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2018年12月

2018年12月29日 (土)

猫の絵、枯れたアネモネ

12月29日

年の暮れは嫌いだ。とても働き者だった元気な頃の母と祖母を思い出して、胸が苦しくなるから。

おせちは味が濃すぎておいしくないし、初詣も人が多くて疲れるので私は好きではなかったが、母や祖母の楽しそうな顔を見ることだけが嬉しかったのだと思う。

大きな鍋にいっぱいの煮物をつくっていた祖母の姿や、母と正月に飾る花を買いに行った時のことばかり思い出してしまう。

しゃれた高級な食べ物に私自身は興味がないが、華やかに飾られているスーパーに行けば、あれもこれも、母が今まで食べたことのないおいしいものを、食べさせてあげたかった、と涙が出てしまうから。とても辛いので年末とお正月は嫌い。

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猫の絵。

赤ちゃんの頃のちゅび。

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(Cat drawing, dessin)
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生後3か月目の時のちゅび。運動能力抜群のやんちゃっ子。
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現在に比べるとずいぶん細かったちゅび。
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禿げていた毛も生えそろい、日ごとにたくましくなってきたチョビ。毛の質はちゅびと違って柔らかくベルベットのよう。薄茶の縞のしっぽだけが長毛。
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ちゅびとチョビ、プフ。対面して3日目にはお互いをなめてあげるほど仲良しになった。特にちゅびとチョビはオス同士なのに、じゃれあいのボカスカはするがまったくいがみ合わず、お互い優しいのに驚いた。
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大きいちゅびにのっかるプフ。恋人同士のような(実は4つ子のうちの別々の日に落ちていた2匹)プフとチョビ。
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去年のすっかり乾いたアネモネ(冷蔵庫に保存していた)。
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(dead and dried anemones, watercolor painting)

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2018年12月26日 (水)

宇野昌磨、高橋大輔 2018全日本

12月26日

終わった全日本フィギュアの個人的な感想メモ。

宇野昌磨『天国への階段』。

「何も不安がないと自分の調子に不安を持ってしまう。怪我をしたからこそ自分の演技を信じられた。」とは、どういうことなのだろう。

これはまるで自分の演技を信じるためには、不安(の要因)が必要だと言っているようではないか。

自信と過信は区別しがたい。だが宇野昌磨の発言は、傲岸不遜を思わせるどころか、徹底して謙虚だ。

宇野昌磨は「できない」という不安において、自分(がこれからやろうとしている演技)を信じている。「できないことができる」という不可能なものの可能性において自分を信じているのだ。

それこそが、自分の身体を通じて無限の「潜勢力」を引き出すための秘儀であるかのように。

土壇場での怪我を代償としてその痛みに耐え抜くことによって、ぴたっと照準が合ったかのように、宇野昌磨の秘められた力が顕現したかのような至極の演技だった。

哀悼を奏でるようなギターの爪弾きの冒頭から、凄まじい緊迫と、それを押しのける力強さで滑り出す。

彼岸と此岸にかけられた橋上を宇野昌磨は滑走する。「天国への階段」を。

その階段の前方も後方も濃い闇の向こうに溶暗している。

この世にかろうじてエッジ(縁)でつながりながら、細いブレードの上に立つスケートとは、本来そうした不安なもの、運命づけられた死の不安そのものではなかったか。

バタフライからのフライングキャメルスピンの後、高速パッセージを交えたリードギターとともに一気に加速し、鼓動も駆け上がる。

終始、鬼でも見ているかのような瞳孔が開いた眼。痛みも寄せ付けない迫力で振り切り、瑞々しくほとばしるギターの音色を演じきった。

若い生命力が充溢していた。

このフラメンコ風にアレンジされたギター曲は、情熱的で、清冽で、センシティヴな宇野昌磨の魅力をよく生かしていたと思う。

『月光』

たいへん難しい選曲。足の痛みに耐える姿を見るのが怖かったが、表現は今までで最も完成され、彼のものになっていたように見えた。

軽々と手足を動かしているのではなく、指先のちょっとした動きに至るまで、細胞のひとつひとつに強い決意を促されているかのようだ。

4T+2Tの成功の後、深い藍色の透徹した空気がピシーンと静かな音をたてたようだった。

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もうひとりの美しいけだものについて。

高橋大輔『The Sheltering Sky』。

期待と緊張で静まり返る空気。

空は天蓋になって、迷い彷徨い続ける命を守ってくれているのか。

そこは酷烈な灼熱の砂漠であり、同時に白くキラキラ光るマリンスノウが降り積もる冷たく静かな海の底。

哀切。追想。これ以上は誰もできない繊麗と豊穣。

曖昧模糊とした充たされなさにせよ、存在の意味の欠如から何かを求めて彷徨い歩き、いつのまにか地名もない遠いところまで来ていたことに気づく。

心もとなく、人恋しく、有限な時間の中で、自分がどこに向かっているのか、どんなに考えても、悩んでもわからないもの、もどかしさ、不安、葛藤、と同時に、放心するような官能。

茫漠とした果てしない空間、はかなくうつろう不安定なものと、この瞬間にすべての熱と香気を燃やし尽くす受苦。

クライマックスのステップでの激しい希求。

残酷さと甘美。

まさに今の高橋大輔そのものの曲。

後半、すべての思いが解き放たれたように全身が表現そのものとなり、眼の表情は、今までの彼のあらゆることを語っていた。

『Pale green ghost』

まず冒頭のラフマニノフの『鐘』の引用部分の、妖しく官能的な身体表現に心を掴まれる。

高速道路、あるいは暗い水べり。

風にゆたゆた揺すられる銀のヤナギバグミは自分自身の亡霊?

不気味でデモニッシュでエネルギッシュなものにせきたてられ、人生の恐ろしさに震える。

深い淵をのぞき、何が見えたのか。あるいは泥の胎内くぐりからの帰還。

シニカルで瀟洒。情愛の追想。そして燦爛。

何をどのように、どういうふうに、再び産むのか。生まれるのか。

誰もやらない曲だからこそ、彼なら演じ切ることができる。

「この世の誰にも私を止めることはできない。」

再び競技に戻って来た彼の極上の表現を見ることができるとは。今年は最高の全日本だった。

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2018年12月22日 (土)

猫の絵、動物の犠牲について、デリダ

12月22日

猫の絵(Cat drawing, Dessin)

わずか100gちょっとで拾われた日のチョビ。初めて病院に行った日(135g)のチョビ。

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小さな犬のぬいぐるみだけに甘えていたチョビ。
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真菌によってしっぽ、手足、首の毛がはげたチョビ。特にしっぽが真っ赤で痛々しかった。
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ひとりぼっちではなくなったチョビとプフ。
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「〈殺すなかれ〉は、ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでは、また明らかにレヴィナスによっても、〈生物一般を死なせてはならない〉という意味で解釈されたことは一度もない」。

「人間主義を超えて」存在の思考を推し進めたはずのハイデガーも、犠牲(サクリファイス)のエコノミーを問いなおすことはできなかった。

ハイデガーでもレヴィナスでも、「主体」とは、「犠牲が可能であり、生命一般の侵害が禁じられていない世界における、ただ人間の生命に対する、隣人である他者の、現存在としての他者の生命に対する侵害だけが禁じられている世界における人間なのだ」

(「〈正しく食べなくてはならない〉あるいは主体の計算――ジャン=リュック・ナンシーとの対話」)。

こうしてデリダが、ユダヤ=キリスト教も含めて、西洋形而上学の「肉食=男根ロゴス中心主義」を問題化する。

それは、現代の動物実験、生物学実験に至るまで、「肉食的犠牲が主体性の構造にとって本質的である」ような世界である。

いまからほど遠くない過去に、「われわれ人間」が「われわれ成人の、男性の、白人の、肉食の、供犠をなしうるヨーロッパ人」を意味した時代もあった(『法の力』)。

(高橋哲哉『デリダ――脱構築』(講談社)より引用)

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「 問題は(略)動物が思考すること、推論すること、話すこと等々ができるかどうかではない。(略)先決的かつ決定的な問いは、動物が、苦しむことができるかどうかであるだろう。《Can they suffer?》

この問いは、ある種の受動性によっておのれを不安にする。それは証言する、それはすでに、顕わにしている、問いとして、ある受動可能性への、ある情念=受苦(passion)、ある非‐力能への証言的応答を。「できる」(can)という語は、ここで、《Can they suffer?》と言われるやいなや、たちまち意味および正負の符号を変えてしまう。

「それらは苦しむことができるか?」と問うことは、「それらはできないことができるか?」と問うことに帰着する。

(略)苦しむことができることはもはや力能ではない。それは力能なき可能性、不可能なものの可能性なのである。われわれが動物たちと分有している有限性を思考するもっとも根底的な仕方として、生の有限性そのものに、共苦(compassion)の経験に属する可死性は宿っているのである、この非‐力能の可能性を、この不可能性の可能性を、この可傷性の不安およびこの不安の可傷性を、分有する可能性に属する可死性は。」

(ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物)である』(鵜飼哲訳、筑摩書房)より引用)

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2018年12月 5日 (水)

早摘みオリーブオイルの味

12月5日

11月の半ばに新宿から自宅に戻ってからずっと毎日、イタリアのチナミさんが送ってきてくださったオリーブオイルや全粒粉パスタ、そしてイタリア産サフランや乾燥ポルチーニを使った料理を食べている。

チナミさんから届いた、私の帰国後すぐに摘まれたウンブリアの早摘みオリーブのオイルを口にした時、それは大きな衝撃だった。

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果実と同じ濃さの緑の色。よくわかるようにお猪口に入れてみた。

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生まれて初めて本物のオリーブオイルの味を知った。

イタリアのチナミさん宅のすぐ近くの斜面のオリーブ畑を散歩しながら、よく青いオリーブの実を一粒もいでかじってみたものだ。

固いオリーブの実に歯を立てると、渋みと辛さで舌が痺れ、咽喉はひりひりし、とても一粒全部をかみ砕けるような優しい味ではなかった。

早摘みオリーブのオイルは、固くて青いオリーブの果実をかじった時のほとばしる汁の味、そのまま。

油というよりも強烈に青くて痺れる果汁、植物の生命力そのものだ。

パンにつけるのもおいしいが、そのまま飲んでもおいしい。顔や手につけると乾燥した肌がすべすべになる。

この味を知ってしまうと、偽物オリーブオイルは耐えられなくなりそう。

ポルチーニはふやかしてから、エビ、牡蠣、ニンニク、シイタケ、インゲン、ブロッコリーなどと一緒にパントリークリーム仕立てのパスタにしている。クリームと絶妙に合い、ほんの少しでも強い香りとうまみが出る。

やはりイタリア、ウンブリアのCitta della Pieve産のサフラン。これで魚介と野菜のパエリアを作って食べている。

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具材はやはりエビ、牡蠣、ホタテ、アサリ、ニンニク、ミニトマト、シイタケ、シメジ、インゲン、ブロッコリー、赤ピーマンなど。無農薬秋田こまちの玄米で作る。

私の場合、一切の肉関係を入れずに、ほとんどの料理に必ず粉末昆布を入れる。

夕方に一回しか調理しないが、チナミさんのおかげで食生活がすごく充実していて、ずっとイタリアの鮮やかな思い出を反芻している。

12月4日

24℃。12月というのに、なまめいた南風の日だった。

薄着で冬を歩きたくて、白いブラウスの上に暗緑色の綿のコートをはおり、夜、暗渠近くの裏通りを散歩。

今年の3月末に、爛漫の花を垂らしていた薄紅の枝垂れ桜の樹、その隣にもっと淡い色の枝垂れ桜、さらに可憐なユスラウメ、乙女椿と、並んで笑いさざめく少女たちのような樹が、この秋に全部根こそぎ抜かれて更地になってしまった、ただの黒茶色だけの春日医院の跡地。

あれだけの見事な枝垂れを。

その斜め向かいのかつて仕立て屋かなにかのかわいい木枠窓の店だったところ周辺の更地。

さらに向かいの、20年前に何度か通った、棕櫚の樹のあった古い婦人科医院の更地。

このあたり一帯の何十年も培われて醸成したような植物たちが古い家とともに潰されて消えてしまった。

とても淋しい。

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