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2019年2月

2019年2月28日 (木)

G先生からのお言葉(次の本)/ 花輪さん、友人に感謝

2月15日

G先生から私の絵についてのお言葉(次に出す画集のための)が届いた。

文章をいただけたことがまだ信じられない。ありがたいのだが、いろいろ考えてしまい、緊張して恐ろしいのがまさる。

親友たちが本当に喜んでくれた。彼らの喜ぶ様子を見て、私も少しずつ嬉しくなってきた。

それでもまだ現実感がない。

2月13日

花輪和一さんと電話。気温は氷点下で、雪も溶けずに積もっているが、バスで出かけていたそうだ。

先日の私の絵に似すぎている絵を描いている学生の話について、花輪さんは私のブログを読んでくれていた。

「すっごい変なのがいるねえ。性格が異常だよねえ。そんなのの絵は絶対ものにならないでしょ。言ってることがDV男みたい。」と言われた。

「なんで最近の若い人はそんなにおかしいの?食べ物が悪いの?」と聞かれたけれど、おそらく現代の病で、やたらに自尊感情や承認欲求ばかりが高く、利己的、功利主義的に育ったのでしょう。

「ずばっと本当のことを言ってやってよかったんだよねえ。絶対に自分は悪くないってどんなにわめいて、言い張って見せても、「鎧通し」のように突き刺さってるから。」

「鎧通し」とは、格闘して敵を鎧の隙間から刺す、身幅が狭くて、手元に近いところはかなり厚みがあるが先は薄くなっている短刀だそうだ。

花輪さんは幼少期の愛情不足や虐待(ネグレクト)もあり、15歳の頃からひとりで生きて、苦労して絵(漫画)をかいてきたけど、自分が努力して道を伐り拓いてきた、とは決して言わない。そういうことを言うのはすごく恥ずかしい、と言う。

私は花輪さんの並外れた才能と謙虚な人柄を尊敬している。

花輪さんがすごいところは絵に嘘がないこと。

植物や動物へ愛情のこまやかさ、眼を通して細部のニュアンスまでとらえる力が突出していること。

仕事に対して効率よくお金を得ることは考えず、自分で納得できる作品を常に目指していること。

人への遠慮や気遣いがあること。

花輪さんとのつきあいも長いが、思えば、私はすごく尊敬している人から大切にされなかった経験があまりない。

もしかしたらこれはすごいことかもしれない、とありがたく思う。

昨年の7月、花輪さんに会いに北海道に行った時、(花輪さんの担当編集さんお気に入りの)少しだけ高級な寿司屋に行こうか、と言われ、私は食べ物に高いお金を使うことに躊躇があるので断ってしまったことを、今、少し後悔している。

花輪さんに会いに北海道に行くことも滅多にないのだし、特別な機会としてちょっとだけ贅沢してもよかったのかも、と。

だけど次に会いに行っても、やっぱり(お金を使うのが怖くて)高級寿司屋には行かずに、庶民的な居酒屋に行ってしまうのかもしれない。

私にとって最高においしい食事は、高級料理よりも、どれだけ素敵な人と食べるかが一番大切だと思うから。

・・・

しばらくほっておいたツイッターを、またやり始めた。

なにもかもわからないことばかりで、全然気軽につぶやけないが、少しずつ。

無知な私に教えてくださったM子さま。久しぶりにお便りをくださったN子さま。

ツイッターがきっかけで知り合った女性の友人は皆、メールの文面も素晴らしくしっかりした思いやりのあるかたたちだ。

お知り合いになれて本当に嬉しい。

心から感謝します。

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2019年2月17日 (日)

宇野昌磨「月光」

遅くなりましたが、ごく個人的な感想を記録しておきます。

2月10日

右足首3度の捻挫。大会2日前に再々受傷。

試合前に「練習してきたわけではないので、自分を信じるとかではない」という発言。

SP後、「後悔しいといえるほど練習していない。悔しいという権利がない」と発言。

どれほど足の具合が悪いのか、どれほど練習不足なのか、その状態で試合に出ることがどれほどリスキーなことなのか、本人(とスタッフ)でなければわからないことだが、棄権する選択をしない彼に、ファンは全員、心臓に負担をかけて祈るような気持ちだったろう。

ネットに詳しくない私が、どうにかライストを捜し、見るほうの心の準備もできないままにフリーの本番。

厳かにピアノのひんやりとした音色が流れ、彼が滑り出したとたん、硬質で透明で、とても強いものが動き出し、ぐんと加速するのが見えた。

そこからは、ごちゃごちゃと外国の言葉で埋め尽くされるライストの画面も、ざわめきも、なにも気にならずに見入ってしまった。

しんと静まった藍色の薄闇の中を、熱を放つ生き物が疾走していて、時折聞こえるブレードの音に、私の眼の奥の冬の樹々の尖った枝たちも共振するようだった。

眼はなにかをじっと見つめている。

思い定めた先にあるその核心は、無限を孕んだ点のように小さく凝縮しているがゆえに、なににも、少しも乱されないようだった。

顔は淡々とした表情のままだが、腕や肩、首、腰、指先まで、身体は自分のなすべきことを知っていて、未明と喪失の残響を、重く、あるいは鋭く、力強く奏でながら、一瞬一瞬を輝かしい奇跡に変えていった。

終わった瞬間、崩れ落ちた彼は、気を失ったのかと見えた。

それほど集中し、演技中は苦しいことを苦しいとさえ感じられない境地に入っていたのかと思えた。

追いつめられて、自身が呑み込まれてしまいそうな身体の闇に対峙させられながら、不安でたまらない場面で、どうしたら「無心」(あるいは「無我」というのだろうか)になることができるのか。

「身体を開く」とはどういうことなのか。

「気合」「自分を信じる」と、どんなに念じても、不安はぬぐえず、恐怖心はどこまでも追いかけてくるのではないだろうか。

「無心」、「無我」・・・どうしたら、ある状態を超えてそこに出られるのか、それは本人にしかわからない、言語化不可能のことだ。

繊細で大胆。こちらの息もとまりそうなほど張りつめた『月光』。

優勝、おめでとうございます。

シーズン最初の頃は、よくこんな難しい曲を選んだなあ、と思ったが、その頃聞いた同じ演奏者のピアノとは思えないほど、眼に見えるものとともに音も劇的に胸に迫ってきた。

Sdsc06612
Fading Rose (しおれゆくバラ、薔薇の散策、水彩、Pencil Drawing, Watercolor)

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2019年2月 4日 (月)

私をナルシスティックな欲望の道具にする人

2月3日

私に共感してくださるかたは、どうか私の絵を見てください。お願いいたします。

私がずっとどんな仕事(絵、文章など)をしてきたか、知っていてくださるかたがいるということが、私を支えてくれます。

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/pencil-drawing-watercolor-painting-1-tulip-anemone/

私は緘黙気質で、自分を強く前面に押し出していける性質ではありません。過敏で緊張が強く、考えすぎ、躊躇、逡巡して悩む性格です。

私の絵や文章は、私の生きづらさから生まれているものだと思っています。

ほとんど孤絶して、苦しみながら生み出されいる絵だからこそ標的にされ、このように「知る人ぞ知る画家」と書かれて道具にされたと思うと、苦しくてたまりません。

「私のものを自分のものと思い込む人」では誤解を生むので、「私をナルシスティックな欲望の道具にする人」と言ったほうが、より正確かもしれません。

もちろん「私のもの」と書いたのは単に枯れ花を描くことではないです。

彼は最後のメールで「福山さんの枯れ花への独占欲のようなものが理解できない。怒りを感じる。」と書いて来ました。

これについては、私が意見を聞いた複数の第三者の誰もが、この世にたくさんある枯れた花を描いた絵の中で、彼の絵だけが著しく、私の描いた絵に似ている、と言ってくれました。

他人との差別化には必死になりながら、私の絵に「似すぎていると自覚している」絵を発表、販売して、自分が私に与えている苦しみは理解しない、という彼の思考の構造が、私には理解できかねます。

「収奪」とは、自分の欲望を満たすことが他者を苦しめることに直結している、それでも平気で自分優先でやる、という意味です。

・・・・・・・・

今、トラウマが蘇り、苦しんでいる(2010年~16年に苦しめられた)パクリストーカーNも、私を彼のナルシスティックな欲望の道具にしていたという意味では同じです。

Nにも会ったことはありません。2010年に彼から熱烈な長いメールをもらいました。

「画家として、人間として純粋に生きようとされている福山知佐子氏の強さと繊細さ」

「物事に鋭くて、異次元のような、知的な世界をお持ちの方」

「是非ともお会いしたいです!画家として、人間として、真の芸術家の空気に触れてみたいと思います」

「先生の花は狂おしくて、病的な筆致、緻密で繊細、妖しくも格調高く、優雅なエロティシズムに満ちています。なにより、植物への愛情、その純度の高さにただ敬服します。」

「福山さんの誰よりも純粋で、(多分、誰しもが理解、共有しえない)研ぎ澄まされた少女が持つような刃は、稀有だと思います」

けれどNは一度も、メールに書いてきたような言葉を、N自身のブログに私の名前とともに書いて、公にしたことはありません。彼のブログの読者には、私に惹かれていることを隠していました。

そのうちNは、私の書いた単語、言い回し、言葉の癖、好きな画家や愛読する作家、親密にさせていただいている芸術家の名前、好きな植物やものの名前までなにからなにまで真似てブログを書くようになりました。

彼に意味が理解できないだろう言葉や、読めるはずもないだろう作家の名前が目につくや、すぐに跳びついて写していました。

彼はあるがままのNとは似ても似つかない人に、ブログでなりすましているかのようでした。

言葉では語りがたいものをなんとか言葉にしようと、私が苦しんだ残余としての断片や言い回しが、何も考えていない彼に有頂天になる道具にされること、

私が自分に戒めている「自分が実感としてわからないことを、わかったように書かない」という自制の上での言葉が、

逆に、Nが知ったかぶりをして陶酔するために利用されていることが、気持ち悪くてたまりませんでした。

「現在を生き、常に事物(もの)の本質に迫り、また事物の深淵へと眼差しを向ける一人の画家のヴィジョンは、(いつまでも)私のヴィジョンにさえ、波紋のように静かな影響を与え、新たな風景を垣間見せてくれる契機となっていた。」

と、Nが私の名前をふせて書いているのを見て、私はぞっとしてしまいました。(実際の私は一度も本質主義など語ったことがないので、余計に気持ち悪いです。)

彼に、私の書く単語、固有名の後追いや、言い回し、言葉の癖などを真似するのをやめてください、と告げても、Nは私に言われている意味が理解できませんでした。

彼はすべて「無意識」で、ほぼ条件反射のように、夢中で真似ていたらしいのです。

いつのまにかNは、私よりはるかに偉い態度をとるようになっていました。

私は、話がまったく通じない相手にストーカーされている恐怖で心身ともに病みそうになりました。

Nは、自分が私のものを見て真似ている、という事実を認識できていなかった、と2016年に認めました(私への横柄で傲岸な態度は崩しませんでしたが)。

強く惹かれている相手のものをそっくり真似する人は、現実よりも、他人や自分に言い張っている嘘のほうを信じる、と私はNの経験から思いました。

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