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2019年1月29日 (火)

「影響」と「真似」の違い、わたしのものを自分のもののように思い込む人

1月28日

(スマホではサイドバーが見えないそうなので、今年から)署名として自分の絵のホームページを載せることにします。

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/pencil-drawing-watercolor-painting-1-tulip-anemone/

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/

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新年から酷く苦しんでいる。

最近になって急に、私の名をふせて私の枯れ花の絵に「近すぎている絵」を描いている二十歳くらいの若い画家のことだ。

私は、自分のブログに「ナルシズムのための他者からの収奪ほど、私が嫌悪するものはない」と繰り返し書いてきたつもりだ.。

なのにどうして、私のブログや絵をずっと見ていて、私に共感して「いいね」やリツイートをしてくれている人から、私がもっとも傷つく「収奪」をされなければならないのだろう。

彼は昨年4月の私の絵の展示にも、私が在廊していない時に来て、長いこと見ていたという。

どうして、(数少ない)私の味方かと信じて気を許していた人に、平気で私のもっとも大切なものを侵害されるのだろう。

私に「深く影響を受けた」なら、私の書いている言葉の意が理解できるなら、私から「収奪」だけは絶対やらないはずなのだが。

・・・

2、3年前の彼が浪人中から、お互いフォローしていた。自分と同じ日本画科を目指して頑張っている人と思い、また彼が私と同じに父親のことで苦しんでいるツイートを知って、心情的にとても応援していた。

彼は私の記事を何度も「いいね」やリツイートしている。私もたくさん「いいね」している。

しかし彼がやっていたのは「鍵付き」のツイッターだ。

彼が東京芸大日本画科に入学したと知った時には「おめでとうございます」とDMを送った。その時にメールで話した。

つい最近、とても久しぶりにツイッターにログインし、彼の「鍵つき」ツイッターの中身をふと見たら、

私の枯れ花の絵によく似た(友人、知人に見てもらっても「ちょっと似すぎている」と言われた)彼の絵(私はぎょっとした)と、

「以前は美人画を描くと言ってたのに、今植物ばかり描いている。

あるときふと見かけた存在(画家)に心の深層部に至るほど深く影響を受けて」(1月15日)

という彼の言葉を見つけた。

彼とは昨年5月にメールで会話したきりだ。その時、彼は美人画(人物画)をがんばっていたはずだ。

最後は私から出したメールに、彼が返信をくれなかったのでメールはとだえていた。

今の彼が私に「似すぎている」枯れ花の絵を描いていることに驚きすぎて、さんざん悩んだ末、私は彼に質問のメールを出した。

そのメールの返事で彼は、その「心の深層部に至るほど深く影響を受け」た「画家」とは私のことだと認めた。

彼は、彼の描いた枯れた花の絵を「完全に自分が1から創り出したものとは思えない」とまで言ってきた。

絵の「表面」だけをそっくりに類似させることは「影響」ではなく、もっとも安易な「真似」だ。

たとえば私が「師、毛利武彦の影響を受けた」と言う場合、それは師の生き方の姿勢を、不可能に決まっているが、少しでも真似ていきたいという意思のことであり、毛利先生自身が喜んでくださるような実践だけだ。

私本人がもっとも嫌がることをやりながら「深く影響を受け」などと、私の名前をふせて書かれていることは、気持ち悪い以外のなにものでもない。

いくらモダニズムの批評では「作品」と「作家」は別のものとして考えられる、と言っても、私にとって、私の表現は私の血と肉そのものだ。

「誓って盗作しようとしたわけでは無い」と言うが、描いている途中で、私の作風にあまりに似ていると本人が「自覚している」と言いながら発表、販売しているのはどういうことなのだろう。

私の絵を以前から知っていて、関心を持って見ていて、私の絵の展示も見に来ている以上、結果として著しく類似していることに「偶然の類似」は通らない。「意識」も「無意識」も同義だ。

「パクリをする気ではない証拠」に、彼は周囲の人に私のことを話している、と平気で言うのだが、公(鍵のかかっていないSNSなど)に、私自身が見られるかたちで、私の名前と彼の言葉を書いていないかぎり、私にとっては何の証拠にもならないことだ。

そして彼の作品を見る人、買う人に、いちいち私の名前を出していたわけがあるはずもなく、買った人にとって、彼の絵が私のような無名画家に類似していようがいまいが、興味のないことなのだ。

そこにあるのは「私の絵によく類似した表面」という事実だけだが、その絵は、まるで私の私秘的な苦しみの体験を「悶絶するそぶり」だけで真似られているような、私にとってはぎょっとするものだった。

ずっと「美人画」をやりたくて素朴な人物画を描いていた二十歳そこそこの男子学生の絵には、とても見えない。 その絵は 急に別人のように見える。

私が描いたものだと言っても、私の絵を知っている人に、おそらく通るだろう。

なんともやりきれない。

彼は自分の個性が確立できないことを「悩んでいる」だけで、作家としての私を自分がどれほど傷つけているかわかって、そのことを「悩んでいる」のではない。

私のメールへの返信も「連絡しにくい」からしなかったと言う。それなのに私の絵とそっくりな絵を描いて発表することは「しやすかった」から夢中でやったのか。

「福山さんの絵に似すぎていることをはっきり自覚しており」「いわゆる「パクリ」で絵を描いていくつもりは無い」と彼は言っているが、その絵が売れて、とても喜んでいる。

その事実に私は強い「違和感」を覚える。

本来の自分が描いてきた人物画ではなく、私の「絵に似すぎ」の絵が売れたことに、微塵の「違和感」も恥も感じずに有頂天になるのなら、私の苦しみから生まれ出ているものにそっくりのものが、もう既に自分独自のものと区別がつかなくなっているということではないのか。

「人物を描く中で徐々に違和感を感じ」、「他の方向性を求め、植物を描き始めた」と言うが、彼の言う「違和感」は、本当の批判精神や内省から出ていることばではなく、自分が高く評価されない時に感じる不全感ではないのだろうか。

人の絵に「似すぎていると自覚している絵」でも、他人に高く評価されてしまえば、これこそが自分の生きる道、だと有頂天になってしまうのかもしれない。

彼のやっていることすべてが、ほとんど無意識に、気持ちよくなる方向にずるずる流れていて、自分に都合よく歪んでいる。

認識したくないことを認識しない、楽しいことだけしたい、相手の苦しみは想像しない。

どうして本人から何も言ってきてくれないのだろう、とさんざん悩んでこちらからメールしたのだが、彼は、私がそっくりな絵を描かれることを、酷く嫌がっているということをわかりたくないようだ。

そんなことがわからない彼が、私から「深い影響を受けた」と言い、「弱さ」を主題にしようとしていることは、転倒以外の何ものでもないのではないか。

その「弱さ」は決して「傷つきやすさ」「過敏さ」ではなくて、「鈍さ」「狡さ」ではないのか。

自分の「弱さ」と「不安」に向き合わないで、私のエピゴーネンをやることが作家としての自立を模索する道なのでしょうか?

私が長年、困難に耐えながらやってきたものの真似で、偽りの自己実現をすれば、不安も緊張もなく、自分がすごい個性を持っているような気になり、気分が高揚することでしょう。

こんなことをやるために、苦労して親や教師の反対を押し切ってまで東京芸大に入ったのですか?

芸大に入学したばかりで、二十歳そこそこで、なんでも自由に試せる時期に、もうこんな姑息なことをするのか。

芸大には真似すべき人がたくさんいるでしょうに。私を標的にするなんてやめてほしい。

・・・

私が安易に収奪、侵害の標的にされるのは、私が無名だからだろう。

彼は「“知る人ぞ知る”イメージ。自分の求める緻密さがそこにあっったから。」と私の名前をふせて書いている。ぞっとする。

私がほとんど誰からも知られない「知る人ぞ知る」作家だから、安心して私の絵を自分の特別な秘密のように感じ、私に同一化したように似すぎた絵を描いてしまう。

そして自分が周囲の人とは異なる強烈な世界を持っているように思い込んで、気持ちよくなるのだと思う。

私の苦しみや困難から生まれているものが、相手のナルシズムに転化されるのが気持ち悪くてたまらない。

セクハラの構造と、ものすごくよく似ている。「惹かれる」「興味がある」と言って蹂躙するのは痴漢や強姦と同じだ。

私の絵を「好き」で、作家として認めてくれるならば、余計に相手に触れないように、気をつけて距離を保つべきなのに。

私はMeTooの酷く辛いセクハラ経験が山ほどある。けれど作品に関する蹂躙は、私にとってセクシャルハラスメントよりもずっとずっと辛い。

・・・

自分の実情に「違和感を感じ」、それから「福山さんに深い影響を受け」、この二つ言葉が出てきたらもう、デジャブで、背筋が怖気だつ。

「無意識に」「悪気はない」と言いながら「私の名前をふせて」自分のもののように発表され、勝手に同一化されて侵害された体験、そのトラウマがよみがえり、不安と嫌悪感で心臓がばくばく言い出す。

かつて私はN・Sという年下男性のパクリストーカーに数年はりつかれてなにもかもうっとりとパクられ、まとわりつかれるような嫌悪感で、心身ともに滅茶苦茶になりそうなくらいに悩まされたことがある。

また同じ悪夢のような被害が繰り返されている。

私の絵やブログに惹かれながら、私の名前を、決して自分の記事に書かないことが同じ。

元の作家(私)に対して、真似した「彼」のほうが偉そうに激怒してきているのも同じだ。

以前の時は文章そのほかのパクリ(N・Sには基本的な画力がなかったから、私の絵をそっくり真似ても似ていないものになっていた)、

しかし今回は、私の命の「絵」が真似されているのだ。

私の苦痛とやりきれなさは前回の比ではない。

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