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2016年6月

2016年6月21日 (火)

多摩川 干上がった川底を歩く

6月19日

夏至近い蒸し暑い日の夕方。久しぶりに友人Mと多摩川へ。

駅から川まで歩く道で、電線にとまって、ツーピー、ツーピーときれいな声で鳴いている鳥(シジュウカラ?)がいた。

「若さえずり」というのだろうか、その澄んだ大きな声があまりに清らかだった。

川はだいぶ干上がっていて、端っこのほうに細く流れていた。増水の時に川底だった部分はすっかり乾いて、いろんな植物が生えていた。

恐竜の骨にも、細い船にも見える白茶けた大きな流木。怒涛の流れの中にいることを想いながら川底にいた。

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ハルシャギク(波斯菊、蛇の目草)の黄色が散らばる乾いた空間。花は陽のほうを向いているので、薄い陽を背にして撮れば、花は空中に浮遊した小さな陽の正円の集まりとなる。

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ぽつんと咲いていた可憐なムシトリナデシコ。雨が降って川が満ちたら、この花は流れの中に沈んでしまう。
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燕たちが、河原を低く速く旋回していた。空の高いところには大きな凧のように浮かぶトンビがいた。

水辺には優雅なダイサギが。

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干上がった堰の上を歩く。

まっすぐに続く鉄橋と巨大なチョコレートのようなコンクリートの造形。

このシンプルなかたちの繰り返しに、なにか未知の方向へつながっているような、子供の頃のよくわからない憧憬のような気持ちになる。

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太い灰色の柱と銀色に光る水平の水たまりがシュールに見える場所。

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小さい頃、空き地に残された家の土台の部分や、古びた階段や、崩れた塀、かつて何かだったものに植物が絡み合う場所が好きでたまらなかった。

そこに見えない不思議な建物や大きな宮殿を見つけて、えんえんと飽きずに遊び続けることができたからだ。

今でも廃墟と植物が大好きで、レジャーランドのようなところが嫌いなのに変わりはない。

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きょうの目的のひとつだった「忘れ草」(デイリリー、ヤブカンゾウ)がぽつんと咲いているのを、川底の白い泥の中に見つけた。

子どもの頃、「忘れ草」という美しい名の花を題材にした物語を読んだ。山道でこの花の美しさに惹かれて手折った若者が、すべてを忘れて戻れなくなってしまい、少女はいつまでも若者を待ち続けている、という話。

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沢渡朔さんの60年代の写真に憧れて、人のいない忘れ去られたような、何気なくてちょっと不思議な場所で、なにか物語がそこに動いているような写真を撮る試み(遊び)をMと共謀してやった。

空の皺のように視点を吸引する光る雲があった。同時に汚泥の腐敗した匂いがあった。

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それぞれの草たちがふるえ、なびき、「細かい様相が絡まりあい、おびただしい線と点とが混じりあう絵」である川沿いの野原。その中でじっと草の息をかいでいるのは幸せだ。
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駅の方へ戻る道で、来たときに鳴いていた鳥(シジュウカラ?)が、まだ同じ電線の上で健気に鳴いていた。

6時頃、場所を移動して、バードサンクチュアリのほうへ。

浅川の橋のないところ、飛び石の上を渡ったのだが、川の真ん中の流れが速いところで、水流に隠れた石に(表面がぬるぬるして滑りそうに見えたので)うまく飛び移れなくて、足をふたつの石にかけて開いたまま往生してしまい(笑)、あとから筋肉痛になった。

かつて「オフィーリアの湖」と名前をつけていた沼が、緑の藻に覆われて澱んでいた。

かつてこの沼でアオサギが魚を捕るのを息を殺して見つめていた思い出があるが、今の沼の状態では魚が住めなさそうだ。

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鬱蒼とした木陰に咲く白いレースのようなシシウドの花を撮りたかったのだが、すでに夏の繁茂に覆われていて森の中にはいれなかった。

ここは保護区域なので、この辺りではバイクの乗り入れやラジコンはもちろん、草刈りも禁止、という立札があった。たまにここで出会うラジコンを飛ばしている4、5人のグループの人たちは、鳥たちのストレスになるので本当にやめてほしい。

ハルジオン(春紫苑)の季節が終わり、土手はヒメジョオン(姫女苑)でいっぱいだった。

春紫苑と姫女苑は葉と茎と花のつきかたの違いで見わけがつく。実際の見た目の雰囲気は、「春咲く紫苑」のハルジオンよりも「姫」「女」とつくヒメジョオンのほうが、ずっと直線的で固く乾いた感じで男性的に感じる。

私にとって春紫苑は、その茎の匂いも官能的な春の最初を感じさせる花であり、姫女苑は夏へと動いている季節と風を感じさせる花である。

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2016年6月12日 (日)

『デッサンの基本』 第25刷 素描や絵画をめぐる遠くて近い記憶

6月10日

『デッサンの基本』(ナツメ社)が、また増刷となりました!これで第25刷となりました。

買ってくださったかた、ありがとうございます。

自分がつくった本を、どこかで読んで(見て)くれている誰かがいる、と思うと本当に嬉しく、ありがたく思います。

『デッサンの基本』が、どなたかのデッサン(素描)のためのヒントやきっかけになることがあれば、これほど喜ばしいことはありません。

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素描について

なにかを描こうと思う時、うまく描こうと思うことより、その対象のどこに惹かれるのかを「意識して」、それを大切に描くことだけが肝心だと思います。

私が敬愛するドイツの画家は言います、「私は愛するように素描する」と。

短い時間でなにかを素描するとき、もっとも大切な「自分がその対象に惹かれる理由」だけが描かれて、あとのものが抜け落ちてしまえば、最高に「絵」になるのに、と思う。

しかし、それがなかなか難しい。

「思い込み」を離れて「自分が見たものから導かれる線」を引くことが大切だと思います。

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素描や絵画をめぐる遠くて近い記憶

植物をよく見て、鉛筆の線だけの絵を描いて、楽しかった最初の記憶がある。

小学5年生のはじめに、新しく転任してきたY先生が担任になり、最初の授業が、自由に絵を描くというものだった。

皆、絵の具を使って思い思いに絵を描いたが、私はHBの鉛筆だけで、教壇の上の花瓶に活けられていたカーネーションの束を見ながら描くことに決めた。

私はその時一番前の席で、そのカーネーションのちまちました花の塊と細い茎、細いなよやかな葉をきれいだと思っていたからだ。

そして大雑把に省略してごまかさないで、できるかぎり細かく見たままを線で描く、というのをやってみたかったのだ。

カーネーションの花弁は複雑で、縁にギザギザがあって、茎も細くて節があり、葉の付け根も繊細すぎて、かたちをとるのがとても難しかった。

ひとつの花から描き始め、下のほうまで茎を追って線を引くうちに、葉のつきかたや茎の重なりなどの位置関係のつじつまが合わなくなってしまう。

見た通りに、ごまかさずに描こうとすればするほど、眼も頭も疲れて、とても苦しかったのを覚えている。

しかし同時に、そこに自分の眼の体験を確かに刻んだような達成感があった。

その時、全体のつじつまは合わなくても、自分が美しいと感じているもの、自分がカーネーションの中に見つけた「たくさんの細い線」を、自分なりに鉛筆で紙の上に残せたことに激しい喜びを覚えた。

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小学6年生の時、図工の先生が石井先生だったのは幸運だったと思う。

その日のテーマは「友だち」だった。花にかぎらずなんであれ細部に魅力を感じ夢中になってしまう私は、図工の時間内に絵を仕上げることができなかった。

石井先生は、そんな私に、(先生が採点したあと)、放課後、図工室に残って気がすむまで絵を仕上げていい、と言ってくださった。

私はそれから何日も居残りさせてもらうことで、友だちが着ている服の皺の微妙な反射の色を、じっくり時間をかけて描いた。私は机に向かう友達の後ろ姿を描いていた。

しーんと静かな図工室の絵の具や接着剤の汚れが染みついた、年季のはいった分厚い黒い木の机。そこでひとりぼっちで絵に集中できたのは本当に素晴らしい体験だった。

そこで、眼の体験に迷い込む喜びとともに、どこにこだわるのかで絵は無限に変わり、絵がいつ終わるのかを自分ではわからないことを知った。

「絵画鑑賞」の時間に、ダリの「記憶の固執(柔らかい時計)」や、ベン・シャーンの「赤い階段」を見せてくださったのも石井先生だ。小学生の時にこれらの絵から受けた衝撃は今もずっと残り続けている。

小学生だった自分を子ども扱いしないで美術の体験をさせてくださったことに、とても感謝している。

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10代、20代の頃はなかなか柔らかい線が引けなかった。高校3年生の一年間、美大受験予備校に通った弊害かもしれない。

今でも自在に線は引けなくて苦しいが、若い頃は今よりもっとゆっくりと、硬いたどたどしい線しか引けなくて不自由だった記憶がある。

「かたち」を一生懸命追っているので、けっこう集中力を要し、すごく疲れてしまう。

18歳の頃に描いたアジサイの素描。あたりをつけてから葉を描いている。

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20歳くらいの時に描いたマーガレットの素描。これも「かたち」を一生懸命とっている。正円を基(もと)にしたかたちの花ではなく、めくれたり歪んだりする花びらのしなやかさを追う気持ちで描いているのだが、硬い線。

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硬い、しなやかさが足りない。

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20歳くらいの時に描いた八重のチューリップ、アンジェリーケの素描(鉛筆、色鉛筆)。自分なりに格闘して描いたが、硬い線。

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昔から、八重のチューリップと、花の下にある葉とも花弁とも言えない部分に惹かれていた。神秘的な感じがするからです。

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このアンジェリーケという種類は、薔薇や牡丹のように桃色の花弁が重なったとても豪華で華やかなチューリップだ。花弁の色の微妙な濃淡をよく見て描いた。

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20歳の頃に描いたスプレー菊。薄ピンクの小さな花の中に微妙な色の変化を見つけることを意識して描いた。

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描くことに疲れてしまって、描くことが苦しくつらくなってしまったことがよくあった。

「こういう描き方すると疲れるでしょう。」とも言われた。

しかし、「隅々までよく見たとおりに」、「自分が面白さを感じたままに」描きたかった。それは受験予備校で習ったやりかたではなかったが、「単純化したり、くずしたり」することにはなおさら興味を感じられなかった。

今も「見たとおりに」描きたいことに変わりはない。

見たものが絵の中で「運動」し、「変容」することは、「絵を崩す」こととは違う。

そして私は素描を「本画」のための「下描き」や「習作」とは考えない。

植物を描くとき、一瞬の「不安定さ」、「個体の有限な生」の中の「非限定的なもの、わからないもの」を描くことで、一枚の絵の中に「運動」を描くことができると思う。

今は、昔よりは疲れずに鉛筆で描くことができます。

ひとつの理由は、鉛筆を持つ手に力を入れ過ぎないでも線を引けるようになってきたからです。

昔は強く鋭い線に惹かれたけれど、今は以前よりずっと筆圧の弱いあえかな線を引くことや「描かない部分」に興味があるから、とも言える。

 

 

 

 

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2016年6月 5日 (日)

沢渡朔展 「Rain」、「Nadia」、「少女アリス」、代官山蔦屋書店、東雲

6月4日

沢渡朔さんの新作「Rain」の展覧会(YUKA TSURUNO GALLERY)のご案内をいただいたので、久しぶりに沢渡さんにお会いしたく、行くことにする。

その前に代官山蔦屋書店の沢渡朔さんの「Rain」、「Nadia」、「少女アリス」の展示を見てから行こうと、すごく久しぶりに代官山へ。

昔は、ひっそりとした古い住宅とぽつぽつとあるシックなアンティークの店が好きで、たまに散歩に行っていたが、町はだいぶ派手に変わっていた。

旧山手通り、ヒルサイドテラスは人がいっぱいで、高級感ありすぎで、息苦しくなってくる。

HRMの横のディスプレイ。ここだけは何気なくてよかった。

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どこかで拾ったのだろう熟して腐った梅の実が素敵。
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なぜか中南米原産のジャカランダの樹を発見。ジャカランダの樹を実際見たのは初めてだったので興奮。一瞬、桐の花かと思ったが、近づくと葉がネムノキにそっくりで桐の葉とは全然違う。キリモドキ属らしい。花も桐よりも小さくてたくさんついていて、薄紫色にくすみがない。
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代官山蔦屋書店、派手な建物で、中の喫茶店も高級でびっくり。少しでも本を買う人が増えるのはとてもよいことだけども、面展示が多いぶん、置いてある本は限られるのかな、と思った。

沢渡朔さんの写真展示のコーナーには、Nadiaの直筆の日本語で描かれた手紙がガラスケースの中に展示してあった。

以前にも見たことがあるが、この手紙は本当に胸が痛くなるような作品。自分を捨てた沢渡さんへの恨み言を書いているのだが、なまなましくも美しい詩と絵になっている。

「Nadia」の大きなプリントが一枚売れていた。(60万円だか70万円だかだった。)

自分だったらどれを選ぶだろう、と思いながら見る。「少女アリス」の汽車の窓から曇り空を見上げているアリスか、古い廃屋の棚の中にいるアリスか。

見終わってから駅の裏側の高台をフラフラ散歩。昔、好きだったアンティーク屋はなくなっていた。コンビニでおにぎりを買ってかじりながら歩く。

このガードレールの手前だけぽっかり空間があいている。ちょっと不思議な場所。

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古いアパートの横の坂を下り、渋谷駅に向かって歩く。

坂の脇に紫のブッドレア(フサフジウツギ)が咲いていた。そう言えば5月、6月は薄紫の花が多いみたい。ジャカランダやブッドレアのほかにもアジサイ、リラ、ラベンダー、クレマチス、アイリス、ヤグルマギクなどなど。

線路沿いの道は廃れた感じの古い建物が残っている。坂の上の華やかさとの落差がすごい。

なぜか残ったままのボロボロの看板。

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この豆腐屋の建物も昔からある。
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5時過ぎ、渋谷駅に着く。

渋谷から東雲駅まで大崎経由のりんかい線直通で550円もすることに驚く。

東雲駅に降りて、ほとんどまったく人気のないがらんとした倉庫街だったので、さらに驚く。

目指すギャラリーは巨大倉庫のひとつの中にあった。暗い階段を上る。

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「Rain」の展示会場。入り口に藤城清治さんからのお花があった。
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久しぶりに沢渡朔さんにお会いできて嬉しい。「ここ、すごく遠かったでしょう。」と言ってくださる。
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「ここに来る前に代官山の蔦屋書店の展示を見て来ました。」と言うと「いつも見てくれて申し訳ない。」と困ったように笑う沢渡さん。

「ギャラリー内の撮影はまずいですか?」と聞くと「いいんじゃない。」とおっしゃったので展示会場を歩く沢渡さんを何枚か撮っていたら「相変わらずだね・・・」と笑う。

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雨の写真は10年くらい前から撮り続けていたのだそう。沢渡さんは女性を撮ることが多いが、雨にけぶるものたちや情景にエロティークなものを感じて撮っている感覚が伝わってくる。

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ライトが暗闇に滲んだ絵を描く黒い夜の雨と、ほの暗く青い昼の雨とがある。どれもメランコリックな都会の雨だ。

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鉄塔や、工事中の機材や、街灯や、公園の動物のかたちをした古ぼけた遊具や細い木々たちが、雨にけぶって、記憶をたどる詩的なものに変容していく。

かんかん照りが苦手で、曇りや夕暮れや雨の薄暗く滲んだ空気が好きな私には、たまらなく共感できる世界だった。

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ギャラリーのある倉庫の2階から海が見えるかと窓を開けて覗いていたら、いきなり隣に沢渡さんが。「何が見えるの?」と言われ「もっと海が見えるかと思ったんですけど、あまりいい景色じゃありませんでした。」と。

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沢渡朔さんは初めてお会いした時からまったく変わらない。好奇心旺盛で、ふとさりげなく面白いものを見つけることに興味があって、気取りがなくて、口数が少なくて、好き嫌いがはっきりしていて、正直で、若々しくて、権威的なところがない。

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先日宇野亜喜良さんにお会いしたことなどお話しする。「宇野さんとはよく会うんだよ。あの人は本当に変わらないねえ。」とおっしゃっていた。

7時頃、「それでは失礼します。」と帰る挨拶をすると「福山さん、元気でね。」と心のこもった言葉をいただいた。私が身体が弱くてしょっちゅう体調を崩しているので心配してくださっているみたい。

帰り道に見つけた倉庫。白いペンキがなぜか連続水玉模様に剥げているところ、シャッターも斜め連続模様に錆の絵ができている不思議な造形に惹かれた。

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海を見るために新末広橋を途中まで上ってみる。

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さびしい風景。海風が強いのに堤防の上でひとり釣りをしている人がいた。

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遠くに葛西臨海公園の光る観覧車が見えた。

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