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2018年12月26日 (水)

宇野昌磨、高橋大輔 2018全日本

12月26日

終わった全日本フィギュアの個人的な感想メモ。

宇野昌磨『天国への階段』。

「何も不安がないと自分の調子に不安を持ってしまう。怪我をしたからこそ自分の演技を信じられた。」とは、どういうことなのだろう。

これはまるで自分の演技を信じるためには、不安(の要因)が必要だと言っているようではないか。

自信と過信は区別しがたい。だが宇野昌磨の発言は、傲岸不遜を思わせるどころか、徹底して謙虚だ。

宇野昌磨は「できない」という不安において、自分(がこれからやろうとしている演技)を信じている。「できないことができる」という不可能なものの可能性において自分を信じているのだ。

それこそが、自分の身体を通じて無限の「潜勢力」を引き出すための秘儀であるかのように。

土壇場での怪我を代償としてその痛みに耐え抜くことによって、ぴたっと照準が合ったかのように、宇野昌磨の秘められた力が顕現したかのような至極の演技だった。

哀悼を奏でるようなギターの爪弾きの冒頭から、凄まじい緊迫と、それを押しのける力強さで滑り出す。

彼岸と此岸にかけられた橋上を宇野昌磨は滑走する。「天国への階段」を。

その階段の前方も後方も濃い闇の向こうに溶暗している。

この世にかろうじてエッジ(縁)でつながりながら、細いブレードの上に立つスケートとは、本来そうした不安なもの、運命づけられた死の不安そのものではなかったか。

バタフライからのフライングキャメルスピンの後、高速パッセージを交えたリードギターとともに一気に加速し、鼓動も駆け上がる。

終始、鬼でも見ているかのような瞳孔が開いた眼。痛みも寄せ付けない迫力で振り切り、瑞々しくほとばしるギターの音色を演じきった。

若い生命力が充溢していた。

このフラメンコ風にアレンジされたギター曲は、情熱的で、清冽で、センシティヴな宇野昌磨の魅力をよく生かしていたと思う。

『月光』

たいへん難しい選曲。足の痛みに耐える姿を見るのが怖かったが、表現は今までで最も完成され、彼のものになっていたように見えた。

軽々と手足を動かしているのではなく、指先のちょっとした動きに至るまで、細胞のひとつひとつに強い決意を促されているかのようだ。

4T+2Tの成功の後、深い藍色の透徹した空気がピシーンと静かな音をたてたようだった。

・・・

もうひとりの美しいけだものについて。

高橋大輔『The Sheltering Sky』。

期待と緊張で静まり返る空気。

空は天蓋になって、迷い彷徨い続ける命を守ってくれているのか。

そこは酷烈な灼熱の砂漠であり、同時に白くキラキラ光るマリンスノウが降り積もる冷たく静かな海の底。

哀切。追想。これ以上は誰もできない繊麗と豊穣。

曖昧模糊とした充たされなさにせよ、存在の意味の欠如から何かを求めて彷徨い歩き、いつのまにか地名もない遠いところまで来ていたことに気づく。

心もとなく、人恋しく、有限な時間の中で、自分がどこに向かっているのか、どんなに考えても、悩んでもわからないもの、もどかしさ、不安、葛藤、と同時に、放心するような官能。

茫漠とした果てしない空間、はかなくうつろう不安定なものと、この瞬間にすべての熱と香気を燃やし尽くす受苦。

クライマックスのステップでの激しい希求。

残酷さと甘美。

まさに今の高橋大輔そのものの曲。

後半、すべての思いが解き放たれたように全身が表現そのものとなり、眼の表情は、今までの彼のあらゆることを語っていた。

『Pale green ghost』

まず冒頭のラフマニノフの『鐘』の引用部分の、妖しく官能的な身体表現に心を掴まれる。

高速道路、あるいは暗い水べり。

風にゆたゆた揺すられる銀のヤナギバグミは自分自身の亡霊?

不気味でデモニッシュでエネルギッシュなものにせきたてられ、人生の恐ろしさに震える。

深い淵をのぞき、何が見えたのか。あるいは泥の胎内くぐりからの帰還。

シニカルで瀟洒。情愛の追想。そして燦爛。

何をどのように、どういうふうに、再び産むのか。生まれるのか。

誰もやらない曲だからこそ、彼なら演じ切ることができる。

「この世の誰にも私を止めることはできない。」

再び競技に戻って来た彼の極上の表現を見ることができるとは。今年は最高の全日本だった。

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