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2015年12月10日 (木)

沼辺信一さんと会う 若林奮先生の思い出 

12月5日

川村記念美術館の元学芸員、沼辺信一さんとお会いした。

1時半に待ち合わせて高円寺のべジタリアンレストランVESPERAへ。

まず、若林先生の「振動尺」の展覧会をやるまでの経緯を話してくださった。

それから、若林先生ついての沼辺さんの思い出をうかがった。

沼辺さんのやった「振動尺をめぐって」が、若林先生の生前最後の展覧会になってしまった。展示作品の位置などを決める時、若林先生は病で来られず、沼辺さんが考えて配置したという。

展示について若林先生は非常に厳しい考えを持っていらっしゃったから、沼辺さんもさぞかし苦心されたことだろう。

私も、川村での、ガラス窓の外の光るスダジイの樹に向かって伸びている振動尺の鮮やかな記憶がある。すっきりとして記憶に残る展示だった。

沼辺さんの語った思い出で、最も印象的だったのは、若林先生が、美術館(川村ではない、それより前の)が作ったご自分の展覧会の図録について、大変怒っておられた、ということだ。

「作品の部分のクローズアップはいらない。どこをどのようにアップで見るかは、見る人が決めることだ。」というような発言は、いかにも若林先生らしい。

展覧会の図録をめぐってのエピソードは、もうひとつお聞きした。

沼辺さんは、川村記念美術館での「振動尺をめぐって」の展示の準備のために、1年ほど若林先生の御嶽のアトリエに通っていらした。

そのとき、本棚に並んでいた若林先生の展覧会の図録には、表紙が破られてなくなっているものが、いくつかあったという。そのわけを尋ねると、「嫌だから。見たくないから。」と若林先生はお答えになったそうだ。

若林先生はいつも、「余計なもの」を嫌われた。静かに「外」のものを感じることを阻害するもの、「自然」を傷つけ、圧し殺す、あまりに「人間的な、余計な」もののすべてを。

口数の少なさと、その何十倍もの大きな怒りを秘めた沈黙、若林先生のそういう不機嫌さに、今さらながら、ほれぼれする。

沼辺さんは遠方から長い時間をかけて来てくださったのだが、私からは、若林先生との思い出について、ほとんど話すことがなかった。というより、私が若林先生と「出会っていたこと」の意味を伝えることが不可能で、話せないと思った。

たくさんのお話をお聞きして、気がつくと、夜の11時過ぎになっていた。

・・・

若林先生の、息が詰まるような優しい思い出はいくつもあるが、私がもっとも感激したのは、やはり、若林先生がとても怒っておられた時だ。そのとき、ある表現について、とても怒っているということを私に話してくださった。

「あれはよくない!あの人も不潔な晩年になったものだ。」「だめだ!まったく私の言うことの意味が伝わっていない!」「あのおしゃべりはつまらない。あいつにはもう一切しゃべらせない!」

後になって、このことを誰かに話すと、たいていの場合、私が傷ついたと誤解して慰めているつもりなのか、「それは、ちょうど若林さんの体調が悪かったときだから」などと、私の伝えたかった体験の本質をうやむやにしようとする反応が返ってくるのだが、まったくお門違いだ。

若林先生は、私がいつも疑問に思っていること、違和感があってたまらないことを、はっきり言ってくれたのだ。私にとっては、あんなにも感激したことはない、もっとも大切な思い出だ。

若林先生が私に率直に話されたのも、そのことについて私も強い違和感を持っていることを、若林先生こそが良く理解してくださっていたからだ。

(このことは、いつかきちんと書かなければならないと思っている。)

静かにその前に佇んで「外」を感じて考えるための場に、それを妨げる「人間の表現」が立ちはだかる場合が、おうおうにしてある。

ごく微弱な声を掻き消し、微細なものの息の根を止めてしまう「表現」を山ほど知っている。

私は、自分の触覚的な顫動状態を妨げるものに、明らかに私に見えているものに対して、なかったことにしろと抑圧をかけてくるものに激しいストレスを感じる。

しかし私はそれをはっきりと言葉に表すことができない。あらゆる「表現」の前で二重に抑圧を感じる。

芸術をめぐってでさえ、あるいは芸術だからこそ、欺瞞や転倒のうえに、「なあなあ」とすべてをだらしなく許し合っていることがあまりに多い。そうしたものへの拒絶のしるしとして、若林先生は「限界」とか「領域」という言葉を使っていたのではなかったか。

人がなにかを表現することの根源をとらえようとしていたからこそ、その問題の核心から目を逸らさせるものに対してはいつも、若林先生は憤然と怒っていた。だから私は若林先生を心から信頼し、尊敬することができた。

若林先生は、私に「僕の考える絵の範疇にはいっているもの」という言葉をくださった。私の考える「絵の範疇」「美術の範疇」にはいっているものだけを大切にすればいいのだと。

(若林奮先生と銀座の展覧会のあとで  2000年銀座)
S0016

・・・

2003年の2月の寒い日だったと思う。川村記念美術館「若林奮 振動尺をめぐって」に、私は詩人の吉田文憲といっしょに行った。そのときは、その年の10月に若林先生が亡くなるなんて、想像もできなかった。

「若林先生は・・・」と女性の学芸員さんに訪ねると、何日か前に杖をついていらした、と聞いた。それから、帰る前にその学芸員さんが追いかけてきて、「若林先生からお二人に。」と図録をいただいた記憶がある。

そのときのことを、吉田文憲は「見ること(読むこと)の暴力的な顕われについて――賢治作品、そして若林奮の「振動尺」、福山知佐子の絵にふれて」(『宮沢賢治 妖しい文字の物語』思潮社)という文章に書いていた。

そのなかには、「非人称の情動とは、それを肯定し、それを生き延びようとするときに直面する、存在の(むしろ生存の存亡の)危機のことである。」というくだりがある。

「馬鍬の下に咲く花、但し処刑機械としてではなく(むろんここではカフカを意識して)。」

そのあとに、私が以前、若林先生に宛てて書いた手紙が引用してある。

その手紙は、若林奮作品『所有・雰囲気・振動』を見た時に私の中に強烈に蘇ってくる幼い日の記憶――西新宿の古い欠けた石段に何時間も座り込んで、石の割れ目から生えているムラサキゴケやツメクサやカタバミを見ていた五、六歳の頃の思い出。それから現在、植物に対峙して私が何を見ているのかについて書いたものだ。

吉田文憲は、ここで「絶対的な裂け目」について書いている。

「――誰もがそれを見れるのではない。

――誰もがそれを読めるのではない。

――誰もがそれを読めるのではないということのために闘うべきだ。」

「――なにが見えたのか、と問うべきではない。なにが見えるようにされたのか、と問うべきだ。」

私が若林奮と出会っていたのは、その「絶対的な裂け目」のところ(「場所」とも「時」とも呼べない「そこ」)だと思っていたし、そう今も信じている。

12月9日

11月27日に鎌ヶ谷の病院に行ってから、ずっと微熱と頭痛。風邪薬を飲まないほうがいいのだが、時々、かあーっと熱が上がって吐きそうになる。

8日の夜、急に立っていられないほど熱が出、吐きそうになってから、きょうは1日3回、6時間おきに薬を飲んで作業した。

きょうはヴィジョンが浮かんで、今までの構成を大幅に変更した。

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