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2017年10月

2017年10月29日 (日)

『アネモネ・雨滴』 森島章人歌集

10月29日

10月19日に森島章人さんから、歌集『アネモネ・雨滴』が届く。

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一本のアネモネあらば希望なる言葉かすかに雨滴のごとし

第一歌集『月光の揚力』から18年、待望の第二歌集です。

跋に、「砕かれる寸前の形、火を上げながらなお立っている形が歌であればよいと願う。」とある。

雛罌粟(ひなげし)の揺るる向かうをしめらせて今宵阿修羅が足洗う音

きみの掌(て)になぜに集まるふはふはと舞ひそびれたる花粉、雪など

一色に胸塗りつぶしわが行くにサルビア園、傘乱立の夏

赦(ゆる)されて生を享(う)けたるけだものよ赦(ゆる)しえぬ世に金の尾立てよ

ひそかなる空の耳あり成し遂げしものなきなげき抱きとむるごと

にごりゆく記憶の底にくもりなき夏誰(た)がかざすをりをりは匕首

きちきちと空気の中を鳴るものよそこに骨などないはずなれど

氷菓溶けだす前に言はむ 炎天を裂けばすがしき半裸の言葉

森島さんの歌は透明な光と微かに囁く声、静かな追憶の世界。死の歌が多いが、声高に叫んだりはせず、どろどろした情念がたぎるような歌にはならない。

この本の中には私の画「風の薔薇・あねもね」を口絵として使ってくださっている。

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この歌集の世界に入りこみ、遠くて哀しいところを彷徨えば、いたるところに「アネモネ通り」や「アネモネ領」への入り口が隠されている。

暗きところをかすかに上(のぼ)りやがて咲くあなたの息がアネモネと言ふ

なだるるは歌のみならず昨夜(きぞ)こころなだるるなかにひらくアネモネ

もとより庭などありませんが天心のアネモネを少しだけなら

おさがしの玩具さびしきドラムならアネモネ通りにたしかあるはず

アネモネ通りつきあたり 猫町の噴水春を濡らして帰せ

きみ照らすアネモネ通り西はづれ火を売る店を捜しにゆかむ

アネモネ領 きみの瞳の奥にあり門ひとつなし北へと続く

私は母を失って、強烈に蘇るまだ元気な母と一緒にいた頃の身体感覚とともに、この歌たちを読んでいる。

そしてやはりあまりに近くにいすぎて、失われることなどどうしても考えられなかった愛猫の介護に切羽詰まりながら。

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2017年10月27日 (金)

エンケン(遠藤賢司)さんを悼む

10月27日

母が亡くなってからもうひと月が経とうとしているが、喪失感で息苦しい。

この前の台風で12℃まで冷えた日から風邪を引いてしまい、まだ微熱と喉痛に悩まされている。

おととい10月25日、遠藤賢司さんが亡くなられたと聞き、絶句・・・。

「ほんとだよ」が好きで、1stアルバム『niyago』がすごく好きで、昔からよく、絵を描いている時に繰り返し聞いていました。

非常にセンスのいいギターと、微風のように囁く甘い声が本当に素敵で、、何気ないようで無限に広がる強烈で詩的な情景を見せてくれる歌。

佐々木昭一郎脚本のドラマ「さすらい」に出ていた姿をもう一度見たい。たしか15年くらい前?に再放送され、うちのどこかに録画テープがあるはずだ。

個展の時におはがきを出したら来てくださった。

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私の描いたチューリップの絵(写真で後ろに展示してある絵)を見て、エンケンさんは「これは宇宙の花?」と言った。

「いえ、これ、チューリップをそのまま写生して描いたんですよ。」と言ったら驚いていらした。

アネモネの絵を描いたおはがきを出したら「美しいなァ・・・部屋に飾っています。」と書いたお返事をいただいて、すごく嬉しかった。

何度かエンケンバンドのライブに行った。ものすごいエネルギーにあふれたステージで、途中で酸素の缶を吸ったりしていた。スタイルも、とにかくかっこよかった。

演奏の合間のおしゃべりで「ヒロ・ヤマガタの絵は、なんてひどい絵なんだ!!!」と言っていたので、友人と顔を見合わせて笑ってしまったのを覚えている。

猫に似ているからフクロウも好きで、フクロウの人形や小物を集めていると言っていたので、ちっちゃなフクロウの陶人形をプレゼントしたこともあった。

少ししか話したことはないけれど、気どりや偉そうなところがない少年のような人だった。

好きな人がまたひとり、この世を去ってしまった。ものすごく淋しい。

・・・

新潟のおじ(母の妹の旦那さん)から、母の生家の写真が届いた。

山奥の古い茅葺の家。母がこんなところから東京に出て来て、激動の新宿で生きたと思うとすごく不思議だ。

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2017年10月18日 (水)

母と祖母と父と妹のこと

10月10日

親友が以前から言っていた通り、私の家族は、「並外れて自分のことしか考えない人格異常の人間と、並外れて情に厚い人間の組み合わせ」だ。

ギャンブル依存、浪費依存で、いつも無責任で、祖母(父の養母)と母に甘えきり、祖母と母と私を死ぬほど苦しめた父。、私に対しては、おそらくかわいくて、思い通りにならなくてからみながら虐待し続けた父。

その父をどこまでも見捨てなかった愛情深く忍耐強い私の祖母と母。

祖母を最後まで強く愛した母と私。

父に似て甘ったれな性格で、なんらかの不全感によって、現実を逆に歪めてしまった(おそらく現在は依存性の精神疾患)の妹。

私は家族によって、ものすごくきれいだと感じるものや、あったかくて切ないものと、

同時に熔けた鉛を体内に流し込まれたような震えが止まらない怒り、目の前が真っ暗になる感覚、声(言葉)が出ない悔しさ、全身がビリビリと痛む中で死ぬ気で頭を回転させなければならない切羽詰まった状態に幾度も直面させられた。

それら全部を、身体が満タンになっても、さらに否応なく注ぎ込まれ、刻み込まれてきた。

あまりにアンビバレントで、ぐちゃぐちゃだ。

よく精神的におかしくならなかったと思う。

父は自分の実の両親を知らない。

そのことがどれだけ淋しく虚しいことか、(それとも、それほど大きなことではないのか)私には想像できない。その頃の時代の状況、本人の個別の状況、本人の解釈、本人の資質、感性が影響しあっているものだと思う。

当時の状況をよく知らない私が言うのは僭越だが、父よりずっとたいへんな苦労や悲しい思いをした人、たとえば戦争孤児などもたくさんいたのではないかと思う。

明治の頃に生まれた私の祖母(父の養母)はとても情に厚く、人を恨まず羨まず、太陽のように明るい、男気溢れる魅力的な人だった。私からみたら、足を棒にして探してもなかなかいないような、素敵な人だったと思う。

祖母は福島の大きな造り酒屋のお嬢さんだったらしいが、2歳の時に実母が亡くなって、継母に家を追い出され、東京に出て来たらしい。祖母が亡くなった時、母は「おばあちゃんは実のお母さんの愛情を知らずに、たいへんな苦労をして、かわいそうだったと思う。」と激しく泣いていた。

祖母は19歳の時、最初の結婚。生まれた(赤ちゃんでもはっきりわかるほどの美少女)喜知子ちゃんは2歳で、夫も時を同じく若くして、二人とも結核で死去。

そのあと(私の祖父と)二度目の結婚。そして私の父を養子にもらった。

私の祖母は、「絶対にこれから先、なにも詮索しないで」という条件で生まれたばかりの父をもらったそうだ。

なんでも父の父親が若くして急死したそうで、それでいいところのお嬢様っだった父の母親が、父を養子に出して実家に戻ったのだそうだ。

それは私が18歳くらいの時に母から聞いた話で、今、思えば、なんで祖母の頭がしっかりしている時に、その話を直接祖母に詳しく聞かなかったのだろう、と悔やまれる。だが、その時の私は大好きな祖母と私の血のつながりがないことが死ぬほどショックで、聞けなかった。

そのことを知らないふりをしていたほうが、祖母を傷つけないだろう、私が聞いたらいけない、とその当時の若い私は躊躇してしまった。

私が大好きだった祖母と生まれたばかりの私。

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十二社(じゅうにそう。今の西新宿)の料亭の黒塀の前で。当時の十二社は、どこもかしこも料亭だらけで、三味線の音が聞こえていた。戦後すぐに建った、今は朽ちてボロボロの木造の私の実家は、私が生まれる前に祖父が買ったもので、料亭Fの離れだったと聞いている。

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十二社熊野神社での祖母と私。

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熊野神社にて。私(向かって左)と幼馴染みのユキちゃん。

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十二社の大きな池のほとりでの私。「十二社池の下(じゅうにそういけのした)」というバス停は今も残っている。

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十二社の料亭の黒塀の前で。幼稚園くらいの私。母が余り布で縫ってくれたワンピース。生まれた時から小学校6年までは頭をバリカンで刈られていた。

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母と祖母が、(世間でよく言われる嫁姑関係のように)諍いをしたり、お互いの悪口を言ったのを私は見たことも聞いたこともない。

母はよく「うちのおばあちゃんは、「当たり」よ。私は幸せ。おばあちゃんみたいないい人はどこにもいない。」と私に言っていた。

母とお祖母ちゃんと生まれたばかりのどん(何代めかの猫)がこたつにいる、私の一番当たり前だった情景(私が18歳くらいの頃?)。今はみんなもうこの世にいないことが信じられない。

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祖母の晩年は、母がすごく情をこめて介護をした。入院中の祖母に、かいがいしく動き回る母を見た病院の関係者が「いいわねえ。娘さん?」と聞いた時、祖母は「いえ、娘じゃなくて嫁なんですよ。とてもいい嫁です。」と言っていた。嬉しそうに目を細めいた祖母の顔を私は忘れない。

そんないい人(私の祖母)に赤の他人にもかかわらず情をかけて育ててもらって、父はものすごい幸運だと思うのだが、どうして父があそこまで芯が弱いのか、私にはわからない。

祖母は人格的に立派過ぎて(たいへん苦労した人だがそれを跳ね返すほど明るく)、私の父はひどく弱くて、強い祖母に対して、だらしなく甘えたい欲求(実際は酷い裏切り)が抑えられなかった、ということだ。

・・

父は17歳くらいから肺結核になり、その数年後に片肺と肋骨を手術で失くした。

結核の薬代をきちんと渡していたのに、そのお金で病院に行かずに本を買いまくっていた、と(私が小学生の頃)祖母から聞いた記憶がある。

最初の夫と愛娘をあっけなく結核で亡くした祖母が、次に養子にもらった子(私の父)が、またも10代で結核になり死にかかった時、どれほど辛い思いをしたのか、想像すると胸が苦しい。どんなことをしてでも父を死なせたくないと必死になっただろう。

父が21歳くらいで手術で片肺を失くしたあと、母が25歳くらい?の時、父と出会ったらしい。、田舎から出て来た母は、ドレメの洋裁学校を出て、神田か御茶ノ水のあたりで働いていたようだ。

(母が最期に入れてもらえたのが御茶ノ水近くの病院だったことを、私はご縁だとありがたく思った。母が死にかかっている時、父と母がかつて一緒に見たであろう美しいニコライ堂を雨の日に私は見に行って、母が苦しくないようにどうかお願いします、とただ祈った。)

ろくでなしの父が、情が厚くて働き者で献身的な母を直観的に見つけてつかまえたのが、すごいな、と思う。

父に欠けているもの、まさにその正反対のものを持っていた母を、よくぞ見つけた。さすがに父は頭がいいだけあって、うまいことやったね、と。

母は田舎から出てくるときに、母の父が勝手に決めた地元の大工さんと一緒に東京に出されたそうだ。その話を、認知症がだいぶ進んで話ができなくなっていた時、ロングステイに送るタクシーの中で、いきなり、ぽろっと母に言われて、私はびっくりした。

そのことを生前の父に確認したら「そう。真夜中、終電の神田のホームだ。かばんひとつ下げて、マサエが来たんだよ。」と言った。

父と一緒になりたいと母が母の父親(私はおそらく会ったことのない祖父)に言った時、ド田舎(柏崎の山奥)のクソ真面目な母の父は、結核で手術したばかりのいつ死ぬかわからない、ろくな仕事にもつけない片肺の男なんて絶対に許さない、と激怒したそうだ。

母は勘当されて、父と祖父(父の養父)と祖母(父の養母)の住む狭いアパートの部屋に転がり込んで、1年後に私が生まれた。私の誕生の1日前に、親は婚姻届けを出した(もちろん式などは無し)。「式も婚姻届けも、忙しくって、そんなことまったく忘れてたのよ。」と母は笑って言っていた。

すごくドラマチックな愛だったのだと思う。

父は頭の回転が速くて、たくさんの本を読んでいた絵も文章も字も、明らかに私より優れていた。そのことは小学生の私にも一瞬でわかった。父の小学生時代の作文は文部大臣賞?関係のなにかを獲って、新聞にも載ったそうだ。

父は高校の成績はひとり抜きん出ていたのに、(養父に)大学にやってもらえなかったことなどを恨みに思っていたみたいだ。

父は、美大時代の私に対して「大学生面しやがって!」と憎しみの眼で言ったことがあった。たぶん、まともな親なら、自分が十分な教育を受けられなかったのをその分、自分の子どもに受けさせてやりたいと思うのが情だと思うが、父は逆なのだ。

父は、実の娘の私を妬んでいた。

私が小学校低学年の頃、父と母が激しい喧嘩をしていた。それこそ、ちゃぶ台の上のものが滅茶苦茶に投げつけられ、ガッチャーンと砕けるような、子供にとっては心臓が縮み上がるような暴力だ。

私も小学生の頃、よく父に殴る蹴るされていた。柔道の技の足払いをかけられて、何度も頭から畳に打ち付けられて脳震盪を起こした。

その繰り返される理不尽な暴力に、胸から腹までビリビリッと激しい電気のような痺れ――直接的な身体感覚としての、激しい痛みのような憎悪が走って、頭がおかしくなりそうだった。その、なんともいいようのない激しい怒りの身体感覚は、私の中に沈殿して固まった。

私は殴る蹴るされていて、母に経済的負担を酷く負わせている父を黙って見つめることがあった。そのたびに父は「なんだ、その反抗的な眼は!」と言って私を殴った。

母に対して、私を指さして「こいつは、おまえの作品だ!おまえの作品そのものだよ!」と怒鳴っていた場面を生々しく覚えている。

父は母や私に邪魔や嫌がらせをしては反応を楽しむようなところがあった。

父は献身的で死ぬほど忍耐強い祖母と母と私を、これでもか、これでもかと酷い目にあわせては、自分を捨てないかを確かめていたのだと思う。

私が幼稚園か小学校の頃、眠っている私の顔をよく父に「逆なで」された。

湿った掌で私のあごから額までべた~と撫でられるのだ。ものすごい生理的不快感、悪寒と怒りで、本当に神経が、頭がおかしくなりそうだった。ぎゃっと飛び起きる私の反応を父は楽しんでいた。

軽く言えばスカートめくりをする幼児と同じ。しかしやられた私の神経はあまりのストレス、あまりの苛々に気が変になりそうだった。

父は私が幼い頃から、なにかと言うと私が真剣に取り組んでいることを嘲笑した。父は私の絵も、文章も、勉強の成績もばかにしてけなした。私を笑って貶めて恥をかかせるようなことばかり言った。

私は、父になにを言われても(傷ついても顔に出さず)ひとことも言い返さずに黙するようになった。黙しながら、いつか父の卑劣さの裏をかく方法を頭をフル回転させて考えていた。

私が父の借金のせいで癌になり、甲状腺と副甲状腺、そのほかたくさんのリンパ節転移を切除した時、父と母は手術室の外で待っていたらしい。私は父が来るとは思っていなかったので驚いた。

シャーレにのった血まみれの腫瘍の塊を主治医に見せられて、その時だけは、父は急に嗚咽して「俺が癌になるならわかるけど、まさか知佐子が・・・。」と言ったらしい。

私はそのことを母に聞いた時「え?(私を癌にした張本人の父が)ほんとに泣いたの?」と聞き返した。

その一瞬だけ、父の胸が痛んだことは本当だと思う。けれど父は私の具合を見に病院に来はしなかったし、私が退院してからも、父のギャンブル依存、浪費依存の精神疾患が治ったわけではない。

私の手術直後もまた、私に対して、ばかみたいな「からかい」しかしてこなかった父だ。

私がはっきり覚えている父が泣いたのは3回だけだと思う。1度目は大きな借金をつくった時、「保険にはいってバイクで死のうと思った(でも死にきれなかった)」と父が言った時。2度目は、(私は見ていないが)摘出された私の癌の腫瘍を見た時。3度目は祖母(父の養母)の棺が家を出る時。

父の虚しさ、自分が甘えたい相手を滅茶苦茶にしなければ気が済まない異常性格の根本は、見捨てられるかもしれない不安だったのか、私にはわからない。

頭もよくて手先も器用なのに、支えてくれるあたたかい家族がいるのに、それをどぶに捨てるクズの生き方をする、父の空虚さが私には理解できない。

・・・

きのう初めて、父の部屋から発掘された、私が今まで知らなかった若い頃(高校生くらい?)の父の写真。(この写真の父以外の人を私は全く知らない)

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私の知らない若い父。

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父がものすごくかわいがっていた犬と父。昔、実家には火事で死んでしまったこの犬の毛皮があった。死んでもこの犬と離れるのが辛すぎて毛皮をとっておいたのだと言っていた。
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どういうシチュエーションなのかまったくわからないが、20歳前後の屈託なく楽しそうな父(後列右から2人目)。この頃、肺結核闘病中?父の肩を抱いているのは外国から来たかたでしょうか。

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柏崎の山奥の野田村で20歳を過ぎた頃の母。集合写真でも一番うしろのほう(最後列右から3人目)に恥ずかしそうに写っている。母の生家のあった場所にいつか行ってみたい。

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たぶん父と出会った頃の母。母は「私は全然美人じゃないから・・」とよく言っていた。母は全然美人ではないが、性格はきれいでした。

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新潟の山奥の村から出て来て、まだ土とススキの丘と花街だった西新宿に住み、たくさんの高層ビルができ、劇的に生まれ変わる新宿を生きて、いい人生だったね。

私が生まれる前の母と父と、私の祖父母(父の養父母)の写真。

晩年の認知症が進んだ母にこの写真を見せて「この人誰だかわかる?」と聞いたら「いい男。一番好きな人。」と言った。

「こいつ悪いやつね~。」と言ったら、母は嬉しそうに(しょうがない人なのよ、とでも言うように)「うふふふ・・・」とすごく久しぶりに笑っていた。私は涙がとめどなく溢れた。
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すごい恋愛して、添い遂げられて幸せだったね。マサエちゃん。

伊勢丹の屋上で綿アメを食べる私の両親。もしかしたら幼稚園くらいの私がシャッターを押したような気がする写真。

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今と変わらずに夢中で野の花を摘んで、ティッシュにくるんで大切に持っている私と、若い頃の父。たぶん私が4、5歳で多摩川に行った帰り。

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すごく美しい体験と、酷く耐えがたい体験がぐちゃぐちゃに入り混じって、ものすごくしんどいのだが、両極端をすべて強烈に記憶して味わい尽くしているから今の私がある。

10月7日

おば(母の弟の奥さん)に電話番号を聞いて、母の田舎(新潟)にいるおじ(母の妹のだんなさん)に何十年かぶりに電話してみたら、80歳代だが、まだすごくしっかりされていて、お話しできたのですごく嬉しかった。

「東京の福山です。」と言ったら「ああ!ごめんください。」と言われる。「ごめんください」は新潟特有の挨拶らしい。

母のことを知っていてくれる人がこの世にいるって、なんてありがたく、気持ちが温かく嬉しくなることなんだろう。

去年、叔母(母の妹)が膵臓がんで亡くなった時、「最後に22日間、入院したんだけど、私がずっと病室に泊まって付き添ったんだよ。」と言われて、涙・・・。

なんという愛情深いおじさん。母がよく「妹のだんなさんは、すっごくいい人。本当にいい人と結婚してよかった。」と言っていた。母の兄弟姉妹の家族が(私の父だけを除いて)、皆、真面目でよい人たちで、そのことがものすごく嬉しくて、泣けた。

私が10歳の頃、新潟市にある叔母、おじの家に母と行った時、まわりは地平線まで緑の田んぼだけで、おじさんが従妹のノリちゃん(おじの息子)と私を、カエルの卵を採りに連れて行ってくれたんですよ、と話した。

「バケツ一杯、カエルの卵が採れて、ものすごく嬉しかった!」と私が言ったら「ははは、そうだっけねえ。」と笑っていた。今は緑も見えない住宅地だそうだ。

母の妹と母はとても仲がよくて、まったく気兼ねなくぽんぽん言い合っていたのを覚えている。(大人になってもずっと仲のいい兄弟姉妹って、なんていいんだろう。)

おじさんは、若い頃、写真が趣味だった。「弥彦山の夕焼けを撮りに、車で連れて行ってもらったのを覚えてます。」と言ったら「あの頃は大きなカメラ持って、あちこち飛び回ってたなあ。」と。

おじさんは家にある母と母の妹の写真をいくつか送ってくれると言った。ありがたい。すごく楽しみだ。

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2017年10月 6日 (金)

母のこと

10月6日


私が生まれたとき。

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新宿の歌舞伎町の奥の大久保病院で生まれました。
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1歳。生まれて初めての海。「大人のサンダルで歩いてたのよ。」と母が言っていたのを覚えている。たぶん鎌倉の材木座海岸。

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母と私の一番好きな写真。場所はどこかわからないが、旅行先。新宿区の保養施設(箱根つつじ荘?)じゃないかな、と思う。
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私が小学生の頃は、母は自宅で洋裁の仕事をしていた。旅館(たしか上総屋さんと言っていた)の奥様や和菓子屋(たしか虎月堂さんと言っていた)の奥様が仮縫いのためにうちに来ていて、たくさんの待ち針でお客様の体に型紙をとめて、体型に合わせて補正していたのを覚えている。

「私はすごく不器用で、洋裁なんか向いてないんだけど、身体がそんなに強くないし畑仕事が嫌だったから洋裁学校に行かせてもらったの。」と母は言っていた。

「ドレメ学院」という学校(調べたらまだあるのですね)。「ドレスメーキング」という雑誌が何冊もうちにあって、私が幼稚園から小学校低学年の頃、その本の中の布地の柄や服装の写真を夢中で眺めていた。

妹が生まれ、洋裁で食べていけなくなってからは弁当屋、結婚式場(たしか明治記念館)でのアイロンかけの仕事、一番長く何年もやっていたのはデパートの派遣マネキン(たしか大東マネキンという会社だった)の仕事で、小田急や京王や伊勢丹のデパートの売り場仕事をしていた。

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私は幾度も母のデパートの休憩時間に合わせて、母に会いに行った。その頃のデパートの休憩所は、数メートル先がよく見えないほどの紫煙で澱んでいて、目が沁みて咳き込んで涙が出るほどで、母も私もよく苦しいとも言わずにそんな場所で座っていたな、と今は思う。

たぶん明治神宮か新宿御苑で。白い椿に喜んでいる母。母が自分で縫ったスーツ。
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生前、叔父が母の施設に持って来てくれていた少女の頃の母の写真。
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10月5日

おばさん(母の弟の奥さん)に電話して、母の直葬を終えたことを報告した。

おばは、昨年、叔父が癌を告げられてから2か月もないうちにあっけなく亡くなってから、ずっと立ち直れず、ほとんど家で寝ていると言っていた。

もう何年も会っていない(ぼろぼろの福山家に私が認知症の母を介護しているところを見に来た以来)が、昔からおばは頭の回転がよくて「如才ない」という形容がぴったりの人だった。

叔父は膵臓癌の告知からすぐに脳梗塞を多発し、話ができなくなってしまったそうだ。おばは、叔父にどんなに守られていたか、死んでから心底わかって、もっと叔父に付き合っていろんなところに一緒に行けばよかった、叔父がなにを考えていたか知りたかった、と後悔でものすごく苦しんでいた。

私も、いまだに叔父がこの世にいないことが信じられない。母より10歳下で、とても元気で、頭の回転も速い叔父だった。人格的にもしっかりしていて、社会的に信用が厚く、若くして立派な家を建て、堅実に定年まで勤め上げた。

叔父にも私より年少の娘(私の従妹)が二人いて、叔父もおばもきつい性格ではないが細々としたところまで躾に厳しく、きちっと育てられていて、成績優秀だった。

私は遊び好きで無責任な父と、情にすごく厚くて働き者の母に、まったく放任で育てられたので、叔父の家庭に対して、うちがすごく貧乏で汚いこと、自分が社会的な決まり事など、なにひとつ無知のまま育った引け目があったので、私から積極的に叔父の家に連絡したりはまったくしていなかった。(従妹たちが今、どこでどうしているのかは全く知らない。)

ただ、叔父は母をずっと見捨てないで最期まで思いやってくれていたし、母を守ろうとしている私のことを最後まで信頼していてくれた。

母の具合が悪くなってからは、(父も妹もまったく心が通わないので)叔父だけが、私にとってこの世でたったひとりの、まともに話ができる、情の通う、信じられる肉親だった。

昔、父の借金で苦しめられた時も、(金額などはきいていないが)とても母を助けてくれた。母が心底信頼していた真面目な弟だ。

叔父は、3年前、私の父が死んだ時はまだすごく元気だった。私と電話で話して、父の葬儀には来ない、と言われた。私はむしろ、母をすごく苦しめた父のことを死んでも許せない、と叔父が言ってくれたことが嬉しく、そこまで母を思ってくれる叔父がありがたかった。

おそらく母が東京に出て私の父と知り合う前の、新潟の海での写真。左から叔父、母、叔母(母の妹で叔父の姉)。叔父は去年の4月、叔母は今年の6月、同じく膵臓がんで亡くなった。

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おばは、私が実家で母の介護をしているのを見た時のことを、すごく感心した、と言っていた。

「あなたの情の深さには際限がないのよね。」と。

「普通なら、ここまで、というふうに介護するんだけど、あなたは違うの。お義姉さんがしっかりしていたら、もういいよ、知佐子が疲れちゃうでしょ、って言ったと思うわ。」と。

「きっとお義姉さんのあなたに対する情愛が、際限がなかったから、あなたがそう育ったのね。」と言われて、また涙・・・。

「私なんか自分の都合のほうが大事、というふうに娘たちに接してきたから、娘たちも私に対してそうなんだと思うわ。お義姉さんはよくそんなふうにあなたを育てたわね。」

おばに妹のことを聞かれて、とにかく精神的におかしい、認知がおかしい――重要な事実を誤認してまったく違うふうに記憶していたり、こちらがなにも言っていないのに(私からは妹をばかにしたり責めたりする感情はない場面で)、先走ってべらべらと被害妄想的な発言をしたり、反対に感情鈍麻だったり・・・と話した。

妹はもともとは頭もよくて、中学生くらいまでは優等生で、忍耐強くて、クラスの委員長のようなこともやっていた。

高校は私と同程度の学力の都立で、私は妹のことをしっかりした利発な子だと信じていた。

妹と私は仲は悪くなかった。むしろ他人からは「仲いいねえ。」と言われるくらいだった。

少なくとも、妹が妹の夫の転勤で上海に行った頃(妹の息子がまだ5歳くらいだった)、妹は「上海に遊びに来てください」というはがきをくれたし、長い国際電話(1時間以上も妹が話しているので、だいじょうぶ?と言ったら「プリペイドで2000円くらいだからいいの。」と言っていた)をかけて来て、私に甘えて「ねえ、お姉ちゃん、聞いて。」と中国での生活の愚痴を半分笑いながらしゃべっていたくらいだった。

それから5年くらいが経って、母の認知症と震顫が進んだことに気づき、私が母を大学病院に連れて行き、ちょうど日本に帰国する妹に、「母がたいへんです」とメールした時、妹は変貌していた。

妹から来たメールの返事は信じられないものだった。

「私は今、Y(妹の息子)を前に死にたい、死にたいって言ってるくらいなのに、なんなんですか?私をこれ以上利用しないでください。」というような内容(保存してあるが記憶ではこんな内容だ)だった。

急に「死にたい」っていったいなに?「利用」っていつ私が妹を利用したの?とまったく意味不明。その時点から妹は過去を歪めてしまった。

とにかく、その時期に妹が「うつ病」?というのか、精神的におかしく変わってしまったことは確かだ。

妹が、母が認知症になった時に、まったく情を示さなかったこと、若い頃と明らかに性格が変わりすぎるほど変わってしまっていることが、私には目の前が真っ暗になるほどショックだったし、いまだに信じられないのだが・・・。

母は妹のことも分け隔てなく育てたはずなのに、まったく母に対して情がないと、おばに話していて、気がついたことがある。

もしかしたら妹と父は、どんなに歳がいっても、まだまだ母に甘え足りなくて、ずっと私に嫉妬していたんじゃないか、ということだ。

妹はそれをずっと認めなかったが、妹の中では、その思いが鬱積してこじれてしまったのだ。なんらかの強いストレスがかかった時に、その思いばかりが突出して出てきたのかな、と思う。

おそらく母と私の絆が強すぎたのだと思う。それで、私が生まれてから、父は嫉妬で私を虐待したのだと思う。

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2017年10月 4日 (水)

母の火葬(直葬) / 火葬場で腹にたまっていた怒りをぶちまけた話

10月3日

ピコティという花弁のふちだけがピンク色の白い可憐な震えるコスモス。なんという絶妙なしなり。決して正円ではない8枚の花弁の位置。

「愛の告白に」とポップに書いてあった深紅の薔薇。私は胸が張り裂けるほどの愛を告白したいのです。

中が紅色でふちは白いオリエンタルの百合。赤紫のトルコキキョウ。ふちだけが濃いマゼンタの大きなカーネーション。ふちがフーシャの白いスプレーカーネーション。薄紅色と白と黄色のスプレー菊。

母はどんな時も、その季節、たまたま街路で出会った花や実や落ち葉、花屋に並んでいたものの中から、特別な、なにかを見つけては「素敵ねえ。」と言っていたから。

町中の花屋から特に魅力的なものを、いろいろ一輪ずつ、本当に母が「きれいねえ。」と言ってくれるだろうと思う花を厳選して選んだ。

花屋とスーパーを廻って昨日、少しずつ買い集めた花々を氷水につけておいて、きょうまで一日、ずっと眺めていた。どの花もありがとうね、母をよろしくね、と。

花で母をうずめる時、ひどく泣いてしまった。「ありがとうね、生まれてからずっと、育ててくれて、ものすごくよく働いてくれて、すべて、すべて、たくさん私にくれて、本当にありがとうね・・・」と。

火葬のみの直葬なので、喪服は着ないで、私らしい黒のジョーゼットのワンピースにスニーカー。そのほうが母は喜んでくれるから。

母は、ごく一般的な慣習にとらわれず自分の考えで行動する私の性格、その時の心の精一杯を尽くす私の気質をとても好いて、尊重していてくれていたから。

(勝手な自己満足で他者を傷つけない限り、)思い切り自由に、形式にとらわれず、虚飾を排して自分らしいことをやるのが一番だ、という私の性質を理解していてくれたから。

母はすごく正直で、余計なこと――虚栄心とか、嘘とか、他人への媚とか、へつらうとか、他人を自己利益のために利用するとか、自分だけ楽をするとか、卑劣で厚かましいことが大嫌いな人でした。

・・・

母の火葬の日に私が激昂した話。

私はもともと緘黙気質で忍耐強いが、母を守るためなら強くなれる。

火葬の斎場で、私は爆裂してしまった。

母が骨になる、きょう、この時に、今まで積もり積もっていた母から私が受け継いでいる思いを、絶対に、私が口にしなければ許せないと思ったからだ。

その経緯を記述しておきたい。

私の父と母を「お兄さん、お姉さん」と呼んで、私が子供の頃、しょっちゅううちに入り浸っていたK・H子を、母の火葬によんだ。K・H子の母親(故人)と私の祖母(故人)は親友で、麻布のお寺にお墓を隣同士に買っていたほど親しかった。K・H子は父より10歳くらい下だ。

今から25年くらい前、K・H子は娘の保証人のハンコを父に押させた。そのあと、母は、私に「知佐子、聞いて!ひどいのよ。悔しい!悔しい!」と言って、流し台で茶碗を叩き割って泣いていた。

「おにいさああ~ん、ここにハンコ押してえ~。」とK・H子が甘ったるい声ですり寄ってきて、父は簡単に「ああ、いいよ。」とハンコを押してしまったと。私もそれを聞いた時ははらわたが煮えくりかえった。

それは母と祖母と私に、ギャンブル依存の父が一千数百万円の借金を負わせた、地獄の苦しみの数年あとだったから、その母と祖母と私の借金地獄のことを知っているK・H子が、いけしゃあしゃあと父に保証人のハンコを押させるなんて、母にとって、絶対に信じられない光景だった。

父の大きな借金が発覚した時、私は美大卒業前だった。私は卒業式以前に就職し、9時から夕方5時30分まの正勤務(1年間は友禅デザイナー。そのあとは友禅の会社が倒産したため、専門学校の事務職員)のあと高級喫茶で11時までの勤務、そのあと帰宅してから午前3時までジュエリーデザイン(原稿買取)をやって働いていた。

ギャンブル依存(精神疾患)で、多額の負債を平気で家族に負わせる父への激しい憎悪と反発心から、私は死ぬほど働いて(その頃は若くて、父への当てつけのために本当に倒れて死んでもいいと思っていた)、稼いだお金は一円も残さず、そのまま母に渡した。

私は本当に、自分のためには缶ジュースひとつ買わなかったのだ。

過労とストレスで私は、すぐに腎臓結石になり、背中からの激痛の発作で卒倒して胃液と緑の胆汁を吐いて転げ廻り、何度も救急車で運ばれるはめになった。さらに私は甲状腺がんになった。

私は専門学校の職にかわってからも毎月の積立のほかは全額、母に渡していた。

のちに、なんで(父の借金から)逃げなかったの?と幾人もの人に言われた。私も母に、なんで父と離婚しないの?と当時、当然尋ねていた。

母の答えは、私の祖母(父の養母で、私とは血のつながりがないが、私がものすごく大好きな祖母で、母とは本当に実の親子以上にいたわり合い、助け合っていた)を自分が捨てることはできないから、

そして父を捨てたら、何年か経って浮浪者のようになって死ぬだろう、そんな父を私と妹が悲しむだろうから、という答えだった。

その母の答えを聞いた時、私はは非常に頼りなく力不足ではあるが、自分でできる極限まで、母と祖母を守ろうと思ったのです。

私は、父が生きている時から、実家の父宛にK・H子の娘と(その連帯保証人の)K・H子が、その30年近く前の借金を返さずに逃げ回っていて、利息が膨れ上がって数百万円になっているというはがきが来ているのを、知っていた。

あんなに週に何度も福山家に入り浸っていたK・H子が、まったく来なくなって、電話をしても出てくれない、と晩年の父は淋しがって嘆いていた。借金のことを言われたくなくて父を利用だけして捨てたのだ。

3年前の父の納骨の時にも私はK・H子を呼んだ。どういう態度をとるか見たかったからだ。

その時、K・H子が「私がね、いつもいつもお墓をきれいにして、福山のお祖母ちゃんのお墓にもちゃんとお花をあげてるのよ。」と得意げに、恩着せがましく言うのに、私は内心煮えくり返っていた。

父に数百万円の借金のハンコを押させて、母を苦しめて、それから家に何年も来もしなかったくせに、なにが墓をきれいに、だ。

私は、火葬場に来たK・H子が、きょうの母のための読経にきてくださった菩提寺の若いお坊さんに、さっそくべったりくっついて馴れ馴れしく話しているのを見て虫唾がはしった。

私が小学生の昔から、私は、自分と正反対の、かすかな遠慮も恥の感覚ももなく、まるでいつも自分が主人公のように、人に馴れ馴れしいK・H子の性格が好きではなかった。つまらない俗な話しかできないのに、どうしていつも自信たっぷりで、「ねえ、聞いてよ、お姉さあ~ん。知佐子ちゃんたらね~え、おかしいのよ~。」と人をばかにしたようなことを言うのだろう、と不思議に思っていた。

私は母の火葬の前に、K・H子に「きょうはどうもありがとうございます。」と頭を下げてから、「父が亡くなる前に、最後に会ったのはいつですか?と尋ねた。

「父はずっとH子さんにすごく会いたがっていました。何度も電話したけど出てくれないと苦しんでいたんで。」と私がストレートに言うと、

K・Hは「私はね、着信が残っていたら絶対にかけなおすのよ。だから電話なんて来てないわ。それに福山家に電話しても誰もいなくて通じなかったから。お兄さんはいつも留守だったから、鍵がかけてある家には入りたくても入れないでしょ。」といけしゃあしゃあと言う。

「そんなはずありません。父は何年もほとんど外に出ず、ずっと家にいましたから。」と私が言うと、予想通りK・H子は、父と新宿のバス停ですれ違ったんだけど、父が気づかなかったから、元気そうだったから声はかけなかったとか、べらべらと長い嘘話を繰り出してきた。

私にしゃべらせないように、一方的にしゃべり続けようとする猿芝居だ。「父はずっと具合が悪くて元気そうではなかったので、父ではないと思います。」と私は言った。

母の死因はパーキンソンだが、K・H子が「私の友達もパーキンソンでねえ。その人は、もう25年もねえ・・・」と、母とまったく関係ない、心ない話をだらだらと始めた時、私がかっと眼を見開いて睨んだら、H子の顔色が変わった。

「そういう話は関係ないんですよ。借金に逃げ回っているから、うちに来なくなったんじゃないんですか?」と言ったら「なによ!逃げてなんかいないわよ!」と。

「今から25年くらい前、母が、すごく悔しいと怒って泣いていました。ずかずか家に入ってきて、おにいさああ~ん。ここにハンコ押してえ~~ん。とH子さんが言ったと。」

「私はね!そんな言い方しません!ちゃんとタダヨシさんて言うわよ!」

「言い方はどうでもいいんですよ。私が言ってるのはお金の話です。母はすごく悔しがって恨んでいました。そのことを絶対に伝えたかったんです。」

「あ~らお兄さんは快く押してくれたわよ!」

「父は私と母を死ぬほど苦しめるような無責任でだらしない人間だから、さぞかし利用しやすかったでしょうね。父は誰にも相手にされないで淋しいから、こびてくる相手には甘いから。」

(ものごとをきちんと考えないで、誰にも相手にされないどうしで甘やかし合うのは父と妹も同じだ。父は人に相手にされたいために表面的ないいかっこだけをする。まったく思いやりや責任感はない。)

私は保証人という重要な話を、実際に死ぬほど苦労して金を稼いでいた母を無視して、卑劣な父に直接取り入った同じく卑劣なH子を許せないのだ。

「あら、私はお兄さんになかなか返せなくてすみませんて言いに行ったわよ!」

(父からそんな話は聞いたこともない。)

「そんなことは知りません。なぜそんなに私に偉そうなんですか?なぜ私に、母に謝らないんですか?父が死んで、その借金が今、私と妹のふたりに相続されてるんですよ。私は、あなたのような他人の借金から、私自身とかわいい妹を守らなきゃいけないんです。」と私が言った時のH子の鬼の首でもとったようなヒステリックな声は面白かった。

「かわいい妹ですって?!!!なにがかわいい妹よ!!あんたはブログに妹のことをなんて書いてるのよ!!M子ちゃん、この人になにを書かれてるか知ってるの?」と妹を味方につけようとするH子。

私が本当のこと(醜悪な現実)を書いたからなんだってんだ?!ふざけんな!!

妹が母を心底いたわらなかったという点では私はすごく頭に来ているが、それは母を精一杯いつくしんだ私の権限だ。

それでも赤の他人の借金を妹が負わされそうになったら、そんな理不尽なことからは私は妹を絶対に守る。

「私は作家なので。誰がなんと言おうと、書きたいことを書きます。」

「なんで今、そんな話するのよ!場所を改めたらいいんじゃないの!?」

「いいえ、きょう、今、母と別れる時に、母を焼く前に言いたかったんです。母を最期まで守るために、母の思いを伝えたかったんです。」

「私はいつもあなたのお祖母ちゃんとお父さんのお墓を大切にしてるのよ。」

隣にうちの菩提寺から派遣されてきた若くてきれいなお坊様が困った顔で座っているのを見ながら、私はことさら大きな声で言ってやった。

「お寺もお墓も、関係ないんですよ!!生きている時に母や私をこれだけ苦しめておいて、いけしゃあしゃあとしていることが許せないんですよ!」

それから母とのお別れ。私は持ってきた花々、一輪一輪、ちゃんと配置を考えながら母に手向けた。甘く優しいコスモスやかぐわしい匂いの百合を顔の近くに置いた。

そして号泣。親友に抱えられて激しく狂ったように私は大泣き。

確かに焼くのが怖いので、焼いている間にお坊様が読経してくださる。私は焼香の香を、火にくべないで、もう一度香のはいっている壺に戻してしまうほど、母の死に取り乱していた。

だけども、こんな(慌てて変な失敗ばかりする)私を母は笑って見ていてくれる気がした。

形式なんてどうでもいいのだ。心底、生きている時の母がなにを今、苦しんでいるのか、なにを欲しているのか、それに対して自分が少しでもなにをできるか、とフル回転の頭で考えあぐね、こうしようか?ああしようか?と母に問うてきました。

痛いとこない?食べたいものはなに?今、どこか苦しくない?これとこれなら、どっちが好き?ここ押したら気持ちいい?ストレッチしようか?見える?あれ、きれいじゃない?もう尋ねることができないことが悲しいのです。

焼くのを待つ間の40分ほどに、妹と私と、ほかに二人(私の親友)がいるテーブルで、私は、頭の回転するままに全部言葉に出した。

「なぜ、人から借りた金を返さずに、そんなに居丈高なんですか?本当なら母にすみません、と泣いて謝っても当然だと思いますが。自分が人間としておかしいと思わないんですか?」

「ああ、なんとでも言いたいようにどうぞ。どうせなにを言っても信じてくれないんでしょうから。逃げる気ならこうしてくるわけないじゃないねえ?」と私の親友にすり寄るH子。

私の親友たちにはずっと何年もH子の話をしているし、信頼するケアマネのMさんや、K島さんも彼女を「もっっのすごく図々しい人ですね。信じられない。」と評している。

私は父の借金のせいで癌になった、という話をしても

「癌になったことは知ってるわよ。」といけしゃあしゃあ。

H子は、父が死んだあとに妹に聞いて母のいる特養に行ったらしい。寝たきりでなにも会話できなくなった母を見に行かれたことが、汚らわしくて悔しかった。

汚い、汚らわしいことをやって母を苦しめておきながら、決して免罪符になるわけもない自己満足、自己欺瞞のために私のきれいな母を利用しないでほしい。

私の母はあなたとは違って、まったく汚らわしいところがない人だったから。

「母は一生、身を粉にして働きました。私も妹も、中高とも公立なんですよ。私は美大の学費は自分で働いて返しました。H子さんは人に借金して返さないくせに娘姉妹とも私立の高校に行かせて、さらにその上の私立の学校にやって、うちみたいな貧乏人を保証人に利用して、おかしいと思いませんか?」

「うちが私立の学校に入れたからなんだっていうの!関係ないじゃないの!!」

「贅沢なんじゃないんですか?すごいですね。他人を利用して生きてきた人は、さすがに態度が違いますね。」

「失礼なんじゃない!!!」

「そういう話し方、態度は、あなたの生きざまそのものですから。」

「なんでお兄さんの葬儀の時に言わないのよ!!!」

「父が死ぬずっと前から、私はあなたが借金を返さずに逃げ回っていることを知ってたんですよ。ずっと恨んでいました。へたに言うと、もっとばかなことをされると思ったから黙ってたんです。」

「Y子(借金の名義人、H子の長女)に言えばいいでしょ!」

「Y子さんはきょう、来てないじゃないですか。それに父にハンコを押させたのはあなたでしょう。あなたは、自分がY子の連帯保証人だという意味がわからないんですか?あなたは私の父や母にかわいがられていたんじゃないんですか?少しも申し訳ないと思わないんですか?」

H子は最初から一円も返す気がなくて、父にハンコを押させたのだ。そして自分が母や私を苦しめているという自覚がまったくないのだ。

汚らわしい。

「私がお墓やご先祖をすごく大切にするのはねえ・・・。」

「それはあなたが勝手にどうぞ。私は私で人を大事にします。母は人を傷つけること、図々しいこと、卑劣なことが大嫌いでしたから。」

どんなに神仏神仏、墓掃除とわめいて信心深いふりしても、あなたは極楽浄土にはいけないと思いますけどね。

母には、母から直接、愛情のなんたるか、思いやりのなんたるかを教えてもらった私という強い娘がついていました。

だから、母は死ぬまで、私と、私を信頼して助けてくださる人たちに支えられ、守られて生き抜きました。

あなたのふたりの娘さんは、あなたを大事に介護するでしょうかね?

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2017年10月 2日 (月)

母の死

10月1日

昨日の深夜(命日はきょう10月1日)、母が亡くなった。

きのう9月30日の夜、11時過ぎに電話が鳴った時は、えっ?という感じで、あんなに毎日、毎日、24時間、恐れていたはずなのに、なぜかその瞬間は母の危篤の電話だと思わなかった。

そのときちょうど、具合の悪いちゃびに給餌していた最中で、そこに集中していたからだと思う。

 

母の脈が少なくなってきていると聞いて、いよいよ、と思い、その場で号泣してしまった。

 

各駅停車とタクシーで深夜12時少し前に病院に着いた時は、亡くなったばかりだった。


私が母の手を握って話しかけると、まだ生きているようにモニターの真ん中の青い波線が反応していた。

 

「ありがとうね。私が生まれてから今までずっと、一生、本当にありがとう。」と泣きながら何度も言った。

12時過ぎに検死があったので、死亡時刻は検死の時刻10月1日となる。

1時過ぎに妹が子ども一緒にと来た。母の顔に白い布がかかっていたのを見て「えっ?!」と妹は驚いていた。危篤と聞いてもまだ、自分が着くまでは生きていると思ったのだろうか。

 

妹は母に顔を近づけて、ごにょごにょと小声(妹と母にしか聞こえない声)でたくさん話していが、泣いていて、「ごめんね!」と言っていたようだ。

そのあと「顔に皺がない~!」とか「髪の毛がさらさら!シャンプーしてくれたんだ!」と(私を無視して)子どもに言う妹。それから「私、ひとりも親がいなくなっちゃった!誰もいなくなっちゃった!」「たった一時間前に死んだのに、なんでこんなに冷たいの?」と子どもに向かって泣いたり。(やはり精神がおかしい)

なんで母がまだ生きている時に介護もしないで、見舞いにも来ないで、死んでから謝るの?と私が思っているのを妹は当然わかっている。私は黙って泣いていてなにも言わなかった。

私は、帰りの電車がもうないのでタクシーで帰宅(5370円だった)。2時半くらいに家に着き、またちゃびに給餌し、今朝は6時半に起きて、8時前に病院に行く。

きょうは澄んだ秋晴れの日だった。

8時に母の棺を迎えに来てくれたF葬儀社の人の車に同乗して斎場に行った。御茶ノ水、飯田橋、早稲田、新宿、東中野、思い出がいっぱい。

母を安置室に入れて、外で待っている時、庭で白い小さなアベリアが匂った。(大野一雄先生の自宅前にこの花が咲いていて、雨の中、大野先生が生命がはじけるように、楽しそうに踊ってくださったのを思い出していた。 )陽は強かったが日陰は寒いくらいだった。

斎場の喫茶部でF葬儀社の人と打ち合わせをした。いろいろ細かく段取りや明細を説明してくれて誠実な人だった。ネットで新宿近辺で直葬も慣れている葬儀社で良心的そうなところを直感で選んだのだが、この人に決めてよかったと思う。

3年前の父の時のH社さんには、どうして今回も頼まなかったのですか?と聞かれ、私は父と仲良くなかったので、父の時のことを思い出したくなかったので葬儀社も斎場も変えたかったのです、と答える。今回のF社さんはH社さんと(同じくらい良心的な値段で)親しいそうだ。

2001年に、祖母が亡くなった時、父が(現実逃避、かつ面倒くさがって)なにも考えず電話帳の一番上にのっていたA葬儀社に決めてしまい、そのA社は酷かった。高い金(30万円か35万円くらいだったとおもう)だけとって、なんの説明もなかった。

口のききかたもまともじゃないような人が(自宅に)3人来て、菊の生花の代金を2万円(3万円?忘れた)くらいとっていたのに、その花を一輪もお棺にも入れさせずそのまま(使いまわすために)持って帰った、と母が悔しがって泣いていた、とF葬儀社さんに言ったら、「当時はそんな葬儀社も多かったですね。」と。今のネット時代では透明化が進んで、そんな酷いことはあまりないが、それでも見積もりにない金額を本番で要求するところもあるそうだ。

その場でF葬儀社さんのスマホで菩提寺に電話して、火葬の時に来て短いお経をいただけるか確認。Fさんから母のデータを菩提寺にファクシミリするという。徹底してわかりやすく親切。

 

今更ながら、母が6月の始めに入院して経口摂取不能になってから水分だけで4か月近くも生きてくれたことが信じられない。

 

最初に入れてもらったY病院で2か月。

8月3日に転院したT病院では、もう静脈に点滴できず、お腹の皮下点滴に移り、皮下点滴なら1週間、長くて2週くらいでで亡くなると言われていたので、私は毎日、きょうか、きょうかと怯えていたが、それから2か月も、たぶん私のために母は生きていてくれた。

 

苦しみすぎる私に時間の猶予をくれるために、母は本当によく静かに生き続けてがんばってくれたのだと思う。

まさに地から切り取られた花のように、母は奇跡的に穏やかに衰微する死を迎えることができた。

 

最初のY病院も、転院先の病院も、本当に親切で、清潔で、よくしてくださって最高に恵まれていました。T病院では検査のために個室と言われ、病院側の判断なので個室代はとられなかった。

 

6月にすぐに逝かれたら私はすごく苦しんだろうし、じりじりと焼かれるような猛暑の時期に逝かれるのも怖かった・・・

 

勝手な話だが、今年の日本の9月は台風の暗い雨がずっとぐずぐずしていて、そんな嵐の日に逝かれたら、それはそれで私の気持ちもさらに暗くなって泣いていたと思う。

 

きょうは降水確率0%の26度。これ以上ない素晴らしい透明な秋晴れの美しい日だった。母が、すごく考えて、この日を選んでくれたのだと思う。

 

土曜の深夜に亡くなって、明日の月曜は友引なので火葬場はお休みで、私が母の好きな花をいろいろ集める時間も一日くれて、お別れは火曜日。

 

最期の最期まで、母は私をものすごくかわいがってくれたのだと思います。

 

F葬儀社の人が言っていたが、深夜に亡くなった場合、朝まで預かってくれない病院がほとんど(9割)で、そうするとさらにいったんよそに預けなくてはならず、手間もお金もかさんだのに、親切な病院で、すごく恵まれていると。

 

父の時とは別の斎場(近場で同じく公立)にすんなり予約できたのも、すべて幸運だった。私は今回の斎場は初めて行ったのだが、華やかな明るい雰囲気で、ここで母を送れるのがよかったと思う。

きょうと明日は、母のために、母が好きだったいろんな花を集めようと思っています。(母はまったく物欲がない人だったので、好きな植物を入れてあげるしか思い浮かばない。)

昼に帰宅してから、スーパーや花屋を6軒回った。紺や青紫、赤紫の竜胆、ワックスフラワー、白い百合、小さな向日葵、オレンジベージュの薔薇、白いカスミソウ・・・きょうは下見で、明日買い集めようと思う。

非常に疲れているが眠れず、母の少女の頃の写真、田舎の成年式の集合写真などを見て泣いていた。

これらの写真は田舎の実家から叔父が持ち帰っていて、私に送ってくれたものだ。私がこれを手に入れた時、母にはもう認知症があったから、一緒に写真を見てあれこれ話すことはできなかった。

 

 

 

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