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2015年12月

2015年12月31日 (木)

椿 年賀状 書 / ちゃびのこと

12月31日

もうすぐ一年が終わる。

12月30日

年賀状に阿部弘一先生のお好きな椿の花を描こうと思い、いろいろやってみる。

年の暮れぎりぎりになるまで年賀状が書けていないので、焦っておかしくなる。

阿部弘一先生には、先生が一番お好きな「侘助」。それと一重の絞り。

「侘助」は雄蕊の葯が退化して花粉をつくらないらしい。本格的な「侘助」だと極小輪で、正月にはちょっとさびしいかな、と思い、「玉之浦」、「乙姫」や「雛侘助」「有楽」などを混ぜた淡いイメージで描いてみた。

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私は「岩根絞」など、斑入りや絞りの花が好きなのだが、こちらはちょっと濃いめに描いてみた。
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侘助だけだとやさしい感じ。
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やはり吹掛けの獅子咲きも描いてみたい。
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葉の色もそれぞれ変えてみた。だけど、早くしなければ!こんなことを何日もしていたら歳が明けてしまう。。。!

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恥ずかしげなかわいらしい抱え咲きや、強烈な唐子咲きなど、いろいろ描いた。そのあと、宛名リストを見ながら、お世話になった人の顔を思い浮かべ、この人はどんな花が好きかを考える。

ブログの画像には載せていないが、獅子咲きの椿を描いていたら、凝りすぎてどんどん花が大きくなってしまい、狂乱の獅子咲き椿になってしまった。これはいったいどなたに出せばいいのだろうと悩んだが、たぶんこんな絵をわかってくれるだろう花輪和一さんと沢渡朔さんに出した。

(花輪和一さんに久しぶりに電話してみたら、もう今年は20回以上雪かきをしたそうだ。)

昔のスケッチブックを開いてみたら、「有楽」や獅子咲きの変形椿を丁寧に描いていた。無我夢中で素描していて、その時はわからないのだが、あとで見返すと、実際、そのような花の個体には二度と出逢えないし、自分の記憶よりその時の素描(デッサン)が遥かに良く描けていることに驚く。

大きな獅子咲きの花の一期一会の不思議な模様と「有楽」の花びらの艶、光る質感は、その場でリアルに見なければ描けないものだ、とあらためて素描(デッサン)の力を確信する。

ところで、私が大好きな、魅力ある椿を描いた絵に、狩野重賢画・写本『草木写生春秋之巻』(1657~1699)という図譜がある。見たままを写していながらも写真のような味気ないリアリズムではなく、写本であったかもしれないが、ちゃんと個々の植物の魅力の核心を描いているところに打たれる。

・・・

今年、少しずつながら書道の進歩のさまをブログに記録しようと思っていたのにできなかったので一枚。

私にしてはあまり先生に手直しされなかった書。こつこつ地味にやって、やっと「とめ」が少しできるようになってきたのと、最初の頃より筆の上のほうを持てるようになった記念。

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・・・

最近のちゃびのこと。結論から言うと、流動パラフィンが効きました。

ちゃびが12月になってから主にk/dのカリカリを食べるようになり、それから極端に○○こが小っちゃく少なくなってしまっていた。

前は一日2回で、いっぺんに10cm以上も出ていたのに、最近は一日8回もトイレに行って、そのうち4回は空振り。あとの4回に1cmずつしか出ないような状態。

あまり食べてもいないので詰まっているのかは不明。毎日おなかをマッサージしていたが、腎臓を押さないように、腸をうまく押すのが難しい。

それでもおそるおそるおなかの下の方をやや強めにさすってもんであげたら、さっそくトイレに行って、たった1.5cmしたり。

いよいよ食欲が落ちてきた12月26日に快作先生に油を飲ませるといいかもと言われ、流動パラフィンをもらって来る。

その日から、一日2回、1ml飲ませたが、なかなか出ず。やっぱり一回1.5cmのままで、どうすりゃいいの、と私は目の下に隈ができるほど追い詰められていたが・・・

4日目の12月29日、

朝5時前 1.5+1.5。

10時 4+2+2+2.。

昼1時 2。

1時40分 5。

この日、一日で計20cm出た。やった―――!!

「今まで辛かったんだね。ごめんね。ごめんね。」とちゃびを抱きしめて耳を優しく噛むと「にゃぁぁァァァァァん・・・・にゃぁぁァァァァァん・・・・」と高く甘~い声。

12月30日

朝10時40分 1.5。

昼1時 1.5。

4時 3+1+1。

夜8時30分 2。

9時50分 1.5。計11.5cm。

12月31日

朝8時 3+1.5。

10時 2+1。

昼3時 2。

8時23分 3。計12.5cm。

来年もどうか元気でいてね。

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2015年12月29日 (火)

フィギュア全日本

12月28日

フィギュア全日本のごく個人的な感想。

浅田真央の「蝶々夫人」。不安を抱えながらのフリー。

冒頭にミスはあったが、それから先は、今しかできないこと、今やれることを精一杯出し切ることに心と身体の動きが収斂されていき、ただ一筋に、震えるように高く張りつめた音を全身が奏でていった。

終始、思いつめたような表情。

土壇場になって、余計なものが剥がれ落ち、研ぎ澄まされていく姿を見せてくれた。

「想い」を演じるのではなく、もがき苦しみながら一途に、その瞬間に集中する身体の流れが、そのままそこで濃縮された「演技」となった。

空を見上げる鳥のように両腕を広げた終わりのポーズ、曲が消えたあとの、眼を閉じて、もう一度きゅっと眉を顰めながら、がくっと下を向いた顔が、非常に感動的だった。

自分に大きく頷きながら、「終わった。」と小さくつぶやいているように見えた。

そして軽やかな笑顔ではない、静かな笑みと涙。毎回、この瞬間に最高の演技を、と自分に過度な負荷をかけ、思いつめているからこその真摯な表情だ。

それは自分にとって最高な演技がどのようなものか、わかっている卓越したアスリートだからこそだ。

「今季一番良いフリーができた」と本人が満足する演技で全日本を締めくくれて、本当に良かった。

他を寄せ付けないほどに強い姿だけを見たいとは思わない。追い詰められた自分のぎりぎりの限界にありながらも、その苦悶のさなかに顕現する別次元の姿、それこそ輝かしく、また、ありがたいと思う。

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村上佳菜子のSP「ロクサーヌのタンゴ」、好きなプログラムだ。

大人びた暗い情念を爆発させるようなプログラムで、思いっきり叫びながら激しく畳み掛けるようなステップがすごくよかった。

だからなおさら、今年最後の締めの演技になるフリーでは、失敗したあとの表情がちょっと残念だった。

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男子のプログラムでは無良崇人のSP「黒い瞳」がとても印象に残っている。

無良選手のスケートは男性的で鷹揚な魅力があるが、この「黒い瞳」では、速さや細かさも見せつけて、ぐっと洗練されていた。

武骨なイメージから、どんどん繊細で複雑な表現を手に入れて、今の無良選手には、柔和さやけだるい色気もある。

男子のSPで、ほかに印象に強く残ったのは磯崎大介「マシュケナダ」。

最初の数小節の演技だけで人を引き込むセンスと気概があった。よほどダンスや曲をよく研究している選手なのだろう。

それと服部瑛貴「ダウンヒルスペシャル」。

スイングジャズをフィギュアスケートで踊るのは、けっこう難しいと思うのだが、ポーズがいちいちかっこよく決まっていた。手首も柔らかく、指まで印象的に演技していた。

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全日本と同じ頃、ロシアの少女たちの熾烈な闘いもあったようだ。

アンナ・ポゴリラヤが、以前に何回も、激しく身体を氷に打ち付ける転び方をするのを見て、すごく気になっていたのだが、彼女のSPが素晴らしかった。

ウォルター・タイエブ作曲の「ヴァイオリンと管弦楽のためのボレロ 」。

深紅の衣装も美しく、始まりのポーズからなんとも優雅。特にステップからは、激しい動きに連れて赤い花が空中に次々に爆発していくような、めくるめく展開。凄みと同時に詩情があった。前の「火の鳥」よりも、さらに演技に磨きがかかっているようだった。

彼女は脚の使い方がほかの選手と違っていると思う。内腿がすっとくっついているというのか、彼女独特の優雅な姿勢と動作がある。

17歳とはとても思えない内側から溢れてくる香気を放つ動き。それと、あの雰囲気のある唇。

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2015年12月24日 (木)

毛利武彦先生の原稿と阿部弘一先生の書簡 / 西新宿

12月23日

わが師、毛利武彦先生の奥様から、レターパックが送られて来た。

なんだろう、と封を開けてみて、衝撃に打たれた。

詩人の阿部弘一先生から毛利武彦先生に宛てた手紙の束と写真、そして毛利先生の直筆原稿。その原稿は、おそらく阿部先生が現代詩人賞を受賞された時のスピーチのためのもの。

今さらながら、師、毛利武彦の筆跡のものすごさに圧倒される。知的で美しいというような形容をはるかに超えて、師の「絵」そのものだ。

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そして阿部弘一先生が毛利先生に宛てた、二人で詩画集をつくる計画の内容、装丁の相談の手紙。

阿部弘一先生が、フランシス・ポンジュの墓を訪ねた時の、青い海を背にした白いお墓の前での青年の阿部先生の写真。

この原稿、書簡、写真は、阿部先生が持っていらしたフランシス・ポンジュからの書簡などを追いかけるかたちで、世田谷文学館に保管してもらう予定である。

12月18日

長髪で美貌の一級建築士Sが、崩壊しそうな福山家の床下を見に来てくれた。

Sは、70年代の、まだ華奢だったジュリーをさらに女性っぽく、睫毛を長くして、鼻筋は丸ペンで引いた線のようにすうっとまっすぐに細く描いた感じ。

きょうのジュリーは作業着ではない。私服(ダウンジャケットにジーンズ)で汚れる作業をしてだいじょうぶなのか、と心配になる。

畳を上げるためにまず箪笥を移動。その瞬間、箪笥の後ろの罅がはいっていた壁が崩落。ものすごい土埃に「ギャーッ!!」と驚く私。

「土台の板が崩れたわけじゃないからだいじょうぶですよ。車から掃除道具持ってきますから。」と、てきぱきと処理するジュリー。

畳を上げてみて、猛烈に黴の臭気が漂う中、「これはまずい。床がこっちまでくっついてる。」とジュリー。

床板が大きくてはずせなかったため、一部を四角く電動のこぎりで切ることになった。

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板を打ちつけてある釘も古くて錆びていて、バールで引き抜こうとしても釘の頭がもげてしまう。

たいへんな作業だったが、素手で淡々とこなしていくジュリー。やっと床板の一部分を外すことができ、黴と埃で恐ろしく汚い床の上に、惜しげもなく私服で寝転んで床下を覗くジュリー。

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こんな汚くてたいへんな作業をしてくれるのか、とありがたく思うと同時に、いったいこの古い家をどのように修理、改築するのがいいのか暗澹とする。

12月7日

昔、西新宿でご近所だったEさんと「砂場」で昼食。

昔の西新宿の話、知り合いの消息を聞く。Eさんの若い頃の話も。

Eさんに会うたび、ご高齢になっても、どうしてこんなに若くて元気で頭がしっかりしているのだろう、と感動する。

八ヶ岳に行って来たお土産だと、甘いお菓子に興味のない私のために、ちびきゅうりの塩麹漬けをくれた(これがめちゃくちゃおいしかった)。

Eさんと話していて、長く忘れていた西新宿(昔の十二社)の商店街の記憶が蘇って来て、何とも言えない気持ちになる。

黒い土の上に部品が置いてあった瓦屋さん、少年まんが週刊誌を読みたくて通った甘味屋さん、水っぽい焼きそばとかき氷を食べたおでんやさん、楳図かずおの「おろち」に夢中になった貸本屋さん、ミセキというお菓子屋さん、ヒロセという魚屋さん、エビハラというパン屋さん・・・。

暗渠の脇にくっついていた平べったい小さな家たち。

西新宿が開発されるとともに商店街も無くなり、小学校、中学校の時の友人は皆、遠くに引っ越してしまった。大通りから少し引っ込んだ坂の上の私の実家だけがボロボロになって残っている。

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2015年12月19日 (土)

生きた犬を殺す獣医科大学の手術実習について

12月16日

若き獣医師、太田快作に「動物実験代替法」についての話を聞いた。

(太田快作は、獣医科大学時代、学生が無償で犬たちを保護し世話をする「犬部」をつくり、まんが『犬部!』(片野ゆか・高倉陽樹 小学館サンデーコミックス)などのモデルにもなった人だ。)

私がこのあまりにもショックな事実について知ったのは、つい去年、その快作先生の病院にちゃびを連れて行ってからだ。

そのショックな事実とは、日本の獣医科大学では、外科実習で、生きた健康な犬を使う、ということだ。

10年くらい前、快作先生が学生だった頃の北里大学獣医学部では、保健所から大学に払い下げられた健康な犬の体にメスを入れ、腸を切って縫合するなど、犬たちは使うだけ使われた後に、最期は安楽死させられていた。

学生だった太田快作は、その外科実習をすべて拒否し、病気で死んだ動物の遺体を使う「動物実験代替法」の採用を主張して大学側と対立、見学とレポートでなんとか卒業させてもらったという。

現在では、保健所の犬は実験に使われていなく、大学内で実験用の犬(比較的安産で育てやすいと言う理由で主にビーグルだが、柴犬の場合もある)を繁殖、飼育しているという。

実験用に育てられた犬は、麻酔をかけて手術実習、蘇生させてまた違う手術実習にと何度も使われ、最期は解剖して殺されるなどしている。

日本で初めて獣医科教育においての「動物実験代替法」を提唱し、論文も書いたのは獣医師の中野真樹子さんで、今から20年前くらいのことだそうだ。

(動物を守るという観点ではなく、効率という目的での代替法はもっと昔からあった。)

調べたらネットに中野真樹子さんの卒論「教育現場における動物実験代替法の導入について」の要旨が載っていた。

http://amanakuni.net/maki/soturon.html

近年、欧米を中心に、「生きている健康な動物を傷付けたり殺したりしないで学習する方法」の採用と普及が図られているとのことだ。

「欧米ではいつから動物実験代替法が?」と快作先生に尋ねると、それもそんなに昔からではなく、さらにその20年前くらいからだという。

生きた犬にメスを入れて殺さなくても手術実習ができることは証明されているのに、太田快作が入学した獣医科大学では、「動物を殺さなければ獣医にはなれない」と教授たちが当たり前のことのように言って譲らなかったという。

学生だった太田快作はそれに果敢に反対したが、彼に共鳴して、生きた犬の外科実習を拒否した学生は、ほかに二人のみで、それ以外の学生はついて来なかった。

「動物の命を救いたくて獣医師になるのに、どうして学生たちは生きた健康な犬を手術練習に使って殺すようなことができるんですか?」という私の問いに、快作先生の答えは、

「お金になるペットは救う動物、そうではない保健所にいる犬は殺していい動物、と学生たちは平気で分ける。」というショックなものだった。

「獣医科の教授たちの頭が鈍い。ものを考えない。最初畜産のほうから来てるから動物は殺して当たり前みたいな感覚。悪気がない。」

「学生たちは動物と同じ目線ではない。上から目線で、動物を救ってやってると思っている。(殺されている動物がかわいそうだとか、自分が酷いことをしているという感情がない。)」

「殺すのが当たり前、と教授に言われれば、なんの疑問も持たずに従う。生きた犬を平気で手術している自分がクールだと思うような奴もいる。」

「なによりも、幼い頃から、かわいがる動物と殺していい動物を分けて教えるような教育が感覚を麻痺させる。」

「泣きながら実習している学生もいる。そういうのが本当に気持ち悪い。自分がかわいそう、みたいな。なぜ闘わないのか。」

「獣医のなかにも、金になるペットばかり診て、殺処分される動物たちには関心がない人もいる。」

と快作先生は憤りを隠さない。

(そう言えば、『動物のお医者さん』という、かつて大ヒットしたまんががあった。私は全巻読んでいるが、あれはこういう切実な問題をまったく扱わず、獣医の世界をほのぼのとしたものとして描いた作品だったのだな、と思う。)

化粧品の開発における残虐な動物実験については、少しずつ知られてきているようだが、獣医科大学で生きた健康な犬を手術実習に使って殺していることは、ほとんど一般には知られていない。

日本では、ボランティアの人たちの、自らの生活を犠牲にするような献身的な努力によって、近年は殺処分の数が少しずつ減ってきている。

「ドイツは殺処分がないんですよね。」と言った私に対して、快作先生は、

「ドイツもいいことばかりじゃない。殺処分がないと言っても、もう飼えないから、と動物病院に連れて行って安楽死させる場合は数に入ってないから。それにスポーツとしての狩猟が盛んだったり、いろいろな問題がある。」と答えた。そして、

「欧米のような法律がなくて、しょうもない条例しかない日本が、本当に人の自主性と努力だけでここまで殺処分を減らしたのは、世界でも例がない。」と教えてくれた。

たいへんな苦労をして犬や猫の命を救っているボランティアの人たちがいるというのに、獣医科大学のほうが問題意識を持てずに、殺さなくていい犬たちを殺しているというのは、なんとも受け入れがたい話だ。

生きた犬を手術実習に使わないようにするには、当の獣医科の学生たちが立ち上がらなければどうしようもできないのだが、快作先生は、この問題を、なんとかして世に問うていきたいと言っている。

「裁判を起こすとかね。負けても話題になる。だけど時間がない。」

動物実験代替法についての講演を、快作先生は母校の後輩たちから頼まれたが、結局学生たちは教授たちに丸め込まれてしまい、その講演は中止になったという。

「(教授の言いなりになってしまう学生たちは、)かっこ悪いよね。」と快作先生は言った。

彼は、まだ獣医科大学に入学する前に、たまたま、あるひとりの畜産に関わる人に「動物の手術実習をどう思う?」と問われたそうだ。

そのとき、動物を殺さなくても「代替法」というのがある、と教えられ、今まで当たり前と思っていたことが、実はそうではない、と目からウロコが落ちるように意識が変わったという。

旧弊な考え方にしばられた世界でも、ひとりの進歩的な考えの人の言葉で、ひとりの柔軟な若者が変わることがあるということだ。

私も含め、一匹の犬や猫を本当に大切に思ったことがある人、その子が死んでしまうなんて考えるだけで気が狂いそうだと思ったことのあるそれぞれの人が、「殺さなくていい動物を殺すことを無感覚に受け入れる獣医には診てもらいたくない」という意志を示すことができれば、少しずつでも変えていくことができるのではないだろうか。

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2015年12月15日 (火)

グランプリファイナル

12月13日

グランプリファイナルが終わった。ごく個人的な感想。

浅田真央、胃腸炎でしたか。

体調不良で苦しい状態でもあれだけできる、とわかって、よかったのではないかと思う。

急な体調不良など、様々な難事がふりかかるなかで、それをどう受け止め、どう闘うのか。最高レヴェルの選手が、(まだ引退しないで)その額に輝く汗を見せてくれるのは、本当にありがたい。

あまりいろんなことを気にしすぎずに、ただ自分が満足するまでやりきってほしいと思った。

今回、一番見惚れたのは宇野昌磨。

よく使われる「トゥーランドット」なのに、あの清新さ。

無垢な顔と演技中の豹変。大胆、壮麗、素晴らしいスケール感。

彼は、与えられた振付をただこなしているのではなく、身体と世界を十全に感じながら、自分がどのような美しいフォルムをそこに開いて見せているのかをよくわかっている(に違いない)。

曲と一体化し、勇壮さを見せつけるにも、強さや激しさだけではなく、しなやかさ、思慮深さのようなものを感じさせる。

立ちふさがる重い大きな扉を叩いて、その先に進んで行こうとする勇気と気骨に溢れた若者(少年)。ラストのすごいスピードの場面で光り輝く大海原が見えた。

それからまた、ロシアの少女たちはさすがだった。あんなにかわいかったラジオノワが、女性らしい情緒のようなものを身につけていた。

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次は全日本。

私が今季、とても心惹かれたのは、村上佳菜子のショートプログラム「ロクサーヌのタンゴ」だ。私はこのドラマティックな振付が好きだ。

哀愁や妖しさ、暗い輝きも演じられるようになり、彼女は表現力がどんどんよくなってきていると思う。彼女も引退なんか考えないで、まだ見せてほしいと願っている。

それから小塚崇彦「レスペート・イ・オルグージョ~誇りと敬意~(ファルーカ)」。

股関節や足の痛みがあって十分には演じきれなかったのかもしれないが、私は好きだった。

以前の素っ気ないすーっすーっと風を切るような表現ではなく、重いものを押しのけようとする「抵抗感」が出てきたように感じた。身体の苦痛に耐え、さらに新しいものに挑戦しようとする意志が、彼の演技に出ているように私には見えた。

怪我や病気や不調もあるだろうが、どうか全日本では悔いのない演技をしてほしいと願っています。

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2015年12月10日 (木)

沼辺信一さんと会う 若林奮先生の思い出 

12月5日

川村記念美術館の元学芸員、沼辺信一さんとお会いした。

1時半に待ち合わせて高円寺のべジタリアンレストランVESPERAへ。

まず、若林先生の「振動尺」の展覧会をやるまでの経緯を話してくださった。

それから、若林先生ついての沼辺さんの思い出をうかがった。

沼辺さんのやった「振動尺をめぐって」が、若林先生の生前最後の展覧会になってしまった。展示作品の位置などを決める時、若林先生は病で来られず、沼辺さんが考えて配置したという。

展示について若林先生は非常に厳しい考えを持っていらっしゃったから、沼辺さんもさぞかし苦心されたことだろう。

私も、川村での、ガラス窓の外の光るスダジイの樹に向かって伸びている振動尺の鮮やかな記憶がある。すっきりとして記憶に残る展示だった。

沼辺さんの語った思い出で、最も印象的だったのは、若林先生が、美術館(川村ではない、それより前の)が作ったご自分の展覧会の図録について、大変怒っておられた、ということだ。

「作品の部分のクローズアップはいらない。どこをどのようにアップで見るかは、見る人が決めることだ。」というような発言は、いかにも若林先生らしい。

展覧会の図録をめぐってのエピソードは、もうひとつお聞きした。

沼辺さんは、川村記念美術館での「振動尺をめぐって」の展示の準備のために、1年ほど若林先生の御嶽のアトリエに通っていらした。

そのとき、本棚に並んでいた若林先生の展覧会の図録には、表紙が破られてなくなっているものが、いくつかあったという。そのわけを尋ねると、「嫌だから。見たくないから。」と若林先生はお答えになったそうだ。

若林先生はいつも、「余計なもの」を嫌われた。静かに「外」のものを感じることを阻害するもの、「自然」を傷つけ、圧し殺す、あまりに「人間的な、余計な」もののすべてを。

口数の少なさと、その何十倍もの大きな怒りを秘めた沈黙、若林先生のそういう不機嫌さに、今さらながら、ほれぼれする。

沼辺さんは遠方から長い時間をかけて来てくださったのだが、私からは、若林先生との思い出について、ほとんど話すことがなかった。というより、私が若林先生と「出会っていたこと」の意味を伝えることが不可能で、話せないと思った。

たくさんのお話をお聞きして、気がつくと、夜の11時過ぎになっていた。

・・・

若林先生の、息が詰まるような優しい思い出はいくつもあるが、私がもっとも感激したのは、やはり、若林先生がとても怒っておられた時だ。そのとき、ある表現について、とても怒っているということを私に話してくださった。

「あれはよくない!あの人も不潔な晩年になったものだ。」「だめだ!まったく私の言うことの意味が伝わっていない!」「あのおしゃべりはつまらない。あいつにはもう一切しゃべらせない!」

後になって、このことを誰かに話すと、たいていの場合、私が傷ついたと誤解して慰めているつもりなのか、「それは、ちょうど若林さんの体調が悪かったときだから」などと、私の伝えたかった体験の本質をうやむやにしようとする反応が返ってくるのだが、まったくお門違いだ。

若林先生は、私がいつも疑問に思っていること、違和感があってたまらないことを、はっきり言ってくれたのだ。私にとっては、あんなにも感激したことはない、もっとも大切な思い出だ。

若林先生が私に率直に話されたのも、そのことについて私も強い違和感を持っていることを、若林先生こそが良く理解してくださっていたからだ。

(このことは、いつかきちんと書かなければならないと思っている。)

静かにその前に佇んで「外」を感じて考えるための場に、それを妨げる「人間の表現」が立ちはだかる場合が、おうおうにしてある。

ごく微弱な声を掻き消し、微細なものの息の根を止めてしまう「表現」を山ほど知っている。

私は、自分の触覚的な顫動状態を妨げるものに、明らかに私に見えているものに対して、なかったことにしろと抑圧をかけてくるものに激しいストレスを感じる。

しかし私はそれをはっきりと言葉に表すことができない。あらゆる「表現」の前で二重に抑圧を感じる。

芸術をめぐってでさえ、あるいは芸術だからこそ、欺瞞や転倒のうえに、「なあなあ」とすべてをだらしなく許し合っていることがあまりに多い。そうしたものへの拒絶のしるしとして、若林先生は「限界」とか「領域」という言葉を使っていたのではなかったか。

人がなにかを表現することの根源をとらえようとしていたからこそ、その問題の核心から目を逸らさせるものに対してはいつも、若林先生は憤然と怒っていた。だから私は若林先生を心から信頼し、尊敬することができた。

若林先生は、私に「僕の考える絵の範疇にはいっているもの」という言葉をくださった。私の考える「絵の範疇」「美術の範疇」にはいっているものだけを大切にすればいいのだと。

(若林奮先生と銀座の展覧会のあとで  2000年銀座)
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2003年の2月の寒い日だったと思う。川村記念美術館「若林奮 振動尺をめぐって」に、私は詩人の吉田文憲といっしょに行った。そのときは、その年の10月に若林先生が亡くなるなんて、想像もできなかった。

「若林先生は・・・」と女性の学芸員さんに訪ねると、何日か前に杖をついていらした、と聞いた。それから、帰る前にその学芸員さんが追いかけてきて、「若林先生からお二人に。」と図録をいただいた記憶がある。

そのときのことを、吉田文憲は「見ること(読むこと)の暴力的な顕われについて――賢治作品、そして若林奮の「振動尺」、福山知佐子の絵にふれて」(『宮沢賢治 妖しい文字の物語』思潮社)という文章に書いていた。

そのなかには、「非人称の情動とは、それを肯定し、それを生き延びようとするときに直面する、存在の(むしろ生存の存亡の)危機のことである。」というくだりがある。

「馬鍬の下に咲く花、但し処刑機械としてではなく(むろんここではカフカを意識して)。」

そのあとに、私が以前、若林先生に宛てて書いた手紙が引用してある。

その手紙は、若林奮作品『所有・雰囲気・振動』を見た時に私の中に強烈に蘇ってくる幼い日の記憶――西新宿の古い欠けた石段に何時間も座り込んで、石の割れ目から生えているムラサキゴケやツメクサやカタバミを見ていた五、六歳の頃の思い出。それから現在、植物に対峙して私が何を見ているのかについて書いたものだ。

吉田文憲は、ここで「絶対的な裂け目」について書いている。

「――誰もがそれを見れるのではない。

――誰もがそれを読めるのではない。

――誰もがそれを読めるのではないということのために闘うべきだ。」

「――なにが見えたのか、と問うべきではない。なにが見えるようにされたのか、と問うべきだ。」

私が若林奮と出会っていたのは、その「絶対的な裂け目」のところ(「場所」とも「時」とも呼べない「そこ」)だと思っていたし、そう今も信じている。

12月9日

11月27日に鎌ヶ谷の病院に行ってから、ずっと微熱と頭痛。風邪薬を飲まないほうがいいのだが、時々、かあーっと熱が上がって吐きそうになる。

8日の夜、急に立っていられないほど熱が出、吐きそうになってから、きょうは1日3回、6時間おきに薬を飲んで作業した。

きょうはヴィジョンが浮かんで、今までの構成を大幅に変更した。

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2015年12月 6日 (日)

阿部弘一先生のお母様のオルガン / 宮益坂ビルディング

12月3日

阿部弘一先生が、かねてより受け入れ先を思案されていた(私にもそのことについて相談をされていた)、お母様の使っていた古いオルガンが、十一月十二日(奇しくも阿部先生のお父様の八十八回目の命日)に横浜の某宅にもらわれていった、とのお手紙に返事を書いていた。

「生涯傍らにあった「母のオルガン」とこのような形で別れてしまって間違っていなかったのか、爾来果てしない寂寥感に陥っています。」との手紙の言葉に、どうお返事を差し上げたらいいかわからなかった。

それで、素朴な色鉛筆で、二日かけてちまちまと、阿部先生のお宅の、訪れた客をまっ先に迎えてくれる位置におかれていた、オルガンの絵を描いた。

製作年大正十五年(山葉オルガン・第七号) 製作№179407(通し№)。

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オルガンの後ろの壁には毛利武彦先生の版画(蟹、たんぽぽの穂綿など)が幾つも飾られていた。

阿部先生と私が知り合ったのは、阿部先生がわが師(「モン・メートル」)毛利武彦のご親友だったからだ。私がまだ大学を出て間もない頃、毛利先生の御宅で、「僕の友人がポンジュを訳してるんだけど・・・」と本を見せていただいたのが最初だ。

阿部弘一先生のように、ほとんど完全に「俗世との通路を断った」表現者に、私は他に会ったことがない。

阿部先生のオルガンについては、現代詩文庫の阿部弘一詩集収載のエッセイがある。阿部先生にとって、それが、いかに大切な記憶を蘇えらせる「風の音」を鳴らしたかが、そこに書かれている。

阿部弘一先生は、1927年、羽根木に生まれた。阿部先生のお父様は昭和二年十一月十二日、三十二歳で病没。その時、阿部先生は生まれたばかりだった。

昭和二十年二月、阿部先生は十七歳で陸軍予科士官学校に入学した。それは、「出征と同断」だったという。「当時大久保にあった陸軍兵器行政本部技術嘱託として勤務していた」お姉さまが、大久保駅まで阿部先生を見送られたそうだ。

「それから一か月後の三月十日、さらに五月と、米軍機の徹底した空爆によって文字通り東京の町は焦土と化した。」

「米軍機の空爆の合間を縫うようにして」、陸軍予科士官学校にお母様とお姉さまが面会に来られた日のことを、阿部先生は次のように回想する。

「晴れた春の日曜日の武蔵野の原・・・・・・。練兵場にはヒメジョオンが萌え、ひばりのさえずりさえ聞こえていたではないか。すべて戦争という巨大な蟻地獄の時の斜面の幻影に過ぎなかったかのように。」

阿部先生の詩に繰り返し出てくるヒメジョオンが記憶に強烈に刻まれる。

戦争末期、阿部先生のお母様とお姉さまは、山形に疎開した。「疎開早々、田圃の真中で米軍機の機銃掃射を受け」、「そして二週間後、あっけなく戦争は終った」という。

お姉さまもまた、「昭和二十五年、戦争中に感染した肺結核のため、二十五歳で聖処女のように亡くなってしまった。」

「がらんとした」羽根木の御宅の玄関には、お母様の「オルガンだけがポツンと残されていた。」

「母は、姉が亡くなると、歎きのあまり、永い間オルガンに手を触れるような生活はみずからに許さないようであった。しかし、嫁が来、孫が生まれた頃になると、乞われるままに、いかにも荘重な曲の一部(おそらくは若い頃多少得意としていた曲であったかもしれない)を、硬くなった指をかばいながら、戯れに二、三度弾くようなことがあった。」

そして阿部先生は、思い出深いオルガンを、1990年代になって、修理に出された。

「その音色は、七十年余も昔の風の音を取り戻していた。正真正銘の風の音だ。亡くなった父母も姉も帰らないが、風がいかに人を蘇えらせ風景を蘇えらせることか。」(「母のオルガン」――無常という尋常2 「獏」二十八号、1994年9月)

「無情という尋常」。古いかけがえのない記憶を蘇えらせてくれる音や匂いが、どんなに大切なものか、私もわかっているつもりだ。

人はなぜ、文章を書き、絵を描くのか。

12月4日

渋谷ウエマツ画材のセールに行き、宮益坂ビルディングで行われている社長の講習に寄った。

この昭和28年築の、日本初の公営分譲マンションも、今年いっぱいで壊されるそうだ。

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社長の食事制限のことが気になり、お渡ししようとサプリを買っていたのに、玄関に忘れて来てしまった。風で熱があるせいでへまばかりやっている。社長の方が私よりはずっと元気そうだ。

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