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2015年11月27日 (金)

若林奮展「飛葉と振動」 葉山 水沢勉館長トーク2回目(後半)

11月23日

若林奮展「飛葉と振動」を見に神奈川県立近代美術館葉山へ。

8月22日に水沢勉館長の若林奮についての一回目のトーク(前半)があり、本日はその後半を聞きに行く。

8月に来たときは、たいへん混んでいてバスがなかなか進まなかった。あの時は日射しが眩しすぎて、外の景色を見られないほどだったが、きょうは小雨まじりの曇り。

美術館前でバスを降り、すぐ前に、なぜかバナナの花が咲いて、青い実もなっている庭を発見。素敵なので撮影。

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人気も少ない一色海岸に降りて、貝や流木を捜してみたが見つからなかった。

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きょうの海は、乳白、薄荷、青磁、灰色、フォスフォライト(燐葉石)。
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若林先生の展示、いくつかのドローイングの作品が展示替えになっていた。

・・・・

きょうの水沢勉館長のお話(聞き書きのメモより)。

若林奮(1936-2003)は9歳で終戦を迎え、50年代に青春だった。作品に戦争の影が強くある。

「多すぎるのか、少なすぎるのか?」(1970)

作品の上についたキズを船の航跡に見立てて、軍艦のような船を置いた。軍事的部品を連想させる作品群。不気味な想像をさせることが大事。

15歳でサンフランシスコ講和条約、日米、韓国との関係、50年から70年の安保闘争。国の政策に同調できないという意志が感じられる。

若林奮にとって彫刻とは、世界を発見する手立て、世界をよりよく体験する手段であり、若林奮は彫刻にすごく期待した。

彫刻が発動させてくれる世界。小さいほど世界全体がわかる。

「地表面の耐久性について」(1975)

重いものが地表面にしかない。平べったくて立ち上がらない彫刻は彫刻の歴史の中の禁じ手だった。

今までの彫刻では世界を知ることができないと若林は考えた。

(1930年代に生まれた彫刻家たちは立派な野外彫刻、モニュメントをつくった。それは高度経済成長のミッションだった。)

若林奮展の会場にはいって感じることは、若林奮は彫刻の量感を追求していないこと。

欠け落ちているものを取り入れようとしている。

「残り元素」(1965)

鉄を削ぎ落とすことは困難で、膨大なエネルギーを使っている。人間そのものの大事なものがこそげ落とされ、焼け落ちている恐ろしい感覚。

実体としてではなく、関係としての彫刻。

すべてのものが固定しない、揺らいでいる、振動、それを感じることが彫刻でどこまでできるか。

エジプト――永遠不変。王の威厳。モニュメンタル。

絶えず変化するものとしての鉄。

彫刻は変化しない石を欲しがるが、鉄が不安定だから選んだ。

変化の相に敏感になりながら見るべき。水の流れ、水に浮かんでいるもの、地中、ハエの息など彫刻と正反対のもの。

ハエから出ているか少女から出ているかわからない液体または気体。

1973年、36歳で鎌倉近代美術館新館を全部埋める大きな個展。あまりにも脚光を浴びて、このとき少し燃え尽きた。特に評価したのは柳原義達。

過去の作品を作り直したり、素材をリサイクルしたり、若林奮は素材を捨てることがなかった(ただし硫黄だけは産業廃棄物として、置いておくことができなかった)。いろんなものが繋がり、リメイクもされている。

どの段階で作品なのか、制作そのものも不安定。さらに版画、デッサンもある。

ドローイングは約9000点ある。

紙を圧縮した振動尺。制作の時間の層。直線的な流れの時間が複数ある。

制作態度がポリフォニック。

なにかをつくるように集約していくのではなく、ほどけた状態。

風景――世界にひろがっていくもの。彫刻がレファレンスとして関係性を持つ。暗黙のうちに呼び覚ます。

「大気中の緑に属するもの」

1984年ヴィエンナーレ。固定的な状態を持たない。2003年豊田市美。発展的にもう一度関係性を結びながらよみがえる。

「庭」――運命的に未完成。生成。天気、日々、刻々と変化。もっとも危うい不安定なもの。野外彫刻ではない。

風景を整えて美しい庭をつくるのではない。その中にはいると世界の見方が変わる。

庭も同時進行で制作していたもののひとつ。

セゾン高輪美術館軽井沢の庭・・・1980年代バブルの時。建物と庭が結びつくのを望んでいない。むしろまわりの広大な地形と結びつくため、斜面の角度が大事。

あえて下づらのところの厚さを見せて、それが置かれているように見えるための無垢の鉄。なぜ厚く重く、大地と一体化するか。

コンクリート1m流してある。地形そのもの、地下を含めて作品にはいっている。

美術館の建物とのアプローチに関して、セゾンとの軋轢。

階段があるが登ると警備員に注意される。周りの雄大な地形と関わりながら大地を感じるようにつくられている。

高原は霧が深く、鉄はすごい勢いで錆びる。鉄の不安定さが世界の構造とつながることを望んでいる。

地形そのものが彫刻を喚起する。地形を知るために彫刻をつくる。

歩いて行って体験する。

若林奮が木の枝一本を持って、「こんなものをつくる」と言ったことがある。道が植物の枝振りに似ていたのかもしれない。

若林奮は古典的な庭の研究も熱心だった。銀閣寺の岩が崩れた部分、通称「くずれ」が好きで、神慈秀明会の庭に、砂でつくるいくつかの三角、夕陽が当たる時光を感じる場所をつくろうとした。「100線」にも繰り返し出てくる、究極の「ヴァリーズ」のようなもの。

その計画が遂げられず、その場所が駐車場になり、「やる気がなくなった」と言っていた。

いくつかの石が置いてあるのは、関西から大阪城をつくるときに運ばなかった残念石を拾って持ってきた。

「緑の森の一角獣座」

ダイオキシンを出す日の出の森のゴミ処理場のトラスト運動として、若林さんもひと口地主となって庭的な作品をつくった。

バブルが終わり、誰もお金を出してくれなかった。名前はきれいだが、実際は緑はない。戦後の林野庁の失敗である杉林の立ち枯ればかりの荒廃した場所。

木の橋、石の椅子、石のテーブルがある。全部、森で見つけたものでつくってある。ボランティアが材料を持って、峠を登り下りして、何度も運ぶたいへんな労働でつくった。(水沢さんは44歳~48歳くらいに積極的に関わったが、体力的にきつかったそうだ。)

静かに座って、自然、世界を感じてほしい場所。

その頃の若林さんは「立ち上がること、起業が嫌だ。何かをするのは止めて静かに考えてほしい」と言っていた。

強制撤去の時、石ころひとつまで番号をつけられた。

「緑の森の一角獣座模型」(1996-1997)

まわりはゴミで銅版だけが残るイメージ、水没してしまうイメージなど、いくつもの未来のイメージをドローイングや模型にした。

その頃の若林さんはモンブランのダークブルーが好きだった。

囲いの銅板に、そこにあったはずの緑を描いた。巻いて保存されていた銅板、コイル状で銅線がまいてあり、そのまま展示できる状態だった。巻いてある状態は樹木そのままともいえる。

「カッパーペインティング」

溶剤で焼き付け塗装を解かしてしまった。

銅板にひとつひとつの樹の輪郭をなぞり、たがねで打った。失われたものへの追悼。

状況が変化したら、次のものへとつながることを考える。いろんなことがあり得る。ドローイング。可能性をさぐる不安的な意識。世界と複雑に複数で関わる。

霧島アートの森「4個の鉄に囲まれた優雅な樹々」

彫刻を拡大していって経済的なサポートを受けながら庭をつくるチャンス。2000年(緑の森が失われた時)につくりはじめる。森の中には入れない。四隅に無垢の鉄塊。結界。森を放置。鉄は錆びて無くなる。時間のものさし。

世界のモデル。動物、植物、世界との関係が模型としてある。鉄、造形されたものと樹と霧島の自然。思考が薄まらない。それを支えるのがデッサン、模型、ミイラのような自刻像(自刻像は、まだいくつもつくってあった)。

・・・

「何かを起こす、立ち上がる、ということが嫌だ。座って静かに考えてほしい」という若林先生の言葉が心に残った。

若林先生は「美術」というものを、「自然」とつながるものだと考えていた。

自分もその一部であるところの自然(自分の内部に見いだされる外部)と、そこから外へと広がっている自然に、揺れ動く距離を保ちながらもつながっているものをさして、若林先生は「美術の範疇にあるもの」「絵の範疇にあるもの」という言い方をしていたのだと思う。

講演が終わってから、水沢さんは、すぐに鎌倉館のほうのクロージングイヴェントに行かなければならない、とお忙しそうだったが、少しお話することができた。

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バスを渚橋のあたりで降り、逗子海岸で拾い物。波打ち際で桜貝をたくさん見つけた。とても薄くてはかなくて、濡れた砂の上から取り上げようとすると割れてしまうものもある。

風も冷たくなってきた中、楽しくて夢中で時間を忘れ、何度もしゃがんだり立ったりして貝を拾っていたら、足が冷えて筋肉痛に・・・これがあとでたいへんなことになった。

友人Gが金色のナミマガシワを拾って、自慢げに私にプレゼントしてくれた。桃色のや白のナミマガシワはたくさん持っているが、金色のは初めてなので感激。
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逗子駅近く、神社の横の道をはいる。この道が大好き。
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8月に来たとき、かわいい看板三毛猫が前に座っていた「夢」という店。右側には野菜を売る市場。「おいしいトマトいかがですか」と言われる。
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逗子銀座を端っこまで歩いた。「浜まで5分」という店があったので、本当に5分か夕闇の中を歩いた。10分以上はあった。逗子開成のまわり、ものすごいお屋敷がたくさんあるのでびっくり。

逗子銀座の端っこの店で生シラス海鮮丼(1200円)を食べた。

アクティーで座って帰路についたが、途中、信じられないことに太腿の外側が攣ってしまった。余りの痛さに、なんとか体勢を変えて直そうとしたら今度は反対側の太腿が痙攣。太腿の内側の筋肉も痙攣して、なかなかなおらず、強い痛みに全身汗だくになった。

私は副甲状腺を摘出しまっているので、血中のカルシウム濃度が低下するとテタニー(筋肉の攣り)が起きてしまう。きょうも、うっかりおなかをすかせたまま歩き過ぎてしまったのでテタニーになったみたい。

この日、拾った貝。桜貝と金色のナミマガシワ。その他もろもろの、ちっちゃいかけら。

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