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2017年11月

2017年11月26日 (日)

ちゃびのこと、猫(動物)の看取り、動物を愛するということ

11月22日(水)

お世話になった動物病院に未使用の輸液や薬を返却しに行く。

ちゃびが亡くなる前日に、まだ、すぐ亡くなるとは思っていなくて購入したものだ。

(亡くなると思っていなかった、ということを思い出すと、苦しくて発狂しそうになる。)

これから一生、猫と触れ合えない人生が考えられない、すごく苦しい、と快作先生に言ったら、今、病院のケージの中にいる治る見込みのない猫の看取りをやらないかとすすめられた。

野良猫で、悪性リンパ腫で、おそらく余命半年くらいで、絶えず下痢をしているキャラメルちゃん。外猫として世話をしていた人たちからも、誰の自宅でも飼えなくて、お金を払うから引き取ってほしい、と言われたという。

顔はちゃびとはまったく違うけれど、同じ茶トラなので、快作先生は私に引き取ってもらいたくて、「ね~、ちゃび。」とキャラメルちゃんに話しかけて見せたりしていた。

「温かい部屋にいて、近くに人がいて、テレビがついているような安心できる暮らしを死ぬ前に味あわせてやりたい」「看取りをしてくれる人がいたら、なによりも助かる」「預かってくれる人がいない」と快作先生に言われて、苦しすぎて、ただ涙が出た。

外猫(地域猫)で、食餌の世話をしていた人はいるが、病気までは面倒みきれなくて、ほっておかれて死んでしまっていたかもしれない猫で、とりあえず病院に連れて来てもらえて、病院のケージに入れられて、命拾いだけはした猫。

引き取って看取りをしてあげたいとは思う。しかし、今の私には、愛情を注ぐものがやせ衰えて死んでいく現実を受け止めて、全力で介護する覚悟とエネルギーがない。

心身共に、今の私の力では足りる気がしない。

やるからには全力で介護しないわけにはいかない。同時に、誰もそれをやりたがらないなら力不足でも誰かがやらないと、という気持ちもある。

それをやったら、私自身が精神崩壊しかねないのではないか、という懸念がある(実際はどうなるかはわからない。私は私自身が予測するより強いのか、弱いのかわからない)。

どうしたらいいのかわからない。ただ苦しくて涙が止まらない。

ちゃびと死別して、正直、自分の精神崩壊、うつやパニック障害になるのは嫌だ、とすごくおそれている。

私が愛情や思いやりを注げる相手が喪失した、その欠落に苦しんでいるのだ。

自堕落になる気もなく、サプリ(アスタキサンチン、ブルーベリー、タウリン、レシチンなど)を飲んだり、日がさしている時間帯にはとりあえず無理やりでも歩くようにしている。

街を歩いていても勝手に涙がこぼれる。酷く疲れた顔なので極力、人に会いたくない。

11月20日(月)

人生で一番悲しい時、自分自身がどういうふうに過ごして(生きて)いったらいいのか、また、人生で一番悲しい時の相手に、自分はどのように接していったらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか、そんなことばかりを考える毎日。

・・・

午前中、おばさん(私の母の弟の奥さん)に電話。数十年ぶりにA子ちゃん(母の妹の娘。つまり、私の従妹、おばさんにとってはやはり姪)と連絡がついたことを報告。

おばさんは叔父さんを亡くして1年と半年。まだなにもやる気が起きない、誰にも会いたくない、と言う。体重は40kgもないそうだ。月命日は毎回、おじさんのお参りに行っているという。

おばさんはうつだと言うが、話し方に快活で頭のよかった昔の感じはそのまま残っている。ただ、かすれて低い声の色が苦痛をものがたっている。話す内容が、もっと叔父にこうしてあげればよかった、という後悔ばかりになっている。

おばさんは私に「お義姉さんは、お義兄さんのことですごくたいへんなことがたくさんあっても、家族っていうものをつくっていく力があったと思う。」と言われ、「母があんなどうしようもない父に惚れたせいで、私にばっかりしわ寄せが来てますけどね。」と言ったら、

「知佐子ちゃんはものすごく苦しい時でも、それにうまく対応する能力がある。そういう大物感があるのよね。だって声から笑顔が浮かぶもの。」と言われた。

私は自分が心身ともに強いとはまったく思えないし、実際、心拍がおかしくなっているし、ほとんどうつの一歩手前だが、おばさんを慰めたいという気持ちだけはとてもある。

おばさんは叔父と本音をぶつけ合わなかったことを後悔していた。いろんなことを話さないうちに、「まるで交通事故のように」、すい臓がんの告知からすぐに別れになってしまったことをとても悔やんでいた。

癌性の脳梗塞が多発し、癌の治療が始まる前に会話できなくなってしまったことがものすごくショックだったのだ。

子どもに対して口うるさく言い過ぎたことも子育てに失敗した、とおばさんは言っていたが、同じように愛情を注がれても私と妹は全然違う性格になったのだから、親の育て方のせいとばかりは言い切れない。もともとの資質とか、わからないことは多い。

母は自分の感情を押し殺すタイプではなく、私にはヒステリックに言いたいことをぶつけてくることも多かった。母は働き者で忍耐強くもあったが、笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情回路はストレートで激しかった。

母が元気で私が若い頃は激しく衝突することもあったが、思いっきりぶつかり合える関係は幸せだったのかな、と今は思う。

母は世間がうらやましがるような贅沢には興味がなくて、どんな環境でもその場で面白いことをさがして楽しめる人だったから、それだけは私にとって、すごくよかったのかな、と思う。

ちゃびが亡くなって、私もすごく精神的に辛すぎておかしい、とおばさんに話したら、「ペットロス」という言葉を使われ、すごく違和感があった。

ちゃびを「ペット」だと思ったことが一度もない。「子ども」「恋人」…、どういう言葉を使っていいのかわからない。ただ、狭い部屋にずっと一緒に暮らしていて、心身ともに激しく求めあう関係、お互いに相手のことはわかっている、理解していると思える存在だった。

おばさんは動物と一緒に暮らしたことがないそうなので、それ以上のことは言ってもしかたないと思った。

・・・

午後、ほぐし屋さんで、凝り固まった背中の筋肉をほぐしてもらう。

僧帽筋、脊柱起立筋も酷いが、菱形筋が特に凝り固まっている。

リンパの激しい痛みは治まったが、まだ乾いた咳があり、血の混じった痰が出る。洗える布製の抗ウイルスマスクをしている。

・・・

夕方5時に、生まれて初めて保護猫カフェに行ってみた。

正直、ちゃびと同じ「猫」という生きものとは思えない子たちばかりだった。「猫」ってこんなだっけ?と思うくらい、私が知っている「猫」とは違った。

成猫が皆、ちゃびの数倍もガタイがよくて、頭の大きさに対して体幹が大きすぎるのだ。

そして顔のバランスがものすごく違う。皆、顔がクサビ形で、鼻の筋が太くて長く、直線的だ。ピューマとかチータとかに近い雰囲気の子ばかりだった。

たまたま同じ兄弟の子が集まっているのかもしれないが、私にとっては「猫」というものが「ちゃび」とあまりに違うことに驚愕しかなかった。

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ちゃびのおでこから鼻にかけての柔らかな曲線が恋しくてたまらない。

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蠱惑的で甘えっ子だったちゃび。
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11月19日(日)

保護猫譲渡会に行ってみた。

眼に障害がある子、四肢欠損の子、どの子もかわいく、愛情を感じた。

けれど、当たり前だが、「ちゃび」はいなかった。

夜、すごく苦しい感情が堰を切って溢れだし、爆発してしまった。

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2017年11月21日 (火)

阿部弘一先生/ 悼むということについて

11月18日

冷たいセメントのような灰色の曇り時々雨の日。冬の気配が濃くなってきている。

朝、書留が届いたのでなにかと思ったら、阿部弘一先生からのお香典だったのでとても驚いた。

気安くお話しできるような間柄ではないのだが、3日前に私が出した年賀欠礼状が届いてすぐに、私などにお香典をくださるとは、本当に恐縮するばかりだ。

手紙に「お母様のご逝去を心よりお悼み申し上げます。また、“ちゃび”まで・・・・・、ご心痛の程、ただただお察し申し上げるばかりです。どうぞお体を大切にされますよう・・・・・。」とあった。

「ちゃび」のことまで書いてくださっていることが嬉しく、ありがたすぎて、涙。

目上のかたに出す年賀欠礼状に、ちゃびのことを書いていいのか少し躊躇いがあったのに、一番書くことを懸念した阿部先生が、真っ先にちゃびのことまで悼んでくださったことに痛み入る。

阿部弘一先生は、私の師、故毛利武彦先生のご親友で、とても尊敬する詩人だ。

私が美大を卒業して2、3年の頃、父の借金を負い、疲弊して、もう絵を続ける気力も失いかけ真っ暗な闇の中で迷っていた頃、毛利先生のお宅に伺った時のことだ。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳しているんだけど…。」最初、そんなふうに、毛利先生は阿部先生のことを教えてくださった。

そして毛利先生のお宅で私は阿部先生と初めて出会った。その時に阿部先生は私が持参したスケッチブックの中の椿の絵を気に入ってくださった。

2001年に祖母が亡くなった時にも、阿部先生からクリーム色のチューベローズ(月華香)や青と白のアネモネが美しく盛られたお花が届いて、あまりにも驚いたことがあった。

阿部先生が私のような者をこのように気にかけてくださることは、大きな喪失の淵にある時、とても信じられないほどありがたい。

阿部弘一先生。1978年4月、ヴァレリーの眠る海辺の墓地(フランス、セート)で。

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私の最初の個展の時の阿部先生と私。

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11月17日

ちゃびのことをとてもかわいがってくれて、私が家を留守にするときに、ちゃびと一緒に留守番していてくれた友人Nちゃんから長距離電話。

ちゃびが亡くなった直後から2回目の電話だ。Nちゃんも「あんなかわいい子はどこにもいないよね。」と言って泣いてくれた。

Nちゃんはかつて近くに住んでいて、ちゃびのことを長年、すごく愛してかわいがっていてくれた。わかりすぎるので、あまり言葉もなく、ただ電話口で一緒に泣いた。

ちゃびはよくNちゃんを踏み台にして、高い棚のてっぺんに駆け上がったりしていたこと、なんにでもよくじゃれて、疲れを知らずに遊びまわっていたこと。元気で、暴れん坊で、愛嬌たっぷりだったちゃびのことを覚えていてくれて嬉しい。

Nちゃんが一緒に留守番していてくれた時、私の帰宅する気配を待って、ちゃびはいつも落ち着かなかった、と言っていた。

・・

母が亡くなってすぐ、私が寝込んでいる時に、クール宅急便(冷凍ではなく冷蔵)を送ってきた人がいた。段ボール箱を開けたら、ジップロックに煮物などの手料理がいくつか入っていて、おまけに肉を使ったものあったので、すごく困惑した、という話をNちゃんにしてみた。

私は(動物を愛するために)肉食だけは(反射的に吐いてしまうくらい)どうしてもできない、と何度もはっきり伝えているのに、「友達だから手料理を送ったのに…」と言われた、という話をして、「どう思う?」と聞いてみた。

Nちゃんは「異常に気持ち悪い。肉食できないことって、本人にとってものすごく重要なここだよね。」と言った。

私は「もちろん、私の人生で最も重要なことのひとつ。」と応えた。

「友達なら、相手が肉が食べられないことを覚えていてくれるはずでしょう。それに肉が入っていなかったとしても、手作り料理をジップロックに入れて送るなんて不潔で気持ち悪すぎる。そんなの食べられるわけないのに。」と言ってくれた。

私にとって、肉料理は動物たちを殺すことに変わりない。、

私はもともと肉食をしないが、よりによって母が亡くなったばかりの時に、肉の手料理を送り付けられることは耐えがたかった。どうしてこんなに余計なことをするのだろうと思った。

さらに「いらないならクール便で実家に転送してほしい」と言われたんだけど・・、と伝えると、「その人は完全におかしい。」とNちゃんは言った。

過去にも何度かあったが、大切な人が亡くなって、私が心身ともに一番弱っているような時にかぎって、「福山さんのために」と言って、エゴの塊の自己承認欲求をぶつけて、ずかずか踏み込んでくる人たちがいる。

私にとって異常なストレスでしかない。

たとえば、恩師である毛利武彦先生が亡くなって、私が泣くのと吐くのをくり返している時に、面識もない他人であるにもかかわらず、自分が私と毛利先生の重要な関係者だという勝手な妄想で、「師の死に捧げるオマージュ」なる安い創作物を送りつけてきたN・S。

彼は一方的に憧れる相手に同一化して自分が「芸術家」になった妄想で有頂天になる精神の病だ。(彼から受けた耐えがたいストレスの経験について、いずれブログに書くつもりだ。)

あるいはまた、父が亡くなった時に、よく知りもしない他人の親について自分の意見を書いて送りつけてきて、私が「私はあなたの意見を必要としていません」と返答しても、何度も「自分の意見を聞け」と強要してきたI・S。彼女は私よりひと回り以上も年下だ。

相手を理解する気がなく、ただ一方的に自分がやりたいことをやって「ほめろ」「ありがたがれ」と押しつけて、私に甘えようとしてくる他人が、ものすごく気持ち悪い。

彼らは自己愛が強すぎ、現実の解釈が歪んでいる。

私は相手を拒絶しないように見えるらしく、そういう人たちからターゲットにされる経験がとても多い。そういう人たちは自分の言動が相手に嫌がられるということを認めない。彼らは私とすごく親しくて、自分のやることはすべて私が喜ぶ、と思い込んでいる。

そういう人たちを無視しても通じなくて被害が甚大になるので、最近は、端的に「そういうことをやられるのは私は苦痛です」ということだけはしっかり伝えるようにしている(伝えても理解しない人がいるので困るが)。

Nちゃんは過去にそういう人たちから私が受けた被害をよく知っているので、とても心配していてくれた。

Nちゃんに話せてちょっと楽になった。

11月16日

実家にあった古い電話番号簿が見つかったので、新潟市に住む従妹(母の妹の子)のA子ちゃんに電話してみた。

私が大学生の頃、母と新潟に遊びに行った時のこと、また、そのあと新宿の私のうちにA子ちゃんのほうから遊びに来てくれた時のことなどをよく覚えていて、話してくれた。

とりわけ母のことをよく覚えていてくれたことが嬉しかった。母は、弟である叔父とともに、新潟にいる叔母とも、とても仲がよかった。

A子ちゃんが一時、東京で暮らしていた時、母がA子ちゃんの様子を見に行ったそうだ。近くの中華屋で一緒にチャーハンを食べ、母が「これ、ラードがはいってるから嫌い。」と言っていた、と。そんな些細なエピソードを話してもらえることが今は嬉しい。

A子ちゃんのお母さん(私の母の妹)は神経質で、子どもに少しうるさく文句を言いすぎる性格だったようで、A子ちゃんは「おばさんが自分の母親だったら、うまくいったと思う。」と言った。

A子ちゃんが「正江おばさんには安心して母の愚痴を言えてました。」と言ってくれたことがとても嬉しかった。

母は私には感情を激しくぶつけてくることも多くあったが、母は私にはなにを言ってもだいじょうぶと思っていたから、それくらい私を信頼していたのだと思う。

母の死亡後の手続きに区役所に行って書類をもらった時、母の戸籍に「四女」と書いてあったのに驚いた。

母の兄妹は全部で9人か10人あったらしい。

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2017年11月18日 (土)

ちゃびのこと

11月17日

母とちゃびを相次いで亡くし、今は私にとって人生で最大の喪失感に苦しむ時だ。

私にとって、ただ存在するだけで無条件に激しく暴力的に愛し愛された相手、私の命をかけて守りたいと必死になっていた相手が、この世からいなくなってしまったのだから。

このことを「乗り越える」ことは決してないだろう。大切な命が失われてしまった体験に対して、本来、「乗り越える」という言葉を使うべきでないと思う。

時が、ほんの少しずつ、心身の酷い痛みと動揺を和らげ、薄くしていってくれるのかもしれないとは思う。でも、それにしたって実際どうなるかは、この先経験してみないとわからない。

たいへんな「喪」の作業(世間一般の四十九日とか、読経とか、納骨とかとはまったく関係ない、私個人の)がいるだろう。

「喪」と名づけるべきでもない、私個人の喪失の体験の処し方、これこそがなにかを「表現する」ことそのものになっていないのであれば、私が生きていて表現する意味もないと思う。

毎日、ちゃびの写真をさがして整理している。

本にまとめるために過去の素描(デッサン)を整理した時と同じように、私自身にとって大切な発見がある。

20数年の記憶は、忘れていることも多く、断片的な記録や写真によって蘇り、リアルに追体験できたりもする。

私が絵を描いている時、ちゃびが、花瓶とスケッチブックを支えているちゃぶ台の上にどん、と乗っかって、絵を描くのを邪魔している写真。この絵を描いている時にも、ちゃびは私に絡みついてそばにいた。

(2000年のちゃび。この写真の時に描いた枯れたドクダミの素描(デッサン)がスケッチブックに残っている。当時、私はある小さな雑誌の表紙画を描いていた。)

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絵を描いている私の肩の上に乗っかって離れなかったり、私が絵に集中すると、自分のほうをかまえ、とことさらに激しく全身の力を込めて私の背中を蹴って、傷だらけにしたり…。

私が植物を持って帰るとすぐにちゃびは何の草かチェックしていた。薔薇やパンジーは買って来たら一瞬の隙にかじられていたので、かなり描くのがたいへんだった。

植物を氷水につけて流し台の中においても、必ずかじられるので、コップに生けて冷蔵庫の中にしまうしかなかった。

私の植物の絵を見ただけでは、ちゃびがそこにいることはわからないが、ちゃびは私と一体化するように、あまりに近くにいた。

私はちゃびと一緒に生きながら、蠱惑的な生命の秘密の世界で、植物の絵をたくさん描いた。

ちゃびが私に植物の絵を描かせてくれていたのだと思う。

私が誰かに会いに出かける時も、ちゃびは元気で留守番していてくれた(時には友人が、私の外出中はずっとちゃびを見ていてくれた)。

若林奮先生、種村季弘先生、毛利武彦先生、大野一雄先生、中川幸夫先生…私が心底慕った大切な先生たちがひとり、またひとりと亡くなって、私が激しく嗚咽してぼろぼろになっていた時も、いつもちゃびは元気で、私のそばにくっついていてくれた。

帰宅するとき、ちゃびが、私の階段を上る足音に飛び起きて、もう玄関に走って来ていて、ドアを開けた瞬間、嬉しそうにわあっと私にまとわりついてくる、そのことを、私はどれほどの奇跡だと自覚し、全身で味わうことができていたのだろうか?

幸せのさなかで、命が有限だと言うことをどれだけ意識できただろうか。

あまりに一心同体で、互いの身体の中に出入りするような関係だったから、ちゃびが生きているうちは、まるでナルシスティックな話にとられそうで、ちゃびのことを語ることが憚られた。

今、私は身体にちゃびを思い切り刻み付け、瘢痕を残したいと思う。

(2011年。13~14歳のちゃび。)

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常に私のことを眼で追い、私に甘えようとしていたちゃび
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私の絵の具箱(高さ110cmくらいのプラスチックの引きだし)の上がお気に入りだったたちゃび。この上から私の上にどーんとジャンプしてきた。

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とにかく元気で暴れまわっていた。

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(2012年。14~15歳のちゃび。)
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枕で私を待っているちゃび。

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私になでられるのが大好きだったちゃび。
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乾燥したカラスウリにじゃれているちゃび。
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11月15日

鼻の奥の炎症と頸部リンパの腫れを抑えるためにサワシリンを1日3回服用。毎日、少しずつだが頸のリンパの腫れは治まってき、きょうはずきずきしない。

そのかわりに、なぜか乾いた咳が出てきて苦しい。アステラス製薬に確認したが、抗生物質で細菌を抑制したから風邪のウイルスが優位になる、ということはない、と言われた。

また、サワシリンに関してはカルシウムとキレートをつくることはない(牛乳などの食べ合わせは気にしなくていい)、と。

このところずっと昼は温かい蕎麦にネギと卵を加えたもの、夜は日本酒とつまみ、という食事。それと毎日、スチューベン(野性的な酸っぱい葡萄)を食べている。

それ以外のものを食べる気になれない。

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2017年11月12日 (日)

がんの定期健診 / E・Hさんのお通夜

11月10日

がんの定期健診に鎌ヶ谷の病院へ。

病院まで片道2時間かかる。

6月に母が経口摂取できなくなってからは、もしもの時にすぐに駆けつけられないことや、介護の必要なちゃびから少しの時間も離れていたくないという思いから、わざわざ遠い病院に出かける気にまったくなれず、自分のがん検診の予約の日はほっぽっていた。

ちゃびが亡くなってからあらためて予約をとった。

10月1日に母が亡くなった頃から風邪をこじらせて、咳はまったく出ないが、ずっとだらだらと熱があり、今も頸のリンパが痛くてたまらない。

2日くらい前からまた熱が上がってきて、酷く頸が痛く、歩くのも苦しいので、きょう外に出るべきか迷ったが、リンパの腫れが甲状腺癌と関係ないかを主治医に診てもらったほうがいいので、ふらふらしながら出かけた。

外に出ると手足が冷えて凍える。頸と頭と顔だけが熱い。過緊張状態で自律神経がすっかり乱れてしまったせいで、もともとの冷え性がさらに酷くなっている。

2時に病院に着く。

主治医の浅井先生に、母の死とちゃびの死で、ものすごく体調が悪いことを伝える。動悸で眠れないことも。

口腔の視診と頸の触診。頸のリンパに触れられると、ぎゃっと言うほど痛い。「これは熱がありますね。中を見ないと・・」と言われ、鼻咽腔ファイバー検査。「落ち着いて鼻で息をして。」と言われ鼻に長い管を突っ込まれて、顔も手も汗だくになる。

「鼻の奥が炎症を起こして膿が出ている。こんなになってたら、リンパが腫れて痛いのは当たり前ですね。」と言われた。

癌のリンパの腫れとは関係ないということで、抗生物質(サワシリン)を出された。「1週間飲み続けても治らなかったら、近くの病院で違う種類の抗生物質を出してもらってください。」とのこと。

「ショックなことがあったから体調崩しちゃったんですね、温かくして休んでください。」と。

浅井先生は余計なお話はしない先生なので診療時間はとても短いのだが、静かな話し方や表情は、私を執刀してくださった時から少しも変わらない。私にとってこの先生に診ていただかないと落ち着かない。そんな信頼感がある。

私が甲状腺がんになった時、国立がんセンターに行くべきだ、と言ってくれたのは森島章人さんだ。そこで浅井先生に出会い、診ていただいたのは偶然だ。

浅井先生が千葉県姉ケ崎の病院に移られた時も、私は片道2時間かけて通った。

数年後、浅井先生は国立がんセンターに戻られ、また数年後、千葉県の鎌ヶ谷の病院に移られ、・・・

考えてみるとこんなに長い年月、浅井先生を追いかけてずっと診ていただいているのは私くらいかもしれない、と思う。

・・・

いつものことだが会計と薬に1時間以上かかり、12時に家を出て帰宅できたのは、夕方の5時半。あたりはすっかり濃い竜胆色の夕闇に沈んでいた。

急いで着替えて堀之内斎場へ。ねじれて苔むした桜の古木の葉は檜扇色になって半分散っていた。

E藤さんの娘さんのお通夜。

E藤さんとは、十二社(じゅうにそう、現在の西新宿)に暮らしていた昔から、母がとても仲良くしていただいていた。偶然、高円寺に越して来られたので、私もかわいがっていただいている。

E藤さんの娘さんとは、E藤さんの家に林檎を持ってうかがった時に、ちらりとしかお会いしていないのだが、私は、E藤さんから、ずっと闘病されているというお話を聞いていた。

私が、今年の6月からずっと、母が今しも亡くなってしまうのではないかという不安と緊張に苦しみ続けていたのと時を同じくして、E藤さんも、毎日、娘さんの病院に通っていた。

E藤さんの娘さんは、4年半の入退院をくり返し、今年の5月までと余命宣告されたとお聞きしていた。その余命から半年、E藤さんにとっても、際限のない不安と緊張に苛まれた日々だっただろう。

亡くなられた娘さんと喪主のご主人の勤め先の人たちが多く来られていると思い、知人のいない私はテーブルの端っこに一人でポツンと座っていたのだが、隣に来られた高齢のご婦人お二人とお話しをしてみたら、同じ十二社のかただった。しかもご婦人のお一人は同級生のお母さんだった。

よくよく見ると、離れたテーブルに中学時代の同級生もいた。歳をとってすっかり様子が変わっていて気づかなかったが、小学校の同級生も。

E籐さんは90歳近い高齢で人望があるかたで、お付き合いしている人がとても多いので、昔の十二社の人たちがたくさん来ていたのだ。

娘さんを若くして病気で亡くされたE藤さんに対してかける言葉もなく、ただ物言えぬ苦しさだけが喉もとにこみあげてくる。それでもE藤さんは、たくさんの昔馴染みが集まってくれたことを嬉しく思っているようだった。

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20年前、ちゃびと最初に出会った場所

11月4日

ちゃびの火葬。

仏教徒でもなく、すべての宗教を特に信じない私は、移動火葬車を選んだ。

遺体を渡す時、ちゃびの亡骸と別れるのがあまりに辛すぎて、号泣してしまった。

未練が果てることなく、ちゃびの顔にちゅっちゅっと吸うように口づけると、けだもののちゃびの匂いがして、私の胸いっぱいに満ちて溢れ、身体に衝撃が走った。

匂いからは死んでいることがわからなかった。このまま、ずっとちゃびの遺体と暮らしていけたらどんなにいいだろうと思った。

「お骨を一緒に拾いますか?それともこちらでやりましょうか?」と聞かれて、吐きそうになって、「考えられない。」と答えてその場(近くの駐車場)にしゃがみこんで泣いた。

40分くらいして、火葬が終わったと電話がはいった時は、かすかに落ち着いていた。と言うより、現実がよくわからなくなっていたのかもしれない。

ちゃびの骨を拾って、骨壺に入れたが、私は泣いていなかった。もちろん悲しくないわけではなく、身体や心の痛みが消えてなくなったわけでもないのだが、一瞬、呆けたような、真っ白な、時間とも空間とも言えないどこかにはまりこんでしまっていた。

ちゃびのお骨をいったん自宅に置いてから、20年前にちゃびと出会った善福寺川のほとりまで自転車を引いて行った。最初の時にちゃびを自転車で連れて来たから、やはりそこへは自転車で行きたかったのだ。

ちゃびが捨てられていた善福寺川沿いの瓢箪池近くの土手の角に着いた時、激しい悲しみで泣き崩れてしまった。

あの時から20年が過ぎたこと、そのあいだにちゃびが人間で言えば100歳近くになっていたことが信じられなかった。その自分のふがいなさも、すべてが酷く悲しかった。

あの時、私は、先に保護した茶トラの赤ちゃん猫の「ちび」が、懸命の治療の甲斐もなく、たった17日で亡くなってしまったばかりで、あまりのショックに物凄くやつれていた。すっかり青ざめて、眼の下に真っ黒な隈をつくって、私はガリガリに痩せた幽霊のようになっていたと思う。

「ちび」は、たった17日で、掌にのるような赤ちゃんから、少し大きく成長していた。

死ぬ前に、私に撫でられて、「ちび」が安心したようにゴロゴロ言っていたのを鮮明に覚えている。どうしたらよかったのだろう、どうしたら救えたのだろう、と私は際限なく苦しんだ。

呑気に、無責任に、野良猫に食べ物をあげたりして満足しているのは、人間の無知とエゴでしかなく、ちっちゃな赤ちゃん猫が、野良猫のまま予防注射もされないでいれば、あっという間にパルボ(伝染性腸炎)などの病気で死んでしまう、という現実を、いやというほど思い知らされたのだ。

その数日後に、私はちゃびに出会った。

私は「ちび」を失った悲しさと苦しさに胸が潰れてしまいそうで、どうしようもなくて、無性に野良猫に会いたくて、自転車で善福寺川沿いに行った。そこで野良猫の世話をしている女性と、ふと言葉を交わしたのだ。

人に怯えていて捕獲するのがたいへんだった赤ちゃん猫を、やっと捕獲して、これから大切に育てようとしたのに、パルボで、入院させただけで死なせてしまった、と言ったら、その女性が教えてくれた。

「ちょうど今、捨てられたばかりの赤ちゃんがいるのよ。」と。

善福寺川沿いの土手の角の隅っこに、誰かが引っ越しの時に粗大ごみを不法投棄し、一緒に段ボールの中に猫の親子を入れて、その上に重しのようにテレビを乗せて捨てて行ったという。

猫たちの鳴き声を聞いて、その近くの植え込みに住んでいたホームレスの人が、段ボールの中から猫を助け出して植え込みの中に移動してくれた、と。

そして、その植え込みに連れて行ってもらって、私はちゃびと出会ったのだ。

お母さんとちゃび(1997年7月21日)。お母さんはいろいろミックスされた柄の子だった。

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ちゃびにはあと2匹の白い男の子と女の子の兄妹がいた。当時、お世話をしていた女性が2、3人いて、そのうちの一人と私とで引き取った。私はちゃびと白い男の子(コナと名づけた)をもらった。

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人を怖がらなくて、白い女の子とおっとりとポーズをとっていたちゃび。

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その植え込みのあったところは現在、駐車場の一部になっている。だからホームレスの人も住めない。

すべてが淋しくて悲しい。

11月5日

ちゃびがいないことが苦しすぎて受け入れられない。

2日で2kg痩せた(現在162cm、44kg)。

泣きすぎて眼の上と下の骨部分と眼窩がずきずきしてすごく痛い。

ドクン、ドクンという胸の真ん中を殴られるような動悸がして眠れない。呼吸が苦しくて「はあ、はあ、」と声に出てしまう。

夜中、幾度も「ちゃび!」と呼びたくなり、だけど呼ぶことでものすごく苦しい現実に塗りこめられてもっと苦しくなるので、声に出して呼びたくない。心の中だけで呼んでいる。

なににも慰められない。なにも欲しくない。

食べたくない。お酒だけは飲める。お酒を飲むと激しい動悸が収まって少しだけ楽になる。

・・

ちゃびのことを大切にしてくれた友人と西荻を歩いた。

ちゃびと出会う前に私は、わずかなあいだだが、西荻に住んでいて、その頃はアンティークに夢中だったので、当時のアンティーク屋が今もあるか気にかけながら歩いた。

アンティーク屋巡りをしても心が浮き立つとはまったく思えなかった。ただ、自宅にいて、ちゃびがいないという耐えがたい痛みと向き合うことから、ほんの一瞬でも逃避したかっただけだ。

当たり前だが、20年以上も時がたてば、街並みはずいぶん変わっている。真新しいものには興味はない。当時、よく目の保養に行っていたアンティーク屋さんは、ほとんど(fujiiya、ベビヰドヲル、ムーンフェイズ、アーバンアンティークスなどなど)なくなっていた。

信愛堂書店さんは小さくなって、新刊の書籍が減り、品ぞろえも変わっていた。

自分が住んでいた住所も正確には思い出せず、近辺を歩いてみたが、どうやらその建物はなくなっているようだった。

「地蔵坂下」という忘れていたバス停の名前。22年くらい前に、このバス停の名を楽しい気分で見たことははっきり覚えている。

日が暮れて風が冷たくなった時、急にちゃびがいないという現実に襲われて、通りを歩きながら激しく嗚咽してしまった。

老舗の酒屋さんで飲みなれている銘柄の日本酒の小瓶を買い、裏路地で一口飲んだ。激しい動悸を抑えるには今のところ、これしかないのだ。

私が住んでいた頃もあったはずの古い酒屋さん。当時はお酒なんて興味もなかったので酒屋があることにも気づかなかった。

当時と変わらず、(意外にも)なくなっていなかった駅前の「天下寿司」という回転寿司で、かつてお気に入りだったカリフォルニア巻(エビとアボカド)を食べた。

なにをしても、どうにもならない悲しみから逃げられなかった。

11月6日

E藤さんから電話。ずっと闘病中だった娘さんが3日に亡くなったと。

言葉が出なかったが、お通夜に伺うと伝える。

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2017年11月 8日 (水)

ちゃびが亡くなりました

11月2日

11月2日(木曜日)、午後12時30分、ちゃびが亡くなりました。

20歳と4か月(推定)でした。

1997年の7月、善福寺川のほとりに捨てられていた生まれたばかりの赤ちゃんちゃびと出会い、一目見て、私は魂全てを奪われてしまい、この子と暮らしたい激しい欲求を抑えることができませんでした。

(その直前に、近所で鳴いていた、ちゃびに似た茶トラの男の子の赤ちゃんをやっと保護したのに、その子がパルボにかかっていて、17日間の入院の甲斐なく看とることになったという、思い出すのも胸が潰れる経験がありました。)

死んでしまった「ちび」と同じ名前をつけて、この子を誰よりも大切にかわいがろうと、自分の部屋に連れて帰って来たのは7月24日でした。

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信じられないような美少女だったちゃび。
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それからちゃびは私の一番の宝もので、ちゃびにまさるものは何ひとつなくて、20年以上一緒に、ものすごく密に生きてきました。

いつでも、ちゃびがいつか先に死んでしまうことを思うと、とてもそんなことは1秒だって考え続けられなくて、頭がおかしくなりそうだった。

ちゃびがいなくなることがあまりにも苦しくて、頭がおかしくなって、今はまだおかしいまま、混乱したままです。

肋骨の真ん中とみぞおちが殴打されるような痛みに、吐きそうになって号泣してしまう。夜も苦しくて眠れない。

まだふっくらしていていつも一緒に寝ていた去年(2016年)のちゃび。

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眠る時、私のあごの下に頭をうずめてはゴロゴロ言っていた。(2016年10月16日)
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夜中に眼を覚ましたら、じっと私の顔を見ていたちゃび。(2016年12月23日)
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とにかくいつも私にべったりくっついて離れなかったちゃび。
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(2016年12月24日)
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私がPCを使っている時、いつも私のひざ(太もも)の上に乗っかってきたちゃび。

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私が仕事すると必ず邪魔したちゃび。本をつくるために整理中のスケッチブックの上に乗って、仕事よりも自分にかまって、とアピール。いつもすごく甘えっ子でご機嫌だったちゃび。
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去年の暮れ(当時19歳)はまだまだすごく元気でした。
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今年の8月くらいから、ちゃびは胃腸の具合が悪くなり、病院でも原因がわからないまま、私はできることはすべてしようと思った。

日々、激変するちゃびの体調を見ながら、必死で介護してきました。

亡くなる日の前日は、それ以前よりずっと調子がよく、快復傾向にあると信じていました。

まだちゃびがいないことをとても受け止められません。

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