があまり感じられない。

個人的には、フィギュアスケートにおいて「かわいい」「きれい」「明るい」「楽しい」を目指した振付にはこれまで興味が持てたことがない。冷たく透き通った氷上で行われていることが信じがたいような、強烈にパッショネイトなものが見たいと思う。

その人にたいする既存の一般的な(セルフイメージもそこにおもねる)イメージを覆す意外性のある振付、予定調和でないプログラムによる「変容」「変身」だけが、演ずるものと見るものの魂をともに震わせる。

普段はかわいくて屈託のない浅田真央だからこそ、暗黒から這い出て来たような鬼や魔物になった恐ろしく獰猛な彼女を見てみたいのだ。

タラソワはもう浅田真央に振りつけてくれないのだろうか?

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2015年10月 2日 (金)

9月の終わり、近所の探検

9月26日

写真家の高橋亜希ちゃんが函館から上京して久しぶりに会う。

曇りで24度。歩くにはちょうどいい日だった。

いつも私が散歩している、なんでもない町の中に隠れているちょっとしたお気に入りの場所を案内して一緒に歩く。

亜希ちゃんと初めて会ったのは、もう10年くらいも前だ。真冬の寒い日、高円寺駅前の八百屋の、ほんとに狭い裏道で声をかけられた。

私は黒いだぶだぶの不恰好な裏フリースカーゴパンツをはいていた。北風に耳が切れるように痛かったのを覚えている。

亜希ちゃんは大きくて重そうな中型カメラと露出計を持って撮影していた。

ちゃんと露出を計って、中型カメラで撮って自分で現像するなんて、本当にすごいなあと感心した。

あれから、カメラ事情はここ10年で恐ろしく変わってしまった。今は35ミリフィルムを売っているところは少ないし、まして自分で現像している人はとても少ないだろう。

亜希ちゃんも最近は現像していないそうだ。しかし35ミリフィルムの古いエスピオ(以前、沢渡朔さんに私が撮っていただいた時に沢渡さんが使っていたカメラ。シャッタースピードが速い)で撮っていた。

下は私のデジカメ(ミラーレス一眼)で亜希ちゃんに撮ってもらったもの。

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とても不思議なかたちの建物。

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町中、どこに行っても木犀が満開だった。特にお寺にはたくさんの木犀の樹が植えてあるようだ。

お寺の裏の細い道に、草ぼうぼうのところがあって、大きな女郎蜘蛛が三匹、華麗な巣をつくっていた。亜希ちゃんに「虫、怖くないんですか?」ときかれた。相当危険なのでないかぎり、怖くない。マクロレンズで撮るのが大好きだ。

(日本にひとつしかない)「気象神社」の裏の大きな銀杏の樹の黄土色の実が、まだ季節は早いのに下にびっしり落ちて、道の隅に掃き集められて山になっていた。まだ葉は青々としているのに、ここ何日かの寒さでやられたのかもしれない。

あの建物の入り口はどこにあるのかしら、と、ひとつの建物の周りの小道を歩き廻ってみる。子供の頃から同じ仕草で。

なんでもない道の一番隅っこにあるものに気づく。行き先が見えない細い小道の薄暗い闇に入っていく時のどきどきする気持ち。

カメラひとつ持っての小さな探検。

9月23日

世間ではシルバーウィーク。

風と光が透明で、旅行には最高の季節なのだが、私が長く家を空けるとちゃびが淋しがるので遠出をする気になれない。

秋になって、ちゃびがやたら膝に乗ってくるようになった。下は仰向けに寝ている私の上のちゃび。

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最近になって私は、過去の素描の見返しと整理をしている。これがなかなかたいへんで、終わらない。

それと画材の研究。

自分が強烈に惹かれる絵と惹かれない絵との決定的な違いとはなにか。

過去の偉大な画家たちが、何を見、何に惹かれ、何に憑りつかれていたのか考えること。

・・・

夕方、ふらりと近所の裏通りを散歩。

ごちゃごちゃっとしたたくさんの植木に囲まれた古い建物が好きだ。この家に沿ってあるダチュラ(チョウセンアサガオ)の花には白いのと、肌色っぽいのがある。

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植木が好きでどんどん増えてしまったのだな、道行く人にたくさんの植物を見せてくれる人、たくさんの草木の世話をしてくれている人は本当にありがたいな、と思う。

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ぬいぐるみのようなわんこ。

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おもちゃ箱そのままのジャンクのお店。

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9月21日

母の施設の敬老会。行事食(ちょっと豪華な食事)なので、昼食の介助に行く。

きれいな箸袋にきれいな盛り付け。おかずもいろいろ高級だった(ムース状だが)。

それなのに、食事を始めるとウトウトしだし、なかなか起きてくれなかったので、食事介助がとても大変だった。

途中で自動販売機の冷たい缶コーヒーを買ってきて、少しおでこにあててみたが、目が開かない。

なんとかおかずだけは完食。せっかくの松茸ご飯なのに、ごはんは残した。

結局2時間、ほかの全員が食器を片づけて行事会場に移動したあとも、居残って、がんばって介助したが、だめだった。いつもは1時間弱で完食させるので残念だった。

1時半に一階の会場に移動。式とクラリネット演奏の余興があった。奏者は76歳だそうだ。

ジャズアレンジのしゃれた曲をやっても、ほとんどの人が眠ってしまう。「私はデキシー(Dixie)の出じゃないんですよ」なんて言っていたが、誰にも通じない。

いつも思うことだが、皆が覚えている昔の昭和歌謡のヒット曲をやって、全員で歌えるようにすればいいのに、と思う。母のの昔の記憶に訴える曲目(「りんごの歌」「青い山脈」など)を希望する。

なぜか一階に移動してからは、母は起きていた。今度傾眠が強い時は、車椅子で移動させてみよう。

・・・

そのあと、中野で友だちと古いおもちゃや古本を熱心に見て歩いた。

この日、私の古い記憶のなかに強烈に刻まれていて、何十年も捜していた、幼い頃に読んでいた本が偶然見つかったのでびっくり。

ネットにも一切情報が出てこなかった、だからほとんど私のほかにはこの本にこだわっている人がいない古いまんがの本・・・。

作者の名前も初めて知った。「原やすお」という人。それともうひとつ、私が夢中になって読んでいた「青い鳥」の本(この本もずっと捜している)の絵を描いていた人の名前がやっとわかった。「早見利一」だ。これについては、後日書こうと思う。

町は透明な光と風の中、秋祭りの神輿が楽しそうだった。

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裏通りを散歩中、こんなところにキューピーがいるよ、と言ってるところ。

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9月17日

雨。

友だちはきょうまで3日連続で、夕方から国会議事堂前に安保法案反対のデモに行っている。

私も行きたいのだが、冷えたせいか、このところ、人生初めての足の神経痛に悩まされている。

治療院での診断によると、腰の神経から来るものだそうだ。腰も痛いが、足の内側の踝の下と親指にけっこう辛い痛みが走る。

世の中がどんどん恐ろしい方向に進んでいく。

どのような(たとえば絵画)表現をするにしても、それが自分にとって耐えがたいことに対しての抵抗となりうるようなものでありたいと思う。

闘い続けるために、何か勇気を与えてくれる言葉を求めて、ネットの記事を読み続けていた。

意識して眼の疲労に注意しているのだが、この日は息苦しくて長いことPCを見てしまった。

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