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2019年2月17日 (日)

宇野昌磨「月光」

遅くなりましたが、ごく個人的な感想を記録しておきます。

2月10日

右足首3度の捻挫。大会2日前に再々受傷。

試合前に「練習してきたわけではないので、自分を信じるとかではない」という発言。

SP後、「後悔しいといえるほど練習していない。悔しいという権利がない」と発言。

どれほど足の具合が悪いのか、どれほど練習不足なのか、その状態で試合に出ることがどれほどリスキーなことなのか、本人(とスタッフ)でなければわからないことだが、棄権する選択をしない彼に、ファンは全員、心臓に負担をかけて祈るような気持ちだったろう。

ネットに詳しくない私が、どうにかライストを捜し、見るほうの心の準備もできないままにフリーの本番。

厳かにピアノのひんやりとした音色が流れ、彼が滑り出したとたん、硬質で透明で、とても強いものが動き出し、ぐんと加速するのが見えた。

そこからは、ごちゃごちゃと外国の言葉で埋め尽くされるライストの画面も、ざわめきも、なにも気にならずに見入ってしまった。

しんと静まった藍色の薄闇の中を、熱を放つ生き物が疾走していて、時折聞こえるブレードの音に、私の眼の奥の冬の樹々の尖った枝たちも共振するようだった。

眼はなにかをじっと見つめている。

思い定めた先にあるその核心は、無限を孕んだ点のように小さく凝縮しているがゆえに、なににも、少しも乱されないようだった。

顔は淡々とした表情のままだが、腕や肩、首、腰、指先まで、身体は自分のなすべきことを知っていて、未明と喪失の残響を、重く、あるいは鋭く、力強く奏でながら、一瞬一瞬を輝かしい奇跡に変えていった。

終わった瞬間、崩れ落ちた彼は、気を失ったのかと見えた。

それほど集中し、演技中は苦しいことを苦しいとさえ感じられない境地に入っていたのかと思えた。

追いつめられて、自身が呑み込まれてしまいそうな身体の闇に対峙させられながら、不安でたまらない場面で、どうしたら「無心」(あるいは「無我」というのだろうか)になることができるのか。

「身体を開く」とはどういうことなのか。

「気合」「自分を信じる」と、どんなに念じても、不安はぬぐえず、恐怖心はどこまでも追いかけてくるのではないだろうか。

「無心」、「無我」・・・どうしたら、ある状態を超えてそこに出られるのか、それは本人にしかわからない、言語化不可能のことだ。

繊細で大胆。こちらの息もとまりそうなほど張りつめた『月光』。

優勝、おめでとうございます。

シーズン最初の頃は、よくこんな難しい曲を選んだなあ、と思ったが、その頃聞いた同じ演奏者のピアノとは思えないほど、眼に見えるものとともに音も劇的に胸に迫ってきた。

Sdsc06612
Fading Rose (しおれゆくバラ、薔薇の散策、水彩、Pencil Drawing, Watercolor)

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