« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

2015年11月

2015年11月27日 (金)

若林奮展「飛葉と振動」 葉山 水沢勉館長トーク2回目(後半)

11月23日

若林奮展「飛葉と振動」を見に神奈川県立近代美術館葉山へ。

8月22日に水沢勉館長の若林奮についての一回目のトーク(前半)があり、本日はその後半を聞きに行く。

8月に来たときは、たいへん混んでいてバスがなかなか進まなかった。あの時は日射しが眩しすぎて、外の景色を見られないほどだったが、きょうは小雨まじりの曇り。

美術館前でバスを降り、すぐ前に、なぜかバナナの花が咲いて、青い実もなっている庭を発見。素敵なので撮影。

Sdsc07548

人気も少ない一色海岸に降りて、貝や流木を捜してみたが見つからなかった。

Sdsc07556

きょうの海は、乳白、薄荷、青磁、灰色、フォスフォライト(燐葉石)。
Sdsc07563

若林先生の展示、いくつかのドローイングの作品が展示替えになっていた。

・・・・

きょうの水沢勉館長のお話(聞き書きのメモより)。

若林奮(1936-2003)は9歳で終戦を迎え、50年代に青春だった。作品に戦争の影が強くある。

「多すぎるのか、少なすぎるのか?」(1970)

作品の上についたキズを船の航跡に見立てて、軍艦のような船を置いた。軍事的部品を連想させる作品群。不気味な想像をさせることが大事。

15歳でサンフランシスコ講和条約、日米、韓国との関係、50年から70年の安保闘争。国の政策に同調できないという意志が感じられる。

若林奮にとって彫刻とは、世界を発見する手立て、世界をよりよく体験する手段であり、若林奮は彫刻にすごく期待した。

彫刻が発動させてくれる世界。小さいほど世界全体がわかる。

「地表面の耐久性について」(1975)

重いものが地表面にしかない。平べったくて立ち上がらない彫刻は彫刻の歴史の中の禁じ手だった。

今までの彫刻では世界を知ることができないと若林は考えた。

(1930年代に生まれた彫刻家たちは立派な野外彫刻、モニュメントをつくった。それは高度経済成長のミッションだった。)

若林奮展の会場にはいって感じることは、若林奮は彫刻の量感を追求していないこと。

欠け落ちているものを取り入れようとしている。

「残り元素」(1965)

鉄を削ぎ落とすことは困難で、膨大なエネルギーを使っている。人間そのものの大事なものがこそげ落とされ、焼け落ちている恐ろしい感覚。

実体としてではなく、関係としての彫刻。

すべてのものが固定しない、揺らいでいる、振動、それを感じることが彫刻でどこまでできるか。

エジプト――永遠不変。王の威厳。モニュメンタル。

絶えず変化するものとしての鉄。

彫刻は変化しない石を欲しがるが、鉄が不安定だから選んだ。

変化の相に敏感になりながら見るべき。水の流れ、水に浮かんでいるもの、地中、ハエの息など彫刻と正反対のもの。

ハエから出ているか少女から出ているかわからない液体または気体。

1973年、36歳で鎌倉近代美術館新館を全部埋める大きな個展。あまりにも脚光を浴びて、このとき少し燃え尽きた。特に評価したのは柳原義達。

過去の作品を作り直したり、素材をリサイクルしたり、若林奮は素材を捨てることがなかった(ただし硫黄だけは産業廃棄物として、置いておくことができなかった)。いろんなものが繋がり、リメイクもされている。

どの段階で作品なのか、制作そのものも不安定。さらに版画、デッサンもある。

ドローイングは約9000点ある。

紙を圧縮した振動尺。制作の時間の層。直線的な流れの時間が複数ある。

制作態度がポリフォニック。

なにかをつくるように集約していくのではなく、ほどけた状態。

風景――世界にひろがっていくもの。彫刻がレファレンスとして関係性を持つ。暗黙のうちに呼び覚ます。

「大気中の緑に属するもの」

1984年ヴィエンナーレ。固定的な状態を持たない。2003年豊田市美。発展的にもう一度関係性を結びながらよみがえる。

「庭」――運命的に未完成。生成。天気、日々、刻々と変化。もっとも危うい不安定なもの。野外彫刻ではない。

風景を整えて美しい庭をつくるのではない。その中にはいると世界の見方が変わる。

庭も同時進行で制作していたもののひとつ。

セゾン高輪美術館軽井沢の庭・・・1980年代バブルの時。建物と庭が結びつくのを望んでいない。むしろまわりの広大な地形と結びつくため、斜面の角度が大事。

あえて下づらのところの厚さを見せて、それが置かれているように見えるための無垢の鉄。なぜ厚く重く、大地と一体化するか。

コンクリート1m流してある。地形そのもの、地下を含めて作品にはいっている。

美術館の建物とのアプローチに関して、セゾンとの軋轢。

階段があるが登ると警備員に注意される。周りの雄大な地形と関わりながら大地を感じるようにつくられている。

高原は霧が深く、鉄はすごい勢いで錆びる。鉄の不安定さが世界の構造とつながることを望んでいる。

地形そのものが彫刻を喚起する。地形を知るために彫刻をつくる。

歩いて行って体験する。

若林奮が木の枝一本を持って、「こんなものをつくる」と言ったことがある。道が植物の枝振りに似ていたのかもしれない。

若林奮は古典的な庭の研究も熱心だった。銀閣寺の岩が崩れた部分、通称「くずれ」が好きで、神慈秀明会の庭に、砂でつくるいくつかの三角、夕陽が当たる時光を感じる場所をつくろうとした。「100線」にも繰り返し出てくる、究極の「ヴァリーズ」のようなもの。

その計画が遂げられず、その場所が駐車場になり、「やる気がなくなった」と言っていた。

いくつかの石が置いてあるのは、関西から大阪城をつくるときに運ばなかった残念石を拾って持ってきた。

「緑の森の一角獣座」

ダイオキシンを出す日の出の森のゴミ処理場のトラスト運動として、若林さんもひと口地主となって庭的な作品をつくった。

バブルが終わり、誰もお金を出してくれなかった。名前はきれいだが、実際は緑はない。戦後の林野庁の失敗である杉林の立ち枯ればかりの荒廃した場所。

木の橋、石の椅子、石のテーブルがある。全部、森で見つけたものでつくってある。ボランティアが材料を持って、峠を登り下りして、何度も運ぶたいへんな労働でつくった。(水沢さんは44歳~48歳くらいに積極的に関わったが、体力的にきつかったそうだ。)

静かに座って、自然、世界を感じてほしい場所。

その頃の若林さんは「立ち上がること、起業が嫌だ。何かをするのは止めて静かに考えてほしい」と言っていた。

強制撤去の時、石ころひとつまで番号をつけられた。

「緑の森の一角獣座模型」(1996-1997)

まわりはゴミで銅版だけが残るイメージ、水没してしまうイメージなど、いくつもの未来のイメージをドローイングや模型にした。

その頃の若林さんはモンブランのダークブルーが好きだった。

囲いの銅板に、そこにあったはずの緑を描いた。巻いて保存されていた銅板、コイル状で銅線がまいてあり、そのまま展示できる状態だった。巻いてある状態は樹木そのままともいえる。

「カッパーペインティング」

溶剤で焼き付け塗装を解かしてしまった。

銅板にひとつひとつの樹の輪郭をなぞり、たがねで打った。失われたものへの追悼。

状況が変化したら、次のものへとつながることを考える。いろんなことがあり得る。ドローイング。可能性をさぐる不安的な意識。世界と複雑に複数で関わる。

霧島アートの森「4個の鉄に囲まれた優雅な樹々」

彫刻を拡大していって経済的なサポートを受けながら庭をつくるチャンス。2000年(緑の森が失われた時)につくりはじめる。森の中には入れない。四隅に無垢の鉄塊。結界。森を放置。鉄は錆びて無くなる。時間のものさし。

世界のモデル。動物、植物、世界との関係が模型としてある。鉄、造形されたものと樹と霧島の自然。思考が薄まらない。それを支えるのがデッサン、模型、ミイラのような自刻像(自刻像は、まだいくつもつくってあった)。

・・・

「何かを起こす、立ち上がる、ということが嫌だ。座って静かに考えてほしい」という若林先生の言葉が心に残った。

若林先生は「美術」というものを、「自然」とつながるものだと考えていた。

自分もその一部であるところの自然(自分の内部に見いだされる外部)と、そこから外へと広がっている自然に、揺れ動く距離を保ちながらもつながっているものをさして、若林先生は「美術の範疇にあるもの」「絵の範疇にあるもの」という言い方をしていたのだと思う。

講演が終わってから、水沢さんは、すぐに鎌倉館のほうのクロージングイヴェントに行かなければならない、とお忙しそうだったが、少しお話することができた。

Sdsc07570_2

バスを渚橋のあたりで降り、逗子海岸で拾い物。波打ち際で桜貝をたくさん見つけた。とても薄くてはかなくて、濡れた砂の上から取り上げようとすると割れてしまうものもある。

風も冷たくなってきた中、楽しくて夢中で時間を忘れ、何度もしゃがんだり立ったりして貝を拾っていたら、足が冷えて筋肉痛に・・・これがあとでたいへんなことになった。

友人Gが金色のナミマガシワを拾って、自慢げに私にプレゼントしてくれた。桃色のや白のナミマガシワはたくさん持っているが、金色のは初めてなので感激。
Sdsc07575_2

逗子駅近く、神社の横の道をはいる。この道が大好き。
Sdsc07581

8月に来たとき、かわいい看板三毛猫が前に座っていた「夢」という店。右側には野菜を売る市場。「おいしいトマトいかがですか」と言われる。
Sdsc07582

Sdsc07583

逗子銀座を端っこまで歩いた。「浜まで5分」という店があったので、本当に5分か夕闇の中を歩いた。10分以上はあった。逗子開成のまわり、ものすごいお屋敷がたくさんあるのでびっくり。

逗子銀座の端っこの店で生シラス海鮮丼(1200円)を食べた。

アクティーで座って帰路についたが、途中、信じられないことに太腿の外側が攣ってしまった。余りの痛さに、なんとか体勢を変えて直そうとしたら今度は反対側の太腿が痙攣。太腿の内側の筋肉も痙攣して、なかなかなおらず、強い痛みに全身汗だくになった。

私は副甲状腺を摘出しまっているので、血中のカルシウム濃度が低下するとテタニー(筋肉の攣り)が起きてしまう。きょうも、うっかりおなかをすかせたまま歩き過ぎてしまったのでテタニーになったみたい。

この日、拾った貝。桜貝と金色のナミマガシワ。その他もろもろの、ちっちゃいかけら。

Sdsc07589

|

2015年11月25日 (水)

出版四賞パーティー

11月20日

Fから久しぶりに集英社の出版四賞パーティーに行ってみようと誘われたので、夕方、会場のあるホテルへ。

ロビーで座って待っていると、テロ警戒のためか、警備の人が何度も金属探知機のようなもので花を飾ってある奥のほうをさぐっていた。

Sdsc07541

この植え込み、よく見るとススキやユリは本物だが、地面の石の上に散らしてある紅葉はビニール製だ。

Sdsc07546

きょうも上から下まで(コートも)古着の黒のベルベット。自作の布花の大きなコサージュを二つまとめて胸につけた。

Ssdsc07543
Fは仕事で遅れ、6時過ぎに来た。3階の会場に行くともう授賞式は終わっていて、立食パーティーがまさに始まるところ。(「いいタイミングだったネ」とにっこり)

Sdsc07537

「この余りまくっている料理を全部、日比谷公園のホームレスに持って行ってあげられたらなあ。」「ほんとにねえ。余るところには余ってるのにねえ。」

受賞者や出版社の人たちなどは、ほとんど何も食べないで話しまくっていて、豪華な料理がもったいない。貧乏な私たちは、とにかく久しぶりの栄養補給のためにも、ひたすら食べましょう、ということで。

Fは何人もの知り合いがいると思うが、誰とも顔を合わせず、挨拶することもなく、好きなものを食べて話しまくった。

Sdsc07538

動物を殺すのが嫌で肉類を一切食べないが、魚介は食べる。好物のエビ、カニ、オマールエビ、サザエ、アワビ、ホタテ。

Sdsc07535
またサザエ、カニ、オマールエビ、フルーツ。

Sdsc07539

またまたおかわり。このウニの殻にはいったウニのムースと、アワビのスモークがおいしかった。

Sdsc07540

夢中で話しながら食べていると、まだ空いていないお皿を下げられたり、席を立っているうちに、絶対食べられない肉類を勝手にテーブルに配られたりするのはストレスだ。

むこうが「決まりきった」「習慣の」サービスをしてくることがストレスになる。余計な労働はなくするべきだと思う。

フルーツをとりに行っても、門番のように給仕の人が立っていて、「おとりしましょうか?」と言われるのが鬱陶しい。いちいち種類を告げて皿に盛りつけてもらうのは、検閲されているようで苦痛だ。

コンパニオンの人にビールをつがれるのも嫌だ。すべて「けっこうです。自分でやります。そのままにしておいてください。」と言うしかない。

Fに、若き獣医師、快作先生の話をした。Fはたいへん興味を持ったようだった。

彼は動物の命を守ろうとする行動に対して、たくさん誹謗中傷(というような次元ではない暴力)を受けても、「それは当たり前のことだ。」と受け入れて、怯むことがない。

私がすごいと思うのは、まったく気持ちや考えが通じない相手にも、何度も話せば、必ず少しずつでも考えが通じると信じる強さだ。Fも「それはすごく強いね。」と感心していた。

(よくあることだが)会話の中で「・・・ですよね。」と、こちらの意思を確認せずに決めつけられてしまった時に、その場ですぐに、決して大きな声ではなく、明るく、ボソッと「それは違うと思いますけどね。」とさらっと言えること。

「そうじゃないんです。そういうことはむしろ、すごく苦痛なんです。」とさらっと言うことができずに、その場を我慢して、どんどんストレスが溜まって、人と会うのが苦痛になってしまう私が学ぶべき才能だ。(心で激しく同調できないことを叫びながらも、いつも、どうしても言葉が出てこないのはなぜなのだろう。)

パーティーがひけてからも、ロビーの椅子に腰かけて話した。絵のこと、文章のこと、子供の頃、最初に衝撃を受けてずっと心に残っているものの話、幼い頃、強烈に魅せられた絵本を最近偶然手に入れたことなど。何が伝わるか、伝わらないのか。

Fは、ボソッと言った。「最近、思うんだけど、自分が書いた(文学)作品を、それを本当はどんな気持ちで書いたか、他人にわかることはないんじゃないかって。それが絵だったら、言葉でないだけ、なおさら、他人がわかることはないんじゃないかって。」

Fの言ったことは、私も、最近ずっと思っていることだ。

私がものすごく興味を持って、それがなければ生きていけないくらいに思っているもの(その多くは人間の文化に属さないものだ)が、他人にはまったく関心のない、その人たちの視界には存在しないようなものだと、嫌というほどわかってきた。また、そのギャップは、私が想像していたよりはるかに深く、埋められることはない、と、少しずつわかってきたのだ。

昔で言えば「トマソン」のような、人がほとんど興味を持たず、かえりみないものを徹底してコレクションしている人とも、たぶん感覚のありかたが、私は違う。それがどう違うのか言葉にするのは難しい。

それでもFは、私の絵を見ることができる(ということを実際に私に知らせてくれる)。

私の絵についてFは言った。「たとえば、虹色の華やかなパンジーの絵はぱっと人目を惹きつける。だけど、あなたらしい、あなたそのものなのは、ハルジョオンに絡みつくヒルガオやスズメノエンドウ、ノブドウやアオツヅラフジのような蔓草。そして腐蝕画だ。」と。

|

2015年11月21日 (土)

ちゃび 久しぶりに病院 / 西新宿のこと

11月18日

午前中は晴れていて気温21度もあった。

寒くなる前に健診をしておこうと、ちゃびを久しぶりに動物病院に連れて行く。

私はちゃびの輸液セットや薬をもらいに週に一度は通院しているが、ちゃびが病院に行くのは今年の2月28日以来だ。

怖がって大声を出すのじゃないかと心配だったが、意外にもソフトキャリーに入れてもにゃあとも言わない。病院に向かって歩いている間、中を覗いてみたらおとなしく寝ていた。

「キャリーに入れても暴れなかったから、元気ないのかと心配で。」と言うと「たま~には病院に行くのもいいや、と思ったんじゃないですか?しょっちゅうだと嫌だけど。」と快作先生。

計量。3.94kg(また増えてる!!)。

食べられなくなって、もうだめかと思われたのに、すっかり大きくなったちゃびを見て「こんなこともあるんですねえ・・・」と快作先生。「今も薬をあげないと食べないんですけど。」と言うと「やっぱりなにか脳の病気なんでしょうね。人間にも突然の味覚障害とか、解明されてない病気がたくさんあるんですよ。」と。

去年の9月15日、ちゃびが急に食べなくなって、初めてこの病院に連れてきた時、ちゃびは2.8kg。検査しても、結局食べられない原因は不明だった。

セレニア(吐き気止め)、ぺリアクチンとセルシン(食欲増進剤)、ピモベハート(心臓の薬。以前はベトメディンかアカルディしかなく、オブラートにくるんだが飲ませるのがたいへんだった)と一日置きの輸液。レンジアレン。ガスター(胃薬)。

必死で介護したが、なかなか食欲が出ず、三日間、何も食べなければ命が危ないと言われ、私の緊張はピークに達し、夜も眠れない日が続いた。ちゃびのようすがおかしい時、毎日のように先生に電話してアドバイスをもらった。

もうだめかと思ったが、毎日の観察と試行錯誤により、だんだん食欲増進薬の使い方――これはすごく個体差があると思うが、ちゃびにとっての薬の量やタイミングもわかってきて、ちゃびは少しずつ食べるようになり、体調も落ち着いてきた。

今はぺリアクチン一回につき1/8~1/6錠程度を飲ませた30分後にセルシン一回につき1/10~1/8錠程度を(ハサミで錠剤を切って)飲ませるとよく食べる。

ちゃびの久しぶりの血液採取。針を刺してる間、ちゃびの頭を抱いて、顔に唇をつけて「だいじょうぶよ~、痛くない、痛くないよ・・・」と言っていた。終わったあと、診察台の上が濡れていた。私の手の甲から流れ落ちた汗だった。

ちゃびが針を刺されたり、大きなニッパーで爪を切られているだけで、私の全身から汗が噴き出す。痛くないのかと心配でたまらないのだ。

「だいじょうぶですよ。ただ痛いだけですから。」と微笑みを浮かべる快作先生(ほんとうにいい性格!)。

この快作先生は、獣医科大学時代に、外科実験で生きた犬を使い手術練習をする(使われた犬は安楽死させられる)ことにたったひとり果敢に反対したり、捨てられた犬を自宅アパートに引き取りまくって飼い主を捜したりした。犬猫の殺処分を減らすための運動に邁進している若き獣医師だ。

この先生の明るさと恐ろしいほどのタフさのおかげで、とにかく生きづらい、人とつきあいづらい私が、とても励まされたことは確かだ。

私が(動物を殺すことが絶対的に受け入れられないために)肉食に身体的拒否反応がでてしまうこと、そのためにあらゆる会食の場に出席できないことも、「私のためにだけ肉抜きの食事をください」とオープンに言えばいい、何も悪いことはしていないのだから、と言われて気が楽になった(なかなか実践するのは難しいが)。

緊張で汗だくになって診察室からちゃびを連れて出て来た私に、待合室にいたふたりの女性がキャリーをのぞいて「あら、かわいい~。」と声をかけてくれた。ボランティアの人達だという。

18歳です、というと「そんなに見えないわ。全然、言われなきゃ若く見える。きれいだし、可愛い顔してる。すごく大切にされてるからなのねえ。」と言われてとっても嬉しかった。

ちゃび素描。

Sdsc07052

Sdsc07053

Sdsc07054


Sdsc07056

Sdsc06528

Sdsc06591_2

Sdsc06529

Sdsc06532

私の書類棚の上にのっかているちゃび。

Sdsc06972
あにゃ~~ん・・
Sdsc06974
すりっすりっ
Sdsc06977
あにゃ~ん
Sdsc06978
あにゃあああ~ん!
Sdsc06979
すりっすりっっ
Sdsc06980
あにゃあああぁああん!
Sdsc06984

カメラレンズをパシパシ!

Sdsc06989
いいこいいこ・・・
Sdsc06990

再びカメラレンズをパシッ!
Sdsc06991
いいこいいこよ~
Sdsc06992

すりっすりっ
Sdsc06985

・・・

午後から雨らしいので、降らないうちにE・Aさんのお宅へいただきものの林檎を届けに自転車で走った。

E さんは、昔西新宿に住んでいた人で、母が親しくしていただいていた人だ。Eさんは留守だった。

住宅街の木々を眺めながら走って帰宅したら、Eさんから電話があり、近くで会うことになった。雨が近かった。

西新宿(昔は十二社(じゅうにそう)と言った)の話をしていて、夕食の買い物の時に、商店街でよくうちの祖母に会ったそうだ。「毎日ごはんつくって偉いですね。」と言うと「嫁が外で働いてくれてますから。」とにこにこしながら話していたと聞いて涙がこぼれた。

「お母さん、一生懸命働いてたものねえ。」と言われ、本当に私の母と祖母(父の母)はよく働く真面目な人だったな、とあらためて思う。結局、それが父を甘やかした。父の自分勝手で無責任な性格を増長させるために、祖母と母が心身が滅茶苦茶になるほど貢いだようなものだ。

「今だったらとっくに離婚しているよね。あなたのお父さん、死んでくれてよかったわねえ。」と言われる。この「死んでくれてよかったわねえ」とはっきり言ってもらえることが嬉しくて、また涙。

「方南通りに瓦屋さんがあったでしょ。時計屋さんの隣の。今はセブンイレブンになってるところ。」と言われて、長らく忘れていた商店街の店並みの記憶が一瞬でばっと見えてきて、胸が詰まった。

黒々とした土の上の資材置き場、暗渠にはりついた小さな茶色い家々。今はオフィスビルと高層マンションしかない大通りが生き生きとして、顔見知りの人がたくさんいた昔の記憶が蘇って来た。

Eさんのように昔のことを知っていて、ずっと元気で頭が切れる人がいてくれることが、私にはものすごくありがたい。

|

2015年11月18日 (水)

鵜飼哲さんとまた多摩川を歩く

11月14日

きょう、鵜飼哲さんとお会いする約束だったが、午前中に鵜飼さんから電話があった。「ニュース見ていませんか?」と言われ、「見てません。何かあったんですか?」と応える。

パリでテロがあって百数十人が亡くなったという。鵜飼さんは夕方のTBSの報道番組に出演を頼まれたので、きょうの約束は明日に順延することになった。

夕方、ニュース番組を見て、鬱々となった。国家全体を憎むテロなら、どんなにしても防ぐことはできない。「テロとの戦い」も、復讐の連鎖をエスカレートさせるだけだ。

空爆や殲滅に反対している人たちも無差別に被害に遭うことこになるだろう。これが戦争だ。東京もいつテロの被害に遭うかわからない。

11月15日

鵜飼哲さんと多摩川のほとりを歩いた。7月以来だ。

是政橋付近の風景。

Sdsc07463

堰の上にはアオサギやカワウが数羽いた。
Sdsc07465

雨上がりの素晴らしい雲が水面に反射していた。異国のように美しかった。
Sdsc07466

鵜飼さんに、パリのテロについてのお話を聞いた。2か月前に鵜飼さんが行ったレストランが襲撃されたそうだ。

パリは、ざっくり言うと、西側に裕福な人達、東側に多くの移民、貧しい人達が住んでいるそうだ。貧しい地域には、犬を抱いて暮らしている路上生活者もたくさんいるという。

数年前に私が訪ねたベルリンにもトルコ街があったが、フランスのように他国を植民地化してきた国が移民を受け入れているのとは、事情がまた大きく違うということだ。

・・・

是政で鳥を見た後、車でさらに私の好きな秘密の場所に移動してもらった。

かつてドイツのゲッティンゲン大学から日本に来ていたStefanを撮影した場所。

「オフィーリアの沼」と呼んでいた沼の手前にアメリカセンダングサ(アメリカ栴檀草)がびっしり生えていて、種子がチクチク痛くて危険なので近寄れなかった。この沼にはカワセミやアオサギが来る。

以前、真冬にひとりでここに来たときは、人っ子一人いなくて、ちょっと怖かった。寒い曇りの日だった。その日、この沼で、間近に舞い降りたアオサギが魚を獲るのを息が止まりそうになりながら動けないで見つめていた。

Sdsc07469

きょうは、ちょうどツルウメモドキの実が鮮やかだった。黄色の実が割れて朱色の種子があらわになっている。
Sdsc07472

ジャングルのように蔓草が絡まる原生林。あまりにも好きな、思い入れのある場所なので、変わってしまっていたらどうしよう、と心配だったが愛しい植物群と鳥たちは健在だったので本当に嬉しかった。

Sdsc07481

ヤマイモの葉は黄色くなっていた。
Sdsc07482

鵜飼さんの後ろ姿。きょうは光が眩しい。
Sdsc07483

数人の大人たちがラジコンを飛ばして騒音をたてていたのですごく腹が立った。ここはあくまで植物と小さな動物たちと鳥たちの場所だ。人間は、そおっと鳥を脅かさないようにしていなければならない。

Sdsc07487

朽ちた倒木のところで。

Sdsc07489

Sdsc07495

桃色の実がびっしり生った檀(マユミ)の樹。

Sdsc07496

葛や藤が絡まる大木がなんの樹なのか、葉を見ると桑や槐(えんじゅ)のようだった。
Sdsc07498

私は朽ちた木や蔓草にものすごく惹かれる。錆、剥落、苔、ねじり絡まって増殖し、ちぎれて枯れる蔓にばかり心が奪われる。

Sdsc07500

Sdsc07504

大きな柳の根元に棕櫚(しゅろ)が生えている。ここら辺一帯は、礫の上に生えた珍しい植物群らしい。
Sdsc07509
まだ若い小さな樹の紅葉。鳥が実を食べて種が運ばれたのだろうか。

Sdsc07511


Sdsc07516

「この青い実はなんですか?」と言われて、小さな瑠璃色(またはターコイズブルー)の実に気づく。私の大好きなノブドウだった(普通はひとつの房に4,5個の実がつくのだが、ひとつしかついておらず、とてもさびしい感じだったので写真には撮らなかった)。

車に乗ろうとして気づいたのだが、注意したはずなのに、運動靴にびっしりアメリカセンダングサの種子が刺さって靴がハリネズミのようになっていた。

扁平な種子の先端に二本の棘があり、棘には細かい逆歯がついているので、叩いてもとれない。ひとつずつ指で摘まんでとったが、数百も刺さっていて、いたるところがチクチクした。

ぎらぎらした陽が落ちる一瞬前に、橋の上から輝く雲と富士山が見えた。その後、5時半には真っ暗になった。

Sdsc07517

鵜飼さんは昔、武蔵小金井に住んだことがあるそうで、貫井のリストランテ大沢という、旧家を改造したレストランに連れて行ってくださった。この家は平安時代からあったそうだ。お金持ちのすごい御屋敷に腰が引けた。

ここで、自分が今すすめている仕事についての助言をいただいた。

Sdsc07518
庭には黄色い小菊が満開だった。

Sdsc07519

|

2015年11月11日 (水)

浅田真央「すてきなあなた」「蝶々夫人」

11月8日

浅田真央ショートプログラム「すてきなあなた」についての個人的感想。

衣装は薔薇色、フーシャ(フクシャ、フクシア)ピンク、紅色、躑躅(つつじ)色。またはオペラピンク、マゼンタ、ローズピンク。

顔が映える鮮烈な色。さらにキラキラのラメと鮮やかな口紅。

ぱあっと豪奢な浅田真央を見たかったので嬉しいが、もっと、もっと濃厚でもいいと思う。

スローの見せ場、もっと強烈に見せつけてほしい。「私こそ世界一魅力的な女よ」と言わんばかりに、目つきも挑戦的に、高慢なほど自信たっぷりに妖しく、見るものを誘ってほしい。

浅田真央は何をやっても清楚になるので、色っぽい演技は、ぎょっとするほど大胆に演じてちょうどいい。

髪型もポニーテールはもういらない。誰より大人の、妖艶な浅田真央を見せつけてほしい。曲調からして、オールドファッションの豪華な髪飾りをつけて凝った形に結い上げるくらいにしてほしい。

1930年代の曲の雰囲気、当時の女性ファッションのイメージから、もっと気だるいような謎めいたゴージャスさがほしいと思った。

鍛え上げられた生々しく美しい背中。

休養のあとに、他の選手より抜きんでて難しい構成に挑戦する浅田真央。

復帰するかはハーフハーフと迷いながら、休養を楽しみつつも、競技に戻るなら最善の状態で戻れるように身体を鍛え上げ、高度な技を難なくこなせるほどに筋肉を増強してきた浅田真央のアスリート魂にほれぼれする。

やるとなったら技術においても表現においても限界に挑戦することに生きがいを見いだす浅田真央の、これから「自分を極める」過程が楽しみだ。

彼女にとっては、常に今の自分を超えることだけが重要だが、それが、ほかの誰よりも難しいことに挑戦することになっているのだろう。

フリープログラム「蝶々夫人」。

ジャパンオープンの時は薄かった口紅を、鮮やかな赤にかえたのがよかった。強く情熱的な色で、思いつめた顔、眉を顰めた表情がより印象的に。

プッチーニのオペラの中の蝶々夫人は恋する男が帰ってくるのを信じて待ち続け、最後は男の裏切りに自らの命を絶ってしまったけれど、浅田真央の蝶々さんは、自分の意志を貫いて困難に耐え抜き、挑戦し続ける不屈の女だ。

いつかきっと帰ってきてくれると信じて待ち続けたのはファンのほうであり、身を切られるような切望に応えて帰ってきてくれたのはピンカートンではなく浅田真央自身だった。

ある晴れた日に、輝く日射しを浴びて、浅田真央が帰って来た!

休養前のように自らを責めさいなむように追い込んでいた姿(それはそれで凄みのある美しさを感じさせてくれたが)ではなく、しっかりと身体をつくりながらも充電し、心身ともに余裕と貫禄を感じさせるまでに強くなって戻って来てくれた。

いくつかのミスや採点の不充分さも、これから始まるドラマの最初の味付けとしか思えない。

|

2015年11月 8日 (日)

宇野亜喜良「浦嶼子伝」出版記念展 ゴールデン街  古い素描の整理 シュニトケ「愚者との生活」 

お11月7日(木)

宇野亜喜良『浦嶼子伝』出版記念展のオープニングパーティー(恵比寿のLIBRAIRIE6)。(展覧会は11月29日まで)

『浦嶼子伝』は1964年(宇野亜喜良30歳のとき)に美術出版社から刊行された「日本民話グラフィックス」に収録された『浦嶼子伝』を原案としたものだ。

1964年版には、寺田澄史(てらだ・きよし)の俳句とのコラボだったが、今回は桑原茂夫と佐々木聖の詩が添えられた。

この前、四谷シモン人形展を見に来た同じ会場。業界人らしき人で満杯。

キャンバス地に下地を塗って、その上に鉛筆やペンなどで描かれた繊細でエロティックな絵。

宇野亜喜良さんが、ものすごいペースで作品をつくり続けていることに驚愕する。

浦島伝説に関連する絵。ウミヘビ(ウツボ)やイグアナ(?)などなまなましい動物が描かれている絵が魅力的だった。

女の子の顔が幼いものが人気だったようだ。今回の本には載らなかった描きおろしで、キツネ(これは売約済み)の絵とチェシャ猫の絵と一角獣の絵に惹かれた。

Sdsc07448(今回のパーティーは撮影禁止)

11月6日(金)

所用で5時30分にJ事務所のTさんと会う。

11月5日(木)

所用で11時に池袋。Sさんと面談。

近くの立教大の建物と蔦の紅葉がきれいだったのでちょっと寄った。

Sdsc07384


Sdsc07385

立教大学展示館で「戦時下、立教の日々、変わりゆく『自由の学府』の中で」という展示をやっていた(12月8日まで)。

非常によくできた展示だった。

http://www.rikkyo.ac.jp/koyu/magazine/mail/unchiku/unc080.html

その後、新宿区役所へ。いつもながらたいへん時間がかかり疲労する。

ゴールデン街周辺を少し散歩した。

招き猫、よくできてる。

Sdsc07388

新宿区役所第二庁舎のすぐ隣にこんな飲み屋街がある。

Sdsc07394

各店、自由な感じでアピールしている。ぼうぼうになった蔓草(推定:アスパラガス・プルモーサス・ナヌス、和名シノブボウキ)が素敵。

Sdsc07401

昔のグループサウンズの写真がびっしり貼ってあるディスプレイ。いわゆる現代美術の多くを見るより、こういう何気ないディスプレイが蔓草に覆われているのを見るほうが面白い。

Sdsc07401_2

下の画像、「くそじじいどんぶり」とか「従業猫募集中」の貼り紙。美大の学園祭の出店を思い出す。

Sdsc07402
煙草が苦手なので、こういう飲み屋には入れないが、外から見ているだけで面白い。
Sdsc07405
錆びたトタンを発見。
Sdsc07415

子どもの頃、大人になったら探検しようと憧れていた場所。猫になって、ここらへんの屋根から屋根へと飛び移り、暗くてきらきらした迷路のような路地を眺める夢をよく見た。

町がどんどん変わってしまうが、私にとってごちゃごちゃしたところを散歩できることが心の支えになっている。

Sdsc07416
猫道と呼ばれる家と家との隙間の細い道を通ると落ち着く。自分が生まれ育った西新宿が家と家がくっついたごちゃごちゃした場所だからだ。

Sdsc07410

11月4日(水)

母の施設へ。

傾眠が強く、食事介助がたいへんだった。口がなかなか開かないので苦労したが、1時間以上かかってなんとか完食。

疲れていたので古本屋に寄らず直帰。

11月3日(火)気づかなかったが祭日らしい。

ここのところずっと昔のスケッチブックの整理に追われている。

1000枚以上の絵の中から選択して流れ(順番)を考えるのに、感覚も考え方もたえず混乱して頭が非常に疲れる。

写真撮影だけしていて、昔個展に出して、どこにいってしまったか不明の古い絵、この前の『あんちりおん』に使用してリスマチックに持っていたあと、不明の絵・・・。

どうしよう、まさか電車で失くしたのだろうか、と不安になる。もし見つからなければショックでノイローゼになりそうだった。

が、突如部屋の隅から見つかった。まだ一回も撮影していなかった古いスケッチブックも新たに発見された。

とりあえず見つかったことにほっとした。

11月2日

最近、シュニトケの歌劇「愚者との生活」が気になって、国内版CDの解説書を読んでいる。

タラソワがどんな気持ちで、シュニトケのタンゴを浅田真央のプログラム曲に選んだのか、ずっと気になっていたからだ。

エロフェーエフ原作の「愚者との生活」のテキストを読んでいた。

「私」は愚者と生活するという罰を負わされ、愚者の群れの中からヴォーヴァ(レーニンの愛称)を選び、家に連れ帰る。

愚者ヴォーヴァは、「妻」の愛読していたプルーストの本を破り、あらゆるところに排泄し。「私」と「妻」の生活を滅茶苦茶にする。

ヴォーヴァは「妻」と関係を結び、妻は堕胎。「私」は「妻」とヴォーヴァの関係に嫉妬するのかと思いきや、ヴォーヴァは「私」とも関係を結ぶ。

「私」と「妻」は、どちらを選ぶか、ヴォーヴアに迫る。

ヴォーヴァは「妻」の首を花切り鋏で切断し、首のない「妻」の体とダンスを踊りながら去る。

残された「私」は自分自身が愚者となったことを告げる。

不条理で詩的な歌劇「愚者との生活」の言葉(台詞)にとても興味を惹かれた。

・・・

耐震工事の件でIさんと会う。

Iさんは足を怪我して2本の松葉杖で痛々しい。Iさんは、この人が工事するの?!とびっくりするような美貌の人だ。そしてすごくおっとりしている。

|

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »