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2016年9月 4日 (日)

対論:未知のアントナン・アルトー 

9月2日

室伏鴻アーカイヴカフェ、SHYでのイヴェント「対論:未知のアントナン・アルトー」に(編集のOさんと)行ってきた。出演は宇野邦一さん、 鈴木創士さん、荒井潔さん、岡本健さん。

早稲田にある、かわいい小さな喫茶店は超満員。定員15名くらいと聞いていたのに、40人くらい(?)集まった。今日はひどく暑く、会場は熱気むんむん。

河出書房新社から『アルトー後期集成 2』が出たので、それに関わるお話。

写真は左から荒井潔さん、岡本健さん、鈴木創士さん、宇野邦一さん。

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私の心がすごく顫動した話は、

「ピエロ・デラ・フランチェスカの塵と光」

フランチェスカには光る不思議な粒子があると思う。色の中の色。色の外の色。

「アルトーは崩壊そのものを詩的体験としてつぶさに描き続けた」ということ。

「狂気と言われる状態で、同時にアルトー、ニーチェ、ゴッホははっきりとヴィジョンが見えていた」ということ。

「アルトーは常に書いていた。地下鉄でもデッサン、線を引いていた。ベケットも常に書いていた。散歩、息、食べ方、沈黙、すべてが文章になる稀有な詩人」ということ。

そして「アルトーは自分の経験の固有性が盗まれることを極端に嫌った。決して言語以前の世界を目指しているわけではない」ということ。

私は、共有不可能な固有の体験がどのようなものであるか想像しようともせずに、私の言葉のうわずみだけを有頂天で盗用したり、私の身体にかかる重圧を面白がって収奪した人間を殺してやりたいほど憎んでいる。

私は自分たちはなにひとつ身体に損傷を負わずに、当事者を置き去りにして「知のおしゃべり」を楽しむ人たちが大嫌いだ。なんでもすぐに「わかります、わかります」と言ってくる人が嫌いだ。

不安で心細く張りつめた真に自由の旅ではなく、「漫遊」をしてものを書く人が嫌いだ。

立ち止まって眼を凝らして見ることさえせずに、些末なことについて、さも何か感じたように大袈裟なそぶりをして見せる人が嫌いだ。神経が死んでいるのだと思う。

そういう体験がよみがえってきて、胸が焼けつくような感じがした。

・・・・

4人のかたがたのお話は、たいへん内容が濃く、私は聞き書きしていたが、A4の紙、3枚の表と裏にびっしり書いても足りなくて、そのあとは小さな余白に書き連ねた。

その聞き書きの中から、ほんの一部を自分のためのメモとして、ここに抜き書きしておきたい。

宇野邦一さん・・・

アルトーの生誕120年になり、アルトーの読み方はどんどんかわってきている。

アルトーは実験演劇の提唱者として世界中で読まれた時期があった。寺山修司は影響を受け、成功。

精神病院でデッサンとともに書き続けた400冊のノートに触発されて、デリダ、ドゥルーズ、ガタリなど新しい哲学が生まれた。

荒井潔さん・・・

第3巻(『アルトー後期集成 3』)、『カイエ』について。

フランスでも大きな動き。『カイエ全集』が2012年、2015年にまとめて出る。

第2巻(『アルトー後期集成 2』)、『手先と責苦』。最後の作品集。死後30年。反社会、反宗教。

乱暴な言葉も細心の注意を払って書かれている。何度も推敲。口述筆記。断片。

『冥府の臍』、『神経の秤』、あえて雑然。

3部構成と序文。1947。序文の語りが奇妙。非人称。予言者。

第1部「断片化」。8つの独立したテクスト。

息もたえだえに行われる文化。身体を持つ前に根絶やしにされたひとつの文化。

トーテム。手に負えない獣性の深い穴。私の殺されたトーテムたちを寄せ集める。

損傷された身体をなんとか再集結しようとしているみじめな胃袋。

人間以前のけもの。まだ生まれていないが、大地が与えてくれるであろうもの。

現存の文化の外に立つ。

文盲。神秘。人間の生まれていないトーテム。

ポポカテペトル。文化の再検討。人間と身体の根本から見直し。

一者と自我・・・己を見ない。

二者・・・常に見る。

鏡像という分身を拒絶。砕け散った、内側から生きられない身体。それを見る眼。死の模造。

ヨーロッパのシミュラークルを離れ、自分の生きた身体をもって横断する。

「家畜小屋の母たち」。ロートレアモンについての手紙。ふくれあがった魂の袋。血を流す肉色の袋。

6つ追記。女性たちが死体として。アフォリズムではない、ヴィジョン。私は見た。動詞。

フラグマンタシオン。「断片化」されたもの。間隙。

不可視の統一体。身体の作業。

第2部「書簡」。手紙の受け取り手は生き証人。相手に態度決定を迫る。

1.閉ざされた世界、夢、葛藤。

2.外界の人に訴える。

3.社会への反撃。言礫(ことつぶて)。アンテルジェクシオン。

第3部「言礫」。いわゆる正常な、しかし空疎な意味を削ぎ落とし、凝縮した言葉をちぎっては投げかける。

三幕の復讐ドラマ。出版計画がとん挫したことで一冊になった。書物が必然的にまとう身体構造が明らかになった・・・「残酷」。晩年、3という数字を激しく嫌悪。

『手先と責苦』。ノートの裏。構成主義的側面。論理を構築する。

ポール・テヴナン・・・意味で読めるものとしての『カイエ』。

ローラン・ド・ブルイエ(?)・・・読み方を3つくらいに分けた。1、理論でまとめる。2、反復になるが、これは正しいとつき従う。3、理性的な読み、つまづいて止まる。ブルイエとしては3。

アルトーは意味を突き抜けてしまうくらい意味がある人。極端に意味の人。身体の叫びなんだから意味なんて考えなくていい、というのは怠惰。

鈴木創士さん・・・

ポール・テヴナン、「わが心の娘たち」。女優。その娘、幼児、ドミニーヌ。晩年のアルトー、52歳、手をつないで幼稚園。

ジャック・リヴィエール。ガリマール社に詩を拒絶されたことを批判した書簡集。

思考ができない。ものを考えることの中心、思考の崩壊。生理的次元。

思考の中心には崩壊がある。過激。

『へリオガバルス』・・・構成、古典的。

『ヴァン・ゴッホ』・・・古典的とは言えないが理解できる。詩的だが、構文的にはおかしくない。

『タマウマラ』・・・メキシコ。人類学的な旅とは違う。ペヨーテ、ペヨトルの儀式に関わる。麻薬。コールリジ、ドラッグをしながらものを書くことにおいてアルトーに匹敵するのはバロウズ。

「この私の肉体という最悪。」「私の中へ脱臼。」

アルトー・・・自分自身の「中の外」へ出て行くため、分裂を繰り返す。「断片化」。

文化人類学者・・・自分自身の中に入る。

アンリ・ミショー。ヒッピー、中に入って拡大。

演劇的。演劇とはなにか。構成と分裂。極端にあらわれる。

ギリシャ悲劇の戯曲。

最後の『手先と責苦』。

寺山修司。この演劇を支配しているのは誰か。演劇によって演劇を(黒子が)ぶっつぶす。当時は、外で闘争やってるのに舞台でなにやってるんだろう、と腹がたったけれど、今にして思えば天才的。

日本の舞踏家たちへの影響。自分の中に出て行く。原理とのたたかい。

土方巽。「肉体の中にはしごをかけて降りて行く。」

全ての帝国は滅ぶ。アナーキー。古代原理の闘争。太陽神、アマテラス、アポロ。

『へリオガバルス』。アナーキーとは統一の感覚を持つことだ。塵の感覚でもある。

歴史はカオス。事物の分裂。事物の多様性。統一の感覚。

ルネサンス芸術。ルーカス・ファン・ライデン「ロトと娘たち」が演劇のイメージ。アルトーは近親相姦のこだわりも強い。火山の爆発。船が沈んでいる。

アンジェリコ、フランチェスカ、マンテーニャをルネサンスから分ける。

演劇・・・音声、身振り、ルネサンス的。

自身の身体がバラバラになって、また寄せ集める。

ルネサンス・・・ボッティチェリが思い浮かぶが、ボッティチェリはメディチ家を批判した坊さんを支持。晩年はバロック。渡辺一夫や大江健三郎のように人文主義と考えるのはよくない。

映画『神々の黄昏』。地球から500年遅れている。ルネサンスもそんなだったかも。ペスト。ダンテはフィレンツェに帰ると火あぶり。そうした状況で『神曲』は書かれた。

フランチェスカ・・・光。塵。知覚。バルテュス(アルトーが絶賛)への影響。

ものすごく繊細。

フランス人におけるアンティゴネー。ソフォクレス、エウリピデス。死ぬまでギリシャ悲劇を読んでいた。分裂と構成。

アルトーのひげを剃る人に『ヴァン・ゴッホ』を献呈。イヴリーの庭、庭師とよく話す。一般の人にはすごくやさしい。ユーモアの人。

カフカと少し似ている。日記ということ。

アルトーは常に書いていた。地下鉄でもデッサン、線を引いていた。ベケットも常に書いていた。散歩、息、食べ方、沈黙、すべてが文章になる稀有な詩人。

フーコー『狂気の歴史』。狂気とは営みの不在である。アルトー、ニーチェ、ゴッホはそれが同時に起こっている。

岡本健さん・・・

理性のありかたが疑問視される。20世紀は一世紀だけで、有史から19世紀までの戦死者の数をはるかに超える。優生――理性。

狂気、非理性の側から、理性が問い直される。

フーコー。狂気とは患者との関係性。反精神医学。

個人的体験。糞尿。恨み。この世の便器。

1歳8か月前の人間は五感のすべてを使い経験。その後、言葉以前の世界と融和させる。直接的経験。

言葉とは他者のもの。ズキズキ・・・判断を共有しているにすぎない。

自分の経験の固有性が盗まれる。固有性を維持するためにグロスバリ(?)言葉をつくる。

言語以前の世界を目指しているわけではない。自分の体験の独自性を盗まれないことを目指す。

展覧会の壁に視覚、聴覚、香り、ゴッホの絵。

「アルトー・モモ(子ども、ガキ)」。鼻たれ言葉のアルトー。言語をもって、言語を超えた世界をつくる。

言語の他者性。他者のなかで受肉して脅かす。

発語しているのは誰か。「キ・スイ・ジュ? 」(アンドレ・ブルトン『ナジャ』の書き出し)私とは誰か、私は誰を追っているのか。

私を名づけてくれる人。他者を排除するのではなく、名指す、名指される関係を再構築する。俺は俺の父、母。

宇野邦一さん・・・

出発点は初期の書簡。思考の不可能性。崩壊。身体の麻痺。若い頃の仕事、生き延びるため。

哲学の体験。既成のいかなる哲学とも似ていない。

崩壊と同時に構成。したたかに続ける。

ドゥルーズ『差異と反復』・・・思考のイメージ(ほとんど「表象」と同じ意味でつかわれている)が崩壊。「表象」がない思考が体験される。

アルトー・・・崩壊そのものを詩的体験としてつぶさに描き続けた。

マラルメ・・・自殺の危機。崩壊。新しい言語空間。アルトーとは似ていない。

アルトーは不可能性そのものから詩を生み出す。イメージをしっかりつかんでいる。崩壊を絵画のように描き出すことができた。

ドゥルーズの言うイメージとは違う意味。映画論の新たな独自のイメージとはひっかかる。

アルトーはあらゆる危機を生き延びた。新しい思考のかたちを提出できた。

「私の職業はカリカチュリスト(風刺画家)である。」

人間の顔はうつろな力、死の畑。身体とは一致したところがなく、顔を描くことをアカデミックであると批判を与えるのは馬鹿げている。

かたちをすりつぶしているにすぎない。顔は身体に対応していない。

人間の顔はフェズ(?聞き取り不明)を見つけておらず、それを発見するのは画家。永遠の死。

あるがままの顔面は、顔をさがしている。顔にその固有の線を返してやることで、画家が顔を救う。

アルトーにとって、デッサン、顔、死とはなにか。

アルトーの人類学。バリ島に行ってフィールドワークなどしていない。パリに来たバリの舞踏団。ヨーロッパ世界の外の生き方。読解。精神の中の運河。非人称化。

タマウマラ。山の岩石の上で責め苛まれる身体。記号の山。山なのか、私なのか。岩石そのものが苦しめられる身体。偽造された身体とともに生まれた。

被害妄想を突き進んでいく。そのまま受け取らないと。そのまま理解する。

テヴナン、統合失調に光をあてた一大叙事詩『アンチ・オイディプス』に激怒。ドゥルーズは臨床例ない。あまり自分のテリトリーから出ない。ガタリは臨床ともつきあっている。

『へリオガバルス』。太陽神信仰。論文のような小説。D.H.ロレンス、へリオガバルスに興味。精神分析を否定。両性。せめいぎあいは永遠に続く。

古代エトルリアはかなり不思議な文明、ローマは批判。

「スノードロップのような(清らかなみずみずしい)へリオガバルス」を批判したらだめだ。破廉恥、女装、乱交。

アニミズムとはなにか。動物と人間の境がない。すべてが主体。

レヴィ・ストロースの構造主義は、もうすっかり終わらざるを得ない時代。

客席から、「もっとわれわれにとって有意義な(「有益な」だったかもしれない)議論の枠組みを」みたいなサジェスチョンも入る。だが、アントナン・アルトーの失望と怒りの声を(彼の評伝から)ここに控えめに書き写して、今回のイヴェントの、私なりのささやかなまとめとしておきたい。

「彼らはいつでもなにかについて知りたがる。『演劇とペスト』についての客観的な会議なら許せるというわけだ。けれどわたしは彼らに経験そのものを、ペストそのものを与えてやりたい。彼らが恐怖を感じ、覚醒するように。」(アナイス・ニンの日記に残されたアルトーの言葉)

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・・・・

この室伏鴻アーカイヴカフェ、SHYには、室伏鴻さんが持っていたたくさんの本や、CDなどもあります。

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本は数千冊ありそう。ここにはいらなかったのもあるそうです。

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ほとんど考えられないくらい充実した現代思想に関する蔵書。多くの本の背には、室伏さんの自筆で書名と著者名が書かれています。
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室伏鴻さん所有のCD。やはりすごく多い。

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イヴェント後、室伏鴻アーカイヴカフェ SHYの窓を外から撮った写真。

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サインに応える鈴木創士さん。
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カフェに来た自分の記念写真を撮ってもらうのを忘れていたので、高田馬場へと向かう裏道できょうの記念に撮影。

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高田馬場の細い裏道が好きだ。「多摩旅館」と書いてある古い旅館があった。

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私の好きな階段。いつ来ても、また、この階段の上にはなにがあるのだろう、階段を上ったらいったい何が待っている(見える)のだろう、と思う場所。

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私は黒くくすんだ細い階段が大好きだ。セメントの狭い亀裂からのびているヒメジョオン。メヒシバ。オヒシバ。フェンスに絡まるヒルガオ。虫の声。

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