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2017年7月

2017年7月16日 (日)

母のこと、介護のふりかえり / 毛利やすみさんの展示、 原やすお 

7月12日

母はまだ存命。

母との日々を振り返るために、自分の書いた過去のブログを読んでいた。

母が認知症とパーキンソン病による身体の不自由が進行しつつある時、介護の時間、母と一緒に過ごす時間、私はその瞬間には母のことしか考えていなかった。

母の介護をしている時の私は本当にそこに集中していたので、早く家に帰って自分の仕事をしなくちゃ、という急くような思いはまったく浮かんでこなかった。

まだ母が少し歩けた頃、母と私は陽の色や温度を感じ、植物を見、落ちている実や落ち葉を拾った。

それは私にとって純粋な体験の時間、静かな幸せの時間だった。

母を抱えて歩くとき、すれ違う年配の人に、にこにこしながら「孝行してくださいね~。」などとよく声をかけられた。

転倒しないようにと母のこわばってきた身体を支えて歩くので、私はいつも緊張していた。.

帰宅するとはじめて、自分の身体にこんなに負荷がかかっていたのかと思うほど、肩や背中や腰が痛んだ。だが、母を抱えている時はまったく痛みを感じなかった。

母がまだ要介護3だった2011年の暮れから翌年の正月まで、介護サービスがお休みの時は、本当に母が死ぬかと思った。

2012年末、母が転倒して大腿部を骨折してからは、食事介助などがたいへんだった。

介護制度の矛盾により、次の入所先が決まらず、薬を処方してくれる主治医もなくなり、先が見えない不安で押しつぶされそうになって、日に何度も吐くほど疲弊していた時期もあった。

・・・

母の介護の大雑把なまとめ(私自身のための備忘録)

2007年から2009年、母はだんだんと具合が悪くなり、震顫(しんせん)が出てきて、ぐったりと横になっていることが多くなった。

しかし実家に帰ると、祖母の仏壇には必ず母が摘んだみずみずしい野の花がさしてあった。

玄関にある昔母が使っていた古いミシンの上には、秋には紅色の桜や楓の落ち葉が飾ってあった。

母が調理ができなくなってきたので、私が調理したものを実家に持参して食べさせる。大根、人参、里芋などの根菜と厚揚げを柔らかく煮たもの、自家製のつみれなどが好きだった。

2007年には、大学の同級生の美貌のTが亡くなったことを私が告げると、母は「あんなにきれいなのに、もったいないねえ」と涙をこぼしていた。

2008年4月。四谷3丁目で個展(信じられない酷い妨害に会う)。

8月くらいから(モデルさがしはその前の3月くらいから)ずっと、私は『デッサンの基本』という本を必死でつくっていた。『デッサンの基本』は2009年7月に発売された。

2009年には、桜の木の絵を描いている人が映っているテレビを見て、「桜の枝にしてははまっすぐすぎる。桜の枝ってあんなにまっすぐのは少ないでしょう?」と私に言うほど母はしっかりしていた。

この頃は東京医大の脳神経科に母を連れて行っていた。2時間も待たされ、その間いつも母は疲れてぐったりしてソファで横になっていた。

調子がよさそうな時は、母を支えながら散歩して一緒に花を摘んだり、落ち葉を拾ったりした。

2009年8月に、介護保険申請のために区役所の人が来訪。8月に依頼した診断書をY医院のY先生が10月まで隠匿していた(Y先生は精神的に不安定で、その後、Y医院は閉院)。介護認定が出たのはそのあと。

2010年。4月、恩師、毛利武彦が亡くなる。私はショックで著しく体調を崩した。9月末、ドイツへ。

(この頃から精神的におかしいパクリストーカーに私は数年張り付かれる。)

2011年。3月11日の震災の後、「放射能が怖いので、ちゃび(猫)を連れて一時だけ九州あたりまで避難しようかと思う」と父の前で言ったら、母は急に正気に戻ったように「行きなさい!私たちのことなんてかまわなくていいのよ。若い人は避難したほうがいいに決まってる!」と言った。

この頃、母をタクシーでショートステイに連れて行った後も、一緒に塗り絵をしたり、散歩に連れ出したりで、私は結局夕方5時過ぎまで施設にいることもあった(戸山の施設は人手不足だったので私に長くいてほしがっていた)。

2011年、私は『反絵、触れる、けだもののフラボン』の原稿を必死で書いていた。デイケアのほか、北新宿のK、東新宿のM、西早稲田のF、下落合のSなどのショートステイに、私が母をタクシーで送り迎えしていた。

11月頃から池袋のA,、文京区のHなどの老健の面談で忙しかった。転倒の危険が高いという理由でどこからも断られた。

2011年の暮れから翌年の正月、介護サービスが休みで、自宅に通いでの介護がものすごくたいへんだった。寒い部屋でほっておかれている母が今にも死んでしまいそうだった。

2012年。この頃は1か月のロングステイに行っている。溜まった洗濯物は、私が途中、取りに行って洗濯していた。1か月預かってもらうと、身体のリハビリにはよいが、母の認知症は進むようだった。

叔父夫婦が突然実家に来訪。母はもう、すごく柔らかいものしか呑み込めないのに、あらかじめ状態を聞かずに鰻を買って来られて、私はすごく困った。5mmか1cmまで細かくして、指で小骨をとって食べさせるのに時間がかかった。

母の食事を介助中の私に、叔父たちは、将来の自分たちの参考に、介護サービスについての情報を聞かせてくれ、と言ってきた。私はなんとか説明したが、内心、煩わしくて、口を開くのもしんどかった。

今、余裕もなく目の前の介護に集中している私に、まだ元気で介護の必要のない人たちが、自分の未来のための情報を聞いてくるのがイライラした。聞きたければ行政に聞けばいいのに、と思った。

2012年7月、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の初校ゲラの校正を水声社へ提出。

この頃、私はよく朝まで仕事をしていた。9月21日、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の最終打ち合わせ。第3稿をもらう。

この頃、母が高熱を出したり、転倒して怪我をしたりでたいへんだった。

2012年12月12日。母がトイレで支えていた父とともに転倒、大腿部を骨折。

12月18日、母、全身麻酔の手術。一時、炎症を起こして40度の熱を出し、死にかかる。

もうだめかと思い、妹を病院によぶ。久しぶりに会った妹の、「もう、うるさい!」と言ってすぐに帰ってしまった態度に、私はショックと怒りが収まらなかった。

2013年。3月に母の介護度が3から5になる。

リハビリで入院していたN病院で、N女医からドクハラを受ける。

母が苦しそうに痛みを訴えたことを「なにも具合悪くないくせに大騒ぎして、まるでオオカミ少年だ!」と言われた。

「変なことばかり言うのよ!譫妄があってリハビリの効率が悪い。さっさと家に帰ってほしい。」と私は面談で直接、N女医から罵倒された。

実際は胸水がたまっていて母は苦しんでいた。パーキンソン病(難病指定)だという前の病院からのカルテにも、N女医はちゃんと目を通していなかった。

私は、母の担当医を変更してくれるように看護師長とメディカルソーシャルワーカーに何度もお願いしたが、いくら言っても完全に無視された。看護師長はこちらの話をまったく聞かず鉄面皮、MSWは一度も顔を見せてさえくれなかった。

結局、私はN病院の事務局長まで直訴に行った。

この「事件」は私の心身にとって、ものすごく大きなストレスとなった。

事務局長はN女医の態度を「人権侵害にあたる」と認めてくれた。

母の主治医がN女医から院長にかわり、院長の診断書により、母は4月に身体障碍者一級になった。

N病院の3か月のリハビリ入院からの転院先を探して、いくつも老健の面談に奔走したが、どこも断られ、私は不安と疲労で追い詰められた。

2013年5月8日に板橋の老健Eに入所。Eへは、私は池袋から歩いて食事介助(と歯磨き)に通った。この頃、傾眠が酷い日があったが、調子がいい日は歌を歌ったり、昔の写真を見て笑ったりもしていた。

ここでも、3か月すぎたら次の転院先を探せ、と迫られてたいへんだった。

また、持参した薬が8月の頭でなくなってしまう問題に悩んだ。入居中の老健は経営上の都合で薬は出せない、N病院はリハビリ病院だから最大1か月分しか薬は出せない、以前の在宅の主治医はもう主治医ではないので処方できない、と言われた。

つまり介護保険制度の矛盾により、どこからも薬を出してもらえないと言われ、心身ともに追い詰められて、私は極限まで疲労していた。

7月25日、府中の郊外の特養Tを見学。27日に書類審査を通り、決断を迫られたが、母の終の棲家として決心がつかず、悩んだすえお断りする。

8月17日、第一希望だった北新宿のK苑から「待機」になった連絡をいただく。

10月24日、K苑へ入所。

7月8日

母がいよいよ亡くなる時に来て、もっと母の幸せのために尽くしてあげればよかった、という後悔と不全感で、非常に心が乱れていた。

そうしたら、母の在宅介護の時(数年前)のケアマネのMさんから、たいへん心のこもったメールをいただいた。

母が最初に介護認定を受けてケアマネさんのお世話になり始めたころ(6年くらい前)、認知症は進みつつあったが、まだ受け答えもはっきりしていて、「私はパパが大好きだから、ずっと一緒にいたいけど、パパは私のことを迷惑だと思ってるんでしょう?」と父に言ったそうだ。

また、ケアマネさんが父と話すと、やきもちをやいたりもしたそうだ。(私はまったく気がつかなかった。)

認知症になってからの母は、父にされた長年の酷い仕打ちを忘れて、最初に父に出会った頃の恋する女に戻っていたようだ。

私は、自分が20歳頃に父に負わされた大きな借金の凄惨な記憶や、父が死んでからも出てきた私を苦しめ続ける数々の悪行の後始末のことで、母が幸せな結婚をしたとは思えなかった。

実際、しっかりしていた頃の母と私は、異常性格の父の暴力に対して、共闘する同志のようなところがあった。

しかし母にとっては、父に出会った頃は、駆け落ちしたほどの大恋愛だったのだ。私が生まれてから、父は思いやりのない性格になった、と母はよく私に言っていた。

母が祖母の介護を終えて、パーキンソン病の苦しみが始まるまでの7年間くらいは、父と二人でよく出歩いていた。この頃は母は幸せだったと思いたい。

過去のブログを読み返してみれば、自分で今思うよりは、私は母の介護をよくやっていたようだ。

施設に迎えに行ってから、家で食事を用意して、介助して、薬を飲ませて、ストレッチやマッサージなどして、4時間から5時間くらいかかることもあった。

母はまったく贅沢をしない人だった。もっとおいしいものを食べさせてあげればよかったと悔やんでいたのだが、まだ嚥下が悪くない頃は、私は自分が一番おいしいと思うケーキなども買って行っていたみたいだ。

すっかり忘れていたが、私は母が好きそうなものも、サプリも、母のために当時、思いついたことはやっていたようだ。

7月7日

母が高熱で倒れて入院してから1か月が過ぎた。

7月1日

母が死ぬ緊迫感で、このところずっと心身ともに疲弊している。

恩師、毛利武彦の奥様である毛利やすみさんの絵の展示を見に、銀座へ。

やすみさんは、本当にかわらずお元気だったので、とても嬉しかった。

とにかくやすみさんに、阿部弘一先生が毛利先生から送られた手紙やスケッチなどの収蔵先を探しておられることを改めて伝え、世田谷文学館は厳しそうだが、どうしたらいいか、と聞いたのだが、あまり深く考えておられないようだった。

ただ、「慶応で働いたことで、ただひとつすごくよかったことは阿部先生と出会えたことだって毛利が言ってたわ。」とやすみさんがおっしゃったことが、私の胸を打った。

この日、やすみさんのお父様も画家(漫画家)だったことを知る。

そのやすみさんのお父様の名前が「原やすお」だと聞いて、雷に打たれたようになってしまった。

私が、もの心つくかつかないかの時に、家のお客さんの誰かが私にくれた集英社の『とんち曾呂利』というまんが、私が生まれて最初に夢中になったまんがの作者が、その「原やすお」だった。

いつの間にかその本は失くしていたが、大人になった私は、どうしてももう一度読みたくて、「そろりしんざえもん」(曾呂利新左衛門)という名前だけで何十年も探していた。なかなか見つからなかったところへ、思いがけず、親友が探し出してきて、去年の私の誕生日にプレゼントしてくれたばかりだった。

まさか、やすみさんのお父様だったとは。もっと早くに言ってほしかった。それにしても不思議なご縁だ。

森久仁子さん(毛利武彦先生の従妹で、歌人の春日井建の妹さん)にお会いしたかったのだが、つい先ほど帰られたという。

会場は、うしお画廊というところだった。銀座6丁目のみゆき画廊が2016年になくなっていたことも、私は知らなかった。

正直、毛利やすみさんのほかは、阿部弘一先生と森久仁子さんにだけ、私は会いたかった。

自分が絵を描いていて、それについての本も書いているのに、私は美術、絵画の周りを取り巻く人たちと会うことほどストレスになることはない。画廊を出てから、本当に立っていられないほど疲弊して苦しくなった。

・・・

鈴木創士さんと、何度かメールのやりとりをさせていただいた。鈴木さんもこの春にお母様を亡くされた。「お母さんはきっと全部わかっていますよ。」というお優しい言葉をいただいて、少し落ち着いた。

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2017年7月 1日 (土)

母のこと、 文学、美術のこと

6月30日

夏用の薄い生地の喪服をたんすから出した。上着だけしか見つからなかった。葬式はせずに直葬の予定なので、それらしい黒い服であればいいのだ。

新宿の特養K苑のK島さんに電話した。母はまだ亡くなっていないが、かつて私が切望していたように入所を待つ介護家族のために、K苑の母の荷物を引き取りに行きたいと告げた。

夕方5時頃K苑へ。

駅前のコンビニに入って、何度、この店で母のために「極みプリン」(プリン類の中で一番たんぱく質が多く含まれていたから選んでいた)を買ったか、もう買うことはない、と思ったら涙が出た。

神田川にかかる万亀橋を渡る。

毎年私が見ていた赤い透明な花のタチアオイの直立的な茎に野性的なヤブカラシが巻き付いていた。真夏を予感させるヤブカラシの淡い粒粒の花の可憐さが、すっとしたタチアオイと絡み合って、すごく美しかった。それにもたれあっている色あせてくすんだ紫陽花の組み合わせも胸を射た。

母はとても植物が好きだった。私の植物に対する感覚は母からもらった。

K苑に着く前に涙がとまるようにこらえた。

K島さんと、母のいた部屋に行って、母の私物で、ほかの入居者さんに利用していただけるものはすべて利用していただきたいとお願いした。

母のために、叔父が亡くなる前に持ってきてくれたのであろう柏崎と母の若いころの写真、母の母親(私の祖母)の写真と、私が母のために買ったウイリアム・モリス柄のブラウスだけを持ち帰った。叔父の思いを受け止めた。

本日、6月末日でK苑の退所届けにサインした。

この新宿の施設にはいることができて、本当に、母も私も幸せだったと思う。

K島さんをはじめ、職員の皆さんに何度も頭を下げた。

そのあと母のいる病院へ。洗濯したパジャマを持って行った。

点滴はたまに一滴、また一滴、と落ちるか落ちないか、よく見えないくらいゆっくりだ。昏睡ではないが、ほとんど眠っている。

けれど母の手は温かい。拘縮の反応のようなものなのかもしれないが、私の手を握り返してくる。

乾いた手足のカサカサ部分にクリームを塗ってマッサージした。「わかる?知佐子だよ。」と耳に話しかけると、「うん。」と返事がある。3、4回試したが、やはりちゃんと返事はあった。

看護師さんにきいて新しく売店でおむつを買った。母の手の指の爪が伸びていたので、できたら切ってほしい、とお願いして帰った。

6月29日

師、毛利武彦の阿部弘一詩集の装丁のための画稿、ラフスケッチ、お二人の往復書簡などをおさめに世田谷文学館へ。

母の死にぎわに際していろいろ考えてしまい、心臓が苦しくて落ち着かない毎日。

こういう時は、自分が本当に大切と思うことだけをしたい、自分の意にそわないくだらないことには、極力つきあいたくない、と思う。

どうでもいいことをすべて切りたい。虚飾を排したい。

そのうえで、師、毛利武彦と、そのご親友の阿部弘一先生の思いのために動きたかったのだ。

一年前からお願いしていた阿部弘一先生の詩の原稿と阿部先生とフランシス・ポンジュの往復書簡は、フランス文学者である菅野昭正世田谷文学館館長の判断によって収納してもらうことができた。

しかし、毛利武彦先生の画稿などは難しいと言われた。世田谷文学館は、世田谷区から業務を請け負っている外郭団体にすぎず、収蔵庫も狭く、もう満杯で飽和状態らしい。

いくら頭を下げても、私は無理な気がしていた。

一階のコレクション展を見た。そのなかでも田中恭吉はすごい。竹中英太郎も奇妙なバランスの女体に魅力があった。松野一夫の『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)の挿絵は素晴らしかった。

けれども本当に時を経て後の世の人に残す価値があると(私が)思えるものは、そこに展示してあるものの4分の1くらいだ。

特に、展示会場の入り口でやっていた存命(しかもそんなに高齢でもない)作家のからくり箱作品は、なんで収蔵されて展示されているのか、まったく理解できなかった。

その作品の動いているところをひとつ見たら、私は笑いをこらえきれなかった。面白くて笑ったのではない。あんまつまらなくて、見ていて恥ずかしくて、耐えられなくて苦笑してしまったのだ。

なんらかの大人の事情で、区の文学館はこんなくだらないものを収蔵せざるを得ず、価値があるのもは廃棄せざるを得ないのだな、と思う。

画家毛利武彦が、詩人阿部弘一の詩に添える画を、どれだけ完璧にしようと苦しんだか、その軌跡は保存されない。

お二人とも戦争に青春を滅茶苦茶にされた。そこから生き抜いてすごい仕事をされた。

どうでもいいばからしいものが保存される。すべてが転倒している。今はそういう時代だ。

そのあと、西永福で食事した時に、涙がどっと溢れてきてしまった。

やり手の人間はどんどん売って、金をつくって、保存場所まで確保する。本当に普遍的価値があるものは金にもならないし、保存もされない。

誰も、危機的な場所に立って(そこを生きて)、本当に価値があるものが何なのか、問わないし、知ろうともしない。

私の母に関してもそうだ。私は自分の介護について、昔からの母とのあらゆるやりとりについて、自分がもっとよいやりかたができたのではないかと、この先もずっと胸が痛み、苦しむだろう。

逆になにもしなかった妹は、胸が痛むこともなく、なんの後悔もないだろう。妹は母のことなど眼中になく、自己愛でおかしくなっているからだ。

自己愛と自己顕示欲だけが肥大し、暴走していく時代に「芸術」はあり得ないと思う。

5時過ぎに帰宅して気づいたら、愛用のぺらっとしたガウンコートを失くしていた。食事した店、京王バス、関東バス、京王線の各所に電話したが届いていなかった。私はもともと失くしものが多いが、今はさらに心が不安定なのだろう。

・・

夜、ネットで調べて、直葬をやっているなかでも感じよさそうな印象の葬儀社に電話した。

その小さな葬儀社の、(下町のおじさんのような)正直そうな社長と電話で少し話したら、かすかに気持ちが落ち着いた。

これからのことは、私にはどうしようもできないことだ。

あれこれ考えて苦しみすぎないこと。流れにまかせること。

6月28日

私が右腕の三角筋あたりを(おそらく)断裂してしてから、今日でちょうど一年。

昨年の12月、大きな病院に行ったときも、今年2月に町の整形外科に行った時も、「筋肉が纐纈してしまっているから、どんどん肩を動かして。」と言われたが、動かすと、ぎゃっ、と涙と汗が出るくらい、まだ痛かった。

リハビリが激痛ではなくなってきたのは、この4月末くらいからだ。個人的には、まだ激しい痛みがある時期に無理に動かしたことは、余計痛みが出てよくなかったように感じる。

今は筋肉の拘縮はまだあるが、右手を腰にあてられる。首の後ろで両手を組める。以前より、はるかに(65~70%くらい)腕が上がる。

整骨院では「足腰はすごく柔らかい」と言われる。特に後屈は「まっすぐ逆U字にそっていてばっちり。」と。

しかし肩と首は極端にがちがちで、緊張性頭痛も出ている。

6月23日

先日、Fに久しぶりに手紙を書いた(母が死にそうなこと、次の本の内容のこと、i今、精神的に追い詰められていること)。

そうしたら23日の深夜を過ぎて1時頃に電話があったので、ぎくっとした(母の死の知らせかと思うので深夜の電話はいやだ)。

Fは片目が眼底出血してしまい、。「このままでは失明するかもしれない」と言われ、この2か月ほど眼球に注射を打つ治療をしているという。

注射により(脳のどこかに注射が達してしまい?)死亡した人がいるそうで、治療承諾(同意)書にサインしたそうだ。

その紙に、ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの「アンダルシアの犬」のような雰囲気の(眼球に針を刺している)絵が描かれていたそうだ。

Fは私がまた個展をすることを望んでいると言った。私はもう(この先、そうとう気持ちや体力に余裕がある時がくれば別だが)個展はあまり考えていない。

個展のために使う膨大な時間と労力、あまりにも神経をすり減らして準備する結果として、誰かの心に届いたり、誰かと出会える機会の可能性があまりに低いからだ。

20年前には考えられなかったことだが、今はなにをやっても絶望的だと思う。

Fはある美術家の展覧会のトークに私を誘った。その美術家と話す美術館館長がFの友人だからだ。

Fは私が世の中に認められないのは私が人づきあいができないことが問題だという。その通りだと思う。自分を売り込みたくて躍起になっている人なら、こういう機会は素晴らしいチャンスと思うのだろう。

けれど私は、ネットでその美術家の作品と解説などを見たら、やはりトークイベントに行くのは無理だと思った。私には苦しすぎるのだ。

私は「アート」と呼ばれる人工物、人造物を見ることと、それをめぐる言説を読んだり聞いたりすることが、実のところ、まったく好きではないのかもしれない。

私にとって「美術」とはなにかは、人間ではない(人間にははかり知れない)生命から受容するもの、あるいはその生命との交感(交歓)の瞬間、瞬間を自分のやり方で表現するということに尽きると思う。

そして自分がもう死にそうなくらいに疲れ果てて力がなくなっているときにも、それを見て「素晴らしい」「素敵」「あこがれる」と思える美術作品しか、実際に私はまったく興味がないのだ。

Fが感動したという美術家について、私はぱっと見の画像と、それに添えられた文章でしか判断していないが、私が慰められたり励まされたりすることはない。むしろ作品を見たら私は、感応や希望ではなく、暗い抑圧を感じる。

現代思想や最近の批評理論をよく読んで理解していて、美術の歴史にも詳しい、頭のよい人たちのとくとくとしたおしゃべりに、今の私は耐えられない。

それは、おしゃべりしている人が、今、その人の口からぺらぺらと語られている危機を「生きて」(その苦痛の体験を身体全体で味わって、耐えて、闘って)いるわけではないからだ。

私の敬愛した毛利武彦先生も、若林奮先生も、中川幸夫先生も、実際に危機を生き抜いた人だ。

私は今、自分を生んで育ててくてた母の幸せ、不幸せと、母が信頼してくれていたことに対して自分がどうすべきだったのか、なにができたのか、不安や後悔で頭がいっぱいで死んでしまいそうになっていて、他人の自己満足のおしゃべりに加わる余裕がない。

Fは、私の才能をわかってくれるかもしれない人にもっと私の事を伝えたいという。

しかし、私の才能というものがもしあるとしたら、Fが誘ってくるようなイベントに、ものすごくリアルな苦痛を感じる、ということが私の才能なのではないかな、と思う。

Fは「才能」と言いながらも私のことを理解していないのか、私が「知的」なことに楽しみを覚えると勘違いしているのかな、と思う。

本当に「知的」なことが何なのか、それがどんなことなのか、本当に問われることも稀なのだ、と思う。

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