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2019年1月26日 (土)

鵜飼哲さんと打ち合わせ、現代の美術について

1月15日

次の本の打ち合わせで鵜飼哲さんと会う。

9月にイタリアに行って来た話をした。

オルヴィエトで、古代の井戸を訪れたときの話。入場料を払って、暗く深い井戸の底へと続く螺旋階段を降りていくのだが、階段の壁には、その町の画家とおぼしき現代作家の油絵が飾られていた。古い井戸の古色の肌合いを見るために中に入ったのに、すごく嫌だった、と言ったら、

鵜飼さんは「ヨーロッパのパブリックアートは日本よりもっとやりかたがまずいかもしれない。林の中に李禹煥(リ・ウーファン)があるとかならいいけど。」と言った。

こういう時に咄嗟に言葉が出なくて、私は帰宅してから悶々としてしまう。

私は林の中で李禹煥なんか見たくない。私は、林であれば、たぶんどんな林でも、細部まで一日中飽きずに楽しむことができる。しかし、だからこそ、せっかくの林の中で李禹煥の作品と鉢合わせしてしまったら、それが邪魔で、そうとうイライラするだろう。

どんな主体にとっての存在の無意味や意味なのか。

小難しい理論がなければ自然や、そこにある様々なものの細部に触れられないと思っている人にとってだけ、「もの派」は意味があるのだろうか。私には逆に、ただ自分の感覚の伸びやかな運動の邪魔になるだけだ。

古代の井戸だろうが、林だろうが、街中だろうが、私は見たくもないアートに出くわすのが嫌いだ。それらを見たいと思う人といっしょに、その「表現の自由」に似つかわしい、どこか狭い空間に閉じ込めておいてほしいと思う。

イタリアでは丘の上の廃墟を見た。あまりにも魅惑的な空間だった。私は廃墟でない人工物、アートが嫌いなのだ。

話の流れで、鵜飼さんの口にのぼった地方の女性画家の名を、帰宅してから検索した。某美大の学長にまでのぼりつめたというその画家の絵を見て、また嫌悪感で気持ち悪くなった。

美術史の中に組み込まれているものの中にも、好きな作家と、そうでない作家がいるが、なにも考えないでただ乏しい感性と惰性でやっていて、なぜか現在、権力を得ている人もさらに気持ち悪い。

私は嫌悪感を感じる作品を見ると、強い抑圧を受ける。その作品の向こうから襲いかかってくる鈍いもの、それを作った作家の病的な自己顕示欲に、窒息させられるような感覚に陥るのだ。

1月19日

2年ほど受けていなかった健康診断を受ける。

血液検査の結果は4週後。機器で測る骨年齢はC (平均)。血管年齢と肌年齢はA(平均マイナス13歳)だった。

思ったより良い結果だったのは、イタリアのチナミさんからいただいた早摘みオリーブオイルのおかげかな、と感謝。

終わってから中野に出て、ひとり天ぷらを食べた。検査のために絶食していて、とてもおなかがすいて寒かったので少々熱燗を飲んだ。

その後、肌触りがよくて余計な柄や飾りのない手袋をさがして街を歩いた。

グレーの無地のお気に入りの手袋を片方失くしたようなので、チクチクしないで温かい手袋が欲しかったが、見つからなかった。

ブロードウェイの地下は昔からほとんど変わらない闇市風というのか、アメ横みたいだ。もう松の内が過ぎてだいぶ経つのに、「初売り」という呼び込みで魚屋が賑わっていた。

8色ソフトクリームの店は1966年のブロードウェイ開業当時からやっているらしい。

・・

帰宅してから疲れて眠ってしまい、夜、起きたら鈴木創士さんから原稿が送られて来ていた。

『あんちりおん3』の時にも、締め切りにぴたりと合わせて原稿を送ってくださったのは鈴木創士さんだけだ。胸が痛くなる。

鈴木創士さんも「現代美術にはうんざり」と言う。彼にそう言われることで励まされる。

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